最終話

 白い壁に反射した陽光が、部屋全体を明るく照らす。

 微睡みを誘う昼下がり。目を閉じて心地好さに身を委ねていると、生き生きとした声が鼓膜を揺らした。

「できました!」

「ありがとう、ルーチェ」

 腰まで伸びた長い銀髪。わたしのそれを時間をかけて丁寧に編み込んでくれたルーチェに謝意を伝える。「今日もお美しいです!」と笑った彼女の顔は、この日差しにも負けないくらい眩しかった。

「それにしても大変でしたね。一時はどうなることかと心配しておりましたが、落ち着いたようで安心いたしました」

 手に持っていた櫛や、使用しなかった髪飾りなどを片づけながら、ルーチェが言う。これに対し、わたしは短く「そうね」とだけ頷き返した。あの夜を回想するたびに蘇る羞恥を、無理やり抑え込む。

 あのあと。

 ミュイラー家から、シナリク家に対し、正式に謝罪があった。

 天敵であるエルレイン親子に謝罪するなど、のたうち回るほど嫌だったに違いない。が、ディアミド様や王室の手前、泣く泣く詫びを入れた形だ。ただ、今回のことは、ミュイラー伯爵のあずかり知らぬところでドナが勝手に動いて起こした事件らしく、反省と同時に親子での話し合いを切に望む。

 一方。こちらはこちらでシナリク伯爵が殴り込みに行かんばかりに憤慨していたのだが、わたしが宥め、とりなして、なんとか落ち着かせることに成功した。

 とはいえ、遡ればエルレインにも非はあるはずなのだ。

 ないということはない。絶対に。

「お嬢様、ドナ嬢とのあいだのあれこれも覚えていないんですものね……」

 眉を下げてしょんぼりするルーチェに、すっと目線をずらして首肯する。

 そう。覚えていない……というか、知らないというか。知っておいたほうがいいのかもしれないけど、今はまだ、誰かに聞く勇気も持てないというか。

 ルーチェのつぶらな瞳が、わたしの瞳にぱちっと嵌まる。「今のお嬢様のほうが、私はとても好きですが」と前置きしたうえで、彼女はおもむろに二の句を継いだ。

「以前のお嬢様も、まあ、たしかに性格はきつかったですが。……裏でこそこそ誰かを貶めるような卑怯な真似は、けっしてなさいませんでした」

 窓の外に広がる、高く高い青空。

 中庭から、鳥たちのさえずる声が聞こえる。

 おふたりがご無事でなによりです——そう告げたルーチェの顔は、やっぱり眩しかった。


 コンコン。


 突然、部屋のドアをノックする音が聞こえた。ルーチェと顔を見合わせ、ふたりで首を傾げる。

 いったい誰だろう。伯爵は外出中だし、ルーチェはここにいるし。

 執事かな? それとも別の使用人? ……などと屋敷の人物を順に巡らせながら、「どうぞ」と入室を促す返事をした。

 正解は。

「失礼するよ」

「!」

 なんとディアミド様。

 金髪に、太陽の光がきらきら躍る。飾り気がなくシンプルで洗練された装い。無駄のない動き。今日も今日とてすこぶる麗しい。

 彼が屋敷に来ることは承知していた。ただ、約束の時間よりも半時間ほど早かったために、まさかというのが正直なところだ。忙しい御身ゆえ、遅れることはあっても、早まることはないと思い込んでいた。

 しまった。やらかした。

 慌てて椅子から立ち上がり、彼のもとへと駆け寄る。

「申し訳ございません! 出迎えもせず……!」

「いや、気にしなくていい。こちらこそ申し訳ない。約束の時間より早く来てしまって」

 公務が予定していたよりも早く終わり、そのままこちらに赴いたらしい。申し訳なさそうに微笑む姿も整いすぎだ。

 なんだか胸のあたりがくすぐったい。さわさわして、ふわふわして、ぽかぽかして。「ああ、自分はこんなにも彼に会いたかったのか」と、彼を前にして強く自覚した。

「エルレイン」

「はい」

「会いたかった!」

「へ? ……うわぁっ!」

 部屋に入るやいなや、彼はわたしを持ち上げる勢いで思いきり抱きしめた。背中と腰に回された手が、痛いくらいに熱い。首筋にうもれた彼の吐息が、素肌に弾む。

 彼も同じ気持ちだったと知り、とても嬉しかった。けれど、この状況はまずい。

 だって。

「じ、侍女が見てます……っ!」

「見てないが?」

「え゛っ!?」

 振り向けば、先ほどまでそこにいたはずのルーチェが忽然と消えていた。どうやら彼と入れ替わりで出て行ったようだ。まじか。全然気づかなかった。

「君の侍女は優秀だな」

「そう、ですね……」

 完全に彼のペース。会うたびに、いろんな意味でドキドキさせられる。これからこんな日々が続くのかと思うと、純粋に嬉しくもあり、悩ましくもあった。……はたしてもつのか、わたしの心臓。

「あ」

「えっ」

 今度は何っ!?

「このバラ、もしかして」

 歩み出した彼が指さす先にあるもの。

「……あっ、そうです」

 窓際に置いた、小さなバラの鉢植え。——あの日のバラだ。

 以前よりも緑が濃くなり、少し丈も伸びた。この部屋の環境が適しているのだろうか。発根して土に植え替えても、すぐに順応してくれた。

「元気に育っていますよ」

「そうか」

 彼の顔が、ふわりと綻ぶ。まるで、バラの蕾が綻ぶように。

 土を触ること。それは、貴族にとって、あまり好ましくないことなのだろう。実際、父である伯爵からは、使用人に任せてもいいのではないかと、やんわり止められたことがある。

 でも、この人は違う。わたしの意思を、行動を、第一に尊重してくれる。本当に、優しい人。

「ミツキに育ててもらってよかったな」

 生命いのちに寄り添える、優しい人——。


 まもなく、ふたり分の紅茶と焼き菓子が、執事によって運ばれてきた。馥郁ふくいくとした紅茶の香りで、部屋が満たされる。ちなみに、この焼き菓子は、彼の手土産らしい。

 この日、彼がわざわざ屋敷に出向いてくれた理由は、事件の真相とミュイラー伯爵家の処遇について説明するため。

 公園で資材を束ねてあった紐を切ったのは、あの辺りを縄張りにしているゴロツキだったらしい。現在は警察に身柄を確保され、取り調べを受けている最中とのことだが、ドナの従者を通して雇われたことを自供したそうだ。

「ミュイラー家は、どうなるんですか?」

「まだ正式に決まってはいないが、君の口添えのおかげで、爵位の剥奪や追放は免れそうだ。……だが、領地の一部没収や、それ以外にもペナルティは科せられるだろうな。彼女がしたことは、けっして軽いとは言えないから」

「そう、ですか」

 彼の言うとおりだ。ドナのやったことは、けっして軽くはないし、許されることでもない。

 たとえ、その悪意がエルレインひとりに向けられたものだとしても、王太子に怪我をさせ、公の場に混乱と損害を招いたという事実を、なかったことにはできないのだ。何かしらの償いと、立場上、社会的な制裁が必要だろう。

「反省してくれるといいんですけど」

「そうだな。ミュイラー伯爵も、彼女ともう一度真正面から向き合う必要がありそうだ」

「ですね。あの感じだと、難しそうではありますけど」

「ははっ、たしかに。……ひとつ、訊いてもいいか?」

 と、それまでとは異なる声のトーンで、彼が新たに口を切った。

 今まで何度も目にした彼の真剣な表情。だが、今のそれは、今までのそれとは明らかに違っていた。

 息を呑むほど清冽な眼差し。わたしは、不思議に思いながらも肯いた。

「もし、ドナ嬢が怪我をする場面に居合わせたとしたら、君はどうする?」

 静かな、されど心を衝くような、鋭い彼の問い。

 思わず肌がひりつくも、一瞬の瞑目の後、わたしは、彼の顔を真っ直ぐ見据えてこう答えた。

「必要な処置を施すと思います。……たぶん、理屈や感情抜きに、体が勝手に動くんじゃないかなって」

 迷う余地なんて……選ぶ余地なんて、ない。

 わたしのこの答えを聞いた彼は、「そうか」とひとこと呟くと、それ以上この件に関して口を開くことはなかった。

 彼がどう感じたかは気になるけれど、それによって、わたしの答えが左右されることはない。

 これがきっと、看護師として生きてきた、わたしの矜持。

「ミツキ」

「!」

 不意に、対座していた彼が立ち上がり、わたしのもとまでやってきた。つられて立ち上がろうとするも、片手で制される。

 これから何をするのか、何が起こるのか……彼の行動が、まったく予測できない。

 彼は、わたしの前で膝をつくと、そっとわたしの手を掬い取り、その甲に口づけを落とした。

「あの日、君に出会えて本当によかった。婚約保留などという非礼な振る舞いを、改めて謝罪させてくれ」

 さながら映画のワンシーン。

 彼の唇が触れたところが、じわりじわりと熱を帯びていく。

「だが、君を想うこの気持ちが揺らぐことはない。ほかのなにものでもない。〝君〟に誓う。……どうか俺と、結婚してほしい」

「……っ、はい。末永く、よろしくお願いします」



 どこかの世界の、どこかの王国。

 そこには、民に慕われた聡明な王さまと、同じく聡明な王妃さまが、幸せに、幸せに、暮らしておりました。



 <END / It will last just a little while longer!>

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