屍肉喰らいの頂
虫太
屍肉喰らいの頂
橋上街の胸壁の前で行商人が籠を並べていると、屋台の天幕が落ちてきた。押し退けられた禽人が上から激突したのだ。悲鳴と歓声が同時に上がり、路面に木の実が散らばった。橋下の拱廊も観客でごった返し、競飛者たちが先を争う。
その一人、オキュプは大きく翼を打って列を脱した。円蓋の窓をくぐり空を目指すと数人がそれに続いた。
(望むところだ。死にたがり共)
張りつく他の禽人を彼は鉤爪で狙い、後ろでは柳葉刀のような嘴が冷たく光る。肉趾が裂けたが、薬と興奮で痛みを感じない。再度蹴ると、そいつは屋根の排気口に突っ込んで羽毛と血を舞わせた。都営競飛や闇賭博で誰かが何千万と摩ったはずだ。
「匂いを覚えたぞ!」排気扇の轟音に絞り出した声が混じる。「血の味もだ!」
(上等だ)
彼は胸下に頸を回す。あと四人だ。うち二人は禽人ではない。
一人は噴出式の飛行補助具に頼る異星人だ。翼を有たない異形の天使、迫害を躱して狡猾に生きる都市の隠者。
もう一人は実体ではない。電網から侵入した遊技者の操る幻影だ。小さいながらも、未来伝承の金鵬の姿を模している。オキュプの妻、ヴィンガの幻視にも現れるという黄金の鳥。終末に語られる、街を覆うほどの巨鳥だ。
「遊びじゃねえんだぞ」
そう呟いたが、この飛路を選ぶ以上、彼らも同じ覚悟だろう。正規の参加者でなかろうが、首位をとれば名声が権威を帯び、真理は枉げられ、街の力の均衡は変わる。
禽人の一人と異星人がオキュプを追い抜いた。
(落ち行く糞め…!)
幻影も迫っている。その表面には剥がれた塗料のような亀裂が入り、点滅して向こうの橋上街が透けて見える。電網防衛系の干渉だ。
前を飛ぶ二人が薄灰の天井に埋もれて消えた。常秋杉の森から来る生臭い万年霧は今の季節は低く、酋長の所有する小尖塔まで及ぶ。オキュプもその戸帳に飛び込んだ。中は視界が効かず、浮遊車が行き交う。彼は塔から伸びる飛梁の上へと飛んだ。
司祭ヴィンガは色彩窓を背に被告席のような説教台から聴衆を見渡した。先日まで最前列を陣取って飲み食いしていた予言目当ての博徒たちはもういない。大方観戦に行っているか、巣で無線標識の中継映像に釘付けになっているのだろう。
「…たしかに異星の者たちは天から降り立ちました。それを以て拝天を異星人崇拝と謗る向きもあります」
幻視が見せる未来は想像界で起きることに限られ、現実の出来事は予知できない。しかし、なぜか競飛の未来は時折見えた。
「台本のある芝居じゃねえんだ。真剣勝負だよ」オキュプはそれを聞くといつもそう言って憤慨する。
「しかし、拝地に聖性はあるでしょうか。奈落苔や死骸に湧く虫、屍肉を漁る獣を聖視する者がその趾で掴み取るのは倒錯だけです」
オキュプ。卵を慈しみ温めていた優しい夫は今頃、他人の頭を砕いているだろう。屍肉喰らいの剥いた牙がちらつく。
「彼らも我らも天の子です。だからこそ翼のない者たちに説法した東の森の聖ロップは正しかったのです」
説教が終わり信徒が帰り始めると、一人の老いた禽人が近づいて来た。
「ご苦労さまでございます、僧正様。本日も興味深く拝聴しました」たしかライノとかいう戯曲作家だ。慇懃に頸を竦めるが彼に信心はない。「未来の原典を垣間見れるのも、その真摯さ故ですね」
幻視の内容に執着するのは遊び人と夢想家だけだ。ヴィンガは彼をあしらいながら帰り支度をした。
「敬虔な者は幻視しやすいですが、見ない高僧も多くいます。行き過ぎた神秘主義は天に至る道ではありません」
「ええ、そうでしょうとも。しかし、未来伝承は借用で飾り立てておらず、強靱で壮麗です」彼は翼を拡げ二人の間を覆った。霊感を求めて吸ったのだろう、焚いた薬草の匂いが漂う。「実は未来原典のひとつ、傭兵の物語はまもなく私の筆から生まれるのです。今までこの傭兵に言及してきた作品は、全てこれへのオマージュだったのです」
ひそめた声で彼は言い、自分で言ったことに打ち震えるように羽毛を膨らませた。
ヴィンガは翼爪で細い頸を掻いた。原典と贋作の違いなど、彼女には判らない。恐らく引用されなくなれば原典なのだろう。
彼女は金鵬のことを思った。あらゆる鳥を統べ、火口を巣とし、星を周回する巨鳥。物語や幻視に最も普く現れる、引用の中の引用の中の引用、最後の空想だ。
それが語られたあと、語り部たちは創造を止めるのか。司祭が幻視の能力を喪うのか。それとも世界が滅ぶのか。そしてそれがどれだけ先のことなのか。彼女に計り知ることはできなかった。
(託雛所で坊やが待ってる)
ヴィンガは老作家を置いて急いで教会を発った。
オキュプは、全身を波のようにうねらせながら羽搏いた。骨が軋み、肺が押し潰され、腱が引き千切れるようだ。なのに先へ進んでいる気がしない。俺は永遠の霧の中でただ溺れている。
子どもの頃から彼は誰より速かった。しかし一度も自分の飛行に満ち足りたことはなかった。もっと疾く、もっと高く。身のこなし、呼吸のリズム、筋肉。どの練習においても、この日を思い描いて飛んだ。抱卵の日々で萎靡したというのか。否、今が絶頂のはずだ。
それなのに、見えない。前を飛ぶ二人の影が。見えない。見えない。見えない…
後ろから来た金鵬の幻と別の禽人が、オキュプに並んだ。彼は瞬膜を閉じ、一瞬の硬直のあと、纏わりつく幻影を吹き払うように翼を振り下ろした。
幻影は標的を変え、別の禽人の頭部に重なり視界を奪う。そこへ輸送浮遊車が衝突し、横切る風がオキュプの尾羽を撫でた。
(見えた)
霧の中から次第に赤褐色の尖塔が浮かび上がった。西の公爵の星間貿易塔だ。その側面に、禽人と異星人がいた。思ったほど離されてはいない。また血が沸き立つ。真っ直ぐ塔には向かわず、上へ上へと止まり木のない宙を進んだ。
塔に近づく頃には、二人は彼の下にいた。軒に吊るされた檻籠から囚人が、虚ろな目で奇特な来訪者を見やる。
「特等席じゃねえか、大将!」
中尖塔から伸びる飛梁の周囲には、正規の飛路であることを伝える無線標識が青白く光り、天へと並んでいた。
オキュプの目が前方に羽搏きを捉えた。
(まだ先行者がいたか)
目を凝らすと、それは仄かに光っている。標識機が作り出すゴーストだ。運営協会が投影する、これまでの競飛で最も速かった記録保持者の姿だ。彼はその背を追った。
数百尋ほど飛ぶと、前方でゴーストの動きが止まった。その背後に大尖塔が現れた。この都市で最も高い、王族と支配者層の塔。林立する諸侯の塔はこれを支える傍柱に過ぎない。目標はこの頂の上にある。
記録保持者は塔の縁に止まって吐いていた。幻影の吐瀉物は嘴の下で消えている。塔の樋嘴に激突したようだ。オキュプは笑った。
(こいつも雛持ちだったのか)
嘴を小突かれて胃の内容物を出してしまうのは子育て中の反応だ。
オキュプは樋嘴の石像に飛び掛かり、対趾で頭を鷲掴んだ。地獣の頭と、背には翼を有する架空の怪物の像だ。思った通り、頸にひびが入っており、鈍い音を立てて頭部が外れた。卵大の重い石だ。
(武器の携帯・設置は禁止、だったよな…)
異星人は、爆発噴出でその石を避けた。背後の禽人は顔に喰らい、意識は昏睡に、身体は重力に委ねられる。目を覚まさなければ地獣の昼飯だ。
ふらふらと飛行を再開していた記録保持者をオキュプたちが抜いた。金鵬の幻影がそれに喰らいつく。歪みや点滅は失せ、貪婪に輝いている。
下へ下へと流れる塔の窓から順繰りに観客たちの視線が彼らに注がれる。金鵬を操る電網侵入者が、頂上に幻影を出して簡単にゴールしてしまわないのは、接戦を制した様子を演出したいからだろう。
(さっさと摘発されろ)
侵入者の正体は、恐らく異星人か飛べなくなった禽人だ。地上街の暗い塒で、繁った蔦のような神経端子の接続線に埋もれた姿が浮かぶ。
「這い上がって来るな、地の王め!屍骸漁りどもめ!」
「屍肉喰らいはお前らだ!」異星人が叫んだ。「禁薬を売ってくれとせがんだのは禽人だった。なのに弟を捕らえて磔にして、宴とばかりに臓物を啄んだ!」
塔の窓のひとつに、翼爪を激しく下に向けて振っている禽人が見えた。オキュプのパトロンになった新興貴族だ。
(無法者と張り合うな。公式の首位だけ獲って帰って来い)
そう言いたいのだ。まだまだ彼を使って稼ぎたいのだろう。オキュプは無視した。
三者は空を掻き、縺れ合い、互いを引き摺り落としながら上昇を続けた。尖頂が次第に細くなっていく。
ついに塔が途切れた。炎を象った頂華より先にはもう何もなかった。水平にも垂直にも虚空だけが広がっている。ここから先は無線標識も観客もない。もはや邪魔者も、目標高度もない。ルールすら、ひとつしかない。最後に負けを認めた者が負けである。
霧が次第に薄れ、大気は眩く澄み始め、可視域外の光線が網膜を刺した。
異星人は、引き返す気配を見せない。
金鵬は、標識機が無くなったのに消えていない。それどころかますます強く燃え盛っている。
――本物のゴースト。最初から可怪しかったのだ。正規飛路外にもこいつはいた。未知の技術なのか。オキュプにも幻視が見えるようになったのか。何であろうと彼には問題ではなかった。
「俺より上を飛ぶな!」
衝動に任せて翼を振るった。
常秋杉の霧がなくなると、天はその真の暴威を露わにした。オキュプの赤い虹彩は爛れ、細波のような亀裂が走る。頭と雨覆のあたりから羽がチリチリと音を立て、反り返っては落ちていく。異星人の長い頭髪は抜け、毛のない顔は水疱で埋め尽くされた。金鵬は膨張し、溶岩のような空の光と融合を始める。光が星を覆っていた。
彼らは弛むことなく、三重螺旋を描いて燦爛たる天へと落ちていった。
(これこそ真の飛翔だ。これまでの人生は全て夢想だ!)
昂揚に喘ぎ、喉に込み上げる血で、昔南の森で食べた木の実の味を思い出した。
どこからかヴィンガがこちらを見ていた。
屍肉喰らいの頂 虫太 @Ottimomisita
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