第三章:純白 『二人が交わり離れる時、十字が現れるでしょう』

第10話 十字の色

「『罪悪よ』」


 その一言で、空気が染まった。


 セフィの口から紡がれる言葉は、『光色勇者団』の物語にて『白十字しろじゅうじ』ケテルが口にしたとされる一節。


「『いかずちは再び、委ねられた』」


 アンデーレの振り下ろす朱色の剣が止まった。いや、止められた。

 彼の剣を阻むのは、剣とサウェルの間に浮かぶ魔法陣。それが現れた途端、魔力を帯びた剣は少しも進まなくなったのだ。


 セフィラアートだ。

 サウェルの着る服に刻まれた魔術式から『衝撃の吸収』という箇所だけを切り取り、更に強化して、それを『空間』に適応した事による不可視の障壁。

 かろうじて仕組みを推測したサウェルの目は、自然とそれを成した少女へと向けられる。


「セフィ、なのか……?」


 そこに立っているのは、変装として買った安物のローブに身を包んだ、白く長い髪をなびかせる少女。しかしサウェルは、それがいつものセフィとはどこか違う事に気付いていた。

 本人が思ってる以上に感情豊かで、そして何よりも純粋だったその瞳は、今や空虚な光を湛えるだけ。まるで深い崖を覗き込んでいるかのような不安感を覚える瞳だった。


 ――ビキビキ、バキッ、ギギギ……。


 硬い物を引き裂くような音が彼女から聞こえる。

 割れたのは彼女の背後、その空間だった。


 セフィを中心にして樹木のように枝分かれする亀裂が左右に伸びていく。

 やがて広がったそれは、一対の翼を思わせる光景だった。


「『癒せぬ者に、導きを与えるいかずち。光を裂き、闇を照らすいかずち


 周囲に光が灯った。

 サウェルの持つあらゆる魔道具、乗客の誰かが置いて行った魔道具。馬車のあちこちに備え付けられている魔道具。その全てが淡く輝いている。


「『私は罪を定めない。私は罰を与えない』」


 セフィの前に、五つの『白い魔法陣』が現れた。

 小さいものは彼女の顔ほどの、大きいものは彼女の背丈ほどの径があった。

 その出現に反応したかのように、周囲の全ての魔法陣が砕かれ、光と色が吸い取られていく。


 その光景を見て、再び彼女への興味が湧いたようだ。アンデーレはサウェルに向けていた剣を引き、セフィへと狙いを定めた。


「ずいぶん様変わりしやがって! 面白いじゃねェか!」

「『背を向けてはならない。私はただ、皆を導こう』」


 会話は成り立っていなかった。しかしアンデーレは気にしていないし、セフィの方も同じだった。


 彼女の声に反応したのは、無数の色を宿した『白い魔法陣』だけ。歯車のように互いが互いを支え合って回転し始めた魔法陣は、一回転ごとに違う模様に組み変わっていた。

 その意味を理解し、サウェルは目を見開く。


「秒単位で、魔術式が変化している……!?」


 陽が沈み始めた。

 空が茜色に染まる中、セフィの出す魔法陣と、背後で割れる空間の断面がひときわ輝いて見えた。


「何をしてるのか知らねぇが、今の俺にはどんな魔術だろうが――」


 啖呵を切るアンデーレの言葉が途切れる。

 彼が口を塞いだのは、セフィが新たに描いた光景を見たから。厳密には、彼女が生み出したを見て。


「マジか……」


 彼の余裕の笑みが、初めて引きつった。


「『さあ、往きなさい。道は開かれた』」


 無数の閃光が、夕焼けを塗りつぶした。


「――!!」


 炎が空を焼き、雷が地を穿つ。

 大地が波打ち、烈風が吹き荒れた。

 大自然をひっくり返したかのような『災害』がアンデーレを丸呑みする。それはまさしく、天変地異だった。


「何が白魔術師だ……これのどこが魔術だってんだよ!!」


 際限なく放たれる光弾はアンデーレを守る魔力を貫通し、肉を削り取る。

 彼が逃げた先にある空間が捻じ曲がり、一歩踏み出していた彼の脚が絞られた。


 それでもアンデーレは、無事な片脚だけで地面を蹴り、降り注ぐ魔術の雨を突っ切ってセフィへ迫る。

 しかし突き出された朱色の剣は、見えない壁に阻まれる。そのまま膨張した空間に押し戻され、彼は泥だらけになりながら地面を転がった。


「何なんだ……何なんだよテメェは!?」


 彼が纏っていた深紅の霧は薄まっている。魔力をねじれた片脚に詰め込む事で、何とか立っている状態なのだから無理もない。

 肩で息をする彼はふと上を見上げ――言葉を失った。


 離れた所からこの蹂躙を見ていたサウェルもまた、空を埋め尽くす煌めきを見て息を呑む。


 剣だった。

 炎、氷、雷、岩、鉄……様々な材質の大きな剣が、数え切れないほど空に浮かんでいたのだ。おそらく、千は軽く超えるだろう。


「待て、セフィ! やめろ!!」


 叫んだのはサウェルだ。

 あるはずの温もりを宿していない白髪の少女へ向かって、よろめきながら近づく。自分が血を吐いていた事すら忘れたように、喉を枯らして叫んだ。


「君は人を殺しちゃダメだ!!」



   *   *   *



 頭が割れるように痛い。

 まるで髪の毛が全て杭に代わって頭を刺し、脳をいばらが締め付けているかのようだった。


「痛い……痛いよ……」


 暗闇だけが広がる世界で、セフィはぽつりとつぶやく。

 彼女の目の前に、大きな扉があった。扉にもいばらが巻き付いていた。


 扉を見ていると、自然と痛みが遠のいていく感じがした。頭が冴え、自分が何をするべきかが分かってきた。


「このいばらを、斬ればいいの?」


 彼女の手には、いつのまにか剣が握られていた。炎のように揺らめく、白い十字の剣。

 彼女は彼女が思うままに、剣を振り上げる。


 ――セフィ! やめろ!!


 この場にふさわしくない声が反響する。あるべきじゃない声だ。

 なのに彼女は、動きを止めた。


「セフィ……は、私……。私は何を……?」


 彼女の中に、温もりが芽生えた。熱は徐々に大きく溢れ、やがて全てを溶かしていく。

 大きな扉も、巻き付くいばらも、暗闇の世界も。すべて。


 ――君は人を殺しちゃダメだ!!


 心に響く声を抱き、セフィは顔を上げた。

 こんな所に閉じこもっている場合ではない。今は、彼のもとに行かなければ。


『さあ、往きなさい。道は開かれた。前を見据えて、真っ直ぐ歩きなさい』


 最後まで残っていた十字の剣が手を離れる。それはひとりでに回転し、セフィのいばらを斬り裂いた。


『あなたはあなたの為に、踏み出しなさい』


 最後に聞こえた誰かの声は、残響となって溶けた。



   *   *   *



 目を開けて、目の前の惨状を見て。最初は地獄へ来てしまったのかと思った。


「大丈夫か、セフィ!!」


 しかし、肩を揺らす少年の顔を見て、それは違うと分かった。

 地面が抉れ、草木が焼けただれていても、彼がいるならここは現実だ。小さい無数の『何かの破片』が降り注ぐ中、セフィは口を開いた。


「サ、ウェル……生きてるの?」

「おかげさまでな。今は自分の心配をしろ」

「わた、し……は」


 声が上手く出て来ない。何度か咳き込みながら、自分を見下ろす。外傷はなさそうだが、体に力が入らない。魔術を使うことはおろか、ろくに立てもしないだろう。今もサウェルが両肩を支えているおかげで、何とか倒れずに座っている状態だ。


「私は、なにを……」


 荒れに荒れた周囲を見て、一人倒れる青年を見て、彷徨う視線は自分の両手に落ちた。


「私が……私が、やったんだ」

「覚えてるのか? あの時は、まるで君が君じゃなくなってるみたいだったよ」

「……覚えてる。自分がやった感覚は無いけど、記憶が残ってるの……」


 自分は覚えていないのに、脳内にはその光景がきちんと残っているから、セフィの記憶としては確かに存在する。

 まるで他人の出来事を自分の事のようにすり込まれたような、奇妙な感覚だった。


「サウェルの言う通りだよ……私が私じゃなくなってた。なのにこの力は確かに私のもので、それを振るって、こんな、ひどい事をしたのも……」


 杖を取り落とした手は震えている。よく見ると、杖の先端で輝いていた青い宝石は大きなヒビが走っていた。溢れる力に耐えきれなかったかのように。

 自分の意思とは関係なく、自分が大破壊を引き起こした事が、たまらなく怖かった。


「酷い事じゃないさ」


 そんな時、いつも彼は声をかけてくれる。

「大丈夫」と言って、震えを止めるように手を握ってくれた。


「俺も乗客も、セフィのおかげで無事なんだ。みんなを救ったんだよ。まあ、今はみんな逃げたけど」

「無事……じゃないよ。サウェル、ひどい怪我だよ」

「セフィが動いてくれなかったら、あの時俺は死んでた。だからこうして生きてるだけでも、救われたんだよ」


 優しく目を細めて、サウェルは笑った。

 相変わらず彼の手は冷たかったが、そこには確かな温もりがあった。

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