貞淑な妻


「もしもし。神波探偵事務所の事務員の者です。留守電メッセージを聞きました。何度もお電話いただき申し訳ありません。神波辰一郎はしばらく留守にしておりまして……すみません。戻る予定がいつかもまだ分からなくて……戻り次第、探偵の方から折り返しご連絡しますので……はい。ご迷惑おかけしてすみません。、それでは失礼いたします」


 固定電話の受話器をそーっと置くと、私はふぅと溜め息を吐いた。


 何が神波探偵事務所だ。ただの自宅ではないか。自宅兼オフィスですらない。公私を区切る境など一切ないのだから。


 そして、電話も、自宅の固定電話の番号を、神波探偵事務所の番号としてホームページにそのまま掲載しているのである。


 おかげで、私が固定電話に出る際は、まずは一旦「神波探偵事務所の事務員」を名乗らなければならない。

 そして、今回のように、辰一郎の不在時に、神波探偵事務所宛に何度も繰り返し電話が来た場合には、私と瑛人の安眠を守るために、やはり「神波探偵事務所の事務員」を名乗り、しばらく電話対応ができない旨を伝えなければならないのである。



 そのことに関して、以前辰一郎に愚痴ったことがある。


 すると、辰一郎は、


「事務員じゃなくて、探偵を名乗れば良いじゃないか! そして、僕の代わりに仕事を請け負えば良い。君だって探偵の能力があるんだから!」


と、悪びれるどころか、目をキラキラと輝かせたのである。

 その時は、たしか机の上にあった雑誌だかコースターだかその両方だかを辰一郎の顔面目がけて投げつけたのだった。


 探偵なんて醜業は二度とやらないと、私は心に決めているのだ――




 瑛人の寝かしつけを始めたのは、二十時頃。

 やれ絵本を読めとか、やれお話をしろとか、やれ喉が渇いたから水を持って来いとか散々騒ぎ回った上、暎人が実際に寝ついたのはその一時間後。


 瑛人と一緒にベッドで寝入ってしまうこともしばしばだが、今日は欠伸を噛み締め、なんとか意識を保った。


 ベッドを出ると、私は、まず洗い物を始める。


 流しの中が空になると、今度は洗濯物を畳み始める。


 それも終わると、今度は、暎人が散らかした本棚の本を整理する。


 それから、ダイニングでレシピ本を読みながら、明日の夕飯の献立を考える。


――遅い。


 そんな風に時間を潰していても、未だに辰一郎からのLINEが来ないのである。



「また明日連絡する」


 スマホを確認すると、やはり昨日の最後に辰一郎が送ったメッセージはそうなっていた。


――しかし、もう時刻は二十三時を過ぎている。


 この状況で、私からLINEを送るのはどう考えても癪なので、私はスマホをカーペットに置くと、椅子にも枕にも使える低反発のクッションに全体重を預けた。


 そして、切れかかっている蛍光灯が、チカチカと明滅するのをぼんやり眺める。


 この蛍光灯を私が交換するのも、どう考えても癪である。



 結局、辰一郎からLINEの通知届いたのは、二十三時五十八分だった。


 「また明日連絡する」という約束をちゃんと果たした、と胸を張る辰一郎の憎たらしい姿が目に浮かぶ。


 低反発クッションに沈んでいた私は、眠い目を擦りながら、LINEの画面を開いた。



「繭沙、元気にしてるかい?」


 どうせまた一方的に自分の話をするのだろうと思っていた私は、正直、拍子抜けした。


 なんというか、調子が狂う。


 瑛人の世話を押し付けられている件や、神波探偵事務所の電話番を押し付けられている件について、文句を一気呵成に送ってやろうと思っていたのに、その気が失せてしまった。



「私は元気だよ。心配してくれてありがとう。辰一郎は?」


 完全に去勢された、まるで貞淑な妻かのようなメッセージを打つ。打っているそばから恥ずかしくなる。



「元気だよ」


 すぐにそう返ってきたが、辰一郎が、「らしくない」ことは明らかに感じた。




「捜査の進捗が芳しくないの?」


「……まあ、そんなところだ」


 図星だった。我が夫ながら、なんて単純な男なのだろうか――



「なんというか、今回はやり方が上手くいっていないみたいだ。関係当事者の話を聞くというのは悪くないと思うんだけど……」


「じゃあ、やり方を変えれば良いんじゃない?」


「それはそうなんだけど……」


 珍しく歯切れが悪い。よほど思いどおりにいっていないのだろう。


 私は一縷の望みにかけて、



「上手くいってないなら、帰ってくれば良いじゃない?」


と送ってみる。すると、案の定、


「それはできない」


と無下にされた。



「このタイミングで俺が離脱するというのは、探偵としてあまりにも無責任。真実を見届ける責任が俺にはある」


 なんとも「らしい」台詞に、思わず鼻で笑ってしまう。



 これも無下にされるであろうという覚悟で、私は、予め訊こうと決めていた質問をする。



「いつ帰ってくるの?」


 既読はすぐについたが、返事はすぐには来なかった。


 一分ほど置いてから、ようやく短いメッセージが届く。



「なるべく早く帰るよ」


 具体性に欠ける返事である。仕事をいつまで早退しなければならないのか知るためにも、神波探偵事務所宛に何度も電話をかけてくるクライアントに説明するためにも、私は具体的なスケジュールを欲しているのだ。


 とはいえ――


 「分からない」よりは幾分もマシな返事である。



 私は、貞淑な妻として、


「気を付けてね」


という言葉と、ウサギのキャラクターが涙ぐんだスタンプを送ってみせた。

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名探偵の妻 菱川あいず @aizu-hishikawa

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