Fish eye
平山芙蓉
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暗い部屋の中で、僕の呼吸だけが響いていた。荒い呼吸。それに呼応するように、汗が噴き出す。目の前に広がる天井には、窓から差し込む月明かりと、木々のシルエット。枕元に腕を伸ばし、手探りで時計を掴む。時刻は二十一時。なんだ、まだ思ったよりも早いじゃないか。自分の眠りの浅さに苛立ちながら、時計を投げ棄てた。外は静かだ。酔っ払いの声も、車の走る音も聞こえてこない。
目覚めた精神が、ハイウェイを走る車のように、どんどんと加速していく。
酸素が足りない。
水分が足りない。
意識が足りない。
そうやって欲するくせに、身体は重たいだけで、ベッドから起き上がることさえままならなかった。
仰向けになって、再び天井を見遣る。シルエットが揺れる様を眺めていると、息が落ち着いてきた。ゆっくりと、慎重に、壊れ物を扱うように、その呼吸を続ける。寝る前に吸った煙草の残り香は、まだしつこく室内に残っていた。その匂は、ちりちりと燃えるような痛みを、鼻腔に運んでくる。少し量を控えるべきかもしれない。
どうしてこんなに寝覚めが悪いのか……。
思い出す……。
そう。
僕は夢を見ていた。
どうしようもなく、救いのない夢を。
夢の中で、僕は大きな水槽を見張っていた。コンクリート打ちっ放しの、殺風景な部屋の真ん中に置かれた水槽を。そこには、僕の身体の二倍はある黒い魚が泳いでいた。充分な広さはあったのに、そいつの泳ぎ方はとても窮屈そうだった。
僕はある人に言われて、その水槽を見張っていたのだ。何でも、そいつは誰かが常に見ていないと、水槽に体当たりをして、逃げ出そうとするらしい。大きさに違わず、凶暴というわけだ。
「何故、逃げようとしているなんて、思うんですか?」
僕は依頼主にそんな、質問をした。とてもじゃないけれど、魚にそんな知恵があるなんて、考えられなかったからだ。単純に、飼い主が餌を遣り忘れたとかで、怒って暴れた結果ではないのだろうか。そんな疑問を抱いた。
ただ、その人はとにかく見ていてほしい、としか頼んでこなかった。ちゃんと理由を言っていたかもしれないけれど、あまり憶えていない。多分、そこまで重要なことではなかったのだろう。
だから、僕は文句も言わずに、水槽の様子を見守っていた。
その魚の身体は、とても奇妙だった。数学者が導き出したみたいな正三角形の鱗が並んだ体表。それとは対照的に、ボロボロのビニール傘を彷彿させる背鰭。そして、頭部の半分以上を占める、ラグビーボール型の瘤。どこを取ってもアンバランスな見た目で、醜いという印象を抱かずにはいられなかった。
でも、何よりも奇妙で、それでいて狂気的だと感じたのは、
目が人間のそれと全く同じ形をしていたということ。
魚特有の、丸く感情のないものとは、ハッキリ違っていた。
眼球を守る瞼があり、水に揺蕩う睫毛があり、きちんと動きの分かる瞳孔が備わっていて、水の中で辺りを、そして僕さえも見つめてきた。
脳裏にこびり付いた奇妙な瞳が、僕を睨んでくる。
嫌な気分だ。
あんなものをこの世の生物と重ねようとすること自体、生命に対する冒涜であるとさえ思えてしまう。
少しでも忘れたくて、怠さの残る身体を無理矢理に起こし、ベッドから抜け出した。
覚束ない足取りで冷蔵庫の方を目指しながら、汗まみれのシャツを脱ぎ捨てる。扉を開けると、青白い光が暗闇の中に漏れた。そこから水を一本取り出し、扉を閉めるのも忘れて、勢い良く胃の底へと流し込む。口に収まらずに溢れた水は、顎から喉へ、喉から胸へと筋を作りながら、足元まで伝う。握ったペットボトルは、どんどんと軽くなっていく。
そうして、一分もかからずに、僕は水を飲み干した。自分の評価以上に、渇きを覚えていたらしい。止まっていた呼吸が再開して、肩が大きく動く。でも、寝起きの時みたいに、苦しい呼吸ではない。
生命を感じる、力強い呼吸。
酸素が弾ける。
水分が染みる。
意識が蘇る。
冷たい温度は、不足していたモノを充足させてくれる。生きているという実感を。ここが現実だという感覚を。そしてそこは、均等に敷き詰められた時間と、アナログチックに揺れ動く感情に縛られた、生きにくい監獄だということを。
振り向くと、冷蔵庫から漏れる光を浴びた自分の長い影が、壁に伸びていた。視線を、自分の身体へと移す。汗と水でしっとり湿った、僕の肌。瘦せぎすで、陰影のできた肋骨。しかしながら、一息に飲み干した水のせいで、膨らんだお腹。
自分の身体を見ていると、せっかく消えたあの夢の映像が、脳裏を過った。
魚は最後にどうなってしまったのだろうか。
監視者のいない隙に、水槽から脱出できたのだろうか。
あるいは、飼い主が戻ってきて、諦めざるを得なかったのだろうか。
もうすっかり分からない。肝心なその部分だけが、記憶から欠落している。今からもう一度眠れば、続きを見られるのかもしれないけれど、生憎と目は冴えてしまった。つまり、もう二度とあの魚の結末は知り得ないということ。残念な気もするけれど、ある意味ではラッキィかもしれない。
これから、どうしようか。
そんなことを考えながら、冷蔵庫の扉を閉めると、再び夜闇が満ちた。
ワンルームの室内には、音とカウントできないほど、小さな雑音で埋まっている。
水槽もなければ、あの怪魚だっていない。
いるのはただ、一匹の人間。
窮屈であっても、誰かの視線に見張られていたとしても、
それで良いと思えてしまう、愚かな人間。
息を吸う。
染み付いた煙草の香と、自分のモノとは信じがたい汗の臭いが、鼻を衝く。
月明かりに乗せられた、木々のシルエットは、
暗闇に溶けた僕を探すように、揺れている。
そっと。
逃げ出していないか、と。
問いかけてくる。
馬鹿馬鹿しい緊張が、身体を奔る。
不意に、背後で空のペットボトルが、床に落ちる音が響いた。
空虚な音。
ああ、そうだ。
「あの魚は――」
Fish eye 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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