第16話 嵐の夜に

ダイニングルームにふくよかな匂いが漂っている。

帆立に生ハム・フレッシュキャビアのオードブル、ヴィシソワーズ、それから血の滴るステーキ。

贅沢なインルームディナーを前に、澪は白いバスローブを握りしめ、自らを供する修道女のように頭を垂れ続けていた。


一旦は帰路に着こうと決めた澪だったけれど、思い切りが悪くぐずぐずしているうちにゆりかもめが運休となり、案内されたりんかい線の駅へ向かうつもりが、極度の方向音痴で道に迷い、さらに急な土砂降り雨に見舞われて、歩道橋の下で足止めを食うことになってしまった。

相変わらずの要領の悪さで、雨宿りから飛び出すタイミングを逸し、やがて狼の群れのように吹き込んでくる雨風に、体がすくんで震えていたところを、通りがかったジェイに拾われて、ホテルに連れ戻されたのだ。


ずぶ濡れのみっともない姿で見つかってしまったことも情けない。それよりも、いくら思案しても決心がつかず、天候悪化を口実にまた逃げに走った自分は、もっと情けない。

結局、振り出しに戻っただけ。感謝も謝罪も、ジェイの怒りを考えると、声を発することもできない。


「問題を整理しよう」


思いがけず平静な口調に、澪はおずおずと目を上げた。

ジェイは激しい雨を背景に、片肘をついた手に顎を乗せ、もう一方の手でワインをスワリングしている。


「ファクターが多いと、ゴールを見失ってしまう。いや、君の場合、答えを見たくないから、問題を複雑化するのか」


ジェイは独り言のように言うとワインを一口含み、ワインについてなのか自分の言についてなのか、頷いた。それから静かにグラスを置くと、改まって背筋を伸ばし、澪をまっすぐに見つめた。


「私は君が好きだ。だから君が欲しい。そして君も、私に恋愛感情をもっている」


直球で言い当てられて、澪は赤面した。

彼への恋心を自覚したのはつい先刻なのに、そう言う気持ちは相手に伝わってしまうものなのか。


「それなのに、君は本心を認めようとしない」


ジェイは自分に問うように、


「警戒心が強いのか、恋愛にトラウマがあるのか」


そして断言した。


「君は臆病なんだ。変化を恐れ前に進もうとしない。常に現状維持が最善だと考えている。だから、私を受け入れて新しい関係を築くことも、拒否して今の関係を崩すことも選択できなかった。いや、選択から逃げた。どうあろうと元に戻れないのならば、有耶無耶にしてしまおうと思ったのか。しかし、帰路に着いて君は悟った。逃げたままでは私から軽蔑される。それは君にとって最も避けたい結果だ」


見てきたような分析に、このひとはテレパスなのかと澪は本気で思った。


「それで?」


何が〈それで?〉なのか、澪は首を傾げた。


「半日も悩んだ結論は?」


「けつろん……?」


ジェイは頷くと、やおら席を立った。

何をするのかと不安な面持ちの澪を窓際に立たせ、照明を落とすと、自分は椅子を回して腰を下ろし、足を組み腕組みし正面からじっと澪を見据えた。


澪の背中では大粒の雨に叩かれた窓ガラスが悲鳴をあげていた。密閉された室内でも、恐ろしい風の咆哮が竜の喉笛のように漏れ聞こえる。

ガラスを突き破りそうな嵐の勢いに、怯えて身を固くする澪に、ジェイは言った。


「君は私とどうなりたい?」


あっと、澪はジェイの背後の出口を見た。

ジェイは澪を断崖絶壁に追いつめて、選択を迫っているのだ。今ここで、決断しろと。渦の前で身動きできない澪に逃げる道を許さない。


窓の外が青く光り、室内が一瞬明るくなった。

凄まじい音に、思わず目を瞑り耳を塞いだ澪は、震える顔を上げたとたん、今度は稲妻よりも強い眼光に正視されて、体の自由を奪われたように静止した。


「頭で考えずにシンプルに。今、胸の中にある思いだけを取り出せばいい」


古の森に響く神様の啓示のような甘く厳かな声。全てを見透かす冷たく澄んだアースアイ。瞳の中に静かな湖面が見えて、水の底に引き込まれてゆくようだ。

体は蛇に睨まれた蛙のように動かないのに、不思議と頭の中は落ち着いてゆく。呼気は穏やかで、瞬きもない。


〈シンプルに〉

呪文のような言葉に、思考だけが深く深く潜り込んでゆく。


澪は手を胸に、目を閉じて、ジェイの言葉を唇の上で反芻した。


シンプルに、過去も未来も考えず、懸念も不安も取り払う──。

そこにあるのは、温かくふわふわとした気持ち。シャボン玉のように虹色に輝いて、けれどきっと触れると壊れてしまう。頼りなくて切ない気持ち。


「わたし……」


ようやっと、澪は絞り出すように言うと、瞼を開いた。


「わたしは……ジェイさんが……好きです……」


うん、とジェイは当然のように頷いた。


「だから、これまでのように〝時間つぶしの相手〞でいさせてください」


ジェイは一瞬片眉を上げて、それから訝し気に目を細めた。


「わからないな。好きならば手に入れたいと思うものだ。それは大和撫子の貞操観念というものか?」


澪は首を振り、震える声で言った。


「好きだから……、ここから先には進めません……」


「理由は?」


「……わたし……人とうまく付き合えなくて……。距離が近くなればなるほど、不愉快な思いをさせていないか不安になってしまう。こわいんです、あなたを失望させて、傷つけて、嫌われてしまうことが」


ジェイは珍しく考え込んだ。前髪を掻き上げ、肩を落とした澪を見据えながら、人差し指でテーブルをトントンと叩く。指先が止まったとき、彼はゆっくりと一度、瞬きをした。


「君が人間関係に何を期待しているのかは知らないが、人はしょせん傷のつけ合いだ。何度でも傷つけて傷つく。だけど決して致命傷にはならない。同時に癒し合う術も知っているから。それに──」


ジェイは涼しい顔で、


「君との関係がこの先どうなろうと、私は傷つかない。私が手に入れたいと望んだのだから、成功も失敗も結果はすべて私のものだ。肝心なのは、自らが欲して行動することだ」


「欲しいと願うと、みんな掌から零れてしまう……。何も望まなければ、何も失わずにすみます」


「不毛だな。望まなければ、何も得られない。君は、考えれば考えるほど深みにはまって、取るに足りない小枝や小石に足を取られ、結果一歩も動けなくなって後悔するんだ」


そう、前に進めない澪は、後悔ばかりしていた。あのときこう言えたら、あのときこうしていたらと。いつも肝心な分岐点で、勇気がなく立ち尽くし、仕方がないと流されるばかりの人生を諦観していた。


「どうせ後悔するのなら、前に進む方がいい。悪路であろうと行き止まりであろうと、必ず得ることがある。それに、進む限り道はいくらでも選び直せる」


ジェイは澪の前に立ち、その頬にそっと触れた。


「君は、雨が降るからと家に閉じこもり、朝の美しさを知らずに一生を過ごすつもりか? こわがらないで、私と旅に出よう。きっときれいな虹を見せてあげる」


吸い込まれそうな瞳の奥には、不思議な闇が横たわっている。闇と闇とが解け合ったとき、夜明けが生まれるのだろうかと、澪は思った。


軽率な一言で相手を傷つけてしまうかもしれない。不用意な行動が誰かに迷惑をかけるかもしれない。嫌われて疎まれたら、また置き去りにされてしまう。

そんな不安を抱え、暗夜のなか身動きできなくなった澪に、彼は美しい朝の虹を見せてくれるのだろうか……。


再び、窓外が光った。

澪はただ神に導かれる求道者のように、頬に置かれた手に、震える手を重ねた。


「君の答えは? Yes or No?」


「……イエス」

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桜ふたたび 美里 好春 @watanabemiharu

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