犬系彼氏はかまってほしい

小峰史乃

犬系彼氏はかまってほしい

犬系彼氏はかまってほしい


             * 1 *


「離して!」

 夜の歌舞伎町に響いたワタシの声に、一斉に人の視線が集まるのを感じた。

「大きな声出すなよ、愛佳(あいか)。別にいいだろ? 俺とお前の仲なんだし」

「何が俺とお前の仲よ! ワタシたち、とっくに別れてるでしょ! 治昭(はるあき)!!」

 どこで染めてるのか髪を金色に染めてる治昭だけど、生え際はすっかり黒いのが見えてしまってる。

 Tシャツにダメージジーンズを穿いてる彼は、身長はけっこうあるけど胸板はそんなに厚くない。顔は割と良い感じだけど、なんとなく彼の身体からは以前はあった清潔感がなくなってる気がしていた。

「一方的に言われても納得できるわけないだろ?」

「話し合う余地あった? 理由はちゃんと話したでしょ!」

「だからさぁ、話し合いが足りないって言ってんだよ。ほら、注目されちまってるぜ? 落ち着いたとこで話せばわかり合えるって」

 治昭に言われて周りを見てみると、これだけ騒いでるから注目されてるのはわかってたけど、足を止めてワタシたちのことをじっと見てくる野次馬まで何人か出てきていた。

「うっ……。話し合うって言っても、あれ以上は……」

「その辺もさぁ、話せばわかってもらえるって。ほらっ」

「いやっ、だから離してっ」

 捕まれた手首を振って逃げようとするけど、筋肉質じゃなくても男の力は女のワタシじゃ敵わない。

 わざわざ立ち止まってる人たちにぶつかるように歩き始めた治昭に、ワタシは連れて行かれるしかなかった。

 でも――。

「手を離せ」

 小さいのに、鋭く突き刺さるような声。

 同時に手が伸びてきて、治昭の手首をつかむ。

 治昭の前に立ち塞がったのは、ワタシと変わらない身長の治昭よりも、頭半分くらい背の高い男性。

 薄いブラウンの髪をしたその男性は、治昭のことを睨みつける。

 怒りを湛えたブラウンの瞳と、日本人離れした彫りの深い顔立ちは、どこか海外の人かも知れなかった。

「なんなんだよっ。てめぇには関係ないだろ!」

「彼女が困っている」

 静かなのに圧力のある彼の声に治昭は少しひるむけど、ワタシの手を離すことはなかった。

「いいからさっさと……」

 ワタシの手首をつかんでない右手で男性の手を払いのけようと伸ばす。

「うっ――」

 うめき声を上げたのは、治昭。

 男性の手をつかんだ治昭の手が硬直してる。

 それと同時に、ワタシの手首が解放された。

「やっ、やめっ……」

 顔を歪めて治昭が訴えかける。

 手を離したところから動かせないでいるらしい治昭の手が震えてる。たぶん、男性がかなりの力を込めてる。

「やめろっ!」

 がむしゃらに両腕を振り払った治昭が男性から距離を取る。

 それと同時に、男性はワタシと治昭の間に立ち塞がった。

 ――あっ……、背中広っ。

 趣味のいいポロシャツとチノパンを着こなす男性は治昭ほど細くはないけど、筋肉質というわけでもなかった。

 でもワタシを守るように立つ彼の背中は、思ったよりも広くて視界が一杯になる。

「くそ! てめぇ、ただじゃおかねぇぞ!!」

 男性に捕まれた手首をさすりながら凄んでくる治昭。

「二度と、彼女に近づくな」

 でもそう言いながら一歩前に出た男性に、後じさりするだけだった。

 そんな治昭の様子を見ているのは、まだ散っていない野次馬の人たち。人々の間からは小さく非難の声も聞こえてくる。

「ちっ、覚えてやがれっ!!」

 そう言い残した治昭は、恥ずかしかったのか早足にどこかに行ってしまった。



「ありがとうございました!」

 人通りの邪魔にならないよう通りの端まで寄ってから、治昭から助けてくれた男性に深く頭を下げる。

 さっき治昭に向けていた鋭く、凜々しかった顔にいま浮かべているのは、柔らかい笑み。

 ――あっ……、けっこう、いやかなりのイケメンッ。

 いきなりの登場で治昭とゴタついてたから、ちゃんと彼の顔を見たのはこれが最初だったけれど、思っていたよりもかなり整った顔立ちをしていた。

 たぶん海外の人だと思うけど、どこか日本人の面影もあって、もしかしたらハーフかクォーターの人かも知れなかった。

 ――これは逃す手はないよね。あ、でも……。

 歌舞伎町は人通りも少なくなるくらい遅い時間だ。

 今日は仕事が立て込んでて、残業でこんな時間になってしまった。ワタシが務めてるのは決して大きくない不動産屋だから、今日みたいのは珍しい。

 こんな時間から彼を誘ってどこか行くとしたら、終電を逃してしまう。明日は土曜だからそれはいいんだけど、夏の終わりとは言え外も出ていた今日は匂いが気になる。

 ――だったら。

 ワタシの前でニコニコと笑みを浮かべている彼に声をかけてみる。

「あの、今度何かお礼をしたいので、連絡先、教えてもらえませんか?」

「連絡、先? ……あー、お礼、か」

 一度小首を傾げて見せてから、納得したように頷いた彼は、さっきよりも嬉しそうな笑みを浮かべた。

「お礼はいつももらっているからいらないよ」

「いつも?」

「うん。君からいつももらってるよ。それに、君には返すことができないほどの……、恩? があるから、お礼なんて受け取れないよ」

「いつも、もらってる?」

「でも、そうだな……。頭撫でて?」

「頭を、撫でる?」

「うんっ」

 ワタシの問いに応えて屈託のない笑みを浮かべる彼。

 ――どういうこと?

 この人とは初対面のはずだ。

 こんなイケメンに出会ったことあったら、忘れることなんてない。

 なのにワタシはこの人のことを知らない。

 それでも彼はワタシから、何かをもらっていると言う。

 その上、頭を撫でてほしいって、どういうこと。

 ――この人、危ない人だ!

 一歩後じさったワタシは、彼に笑みを向ける。

 唇の端が引きつるのは止められなかったけど。

「そっ、そうですか。それじゃあワタシはこれで。助けてくれてありがとうございましたっ」

 お礼だけは忘れずに言って、ワタシはくるりときびすを返した。

 そのまま駅に早足で向かう。

 ――あれってやっぱり危ない人? イケメンだったらオッケイ? でもストーカーだったら? マズい、マズいっ。

 そんなことが頭の中をぐるぐる回ってるワタシは、足を早めてずいぶん減った人混みを縫い、そう遠くない駅まで歩いていた。

 ふと、首だけ後ろを向けて見ると、ゆっくりとした足取りなのにワタシと変わらない速度で彼が着いてきていた。

 ――怖い怖い怖い怖いっ。

 もう半ば走るくらいの速度になって、改札の前まで着いたワタシは慌てて落としそうになりながら通勤に使ってる鞄からパスケースを取り出して足を止めることなくそこを通過した。

 警告音。

 後ろから聞こえてきた改札の警告音に振り返ってみると、着いてきていた彼が改札のところで止められていた。

 戸惑ってる様子の彼は、どうやらICカードの類いは持っていないらしい。

 困り顔をワタシに向けてくる彼に貼りつけたような笑みのまま深く礼をして、すぐそこの階段を上がっていく。

 たぶん彼の視線から見えなくなったと思われる位置まで来たところで、ワタシは階段を駆け上がった。そしてもうすぐ発車するとアナウンスが流れている電車に飛び乗る。

「よかった……」

 凄い速度で脈打ってる心臓を押さえるために、ちょうど閉まったドアに手を突いて深く息を吐く。

 イケメンと知り合いになれるのは悪いことじゃないとは思うけども、こっちはあっちのことを何も知らないのに、一方的にあちらから知られてるのは怖すぎる。

 せめて相手がどんな人なのか知らない限りは、お茶するくらいならともかくお近づきになりたいとは思えない。

「でもあんなイケメン、一度でも会ったことあったら忘れるはずないんだけどなぁ」

 仕事関係で物件紹介のときに会ってたならわかるけど、それでちゃんと顔を合わせてるなら忘れるはずなんてない。大学時代からだからもうそれなりになる家の近くでも、近所づきあいはほとんどないとは言え、あんな人は見たことがない。

 彼の口ぶりからすると何度も会ってるみたいだったけど、ワタシにはまったく覚えがなかった。

 悶々とする想いを抱いたまま、そろそろ職場の近くに引っ越してもいいかなと思える時間電車に乗って最寄り駅で降りた。

 あのタイミングなら彼が同じ電車に乗れてることなんてないと思うけど、念のため警戒しながら駅から出て、終点駅だけど終電まで余裕のある電車だったから降りてきた少ない人にも注意を払いつつ、家に向かった。

 学生時代は余裕なかったから、オートロックどころかセキュリティなんて皆無な古いアパートが見えてきた。

「ほっ」

 家まで来たことに安堵の息を漏らしつつ鞄の中のキーホルダーを探しながら、閉じられたところを見たことがない道と敷地を区切る門の近くまできたとき、気づいた。

 ――人がいる!

 まだ少し距離があるからはっきりと顔は見えない。

 けれどワタシより頭ひとつ分くらい高い背と、門の前にある薄暗い街灯に照らされた薄ブラウンの髪は、確かに歌舞伎町でワタシを助けてくれた彼だった。



             * 2 *



 ――まだ、気づかれてない!

 距離があって彼はまだワタシに気づいてないみたいで、門の脇に背を預けてうつむいてる。

 だからワタシはアパートの敷地に沿って角を曲がり、裏へと回った。そこには駐輪場から入れる裏口がある。

 早く部屋に入りたくて気が気じゃないのを抑えて、足音をできるだけ出ないよう気をつけながら表側にしかない階段を上がり、一番隅の部屋へと向かう。

 部屋の前で鞄からカギを取り出し、鍵穴に差し込んで回した。

 ――よしっ。

 これでもう大丈夫と思って部屋に入ってカギを閉め前を向いた瞬間、絶望した。

「なんで……」

 ここで飼ってる愛犬のルプスじゃあるまいし、すり抜けて入ってきたとでもいうのか、部屋の中には彼の背中が見えていた。

 ――マズい、襲われる……。

 たとえイケメンであっても、無理矢理襲われるなんて願い下げだ。

 何よりワタシは男運が悪いらしい。

 この彼だって治昭やその前に付き合った男たちと同じように心を許した瞬間、クズな面を見せてこないとも限らない。

 ワタシのつぶやきが聞こえたんだろう彼は、チラリとこちらに目を向けた後、狭い廊下進んで部屋の奥へと向かっていった。

 どうするのかと見ていると、彼はおもむろに部屋の電気を点けて、ビーズソファに身体を丸めるようにして収まった。

「……なにあれ」

 思わず漏れ出る声。

 そのソファは仕事を始めてからあまりの疲労に部屋でくつろぐために買ったものだったけど、愛犬ルプスに奪われてワタシはほとんど使ったことがない。

「何してんの?」

 気が抜けたワタシは、あぁでもないこぉでもないと体勢を変えてる彼に、近づいていってそう声をかける。

「何って、ここが僕が僕の場所だから」

 いい位置を見つけたのか、まるでルプスのように落ち着いた表情でビーズクッションに身体を埋める彼。

「そこはうちの犬が座ってるソファで……」

 そこまで言ってワタシは気がつく。

 ――ルプスは?

 いつもならカギを開けたら尻尾振って飛び出してくるはずの愛犬の姿がない。

 ベランダを見て、クローゼットを開けて、洗面所も風呂場も見てみたけど、ルプスの姿は見つからなかった。

「ルプス? ルプス! どこ?!」

 ルプスさえいてくれれば、このわけのわかんない男だって追い出してくれると思うのに、呼びかけても出てきてくれることはなかった。

「そんなに何度も呼ばなくても、僕ならここにいるじゃないか」

 言って立ち上がったのは、謎の男性。

 何言ってるのかわけわかんなくて、一歩下がりながら彼のことを見上げることしかできない。

 ――あれ?

 明るいとこで見てみると、彼の服に見覚えがあるような気がした。

 それよりも、暗いとこでは気づかなかったが、その首にはチョーカーというか、首輪が填まってる。

 それも、見覚えのある奴。

 ――ルプスの首輪?

 そんなことはないはずなのに、彼が首に填めているのはワタシがルプスに着けてあげた首輪と同じデザインだった。

「そんなことよりお腹空いたんだけど」

「いや、そんなこと言われても」

 とりあえずワタシに襲いかかったりする気がないらしい彼の場違いな言葉に、さっきまでの恐怖も忘れてワタシはあきれてしまう。

「あっ、この身体になったんだし自分で取ればいいのか」

 ぽんと手を叩いて勝手に納得した彼は、玄関に向かって靴入れからガサガサと音を立てて何かを取り出した。そこに入ってるのはルプスの用品くらいだ。

 廊下から部屋までの間にあるキッチンで、水切りに置いてあった何かを取ったと思ったら、部屋に戻ってきた。

 床に直接置いたのは、ルプスに使ってる餌入れの器。

 もう片方の手に持っていた計量カップには犬用のカリカリが入っていて、それを餌入れに空けたかと思ったら、指でつまんで食べ始めた。

「え……」

 ルプスが美味しそうに食べるものだから、一度食べてみたことはあるけど、人間が食べるには決して美味しいものじゃない。そもそも人間が食べるものじゃないわけだけど。

 それを彼は、顔色ひとつ変えず食べ続けてる。

 ――本当に、ルプスなんだ。

 そこまできてやっと、ワタシは彼がルプスなんだと認識した。

 どうして人間になったのかとか訊きたいことはたくさんあるけど、言葉が出てこない。

 ただ呆然と、黙々とカリカリを食べている彼を、人間になったルプスを眺めてることしかできない。

「んー。いつも少ないけど、今日はさらに物足りないな……。この身体になったからかな?」

 完食してソファから立ち上がった彼は、器を手にキッチンまで行ってそれを洗って水切りに置く。

 そのまま蛇口に口を近づけて水をごくごく飲んだ後、餌を入れてた計量カップを靴入れにしまって、またソファに戻って丸まった。

「お休み、愛佳。今日は一緒に散歩行けなかったから、明日は一緒に行こうね」

 安心しきったように目を閉じる彼の姿は、人間になってはいるけど、確かにルプスだった。

 何がなんだかわけがわからなくて、寝息を立て始めたルプスに声をかけることもできず、ただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。



               *



「おはよう、愛佳。今日は早いね」

「まぁね」

 目をこすりながらクッションから起き上がったルプスの声に、自分でも刺々しさを感じる声で応えた。

 キッチンにいるワタシに近寄ってきた彼は、蛇口をひねって水を飲もうとするけど、手で制してそれを止めた。

「とりあえず顔を洗ってきて。洗面所でね。あと水はそこで飲まないでね。人間になったんだから、ちゃんとコップで飲みなさい」

「うん……」

「あと、これ見てトイレの使い方覚えなさい。それが人間の常識だから」

「……わかった」

 怒ってるわけじゃないけど強い口調で言ったからか、ちょっとふてくされてるような、ちょっと怖がってるような、犬だったときとまったく変わらない様子で返事をしてくる彼。

 検索で見つけたトイレの使い方の動画を表示したタブレットを手に、洗面所に向かっていくその背中を見送った。

 その後またカリカリを取り出して食べようとしてたのを止めダイニングチェアに彼を座るよう指示したわたしは、彼の前にトーストとソーセージ添えの目玉焼きを置いた。飲み物だけは、ワタシはコーヒーだったけど水にしておいたけど。

「これが人間の食事だから、これを食べるの。わかった?」

「ん……、わかった」

 叱ったときみたいにできるだけ身体を小さく縮めてるルプスは、ワタシがしてるのを見ながら朝食を食べ始める。

 そんな彼の様子は、なんだか可愛らしい。

 いまだに彼が人間になったルプスだなんてのは信じ切れてないし、夢かも知れないと思ってもいるけど、それでもいま目の前でもフォークを使ってソーセージを口に運び目を丸くしながら美味しそうに食べている彼は、確かに二年以上も一緒に過ごしてきたルプスと重なるものがあった。

 ――ルプスを拾ってきてから、もう二年以上も経つんだよね……。

 ルプスは二年と少し前、大学を卒業する前に近くの河原にあった段ボール箱から拾ってきた。

 まだ生まれたばかりだったルプスは、拾ったときもうほとんど死にかけってくらい元気がなくなってて、それでも放っておけなかったワタシは連れ帰って暖めてあげて夜一緒に過ごし、翌日動物病院に連れて行って処置してもらい一命を取り留めることができた。

 雑種だったルプスに飼い主が名乗り出ることはなくて、そのままうちの犬になった。その頃は手の中に収まるほど小さくて小型犬かと思ってたのに、一年ほどでぐんぐん成長して、大型犬ってほどじゃないけれど中型犬にしても大きいくらいのサイズになっていた。

 そんなルプスが、いま目の前で人間になって食事をしている。

 頭では理解していても、感情が着いてこないその状況に、食事を終えて片付けを始めたワタシには、まだ実感が湧かなかった。

「それで、どういうことなの?」

 コーヒーのおかわりと、ルプスの分の水をテーブルの上に置いて、そう訊ねた。

 まずは人間になった理由を聞かないといけない。

 犬が人間になるなんて、普通はあり得ないんだから。

「猫が年取ると猫又になるって伝承があるけど、そういう理由? そういうのは苦手なんだからやめてよね」

 自分で言ってみたけどあんまり信じてない。

 鶴の恩返しならなんとか大丈夫な気はするけど、怖い話が伝わってる猫又みたいのだったらちょっと受け入れられそうになかった。

「んー。どういうことっていうのは、僕が人間になったこと、だよね?」

「うん。普通、犬は人間にならないよね? どうして人間になったの?」

「んー……」

 考え込んでるのか、それとも思い出してるのか、うつむき加減にうなり声を上げるルプス。

「僕は――」

 しばらくして顔を上げ、引き締めた顔で話し始めた。

「僕は最初、身体はなく、思考も、感情もない『なにか』だった。後からそういうことを知ってる奴に聞いた話だと、そういうのはスピリットという名前があるらしい」

「スピリット?」

「うん」

 ルプスが話し始めた内容に、ワタシの背中にゾワゾワとしたものが登ってくるのを感じる。

「何も考えてなかったし、何も感じてなかったはずなのに、僕は消えたいと思ってたような気がするんだ。そんなとき、河原に捨てられた犬を見つけたんだ。その犬は、たぶん死んでた……。でも死んだ直後で、まだ息を吹き返しそうだったから、僕はその身体に取り憑いたんだ」

「死んだ犬に、取り憑いた……」

「それで僕は愛佳に拾われて、あのままだったらもう一度死んで、僕は消えていたはずだと思うんだけど、こうやって元気に生きることができてる。それから二年の間にだんだんと力がついてきて、昨日は愛佳が苦しんでるのを感じて、溜まってた力で人間になることができたから、愛佳の元に駆けつけたんだ」

 思えばルプスが昨日から着ている服は、半年くらい前に付き合ってた彼氏が、無理矢理うちに住み着こうとして置いてったものだった。

 その元彼氏は、仕事もせずにニートのヒモになろうとして、ルプスに追い出されたんだったけど。

 元彼を追い出したときと同じ、目に強い光を宿して昨日のことを語るルプスは、確かに犬だったときのルプスと同じだというのは理解できた。

 ――でも。

「つまりルプスは、ワタシが拾ったときからただの犬じゃなくて、ゾンビとかそういうのだったってこと?」

「ゾンビっていうのとは違うな。ゾンビは死んだままだよね? 僕は取り憑いたことで犬として生き返ってるから、えぇっと……、妖怪とかそういうのになるのかな?」

 思わず椅子から立ち上がっていた。

「ルプスは妖怪だったの? いやそりゃ、犬から人間になったんだから、そうなんだろうけど……」

 納得できるけど、納得できない。

 初めから妖怪を育てていたんだというのが怖すぎる。

 ワタシは、オカルトは苦手だ。

 ホラー映画なんてもってのほかだし、テレビでちょっと心霊とかの怖い話をしてる番組が始まったらすぐにチャンネル変えちゃうほど。お化け屋敷も当然ダメで、修学旅行のときに恋バナの代わりに怪談話が始まったときはトイレに逃げ込んだくらい嫌いだった。

 そしていまは、ルプスと言う犬妖怪が目の前にいる。

「だから昨日言った毎日いろんなものをもらってて、返しきれない恩があるっていうのは――」

「出てって」

「え?」

 嬉しそうな表情で話してるルプスに向かって、ワタシはそう言い放った。

「二年一緒に過ごしてたならわかるでしょ? 幽霊とかお化けとか本当にダメだって!」

「うん……、知ってる」

「だったら出てって! ルプスが妖怪だって知っちゃったら、一緒にいるのは無理!!」

 怒られたときよりもさらにショックが大きそうな、悲しげになるルプス。

 そんな彼に何か言ってやりたくもなるけど、でも彼が妖怪だと知ったいま、拒絶反応の方が大きかった。

「……わかった。ゴメンね、妖怪で」

 しょぼくれたように顔をうつむかせて、椅子から立ち上がったルプスは一度玄関に行き、靴を持ってきた。

 何をするのかと思ったらベランダに出て靴を履き、柵に足をかけた。

「じゃあね」

 そう声をかけてきたルプスの背中が、一瞬で見えなくなった。

「ルプス!」

 ベランダに駆け寄ってみると、もう見える場所に彼の姿はなかった。

「これで、よかったのかな……」

 二年も家族として一緒に過ごしてきたルプス。

 でも彼が妖怪だったとわかったいま、どうしても恐怖を感じざるを得ない。

「はぁ……」

 深いため息をついて、ワタシはベランダの前に座り込んでしまっていた。



             * 3 *



「うぅー」

 ベッドに寝転がり、何度あげたかわからないうめき声を上げる。

 ――あのときのルプスの背中、寂しそうだったな。

 思い出されてるのは出て行くときのルプスの背中。

 あれはワタシに怒られて、悪いことしたのがわかってるときに見せていた、犬だったときのルプスの背中と同じものだった。

 もうあの男の人と犬のルプスが同一の存在であることは疑ってない。

 だとしても、幽霊とか苦手なワタシは抵抗感を拭うことができなかった。

「でもなぁ……」

 探してみようかと思ったけど、どこに行ったのかも、どこにいそうなのかもわからない。

 今日は一日何かする気も起きなくて、ずっとゴロゴロしてて、昼過ぎに買い物に出てみたけど、ルプスとすれ違うことはなかった。

 自分で追い出したのに探しに行くのも都合のいい話。

 それでも何かしようという気分にはならなくて、せっかくの土曜日なのにほとんどゴロゴロして過ごしてしまった。

 ピンポーン。

 チャイムが鳴ったのは、そろそろ夕食の準備を始めようと思ってたときだった。

「ルプス?!」

 ベッドに寝ていた身体を起こし、急いで玄関に向かう。

 チャイムに続いてノックされてる扉の鍵を解除して、大きく開けた。

 考えてみれば、ルプスがチャイムを鳴らすはずなんてなかった。

 家を出るときもベランダからだったんだし、散歩から帰ってきたときもチャイムを鳴らすことはない。

 チャイムを鳴らしたのは、もちろん別の人物。

「よかった。開けてくれたな、愛佳。俺のこと、待っててくれたんだな」

 立っていたのは治昭。

 彼はワタシが何か言う前に玄関に入り込んできて、大きな足音を立てて奥に向かっていった。

「帰って!」

「なんだよ。扉開けてくれたってことは招き入れてくれたってことだろ? いまさらそんなこと言うなよ」

 止める言葉も聞かずに部屋の中を見回した治昭は、何かを見つけてそちらに寄っていった。

「やめて! なに考えてるの?!」

 彼が見つけたのはワタシの通勤用鞄。

 それに手を突っ込んだ彼は、財布を取り出して中身を物色し始めた。

 治昭と別れたのは、ギャンブル依存症だったから。

 彼とは飲み屋のカウンターでたまたま隣の席になって、話して気が合ったからなんやかんやで付き合うことになったけど、付き合って一ヶ月目で生活が苦しいから食事代を出してほしいと言われた。

 その後はデート代を出すようになったり、給料前で食費がないとお金を貸したりして、最初は少額だったけどだんだんと高くなってきて、偶然何度かパチンコ屋に出入りするところを見かけてから喧嘩になった。一度はやめると約束してくれたけれど、その後も通ってるのがわかって別れる決意を決めた。

 そのときには、貸したお金は十万をかなり超えてたけど。

「ほんとにやめて!!」

 札の枚数を数えてる治昭から財布を奪い取って、後ろ手に隠す。

「別にいいだろ、今更」

「もうお金は貸さないって言ったでしょ!」

「そんな水くさいこと言うなよ。な?」

 言いながらワタシに近づいてくる治昭。

 後退るワタシは、ベッドに躓いてしまった。

「なんか誤解があるみたいだしよ、もう少し仲良くしようぜ」

 ベッドに倒れ込んだワタシに覆い被さってくる治昭。

「やめて! こういうことする時じゃないでしょ!!」

「いいじゃないか。俺たち付き合ってるんだしよ」

「もう別れたんだからイヤに決まってるでしょ! やめてっ、こら!!」

 ワタシの言葉を聞かずに治昭は服を脱がそうとしてくる。できるだけ抵抗するけど、彼の下から逃げることもできない。

 ――助けてっ。

 前にヒモになろうと家に入り込んできた彼氏のことは、ルプスが追い出してくれた。

 でいまは、ルプスはいない。

 ワタシが追い出してしまった。

 ――でも――、でもルプス、助けて!!

 心の中で叫んでも、出て行ってしまった、追い出してしまったルプスに伝わることなんてない。

 それはわかってるのに、ワタシは求めずにはいられない。

「助けて、ルプス!!」

 思わず声に出して助けを求めたとき、風を感じた。

 ギラギラした目をしてワタシの身体をまさぐってる治昭が気づいた様子はない。

 抵抗できずに風が吹き込んできたらしい、カーテンが揺れている窓の方を見てみると、いた。

 ――ルプス!!

 怒りを湛えた瞳を治昭に向け、部屋に入ってきたルプス。

 そのまま治昭の首元をつかんだ彼は、その身体を投げ捨てた。

「ぐがっ!?」

 壁に叩きつけられて悲鳴でもない声を上げる治昭だけど、それほど痛くなかったのかゆっくりと立ち上がる。

「てめぇが、なんでここに……」

 昨日の夜と同じように、ワタシと治昭の間に立ったルプス。

 ――なんでだろう、すごく、安心する……。

 視界いっぱいに広がるルプスの背中に、なぜかワタシは安心を覚えてる。

 彼が妖怪だってことは、もうわかっているのに。

「なんで? ルプス」

「聞こえたんだ、愛佳の声が。どんなに遠くにいても、僕には愛佳の叫び声は聞こえるんだ」

「でもワタシ、ルプスのこと、追い出したのに……」

「関係ない。僕を助けてくれた。僕と一緒にいてくれた。僕が生きていたいと思えるようにしてくれた。だから、たとえ嫌われていても、僕は愛佳がつらいときや、悲しいときには、絶対に駆けつける」

 叫んではいない。

 大きな声でもない。

 それなのに耳にしっかりと伝わってくるルプスの声は、誰の声よりも心地よかった。

「ふざけんじゃねぇ。昨日はギャラリーがいたから手は出さなかったがな、ここじゃあ誰も見てないんだよ!」

 叫びながらルプスに殴りかかってくる治昭。

 思わずワタシは目をつむった。

 治昭は、そんなに筋肉着いてる身体じゃないけど、喧嘩っ早い性格で、キレると殴ったり蹴ったりは当たり前。

 ワタシはそこまでされたことはなかったけど、絡んできたガラの悪い男ふたりを殴り倒したのを見たことがあった。

 でも――。

「痛っ、いててててててっ!!」

 そんな声を上げたのは治昭だった。

 目を開けてみると、振るわれた拳をルプスは受け止めていた。

「離せよ!」

 言って握られた右手を引いた治昭は、もう一度殴りかかろうと拳を振り上げる。

 それよりも先に動いたのはルプス。

 両手を伸ばして治昭の首筋をつかんだ彼は、そのまま両腕を上に向けた。

「おっ、おいっ、こら! やめろっ」

 難なく持ち上げられた治昭の身体。

 天井に頭をぶつけそうなほど高く持ち上げられた治昭は、苦しそうな表情を浮かべながら足をバタバタさせてるけど、ルプスは動じた様子もない。

「ゴミはこのまま、外に捨ててやろうか?」

 静かに、でも圧力のある声で言ったルプスは、治昭の身体を持ち上げたままベランダの方へと足を向けた。

「それは、シャレになんねぇよ。おいこら、やめろ!!」

「やめて! ルプスッ」

 ベランダの外に治昭の身体が出たところで、ワタシはルプスの腕にしがみついた。

 ここは二階とは言え、自由にならないまま外に放り出されたら、受け身も取れずに大怪我するのは確実。

 確かに治昭はもう二度と近づいてほしくない男だけど、大怪我までしてほしいとは思わないし、ルプスにそんなことさせたいとは思えない。

 ワタシの方をチラリと見たルプスは、鼻から息を吐いてから治昭の身体をベランダに投げ出した。

「こいつは……、こいつはいったいなんなんだよ!!」

 恐怖を顔に貼りつかせたまま、治昭は逃げ場のないベランダでお尻をこすりながら端まで後退っていく。

「この人はね、――ワタシの彼氏、だよ」

「彼氏って?! お前は俺と付き合ってるだろ!」

「あなたはワタシのお金にしか興味なかったでしょ? そんな奴と付き合えないし、別れるってちゃんと言ったでしょ!!」

「でもお前――」

 ワタシと治昭の言い争いは、ベランダに一歩踏み出たルプスによって終わりを告げた。

「愛佳はお前を拒絶してる。二度と近づくな」

「てめぇには、関係ないだろ……」

 ルプスに睨まれた治昭は、反論するけどもうさっきまでの威勢はない。

「彼女が困ってるとき、恐怖を感じてるときは、僕はすぐに駆けつける。お前が彼女に次に近づいたときは、僕はお前を許さない」

「ひっ、ひぃ!!」

 もう一歩近づいたルプスに、治昭は我慢できずに悲鳴を上げて、走り出した。

 追いかけてみると靴を履くのも早々に、転がるように玄関から飛び出していった。

 鼻から息を吐いてまだ治昭が逃げていった方向を見つめているルプス。

 そんな彼に近づき、ワタシは犬だったときと同じ警戒の表情を浮かべている彼に笑んだ。



               *



「人間の服って面倒くさいね」

 シャツのボタンを填めるのに苦労しながら、ルプスが文句を言ってる。

「慣れてもらうからね。あなたはもう、人間なんだから」

「うん……」

 しょげたように最後のボタンを留め終えたルプスに、ワタシは微笑んだ。

 治昭を追い出した後、ワタシはルプスと一緒に買い物に行った。

 ヒモになろうとしてた元彼が残していった服は少なくて、サイズは問題なかったけど買い足さないと着替えがなかった。他にも家には食材が残り少なくて、スーパーにも寄ってきた。

「ご飯できたよ」

「ありがとう」

 遅い時間になっちゃったから、簡単につくったキャベツと鶏肉のチャーハンとサラダをふたり分、テーブルの上に並べる。

「これが食事?」

「そうだよ。ルプスは人間になったんだから、人間の食事を食べないとね」

「カリカリ、けっこう好きだったんだけど……」

 席について並べられた食事に戸惑っている様子のルプス。

 食いつきなら缶詰の方が良かったと思うけど、カリカリが好きだったなんてちょっと意外だ。

 でももう彼は人間なんだ、人間の食事を食べるべきなんだと思う。

「――良かったの? 僕」

「なにが?」

「ここに、いても……」

 悪いことをしたときのように、うつむき加減にワタシのことを見上げてくるルプス。大きな身体してるのにワタシの機嫌を伺ってくるその様子は、もう何度も感じてることだけど、犬だったときと変わらない。

「うん。大丈夫、だよ。たぶんね」

「たぶん?」

「いまでも幽霊とか妖怪とかは苦手なの。それは変わらない。けど、うん……、ルプスは大丈夫。ワタシを助けてくれたし、犬だったわけだけど、二年も一緒に暮らしてきたんだからね」

「本当に?」

「本当だよ。それにルプスも言ってくれたでしょ? いつでもワタシのことを助けてくれるって。それは、嬉しかったから」

「そっか、わかったっ。ありがとう、愛佳!」

 にこにことした笑みを浮かべて、スプーンを握ってルプスはチャーハンを食べ始めた。

 ――でも、これからいろいろ大変だろうなぁ。

 犬から人間になったルプスには、戸籍がない。身分証明が必要なとき面倒なことになるのは確実だ。

 それにワタシが見てたテレビなんかである程度の知識は得てるようだけど、買い物行きながら話して見た限り、人間の知識は限定的で、まともに生活できるほどじゃないと思えた。

 ――大変だけど、まぁいいか。

 ワタシも食事を口に運びながら、美味しそうに食べているルプスのことを眺める。

「これが人間の食べ物なんだね。美味しいねっ」

 食べ終えて満足そうにしているルプスは、もし尻尾があったらぶんぶんと振ってそうなくらい嬉しそうだった。

「あのさ、愛佳……」

 食器を洗い終えて片付けが終わったところで、キッチンまでやってきたルプスが気まずそうに話しかけてくる。

「なに? ルプス」

「今日は僕、愛佳のことちゃんと守れた?」

「んー。……人のことは、できるだけ傷つけてほしくない。ワタシを守るためでも、悪い人であっても」

「うん……」

「でも、ルプスはちゃんとワタシのことを守ってくれたよ。嬉しかった」

「うんっ!」

 身体はワタシよりも大きくなったのに、まるでじゃれついてくる犬のようにニコニコと笑っているルプス。

「じゃあさ、じゃあさっ。――頭、撫でて」

「……わかった。ほら」

 前屈みになって頭を差し出してくるルプスの、少し固いブラウンの髪を優しく撫でてやる。

 くすぐったそうだけれど、たぶん嬉しいんだろう身体を小さく震わせてるルプスに、笑みを漏らさずにはいられない。

 ――これから大変だと思うけど、ルプスとならやっていけるかな。

 まだどれくらいかわからない大変なことや不安よりも、いまは彼がワタシと一緒にいてくれることが、充分に幸せに思えていた。


                    犬系彼氏はかまってほしい 了


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犬系彼氏はかまってほしい 小峰史乃 @charamelshop

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