番外編
【前編】父と娘
「綺麗な月」
心地好い夜風に吹かれながら空を見上げる。
庭全体にあまねく降り注ぐ月光。そこかしこで、咲き誇るバラの花が淡く浮かび上がる。
あれから、ひと月。王室からの正式な求婚を受けいれ、準備のための慌ただしい日々が過ぎていった。
ディアミド様は「身ひとつで来てくれたらいい」だなんて、相変わらずあの調子で笑っていたけれど、完全に同意することなどできるはずもなく。いろいろと検討した結果、伝統を重んじつつも、衣服や装飾品や書籍といった、最小限の物を持参するという形で落ち着いた。
この屋敷での生活も、あと少し。
——寂しい。そう感じてしまうほどに、いつのまにか、自分はここを〝実家〟だと思って過ごしていたようだ。
「いろいろあったなあ……」
バラ園を見渡しながら、この世界で目覚めてからの今までを回想する。
カルチャー・ショック、などというひとことでは、とうてい表しきれないほどの体験。どんな映画よりも、どんなアトラクションよりも、はちゃめちゃに刺激的な生活。
『婚約の件だが、いったん保留というのはどうだろう』
その中で、最愛の人を見つけた。
「……あ、そうだ。あの鉢植えも持参していいかどうか、ディアミド様に聞いてみよう」
すべては、このバラ園から始まったのだ。
❈
屋敷の中に戻ると、ちょうど夕食の準備が整ったと執事が教えてくれた。
謝意を伝え、ダイニングへ向かう。そこには、シナリク伯爵の姿があった。
「お戻りだったのですね」
「ああ。お前とこうして食事ができる日も、残りわずかだからな。早めに仕事を切り上げてきた」
そう言って笑った伯爵の顔は、まさに、娘を溺愛する父親のそれだった。
とはいえ、わたしの記憶の中に、父親との思い出はまったく存在しない。物心ついた頃には、すでに母とふたり暮らしだったため、父親というものに対して外部から見聞きした以上の知識が何ひとつないのだ。
「あんなに小さかったのに……いつのまにか、結婚する年齢になってしまったんだな」
量の減っていない皿を前に、しみじみと言葉を零す伯爵。
エルレインは十八歳なので、わたしの感覚では早婚も早婚だが、この世界においてはそれほど珍しくないらしい。生まれながらに嫁ぎ先が決まっているなんて事案も、ざらにあるそうだ。
しんみりとした空気が漂う中。
ここでも、エルレインのとんでもエピソードを聞く羽目になってしまった。
「懐かしいな。お前が十歳のとき、〝農村ごっこ〟と称してヤギや羊たち数十頭を庭に放牧したり」
「!!」
「十三歳のときには、『自分の瞳と同じ濃い赤色をした珊瑚のネックレスが欲しい』と、東方の国へ船で取りに行かせたり」
「!?」
「珍しい動物をペットにしたいと虎をねだられたときは、どうしようかと思ったが」
「……」
我が儘のスケールが桁外れ過ぎる。これらを実現するために、いったいどれだけの人や動物が犠牲となったのか……想像するだけで、心が痛い。
ちなみに、最後の虎に関しては、ミュイラー家がひと足先に飼うこととなったらしく、使用人のひとりが噛まれて大怪我をしたと聞いて、エルレインの興味は一瞬にして薄れてしまったのだそう。
エルレインが周囲にどう評価されていたか。
伝聞でしか知るすべがないうえに、わたしに直接話す人物など皆無に等しいため、断片的な話を総合的に判断するしかないが、とにかく学ぶ姿勢が著しく欠落していたのではという仮説に辿り着いた。
無知蒙昧。たぶんきっと、この言葉に帰結する。
「……私はお前に、やはり寂しい思いをさせてしまっていたのだろうか」
「……え?」
食器の金属音が、室内にむなしく響く。
伯爵の真意がわからず、目をしばたかせていると、彼は静かに笑みを湛えた。嘲笑にも似たそれは、乾いたわたしの心臓を、きゅっと締めつける。
そうして語り始めたのは、彼の本音。
ひとりの父親としての、娘に対する本音だった。
「お前が母親との思い出を何ひとつ持てなかったことを不憫に思い、私はお前の求めることを可能なかぎり実現してきた。……自身の忙しさを省みることなく、すべて人任せにして。お前が雷に撃たれたあのときも、お前は私とともに別荘へ行くことを望んでくれたのに。私がついて行っていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに」
寄り添ってやれたのは、そばで諭すことができたのは、自分しかいなかったのに——わたしには、彼がそう悔いているように聞こえてならなかった。
「……」
何も言えなかった。だって、わたしはエルレインじゃないから。彼の娘じゃないから。
彼の娘は、おそらく、心臓が止まったあのときに死んでしまった。
娘と真摯に向き合っている目の前の彼に、何を言うべきか。言うべき言葉が見つからず、焦り、惑い、それでも口を開こうとしたわたしを制し、彼が言う。
「何も言わなくていい。お前がもう一度、その姿のまま、私の前に戻ってきてくれただけで……それだけで、私は幸せだ」
「あ……」
「お前は、私の娘だ」
ああ、そうか。彼は、ずっと気づいていたんだ。そのうえで、わたしと
視界が、滲む。
あたたかいものが頬を伝ったその瞬間、食事中であることなどかえりみず、わたしは彼のもとへと駆け寄った。駆け寄り、胸に体を預けるように、抱きついた。
まるで、幼い子どもが、親に縋りつくように。
「エルレイン。私の娘。どうか、彼と幸せに」
「……ありがとう……お父様……——」
いくら場所があっても。
いくら物が溢れていても。
それだけで、人の心を育てることはできない。
人の心を育てるのは、人。
そう、彼が教えてくれた。
父が、教えてくれた。
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