第8話

 何が起きたのか一瞬わからなかったが、自分のドレスと目の前の惨状を見て、わたしはすぐさま事態を把握した。

 トマトスープで真っ赤に染まったドレス。床に散らばった食器やパン。真白いテーブルクロスから滴るワインの赤紫。

 癇癪を起こしたドナが、近くにあった食事や飲み物を、手当たり次第わたしに向けて投げつけたのだ。

「全部……全部あんたが悪いのよっ!! いつだってわたくしの邪魔ばかりしてっ!! ……ディアミド様の婚約相手だって、最初はわたくしだったのっ!! わたくしが彼と婚約するはずだったのっ!! それをあんたが横取りしたのよ……っ!!」

 いまだ興奮のおさまらないドナが、髪を乱して怒鳴り散らす。

 彼女の隣には父親とおぼしき男性。こうなってしまうと手がつけられないのだろうか。彼女に寄り添うも、ただおろおろするばかりだ。

「ミツ……っ、エルレイン!」

 駆けつける王子の声が聞こえる。その後方には、慌てふためいたシナリク伯爵の姿。

 大広間の片隅で、またたく間に注目を浴びる存在となってしまった。普段のわたしなら、適当にその場からフェードアウトしていただろう。できれば争いごとには関わりたくないし、そもそも目立ちたくない。

 けれど、これは。

 これだけは。

「……じゃない」


 絶対に許せない。


「……っ、食べ物を粗末にするんじゃないっ!!!!」

 割れんばかりのわたしの怒号が、室内をびりびりと震撼させた。

 さながら轟く雷鳴のようだったと、自分でも思う。このときのわたしには、周囲を気にする余裕なんて全然なかった。とにかく許せなかったのだ。王子を危険に晒したばかりか、物に当たり挙げ句こんな素晴らしい食事を無駄にした彼女のことが。

 体の奥底から込み上げる怒りが、塊となって噴出する。

「この野菜や果物を育てた農家の人たちが!! 料理人たちが!! 食事としてこの場に並べられるまでにどれだけ汗水垂らして働いてると思ってんのっ!! ……あと、ここっ!! このテーブルっ!! この床っ!! いったい誰が掃除すると思ってんだ……っ!!!!」

 止まらなかった。

 止まれなかった。

 ドナも、ミュイラー伯爵も、シナリク伯爵も、この場にいたほぼ全員が呆然としていた……と、思う。

 ただひとり。

「……くく……っ」

 この人を除いては。

「あはははははっ!!」

 この状況をものともせず、いかれるわたしを鎮火させた人物——ディアミド様だ。

 彼は、目に涙を浮かべながら、声を上げて笑い転げていた。まさに抱腹絶倒。大口を開けて笑う姿でさえも麗しい。

 思わずぽかんとしたわたしに対し、震える声で彼が言う。

「君って人は……っ、本当に最高だな。ますます惚れた」

 なおも込み上げる笑いをこらえながら、彼は目尻に溜まった涙を拭った。

 もしかすると、とんでもなくやらかしてしまったのではないかと、今さらながら羞恥に見舞われる。

 なんとか落ち着いた彼は、整った顔と無駄のない動きでわたしの腰に手を回すと、自身のほうへと引き寄せた。服が汚れることもかえりみず、よろめいたわたしの体を、しっかりと受け止め支える。

 そうして、ドナとミュイラー伯爵に向き直り、毅然とした態度で厳しく言い放った。

「こうなってしまった以上、不本意ではありますが、あの日のことは公にせざるを得ないですね。のちほど洗いざらいすべて聞かせていただきますので、そのつもりで。……それと、何か勘違いしているのかもしれませんが、エルレインと婚約したのは俺の意思です。彼女と婚約することを、俺が望んだ。そこに誰かの意思が介入する余地など微塵も存在しません」

 腰に回された彼の手に力がこもる。

 凜とした彼の声が、宣言が、室内に高らかに響き渡った。

「エルレイン・シナリクが、俺の婚約者です」

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