アイドルの終焉

六野みさお

第1話 アイドルの終焉

 ジャニーズ性加害問題が世間を揺るがせている。ジャニー喜多川による何十年にもわたる性加害の実態は、到底許せるものではない。それにもかかわらず、現在でも多くのジャニーズたちがテレビやコマーシャルに出続けている。この根本には、やはりジャニーズを中心としたアイドルと、テレビの癒着があるだろう。


 よく『ジャニーズのアイドルたちは被害者であり、罪はない』という主張を見かけるが、もはやそれを言うには程度が常軌を逸しすぎている。考えてみてほしい。今人気を博しているジャニーズたちは、誰でもジャニー喜多川との肉体関係のために優遇された者たちかもしれないのである。ジャニーズの中には、SMAPや嵐など、ソロでも絶大な影響力を持つ人もいて、もし彼らが本気で行動すれば、現在の体制に異議を唱え、現在の状態と比べて比較的平和的な解決につながった可能性もある。しかし、彼らはそれをしなかったし、現在でもほとんど沈黙を貫いている。


 それを知りながら、果たしてジャニーズを推せるだろうか。少なくとも客観的な考えを持っていれば、そんなことはできないはずである。それでもジャニーズたちは今も以前とほとんど変わらない影響力を保持しているように見える。しかし、実はそうも言っていられなくなってきているのだ。その原因には、ここ最近でこれまでの社会通念をすっかり吹き飛ばしてしまった『アイドルの相対化』という現象による、一部のアイドルたちの『保守化』がある。


 さて、『近代』において……少なくともインターネットが普及する以前において、我々にとって絶対的なメディアはテレビであった。私たちは毎日ニュースやらバラエティーやらを見て、それを題材にした世間の話題についていくのが当然だったわけである。


 この当時、アイドルになるための道は限られていた。彼らの最終目標はテレビで活躍することであって、そのためにはジャニーズのような大手事務所に入り、閉鎖的な環境の中で勝ち上がっていく必要があった。もちろんこれらの環境は決して素晴らしいものとはいえなかったのだが、当時はそれしか道がなかったのである。『渋谷のスクランブル交差点に美少女がおめかしして立っていると、秋元康がスカウトに来る』とかいう噂がまことしやかにささやかれたものだ。


 それと同時に私たちも、テレビから一方的に提供されるアイドルたちを絶対的なものだと思い込み、多くのグッズやCDを買って事務所に金を貢いでしまっていた。そしてついには『CDを買えば買うほど推しのアイドルに票が入り、高い人気を得るとダンスの立ち位置が上がる』とかいう謎の釣りシステムが構築され、多くの純粋な推し感情が事務所に吸い取られたわけである。


 ところが、現代に入って……インターネットが普及するに至って、この状況は一変した。つまり、どんな人であっても、インターネットを使えば理論上人気を得ることが可能になったわけである。僻地に住んでいても、家でのパフォーマンスをすぐに全世界に公開できる。顔に自信がなければ良い絵師を見つけてVtuberになればよい。歌に自信がなければボカロを使えばよい。とにかく、これまで人々がアイドル的活動をするために存在したいろいろな制限が、インターネットとそれに伴う新しい文化の登場で、一気に撤廃されたわけである。


 このような変化によって、『絶対的存在』であった既存のアイドルたちはその絶対性を失い、『相対化』されたのである。もはや彼らは一つの歌い手グループにすぎなくなったのだ。もちろんいまだに大手ではあるが、ただそれだけである。


 もちろん既存のアイドルたちは今もテレビに出続けているわけだが、ここで私たちが気づくべきなのは、テレビはすでにかなり保守的なものと化しているということである。今年の夏のテレビの惨状を思い出してほしい。2時間のワイドショーがあれば、まず暑いというニュースを45分間続けることから始まり、延々と昨日も聞いた暑さ対策を流した後、大谷翔平がホームランを打ったというニュースを45分間流し、ホームランを打たなくても同様に45分間流し、最後に30分間天気を解説して終わってしまう。無意味であること甚だしい。こんなことをやっている間に、実はアニメを4話も見られるのである。


 要するに、テレビはすでにマンネリ化しワンパターン化しているわけであり、現在のインターネットが普及した時代においては速度が遅いと言わざるを得ない。テレビを見る人は年々減少しており、NHKの受信料制度への批判も根強い。このような状態では、アイドルたちはもはやテレビの影響力に頼ったビジネスをするべきではないのである。


 さらに、令和の時代に入って、平成のアイドルたちの致命的な弱点が浮き彫りになってきた。それは『作者の消失』と『歴史性の欠如』である。


 どんな歌であっても、当然作者が存在する。本来楽曲の作者は、それこそ絶対的なものである。私たちはベートーヴェンの第九の初演において、誰が第一ヴァイオリンを弾いていたかなどは知らない。ただ作者の名前のみが残っているだけである。


 ところが、私たちはなぜか、嵐やAKBの名曲たちを一体誰が作ったのかを知る機会が少ない。というより、私たち自身がそれを気にしてこなかったのだ。これは私たちがテレビの中で歌って踊っているアイドルたちにしか注目していなかったせいである。


 そしてこの事実が、アイドルの『歴史性の欠如』につながってくるのである。アイドルの曲の多くは、発表時には爆発的に消費されるが、持続性が少ない。ランキングなどでも初週は1位を獲得するが、2週目以降急速に下がっていく場合が多い。これはアイドルの曲が『現在のアイドルが、現在のファンに訴える』というメッセージ性にとどまっているからである。つまりアイラブユーの連呼にすぎなくなっているわけである。


 この戦法を取ってしまった以上、アイドルの曲に深みがなくなってしまうのは当然である。確かにアイドルたちのパフォーマンスは映像としては残るが、すでに老年だったり鬼籍に入っていたりするアイドルたちの動画を誰が見るのだろうか。実はこの問題は、若いアイドルたちが既存の曲をカバーすれば解決しそうなことなのだが、既存のアイドルたちはあまりそのようなことには熱心ではないようである。


 そして、今年に入って、ついに既存のアイドルたちは屈辱的な敗北を喫しつつある。それは『アイドル』の流行である。ちなみにこちらの『アイドル』は一般名詞ではなく固有名詞であり、今年大ヒットしたYOASOBIの曲である。


 この曲と、この曲が主題歌であったアニメ『推しの子』は、まさにアイドルを『相対化』したものだといえる。作中ではアイドルが闇深い行動をするような描写もあり、一部の層から批判も受けたが、アイドルの現実を的確に描いたという点でこのアニメは評価できるものである。


 さて、この曲は今でもランキング1位を維持し続けており、どんなアイドルの新曲が出ても1位を守り続けている。いわばアイドルがアイドルを批判した曲に屈しているわけである。これほど革命的で、また屈辱的なことはない。


 私はボカロ側の人間であり、単に三次元側を敵視しているにすぎないと思われるかもしれない。しかし平成時代に存在したアイドルの特権が失われつつあることは事実であり、既存のアイドルたちはさらに危機感を持たなければ大変なことになると気づくべきである。もし油断していれば、彼らは最悪の結末を……アイドルの『終焉』を迎えてしまうことさえ考えられるのだ。

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