小雨の丘
マッチャポテトサ
小雨の丘
1937年の8月15日、人を刺し殺す様な日差しが登り始めた早朝の中で私は生まれた、と私の亡き母がよく語っていた。しかし、戸籍上では8月18日となっているとも聞いた。このわけを私の母に聞いてみると、「お前は走っている汽車の中で生まれたから、生まれた日がいつなのか分からないのだ」と答えた。では何故正確には8月15日と分かっているのか。役所に届け出た時適当に答えたのが18日、しかし後から日記をつけていたことを思い出し、それを見てみると15日だったそうだ。日記をつけていることを忘れることなど無いように思われるが、それくらい物を忘れがちな人であったということがそこから思い出される。そして、出生地が分からない、偽りの誕生日と隠された本当の誕生日の二つの誕生日があるということが、私のアイデンティティ建築の最初期に影響を与えている様な気がする。
父は寡黙でいつも孤独な目をしていた。元々持つその性格に加え、成人する前に決まっていた親が決めていた結婚相手を裏切り、私の母と共に逃げる様に生まれ育った街を出て親とも縁を切ったという事実が、彼をその性格に導いたのであろうと推測する。逃げた先の街でも厄介な事がいくつか続き、また逃げる様に乗った列車の中で私が生まれた。彼が私に彼の親の名前を名付けていたということを知ったのは、父が亡くなったからもだいぶと後の事である。
ある日、トーキーだ、トーキーだ、と隣の床屋の息子のしげが騒ぎ立て訳を聞くと、トーキーとは音が流れる映画、つまり有声映画のことらしい。丁度その頃、有声映画が日本で作られ始め、私が住んでいる街でも上映がされる様になっていたのだ。それをしげは親父と連れ立って見に行ったらしく、痛く感動したらしい。有声映画どころがただの映画され見たことのなかった私はどうしても見に行きたくなったが、私は父と母を説得しようとするも上手くいかなかった。そこで私は初めて、自分の家庭が貧乏で有るということに初めて気がついた。食うものの足りない様な子も住む街で、私はその中でも他の子よりも背が低く痩せ細かった。それもまた貧乏で有るからだと因果関係が繋がり、私はショックよりもむしろ嬉しくなった。理不尽に背が低く、理不尽に痩せ細っているのではなく、ちゃんと意味があって私は私の形を成しているのだと。そんな話をしげに捲し立てるように話したが、彼は何のことかと理解していなかった。しかしその話をしている最中、しげはあることを閃いていた。「お前はちっちゃいしほそいから、映画館の中に入っても気づかれないんじゃ無いのか?」私は計画を実行した。
大人達が吸い寄せられるようにその建物に入っていく。小さい入り口の通路に満員電車のように押し詰められていく体の中に、その蒸し暑さに耐えながら私も入って行った。自由に選ばれていく席におそらくどの席に座ってもばれることなど無いであるのだが、誰かに見つかり咎められでもしたら、という恐怖心に打ち勝つ事ができず、小さな体を折りたたみ気付かれぬことの無いように身をかがめながら、真っ暗な中上映される映像を見ようとしたが、小さな体では身を屈めるどころがどれほど背伸びをしても、目の前にいる大人の背中を逃れて、映し出される映像を望むことは出来なかった。しかし、爆音と蒸し暑さと暗闇の中にばっと在り続ける真っ白い光に当たり続けた私は、自らの出生地がここでは無いのだろうかというデジャヴの感覚に襲われた。思えば真夏の早朝の汽車にも似たような状況であるが、それが刷り込まれた情報による感覚なのか、はたまた本能的な感覚で有るかは、分からなかった。
春が明け始めた頃の夕方、両親二人が家を出ており、友達も皆帰ってしまい、一人でやることのなくなった私は散った桜を埋めるという、何の意味も無い遊びをしていた。桃色の小さな破片達を黒色の土に消していく。何の意識も無くしてそれを続けていた。それを始めてもう何十分も経った時、突然背をつんつんと木の棒で突かれた。振り返ると同い年くらいの少女が立っていた。
おかっぱ頭に白い服、服には胸の所に「ウメ」と書かれた名札が縫われていたその少女はじっとこっちを見ていた。私もどうしたら良いのか分からないので、彼女の顔をじっと見ようとしたが、すぐに気まずくなり下を見た。
そして一分ほどした頃だろうか。ついに私は喋った。
「どげえしたん?」
しかし無言。彼女はじっとこちらを向いている。
「何で喋らんの?」何だか怖くなり、不意に言葉が出た。
やはり無言。彼女はまだこちらを向いている。
「喋れんの?」
彼女は小さく頷いた。
そして持っていた木の棒で土に大きく綺麗な字で『うまれつき』とゆっくり書いた。
「そうなんや」特に怖さは失せていた。
「これ、一緒にやる?」と僕が言うと、彼女は大きく頷いた。
そこから何分も何十分も、落ちた桜を土に埋めてはまた桜を見つけ、そして埋める。意味のない遊びを繰り返した。気付けばその一本の桜の木に落ちていた桃色の破片達は全部なくなった。それでも私たちはやり足りなかった。他の木の所に行き、そして何故か最初の木のところに埋めた。その木が終わったら他の木の所へいき、そしてまた最初の木のところに埋めた。そこに意味などないが、二人とも夢中になっていた。次の木に移ろうかとしていた時、母が私の名前を呼ぶ声がした。気付けば辺りは真っ暗、私も彼女も顔も手も真っ黒になっていた。僕と彼女は目を合わせた。母は泣きそうな声で私を呼んでいた。迷子になったり死んでいたりしないか心配なのだろう。母は不安症なのである。「行かなきゃ」僕は言った。そして声の元へ走りだろうとした時、私の手が掴まれた。彼女を見た。彼女はまた私をじっと見つめていた。そして彼女は私にキスをした。私はキスという物を知らなかったため、どういう意味で何をしているのかが全く分からなかった。ただ心拍数が上がり、彼女の瞳をじっと見つめることしかなく、そして私は彼女に恋をした。数秒経ち、彼女はキスをやめてそして走り去った。私は母の方へ向かった。
キスの部分を除くこの話を友人達にした。するととても気味悪がられ、「啞」という言葉を知った。そしてみなが揃って彼女の態度や特徴やを悪く言い始めた。私は彼女と一緒に居るのを見られてはならない、と思った。そして途轍もなく悲しくなった。しかし仕方ないと思ってしまった。そう思ってしまった私自身を私は悲しく、憎く思った。
私は彼女を見かけると、気付いてないふりをして逃げるようにその場所を去った。彼女を見かけることも無くなった。私は本当に悲しかった。
それから季節を一つ飛ばした時期、私は友人たちと鬼ごっこをしていた。何巡かを繰り返した後、私に鬼の番が巡ってきた。正直、私は鬼よりも逃げる方が好きであったので必死で、友人の一人であったたまねぎ(もちろんあだ名である)を追いかけた。たまねぎが私の名前を叫ぶ。それはまさに悲鳴、鬼ごっこのはずなのに本当に鬼に追いかけているような声を出すのだ。「ピストル、助けてくれよ」何故か彼は隠れていたピストル(これもまたあだ名である)を引っ張り出した。ギョッとした目をしたピストルと私は目が合った。その瞬間、私のあごにピストルの爪がひっかかった。私のあごから血が流れ始めた。私とたまねぎは鬼と追われる人間から、人間と傷を負わせた人間になった。
「ご、ごめんよ。わ、悪気は無かったんだよ」震えながらたまねぎは謝る。ピストルは申し訳なさそうな、しかしたまねぎが悪いんだ、というような目をしている。血がだぼだぼと出続けているのを僕は手で抑える。少しの間が空いて他の鬼ごっこのメンバーがのそのそと現れ始めた。地面に血が伝う。
「誰が悪いんや?」騒動を嬉しそうに、にやにやとした顔で聞く奴が現れた。
「ピストルが」とたまねぎが言った瞬間、ピストルがたまねぎを思いっきり殴った。周りが唖然とした。
数秒の沈黙の後、「説明しようとしただけなんに」とたまねぎがまた弱々しく釈明する。
「違う。多分お前、死ぬ」と私に向けてピストルが間を置いて話した。
「どういうこと?」
「さっき、あそこの虫だらけの汚い便所があるだろ?あそこでおんこひってきた(大便を意味する)んだよ。そん時、手ついちしもうて。しかも拭くもんもらんじ手じ拭いたんじゃ。傷ん中に菌が入っち、多分お前死ぬる」
そう言った瞬間、皆は爆笑し始めた。「死ぬわけねえやろ」「俺も似たような事ある」共々に過去の経験を語り始めた。ピストルの話を聞いた時は戦慄した顔をしていたたまねぎはいつもの朗らかな顔をし始めた。ピストルは納得のいかない顔をしていた。私は死の宣告をされ気が気で無かった。それは皆が自分達の経験談を語り始め大丈夫だとなってからもであった。それは彼らの経験談が私のそれよりも全くもって異なるからだ。皆、便所じゃなくて土に着いてたり、結局話を聞けば手を洗ったりしており、私の場合は雑菌が体の中に入っている場合が十分ある。それにピストルが言った『あの便所』は本当に、本当に汚いのだ。貧乏であった私の家よりも、どの公衆便所よりも、想像を絶するほどに汚い。私は一度もその便所で用を達したことがないし、几帳面なはずのピストルが何故あそこで用を達したのか分からないほどに相当汚いのである。
私は、死ぬ。幼い脳味噌がその言葉で何周も何周も回転している。血がどろどろと未だ出ている。その傷から菌が繁殖して私は幼くして死ぬのである。ほぼ暗示のように私は脳の中で暗唱し続けていた。死後の世界を想像した。一度寺で仏画を見たことがあった。天国は黄金の世界だ。死ぬのは苦しいがもしかしたら楽しいのかもしれない。しかし私は一度、罪を犯したことがある。皆に便乗して彼女を無視してしまった。私は地獄に行くのではないか。仏画では地獄は鬼が罪人たちを炎の中へ投げ込んでいた。罪人たちは皆顔はぐちゃぐちゃで何を感じているのかさえ分からなかった。その中に私は死を再び恐怖した。そして私は死ぬのであるということに再び直面した。皆の声が入ってこない。私はのそりのそりと家へ歩き始めた。
気付けば家で私は座り込んでいた。珍しく父が母より先に帰宅していた。父は血だらけでそしてあごから血を出し続ける私を見て慌てふためいていた。私は死を恐れ呆然としており、手を抑えることさえ忘れていた。父は傷を抑えるための紙を必死で探していた。しかし家中何処を探しても紙はなかった。「紙はねえんか」父はそう繰り返していた。私は死を恐れて黙っていた。
父はある場所を見てぴたっと止まった。神棚に飾られた天皇の写真であった。それだけが我が家で唯一の紙と呼べるものであった。父は天皇の写真を額縁から取り、手で持っていた。バタっとドアが開いた。母が帰ってきた。母は(私は父に隠れ見えなかったのだろう)額縁から取った天皇の写真を手に取り見つめる父を見て、「あ、あんた何しとんの」と言った。その瞬間決心がついたように私の傷に当てやすく柔らかい紙にするため、その写真をくちゃくちゃにし始めた。それを見て、母は父を殴った。「あ、あんた何しとんの」先ほどと同じ言葉を、先ほどとは異なる感情、声色で吐いた。殴った瞬間に血が流れ続ける私と母は目が合った。数秒経ち、ゆっくりと母は納得したようなしかめた顔に、そしてだんだん怯えるような顔になっていった。「あんた何しとんの」母はもう一度、先ほどとは全く違う感情で、今度は私に向けてその言葉を吐いた。
翌日、父の元に赤紙が届いた。私は死ななかった。その代わりというわけでもない、数ヶ月後に父は死んだ。
その60年後、僕はぴんくちゃんねるで「【急募】メガネ美少女の足裏コキ画像」というスレッドを建てた。総レス数、5。
小雨の丘 マッチャポテトサ @mps_mokohima
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