【後編】空に紡ぐ

「君が今一番学ぶべきは『適量』という言葉の意味だと思う」

「へ? ……あ、ちょっと!」

 愛しい声が聞こえるやいなや、読んでいた本が手元から消えた。……否、強奪された。

 文字の代わりに視界に入ってきたのは、婚約者改め愛する夫。麗しいご尊顔を不服そうに歪め、こちらをじとりとめつけてくる。

「あと少しだけ待ってくださいって言ってるのに」

「待った。朝からじゅうぶん過ぎるくらい待った。これ以上待ったら日が暮れてしまう」

 わたしが読んでいた箇所に栞を挟み、ぱたんと閉じて本棚に戻す。「続きはまた明日!」と、強制的にシャットダウンされてしまった。頬を膨らませて拗ねている。そんな姿でさえもかっこいいと思ってしまうのだから、自分は彼に相当ご執心のようだ。

 ディアミド様の部屋で本を読む。

 結婚してからというもの、こうして彼の部屋で勉強する時間が増えた。この世界で目覚めた当初は読めなかった文字も読めるようになり、今では少しずつだが書くこともできるようになってきた。

 今読んでいたのは、ジアラーク王国の歴史書。千年以上に及ぶこの国の歴史を学ぶことは、けっして簡単なことではないけれど、自分にとって欠かすことのできない大事な作業だ。

 まだまだ足りない。足りないというのに。

「……」

「……そんな顔してもだめだ。これ以上は俺も譲れない」

「……」

「……」

「……ふふっ。冗談ですよ、申し訳ありませんでした。また明日、読ませてくださいね」

「ミツキ……!」

「わっ!」

 ディアミド様の顔が花やぐやいなや、彼にがばっと抱きつかれた。その勢いのまま、脇のベッドに押し倒される。

 突然のことに目を白黒させていると、彼の顔がわたしの顔のすぐそばまで近づいてきた。鼻先が触れるよりも、ずっとずっと近い距離。

「ディアミドさ……っ——」

 吐息が重なり、ひとつになる。花蜜のように、可憐で甘い味。

 数秒の後。ようやくわたしの唇を解放した彼は、至極満足そうに笑っていた。

「真っ赤だ。可愛い」

「……かっ、からかわないでください!」

「からかってなんかない。心の底から可愛いと思ってる」

 そう言って、今度はわたしの額にキスを落とした。

 どこまでも真っ直ぐな彼の愛情表現に、くらくらする。これまで何度も触れ合っているけれど、まったく慣れる気配がない。彼がリードしてくれるおかげで、恐れることなく身を委ねられてはいるけれど、それでも気恥ずかしく思ってしまうのが実状だ。

 結婚する際、初めて彼の年齢を聞いて驚いた。なんと彼は、美月わたしより5つ年下の二十歳。この精神的なゆとりは、いったいどこから来るのだろうか。

「気負わなくていいんだ、ミツキ。君は君らしく、俺の隣にいてくれればいい」

 と、なんの前触れもなく、彼にこんな言葉をかけられた。思い当たることがないので、仰向けのまま小首を傾げる。

「わたし、そんな気負ってますか?」

「やはり気づいてなかったか。無自覚も、ここまで来ると、ある意味罪だな」

 わりと盛大にため息をつかれてしまった。……呆れられた。

 自分の非を必死で探しているわたしの隣に、彼がぽてんと横たわる。そうして、わたしの両の手をきゅっと握りしめ、諭すように優しく囁いた。

「この国を想っての行動だってことはわかっている。だが、君の体が……心が、心配だ。頼むから、もう少し自分のことをいたわってくれ」

 眉を下げ、切なそうに笑う。

 彼の言いたいことを理解したわたしは、とたんに申し訳なさにさいなまれた。彼にこんな顔をさせてしまった自分が、情けなくて情けなくてたまらない。

 昔からだ。何かに没頭すると、周りが見えなくなってしまう。そのせいで体を壊してしまったことも、一度や二度じゃない。むしろ、それが原因で命を落としているのに。

 彼はそのことを知っている。心配しないわけがない。

「ごめんなさい」

「わかってくれたらいい。せっかく一緒にいられるんだ。もっとたくさん話をしよう」

「話、ですか? ……たとえば?」

「そうだな。あちらの世界での君の話、とか」

「わたしの、ですか? 面白い話なんて、何もないですよ?」

「なんでもいい。君の話が聞きたい。もちろん、君が話してもいいと思えるならだが」

 室内でもわかるほどに、明るさを放つ彼の紫目しめ。きらきらときらめいて、ゆらゆらと揺らめいて、このまま吸い込まれてしまいそうだ。

 わたしの話……。

 物心ついた頃から意識を失うまでのあいだ。どの場面を切り取ってみても、真っ先に思い浮かぶのは、やはり母との思い出だった。

「わたしが母子家庭で育ったことは、以前お話しましたよね?」

「ああ。母君がひとりで君を育ててくれたんだったな」

「はい。……母は、本当にすごい人でした。母の疲れた顔、わたし見たことないんです。愚痴ひとつ零さず、いつも笑顔で」

 ずっと働いていた。いつ休んでいるのだろうと不思議に思うほど、ずっと。

 けっして裕福とは言えない暮らし。とても我が儘を言えるような環境ではなかった。母の負担が少しでも軽くなるようにと、食事や掃除、洗濯など、自分にできることはすべてした。

「子どもだから、上手にできなくて。自分なりに、がんばってはみるんですけど。……でも、どれだけわたしが失敗しても、母はいっさい怒りませんでした。それどころか、わたしの失敗を片づけながら『ありがとう』って言うんです。『助かるよ』って。かえって母の手を患わせて、絶対そんなことないと思うんですけど」

「……」

「上手くいかなくて、なんだか自分がみじめに思えて、ひたすら落ち込んで……そんなときは、よく空を見上げていました。住んでた家の裏に、小高い山があって、そこにひとりで登って」

 いつでも空は変わらずそこにあって、自分と向き合ってくれている。そのことに、なぜかひどく安心した。

 春も夏も秋も冬も。朝も昼も夜も、いつでも。

 空を見上げると、なんとなく涙をこらえられるような、そんな気がした。

 でも。

「母が亡くなったときも、山に登って空を見上げてみたんですけど、さすがに、こらえきれなくて……ああ、ひとりになっちゃったって……」

 喉の奥から漏れ出る、か細い悲鳴。

 母がいなくなった当時の情景が五感とともにまざまざと蘇り、怒涛のように感情が押し寄せてくる。

 ひとりになった。それなのに、家の中ではいつも、母の姿を探していた。

 いるはずないのに。どこにも、いるはずなんてないのに。

「……っ、あ、ご、ごめんなさい! わたし——」

 目に込み上げてくるものを隠すために顔を逸らそうとした、次の瞬間——言葉を、奪われた。

 舌先が、口内が、蕩けるように熱い。しだいに荒くなる呼吸が、心拍数を跳ね上げる。

 彼の抉るような口づけに、唇がぴりぴりと痺れるような感覚にとらわれた。驚き、見開いたわたしの目には、今にも泣き出しそうな彼が映っている。

 刹那、世界は暗転し、わたしは彼の匂いに包まれた。

「俺がそばにいる。何があっても、いなくなったりしない。どんなときでも、俺が君を支えるから」

 抱きしめられた背中が痛い。

 心臓が、灼けそうだ。

「一緒にいよう、ミツキ。ずっと、ずっと……一緒にいよう」

「……——」

 どうしてこの人は、わたしの欲しい言葉ばかり与えてくれるんだろう。

 どうして、わたしの気持ちを一滴残らず掬い取ってくれるんだろう。

 どうして、これほどまでにわたしを……。

 どうして——。

 わたしは、声を上げて泣いた。わんわん泣いた。

 人目を憚らず、こんなにも咽び泣いたのは、生まれて初めてだった。


「落ち着いたか?」

「はい。すみません、こんな派手に泣いちゃって……」

「構わない。俺の前では、我慢しないでくれ」

 目がじんじんする。鼻もぐずぐず。

 そんなわたしの醜態にも動じることなく、優しく彼が言う。泣き腫らしたわたしの目元を指でさすりながら、まるで傷を癒やすように。

「なあ、ミツキ」

「?」

「次に遠方へ視察に行くときは、君も一緒に行かないか?」

「えっ……いいん、ですか?」

「ああ。子どもが生まれると、しばらくは遠出できなくなるだろうから、今のうちに」

「なるほど……えっ!?」

 思わず発した大音声が、室内を震撼させる。

 こ、子どもっ!? ……そ、そうか。そうだ。子ども。

 恋愛レベルの低さが露呈してしまうも、「いやいや夫婦だから自然なことでは?」と、すぐさま思い直した。

 またやらかした。きっと耳の後ろまで真っ赤だ。恥ずかしい。

 ふわりと笑った彼が、もう一度、わたしの背中に腕を回す。

 今度はそっと。わたしの心ごと、包み込むように。

「たくさんの土地を回ろう。観光……はできないかもしれないけど、訪れた先々で、一緒に空を見上げよう」

「ディアミド様……」

「愛してる。君と結婚できて、俺は本当に幸せだ」

 止まっていた涙が、ふたたび溢れ出した。

 彼に想いを返したいのに、ちゃんと伝えたいのに、涙が邪魔して言葉にならない。狂おしいほどの愛おしさで、胸が張り裂けそうだ。

 教えてあげよう。あの日、空を見上げて泣いていた自分に。

 大丈夫だよって。

 ひとりじゃないよって。



 ねえ、お母さん。わたし、結婚したよ。

 世界で一番、愛する人と。


 結婚、したよ——

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偽物伯爵令嬢婚約保留中! 那月 結音 @yuine_yue

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