第35話 失いたくなかったもの

「あ、はは」

 私は慌てて目元をこする。

「恥ずかしいな。こんな顔、誰にも見られたくなかったのに」

「……」

「ごめん、落ち着いたら部屋に戻るから。大丈夫、ちょっと頭の中がワーッてなってるだけ」

「……誰にも、見られたくなかったのか」

「うん……」

「分かった」

 瞬きした次の瞬間、レオポルドは私のすぐ横に片膝を立てしゃがんでいた。既に私の脇の下から背に、そして膝の裏に彼の手が回っている。

 彼の意図を察する前に、私の体は上昇した。

「ひぁ!?」

 続けてぐるんと姿勢を変えられ、私はレオポルドの逞しい肩の上にうつ伏せ状態にされる。

 お姫様抱っこ、からのたわら担ぎだ。

「れ、レオポッ!?」

 次は言葉が終わらぬうちに体に強い圧力がかかる。

 衝撃で取り落としそうになったラバーストラップを、慌てて掴み直した。

 周囲の景色が、すさまじい勢いで遠のいてゆく。

 レオポルドは私を肩に担いだまま、街の外へと疾走した。


 辿り着いたのは、イハバの森だった。

 レオポルドは駆け込んできた勢いのまま、軽い足取りで枝から枝へと跳躍する。

(ひぃい!?)

 ぐんぐんと遠ざかる地面に涙も引っ込む。私は固く目を閉じ、ラバーストラップを握る両手へ祈るように力を込めた。

 やがて動きが止まり、ぐるっと体をひっくり返される気配がする。

「……?」

 恐る恐る瞼を開き、そして息を飲んだ。

「ヒュッ!?」

 レオポルドは、地面を遥かに見下ろす高所の枝に腰を下ろしていた。私を膝に乗せて。

(ぎゃああああ!!)

 ぶらりと下がった足の下は、どこまでも続く闇へと繋がっている。

 少しでもバランスを崩せば、落ちてしまいそうだ。

「お、下ろして! 地面、下ろして!」

 私はレオポルドにすがりつき、訴える。

 この高さまで連れて来られたのは二度目だが、全く慣れる気がしない。

「足、地面、着きたい!」

 わななく口で何とか意思を伝える私を、レオポルドは静かな眼差しで見下ろしている。まるで今宵の月の光の様なその双眸で。

「ここなら、誰にも見られない」

「っ!」

「気の済むまで泣くといい」

(いや、無理!!)

 恐怖でがちがちに強張った心から、そんな潤いを絞り出せるわけがない。望郷の思いに涙するには、ある程度の心の余裕が必要なのだ。


 レオポルドは私の背を包むように、逞しい腕を回してきた。先より密着したため、安定感が増す。そして艶やかな獣毛に覆われた手が、私の両目を覆った。

「っ! 何?」

「……」

 レオポルドが静かにハミングを始める。

(このメロディ……)

『けもめん』のBGMの一つだ。

 メインテーマでなく、確かタイトルは「結び合う心」。

 キャラの個別イベントで、親交が深まったタイミングで流れる曲だ。

 私の中にある情報が注ぎ込まれた際、これも彼の中にインプットされたのだろうか。

(あ……)

 頭の中に、ゲームのレオポルドの思い出がよみがえる。

 その瞬間、涙を止めていた堰がふつっと切れた。

「っぐ、ぅ……ふうっ……」

 鼻の奥がツンとなる。目が熱い。喉には何かがつっかえているようだ。

 レオポルドはハミングを止めると、私の後頭部を掴み、顔を自分の胸へとやや強引に押し付けた。痛いほどに。

「アリス、これで自分にも顔は見えない。安心しろ」

「……っあ!」

 一度大きくしゃくりあげると、私は全ての感情を彼の胸へとぶちまけた。



「……お世話になりました」

 ひとしきり吐き出すと、私の心も落ち着いてきた。

「もう大丈夫デス」

「そうか」

 私の頭を抑え込んでいた大きな手が、そっと緩む。

 同時に辺りの景色が見えるようになったが、先ほどのように恐怖を感じなかった。

「いやー、別に泣くほどのことでもなかったんだけどね」

 気まずさを振り切るため、私はまだ少し鼻をすすりながら、あえて陽気な声を出す。

「この世界ならレオポルドがいてくれるし、大切にしてくれるし」

「……」

「……たださ、20数年積み上げてきたものが急に消えたのに今更気付いちゃって、喪失感が押し寄せてきたって言うか。まぁ、失って困るような人生でもなかったんだけど!」

「……『レオポルド』」

「え?」

 闇夜に光る金の瞳は、私の手元を見つめていた。そこにはマンションの鍵に取りつけた、『けもめん』レオポルドのラバーストラップがあった。

「それが、お前の『レオポルド』なのだな」

「あ、うん。ゲームのね」

「……それは、失いたくなかったものだろう」

「うん……」

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