田中さんがしたかった事

混彩カオス

田中さんがしたかった事

 何も言わなければ良かった。そうすれば、田中さんは死なずにすんだのかもしれないのに。

 私は四日前、図書室にいた田中さんの事が心配になり、つい口出ししてしまった。

 そしてその翌日、田中さんは、五階にある空き教室の窓から飛び降りた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。私がやった事は余計なお世話だったのかもしれない。

「有村さん」

 突然、後ろから声を掛けられたので、少しだけ悴んだ手で顔を拭ってから振り返った。私がいる3-Cの教室の入り口から遠慮がちに顔を出している福島くんは、少し白い息を吐きながら、静かに微笑んだ。

 福島くんはC組ではない。3-A、そう田中さんと同じクラスだ。

「委員会が始まるよ。図書室へ行こう」

「あ、う、うん、そうだね。今行く」

 私は拭いたばかりの涙が再び湧き上がるのを誤魔化すように、やや下を向いて、福島くんの元へ向かった。

 未だ頭の中では後悔でいっぱいだった。

 首を突っ込まなければ良かった。

 私は、ただあの子と、友達になりたかっただけなのだから。


 提出物を抱えて職員室に向かう途中、女子生徒三人で楽しそうに談笑している田中さんが前方から歩いているのが見えた。

 田中さんは3-A、つまり文京北高校の中でも成績優秀者が集まるクラスに三年連続所属し続け、その中でも学年トップの成績を収め続けたエリートだ。

 私はそんな田中さんの事が好きではなかった。嫌いとまではいかないけれど、仲良くしたいとは思わない。だから、顔も知らない赤の他人の様にすれ違う。

「あっ」

 ……はずだった。すれ違う直前、田中さんはこちらに気付き、笑顔で手を振ってきた。仕方なく、私も違和感が出ないように手を振った。話すことがある訳じゃないので、お互い何事もなかったかのように前を向いた。

「あれ? 知り合い?」

「うん、有村沙也加さん。この間、一緒に課外活動したんだ」

「へぇ、そうなんだ」

 開けっ放しの窓から穏やかな風と共に、色褪せた枯れ葉が廊下に入り込んできた。薄手のセーターに張り付いたそれを払い落としながら、三日前の土曜日に行われた課外活動の事を思い出した。その際、同じチームとして街の清掃を行ったのが、田中さんとのファーストコンタクトだった。その際の田中さんの振る舞いを先生だけでなく、一緒に参加していた市内の団体らしいおばさんも褒めていた。

 いつでも隙も感じさせない笑顔を浮かべる彼女は、どうも近寄りがたい。

 それにしても、フルネームまで覚えられていたのか。私は田中さんの下の名前を知らないのに。

 じんわりと芽生えた劣等感を苛立ちに変え、田中さんの姿が見えなくなってから、感情に任せて職員室まで走った。


 田中さんの印象は高校最後の期末テストの二週間前、大きく変わった。

 勉強よりも図書委員の仕事の方が大事だった私は、図書室のドアを静かに開くと、中に入ろうと踏み出した足を、思わず後ろに戻した。

 中に田中さんがいたからだ。

 とはいえ、入らない訳にもいかないので、少し深呼吸してから中に入った。

 田中さんは自習用に設置された机にノートと教科書を広げ、その上に突っ伏して寝ていた。優等生である田中さんが、こんな寝方をするイメージはなかったので、意外だった。

 田中さん以外に人影はなかった。図書室の先生すらいない静寂で満ちた空間に、彼女の小さな寝息だけが響いていた。

 田中さんが初めて見せた隙に対し、少し沸き立つ好奇心。誰も見ていない今なら、ほんの少しだけ。

 私は田中さんにそっと近付き、彼女の頭から少しはみ出したノートを覗き込んだ。

『大丈夫。毎日が苦しくても、明日はきっと笑えるよ』

 ……え?

 彼女のノートの端っこには、開かれていた英語の教科書とは関係のない詩が記されていた。しかも、詩は一つではなかった。

『未来は誰かが望んだモノ。この世界に自由はない。それでも前に進まなきゃ。夜空の星のように輝きたいから』

 さらにはノートの下からはみ出しているメモにも詩が書いてあった。高尚で近寄りがたかった彼女のイメージが崩れていく。思わずメモへと手を伸ばした瞬間、

「ねぇ」

 田中さんが起き上がった。私は彼女から慌てて距離を取った。最悪だ。

 田中さんはぼんやりとした様子で私の方を見つめていた。後ろめたさから、おろおろと言い訳を探していると、彼女はくすっと笑い、

「もしかして、詩、読んだの?」

 と、そうストレートに聞いてきた。

「あ、う、うん。ごめん」

「謝らなくていいよ」

 未だ動揺している私に、優しく微笑む田中さん。重たい空気に耐え切れず、勇気を出して口を開いてみた。

「詩が書けるって凄いね、昔から書いてるの?」

 そう言うと田中さんは頷いてスマートフォンを取り出すと、「ネットとかにもちょっと上げてるんだ」と彼女のツイーターのアカウントを見せてくれた。そこには星空や月、誰もいない学校の教室等の写真の上に、彼女が書いたであろう詩が表示されていた。

「えっ凄い!」

 率直に言うと、田中さんは照れくさそうに

「本当はそんな事してる場合じゃないんだけどね」

 と笑った。

「テストまでも受験までも日がないし、もっと勉強頑張らなきゃ」

 そう言った彼女の声色に、やや焦りを感じた。まるで、大学受験の成功が義務付けられているかのように。

 再び田中さんのツイーターに目を落とした。詩はいくつも投稿されており、何回画面をスクロールしてもなかなか底へ辿り着かなかった。本当は勉強よりも詩を書く方が好きなのだろうか。

「やりたい事、やってもいいんじゃない?」

 私は思わずそう言った。

「私も親に大学行けって言われてた。だけどファッション関係の仕事がしたくて、専門学校に行くことにしたの」

 自分の意思に反して頑張りすぎているように見えた田中さんの事が、昔の自分と重なった。

 田中さんは目から鱗といった表情で私の事を見ていたが、やがて「そうだね」と微笑んだ。

 彼女はゆっくりと席を立つと、荷物をまとめ、

「有村さん、ありがとう。私、やりたい事をやってみるよ」

 と言い、そのまま図書室から出て行ってしまった。

 これで良かったのだろうか。私は彼女の事を、何も知らないのに。

 そうだ。田中さんのアカウントを見れば、彼女の事が分かるだろうか。

 そう思ってツイーターで先程見た詩が投稿されているアカウントを見つけ、画面をスクロールした瞬間、私は図書室を飛び出さずにはいられなかった。


 田中さんがいない。

 学校中探し回ったが見つからない。図書室を出た後、どこにいったのだろう? 今は放課後だから、もう帰ってしまったのだろうか。

 いや、むしろ帰ったのならいい。

 私は激しく脈打つ胸の鼓動を抑える事ができず、再びスマートフォンで田中さんのアカウントの画面をスクロールした。

『文京北高にしか行けなかった時点でトップ大学なんか無理だよ』

『みんな期待しないで、もういやだ』

『早く死にたい』

 ようやく見えた田中さんの本音は、最悪の想定を過ぎらせた。彼女は優等生を演じる裏で、追い詰められていたのだ。

 まさか本当に死んだりしないよね? この文章が書き込まれたのは図書室で会った時よりも前だもん。大丈夫だよね?

 そう言い聞かせても、私はスクロールする指を止められなかった。なんでさっきから、こんなに田中さんの事が気になるんだろう。別に仲良い訳じゃないのに。

 ほんの少し気になっただけ。でもそれだけじゃ片付けきれない。田中さんの事をもっと知りたい。話したい。苦しんでいるなら、助けたい。

 その時、画面上部に「新規投稿」というポップが表示された。慌ててタッチすると、新たな書き込みが表示された。

『太陽が羨ましいけれど、私も自由を手に入れるんだ』

 どういう意味だろう? これも詩?

 少なくとも文章には暗い気持ちが入っていないように感じた。私の杞憂だったのかもしれない。書き込みを見た瞬間に飛び出すなんて早計だったな。急に恥ずかしくなったので、大人しく図書室へ戻る事にした。


 そしてその翌朝、田中さんは自殺した。


 田中さんが自殺してから三日間、学校は臨時休校になった。葬儀には彼女と親しい友人以外、呼ばれなかった。当然、前日に少し話しただけの私が呼ばれることはなかった。

 学校が再開しても、以前より田中さんとの交流が深かった生徒や、A組の生徒以外は、学校生活に大きな変化がなかった。なんだか田中さんの死が軽視されているようで腹立たしかった。

 でも、それ以上に腹立たしいのは図書室での自分の発言だ。

 私はきっと、最初から田中さんと友達になりたかったのだ。

 だから図書室で近付いた。首を突っ込んだ。彼女の為を思って、本心から心配していた訳じゃなかったのだ。

 自覚した途端、我慢していた涙が零れた落ちた。福島くんにバレないよう、急いで図書室の扉を開くと、以前田中さんが座っていた席に、一冊の本が置いてあるのが見えた。

 ……田中さんが置いたの?

 あり得ない事だと思いつつ、私はその本を開くと、パサッとメモが机の上に落ちた。それを見た刹那、息を呑む。

『眩しい太陽に導かれ、私も自分の道を進むと決めた』

 それは、間違いなく田中さんが書いた詩だった。

 呆然とその詩を眺め続けていると、

「僕、田中さんの死体を見たんだ」

 と、福島くんが後ろから声を掛けた。

「凄く、幸せそうな顔してた」

 そう続けた彼の言葉にはっとして、再びメモに視線を戻した。田中さんの詩には続きがあった。

『死は自由。それ以外に救済はない。初めて私も救われていいんだって思えたの。ありがとう。やっと、私は自由になれるんだ!』

 私はもう涙を隠せなくなってしまった。

 彼女を死なせてしまった事実は、未だ後悔として残っている。

 メモをそっと拾い上げながら、窓から空を見上げた。

 彼女は、救われたのだろうか。

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