王女殿下の元婚約者に愛を注いだら

花散ここ

王女殿下の元婚約者に愛を注いだら

 わたしの婚約者が決まった。

 そう告げる父の顔が怒りで真っ赤になっている。先程のお茶に添えられていたイチゴジャムの色にそっくりだわ、なんて思った口端が上がるのを我慢できなかった。


「笑い事ではないぞ、ルシエラ。我儘王女の独断でお前の婚約者が決められるなどあってはならん」

「それは確かにそうですわね」


 わたし──ルシエラ・アムレアンと婚約するという事は、このアムレアン辺境伯領を共に治められるだけの優秀な人物でなければならない。辺境伯は一人娘のわたしが継ぐ事が決まっているけれど、夫になる人が何もしないでいいわけじゃない。


 この辺境伯領地は商業の盛んな移民国家に面している。何かと接点の多い移民国家は穏やかな国柄ではあるけれど、民族ごとに言葉が異なるからその言語を習得しなければ話にならない。

 幼い頃からの教育の賜物で、わたしは次期辺境伯としてお墨付きを頂いている。自国であるレンク=ヴィスト王国からも、移民国家からも。そんなわたしの隣に並び立つ伴侶には、それなりの能力が欲しいと思うのは当然の事だろう。もし万が一わたしが倒れでもしたら、この辺境伯地を纏め上げるのはその人になるのだから。


「ええと……システィーナ王女殿下がわたしの婚約者を決めたんですね?」

「ああ。王女殿下の名で王族命令となっているな。覆す事も出来なくはないだろうが……時間がかかる」

「ちなみに、わたしの婚約者になったのはどなたです?」

「ラチェスタ侯爵家の次男、ディオン殿だ」

「あらまぁ……」


 わたしが淑女らしからぬ声を漏らしたのも仕方がない事だろう。

 だって、ディオン様といえば──王女殿下の婚約者だったのだから。


「一体どうして、自らの婚約者を下げ渡すような真似をされるのでしょう。有能なディオン様が王女殿下を支えていくというお話だったのでは?」

「それなんだが、王女殿下はエクレス伯爵家のレイス殿と婚約を結ぶらしい。ディオン殿が邪魔になったという事だろう」


 王家の紋章が刻印された書類を、父がテーブルに放り投げる。そのままソファーの背凭れに深く体を預けて盛大な溜息をついた。


「して、ルシエラよ。王女殿下がこんな暴挙に出る理由、お前には分かっているのではないか?」

「それだけわたしが王女殿下の不興を買ったという事でしょう」

「思い当たる件がありそうだな」

「ええ、いくつか。まぁ最近の事といえば……先日の夜会でわたしが注目を集めてしまったからですわね。王女殿下を差し置いて」


 ほほほ、と笑みを浮かべながらそんな事を口にすれば、げんなりしたように父が眉間に皺を寄せる。その表情のままテーブルに用意されていた紅茶のカップに手を伸ばし、一気に飲み干してしまった。


 父は呆れているけれど、それは事実だったのだからしょうがない。

 わたしは父と同じ金髪で、それ自体は珍しいものではない。ただ……母譲りの紫色の瞳と美貌はどうしたって目立ってしまう。


 話題が我が辺境伯領の事になったのも面白くなかったのだろう。移民国家と取引を始めた美しい絹の話になっただけなのに、あの王女殿下は自分が話題の中心にいないと気が済まないのだ。

 それならば自分を持て囃してくれる人達の中に居ればよいものを、何かとわたしを見下そうと側に寄ってくるのだからどうしようもない。


「まぁそれはさておき。ラチェスタ侯爵家はどう仰っていますの?」

「元々王女殿下の我儘にはうんざりしていたらしい。この婚約破棄を受け入れて、出来る事なら辺境伯領に婿入りさせたいとラチェスタ侯爵より手紙が届いている。ディオン殿も異論はないようだが、お前の意思を最優先にしたいと仰っている」

「あら、それはお優しい事。でもわたし、このお話を受けようと思っていますの」

「正気か? 今までどんな釣り書きをみても心を動かされなかったお前が?」

「ラチェスタ侯爵令息の優秀さは存じておりますもの。とりあえず一度お話してみたいですわ」

「お前がそう言うなら」


 あとは父に任せておけばよいだろう。

 そう思ってわたしは父の執務室を後にした。扉を閉める間際に王女殿下への悪態が聞こえた気がするけれど、きっと気のせい。


 ***


 ディオン・ラチェスタ様との顔合わせは、辺境伯家の屋敷で行われた。

 王都と辺境伯領は距離があるけれど、ラチェスタ侯爵領とはさほど離れていない。婚約を破棄されたディオン様は領地に戻ってきていたらしいから、移動もしやすかったのだろう。


 今日の目的は顔合わせという事で、わたしとディオン様は早々と庭に用意されたテーブルにつく事になった。その間に両親とラチェスタ侯爵は話し合いをする事になっている。


「今日はお時間を頂きありがとうございます。突然のお話でご迷惑をお掛けして申し訳ありません」


 席についてすぐ、ディオン様が深く頭を下げる。

 驚いてしまったけれど、そのままにしておくわけにもいかない。


「お顔をあげて下さいまし。突然の事で驚かなかったといえば嘘になりますが、迷惑だとは思っておりませんの」

「寛大なお言葉に感謝します」


 顔を上げたディオン様はほっとしたように表情を和らげた。

 以前お見かけした時よりも少し痩せてしまった気がする。

 柔らかそうな薄茶の髪と青みがかった紫の瞳が特徴的な美しい人なのだけど……王女殿下は一体この方の何が不満だったのだろう。


「折角ご縁を頂いたのですし、ディオン様とお名前でお呼びしても構いませんこと? わたしの事もぜひルシエラと呼んで下さいまし」

「ありがとうございます。名前で呼んで頂けるのは嬉しいです」

「では早速。ディオン様はこの婚約について、異論はございませんの?」


 率直な問いに、ディオン様が目を瞬いた。

 わたしは用意された紅茶のカップに手を伸ばし、口元に運ぶ。柑橘の香りがする茶葉はわたしのお気に入りのものだ。


「この婚約に異論を申し上げる立場ではありません。しかしあなたは巻き込まれた立場だ。断って下さって構いませんし、その際にはラチェスタ家の全力を持ってこの命令を覆してみせましょう」


 困ったように眉を下げながらも、紡がれる言葉には意思の強さが表れている。それに好感を抱いた。

 どうしてこの人の事を、王女殿下は手放したのか。


「ふふ、ありがとうございます。巻き込まれたといえばその通りなのですが、このお話を進めて頂こうかと思っておりますの。ただ……どうしてあなたが、王女殿下から婚約を破棄される事になったのか。それを伺ってもよろしくて?」

「ええ、もちろんです。システィーナ様は、僕といると息が詰まると仰っていました。僕はつまらない人間で、面白みがないと。……この婚約に前向きになって頂けるのは有難いのですが、僕はシスティーナ様にそう判断された人間です。ルシエラ嬢にもそんな不快な思いをさせてしまうのではないかと、そう思っています」

「あらあら、随分と自分を卑下なさるのね。それは王女殿下からの評価であって、わたしからの評価ではありませんわ」

「そう、ですね……」


 目を伏せて笑うその姿まで美しいと思った。長い睫毛が頬に影を落としている。

 システィーナ王女殿下は、随分とこの人を貶めていたらしい。


「ちなみにですが、つまらないとはどういった事で……?」

「一緒に居て面白くないのだと。システィーナ様を楽しませる事の出来ない僕は、つまらない人間なのです。センスもなく、喜ぶような贈り物も出来ないと……」

「あらあら」


 システィーナ殿下の事を思い出してか、その背中がどんどん丸くなっていく。悲愴感を背負ったディオン様が俯いてしまった。

 でもシスティーナ殿下を支える為に、優秀なディオン様が婚約者に決まったはずだ。システィーナ殿下は今後、結婚と同時に公爵位を賜る事になっている。その補佐をする為のディオン様だ。

 婚約者なのだからとディオン様に公務の一部を回していたのも有名な話だ。システィーナ殿下が吹聴していたもの。

『面倒な事はディオンにやらせればいいのよ』なんて。


 まぁシスティーナ殿下の事はどうでもいい。

 今はこの、自尊心を打ち砕かれてしまった、自己肯定感の低い彼をどうにかしてあげたいと思った。


 わたしは紅茶のカップを口元に寄せ、一口飲んで喉を潤した。蜂蜜を少し混ぜてあるから、ほんのり甘くて美味しい。ディオン様も気に入ってくれるといいのだけど。


「ディオン様に確認したいのですが、システィーナ殿下にお心は残っていますか? まだ添い遂げたいと恋慕が残っているのなら、殿下の婚約者に戻れるように我が家からも口添えを致しますが」

「いえ、元より僕達の間に恋という華やかなものはなかったと思います。お仕えする相手として、敬意をもって接していたつもりなのですが……」


 顔を上げたディオン様は顔を曇らせている。自信なさげに眉を下げる姿を見て、この人の笑った顔が見てみたいと思った。きっと綺麗だわ。

 それよりも……今のディオン様の発言で、システィーナ殿下が彼を遠ざけた理由が分かった気がする。


 末姫として甘やかされた王女殿下は激情家で、自分が最優先されるべきだと言って憚らない人だ。皆が自分の為に尽くすのは当たり前だと思っているから、きっとディオン様の献身も当然だと受け入れていたのだろう。

 そして……ロマンチストでもある。

 巷で話題の、燃え上がるような恋愛小説を好んでいるのも有名な話だ。


 ディオン様が、システィーナ殿下を愛していないから。

 だからシスティーナ殿下は彼に心を寄せなかった。


 自分を愛さない人間は、どう扱っても構わない。

 そう考えていたとしてもおかしくない。システィーナ殿下だもの。


「システィーナ殿下があなたを遠ざけた理由は、あなたが殿下に愛を向けなかったからでしょう」


 ロマンチストの王女殿下にとって、結婚というのは愛し愛されてするものだ。

 いくら優秀で、婚約者として申し分ない人だとしても……愛されない結婚など受け入れられなかったのだろう。


「それは……殿下に申し訳ない事をしました」


 真面目な人なのだろう。

 わたしの言葉を受け入れて、更に気落ちしているようにも見える。


「でもそれって、ディオン様だけが愛を向ければよいというものでもないと思いますの」

「いえ、僕が心を傾けるだけの努力をしなかったのが悪いのです」

「政略ありきで結ばれた婚約ですもの。努力をするのはディオンだけでなく、王女殿下もですわ」


 愛される事が当たり前だと思っているあの人が、そんな努力をするかは怪しいものだけど。

 わたしは居住まいを正し、ディオン様を真っ直ぐに見つめた。わたしの視線を受けた彼もカップを戻し、姿勢を正してくれる。


「あなたはわたしの伴侶になる事に、異論はありませんか?」

「はい」

「わたしは夫を愛したいですし、夫にも愛されたいと思っております」

「……はい」

「ですから、お互いの事を知りましょう。そして……恋が出来たら、それは素敵な事だと思いませんか?」


 迷うようにディオン様が視線を彷徨わせる。ここで「はい」と頷いてしまえば楽なのに、そうしないのはやっぱり真面目な人だからだ。


「ですが……僕はあなたの事も失望させてしまうのではないかと……」

「まだわたし達は何も始まっておりません。結末を急ぐ事はありませんわ」


 まだ迷っているように、ディオン様は表情を曇らせる。だから、わたしは微笑んで見せた。


「わたしはあなたを傷付けません。あなたもきっと、そうであってくれるでしょう?」

「それはもちろん。ルシエラ嬢を傷付ける事はしません」

「ふふ。わたし、誠実な方は好みですの」


 お顔も好みなのだけど、いま口にする事ではないだろう。

 わたしの言葉を受けて、ディオン様は顔を真っ赤にしている。そんなところも可愛らしい人だと思って、また笑みが零れた。


 ***


 ラチェスタ侯爵とうちの両親の話し合いの結果、ディオン様はこのままアムレアン辺境伯領で過ごす事に決まった。

 長い間、王女殿下の婚約者として忙しい日々を過ごしていたディオン様に、少しでも休んで欲しいというラチェスタ侯爵の親心だろう。



 という事で、わたしはディオン様と一緒に過ごす事にした。

 お茶を楽しんだり、ボードゲームをしたり、二人並んで読書をしたり。

 領地を回るついでに遠乗りをしたり、領都でお買い物を楽しんだり。


 そんな日々を過ごして一か月、ディオン様はすっかりと元気になられたようだった。

 やつれていたのは過去の事。辺境騎士団に混じって鍛錬も始めた彼は、この一か月で随分と逞しくなったと思う。もちろん騎士と比べたらまだ体が薄いけれど、体を動かす事ですっきりと気持ちが晴れていくのなら何よりの事だ。


 ディオン様は、わたしと一緒に父の仕事も手伝っている。嬉しい誤算だったのは語学にも秀でていて、移民国家とのやりとりだって問題ないという事だ。

 隣国の小さな民族の言葉までも習得していたらしく、これにはわたしが悔しい思いをする事になった。彼は先生としても優秀だから、わたしの言語力も急上昇していると思う。 



 そして今日もわたし達は、サロンでお茶を楽しんでいる。


「ルシエラ、今日のタルトは僕が作ったんです」


 掛けられた言葉に目を瞬いたわたしは、改めてお皿の上のタルトに視線を向けた。

 薄く切った桃が薔薇のように重ねられてとても綺麗。艶やかなのはシロップに漬けてあるのだろうか。

 丁寧にタルトを切り分けたディオン様は、それをお皿に載せてわたしの前に置いてくれる。タルト生地に敷き詰められているのはカスタードクリームだ。鮮やかな黄色が覗いている。


「お店で買ってきたのかと思ったわ」

「そう言って貰えると嬉しいですね。あなたがタルトを食べたいと言っていたので、少し頑張ってみました」


 嬉しそうに笑ったディオン様は、もう眉を下げたりしない。その事が嬉しいけれど、お顔が良くてわたしの胸がドキドキとしてしまう。


「お菓子作りも出来るだなんて、ディオン様に出来ない事はないのではないかしら」

「そんな事はありませんよ。ここに来て、色んな事に挑戦させて貰えたおかげで、趣味は増えたと思いますが」


 わたしの隣でディオン様がコーヒーカップを手にしている。

 香りのよいコーヒーもディオン様が手ずから淹れてくれたものだ。

 わたしは早速フォークを手にして、タルトを食べる事にした。

 カスタードにフォークがゆっくり沈んでいく。タルト生地と一緒に口に運ぶと、驚くくらいに滑らかだった。美味しい。


「とても美味しいわ。タルト生地もあなたが?」

「はい。上手に出来たのではないかと、自分でも思っているんですが」

「しっとりとした生地がカスタードとよく合っているわ。桃の飾りもとても綺麗」

「ありがとうございます」


 心のままに褒めると、ディオン様が嬉しそうに笑う。

 はぁ、やっぱり顔が良い。好き。


 そう、わたしはこの一か月で、すっかりディオン様に恋をしてしまっていたのだ。

 最初はお顔が好みというのが強かったのだけど、一緒に過ごして彼の事を知っていくうちに、惹かれてしまった。

 システィーナ殿下は、彼の何を見ていたのだろう。こんなにも素敵な人なのに。……何も見ていなかったのかもしれないけれど、まぁいい。


「ディオン様の趣味が増えた事はわたしも嬉しいわ。好きなものが増えたという事でしょう?」

「そうですね。それもルシエラが喜んでくれるから、好きになったようなものなんですが」


 少し恥ずかしそうにディオン様が笑う。わたしの瞳よりも青みがかった紫の瞳がとても綺麗。

 どんな気持ちで、言葉を紡いでいるのだろう。彼はわたしの婚約者となったけれど、ここに愛が生まれているのだろうか。わたしと同じ気持ちで居てくれたら嬉しいけれど、でも……きっと、まだ違う。


「あなたが楽しそうにしている事が嬉しいのよ」


 そう口にしたわたしはフォークを置き、コーヒーカップを手に取った。わたしの好みになるようにミルクがたっぷり落とされている。

 こういった気遣いも完璧なのだから、本当に優秀な人だと思う。


 婚約者として大事にされているのは分かる。でも……わたしはそれだけでは満足できない。

 彼にもわたしを好きになって欲しい。でも自分の気持ちを隠すのは狡いと思った。


「ねぇ、ディオン様」

「なんでしょうか」

「わたし、あなたの事が好きだわ」

「……え?」


 タルトを食べようとしていたディオン様の動きが止まる。

 その顔がじわじわと赤くなったかと思ったら、耳まで色付いてしまった。口を開いているけれど、声が漏れる事はない。言葉が見つからないのかもしれない。


「愛しているから、愛を返して欲しいと義務のような事はしたくないわ。でも、わたしの事を好きになって欲しいとも思うの。複雑よね」


 言葉が返ってくる事はない。でも、彼の青紫の瞳に嫌悪の色はない。

 困ったような顔もしていないのは、少し期待してもいいのだろうか。


「でもまぁそれは、追々そうなっていったらいいと思うわ。まずはタルトを頂いて……今日はカードゲームをしましょうか」


 そう言って、雰囲気を変えようとコーヒーを一口飲んだ。うん、美味しい。

 苦味はまろやかになっているのに、香りやコクは損なわれていない。もう彼の淹れたコーヒー以外じゃ満足できなくなってしまうかも。


 結局、彼の顔から赤みが引いたのは、わたしがタルトを食べ終わってからだった。

 何かを言おうとしていたのかもしれないけれど、とりあえずはそれを流してカードゲームに没頭する事にする。

 カードを配るわたしの手が震えている事には気付いてほしくないなと、そう願った。


 ***


 わたしが彼に想いを告げてから一か月が経った。

 その間、わたしが何もしていないわけもなく。隣り合って座る彼との距離を詰めてみたり、自分を更に磨いてみたり、就寝の挨拶をする時に「今日も大好きだったわ」と添えてみたり。


 彼は相変わらず顔を赤くして……でも、少しずつ慣れてきたのではないかと思う。気持ちを押し付ける事はしたくないけれど、どうやったら彼を振り向かせる事が出来るのだろう。

 母に相談したって、ただ微笑むばかりで明確な答えをくれない。恋愛小説だって勉強のテキストにはならない。

 これでも家庭教師からは優秀だって褒められていたはずなんだけど。恋はどうにもならなくて困ってしまう。



 そんな日々を過ごしていた、ある日の事。

 わたしとディオン様宛に王家からの招待状が届いた。


 王太子殿下が主催する夜会の招待状だった。

 年若い貴族子女を対象にした夜会らしいけれど……きっと、いや、間違いなく。システィーナ殿下もいるだろう。

 ディオン様が嫌な思いをするなら欠席しよう。そう思っていたのだけど──


「出席しましょう」


 ディオン様は何事もないように、そう口にした。


 サロンで紅茶を飲んでいたわたしは、隣に座るディオン様の顔をまじまじと見つめてしまった。

 無理はしていないのだろうか。


「無理はしていませんよ。システィーナ殿下の件は、もう過去の事ですから」

「わたしの心が読めるのかしら」

「心配してくれているだろうなって、そう思っただけです」


 軽やかに笑うディオン様は今日も顔が良い。


「でも、夜会では嫌な思いをしてしまうかもしれないわ。システィーナ殿下はエクレス伯爵令息と一緒になって、わたしとあなたの悪い話をしているみたいだから」


 王都に居る友人が心配をして手紙をくれるくらい、王都ではわたし達が噂になっているらしい。

 そのどれもが悪い話だ。どれだけディオン様が不誠実だったかだとか、わたしがディオン様を使い潰しているだとか。根も葉もない噂だからどうでもいいんだけど……それでディオン様が傷付くのなら、そんな場所には行きたくないと思う。


「ルシエラが傍に居てくれるなら、何も気になりませんよ。囀る声もただの雑音ですし、そんなの耳に入れなければいいだけです。ああ、でも……僕のせいであなたが悪く言われるのなら、囀れないように舌を落としてやろうかと思いますが」

「……随分と物騒ね」


 微笑んでいるのが逆に怖いのだけど、そんな陰を帯びた表情さえ素敵だと思ってしまうのだから、顔が良いのって狡いわ。


「あなたが僕を守ってくれる以上に、僕もあなたを守りたいと思うのです。あなたは僕の婚約者で……大切な人だから」


 そう言ったディオン様はわたしの手からコーヒーカップを取り上げてテーブルに戻してしまう。そのままわたしの前に跪くものだから、言葉が出ない。


「愛しています、ルシエラ。僕を救ってくれてありがとう。僕の隣に居てくれてありがとう。僕がこの先に願うのはあなたと共に歩む道だけ」


 顔に熱が集まっていくのが分かる。何かを言わなければと思うのに、胸が詰まって言葉にならない。

 震える吐息ばかりが唇をなぞっていく。


 ディオンはわたしの左手薬指に、指輪をはめてくれた。

 青紫の宝石で作られた薔薇は、香りが匂い立つ程に艶めかしくて、美しかった。


「あなたの気持ちにすぐに応える事が出来ず、きっと不安にさせていたでしょう。僕が抱くこの感情が恋愛なのか、それともあなたを敬愛しているものなのか、しっかりと考えたかったのです」


 頷くと、その拍子に涙が零れた。

 その涙を指先で拭ってくれるディオン様の事がわたしは好きだ。


 どこまでも誠実な人だと思う。

 自分の気持ちに向き合ってくれたのだろう。


「恋よりも深くて、愛よりも激しい気持ちでした。愛しています。あなたを誰にも渡したくないと思う程に。もしあなたに婚約を破棄されたとして、大人しく引き下がる事は出来ないでしょう。みっともない程にあがいて喚いて、あなたを攫ってしまう。ねぇルシエラ、僕は本当はこんなにも重い男なんです。あなたに嫌われたら生きていけない。あなたが他の何かに目を奪われようものなら、あなたの事を部屋の奥深くに隠してしまうかもしれません」


 これは誠実……というくくりで合っているのだろうか。

 彼の瞳に仄暗い陰が見える気がするけれど、それでも……やっぱり綺麗。


 それに、これだけの気持ちを向けられて嬉しいと思うのだからわたしも相当かもしれない。


「あなた以外に、わたしが心を寄せるなんてありえない。ずっと伝えてきたんだもの、これからだってずっと想いを伝えていくわ。愛していると、あなただけに」


 わたしの言葉に嬉しそうに笑ったディオン様は、薬指の青薔薇に唇を寄せた。

 指には触れていないはずなのに、燃えているかのように熱く感じてしまう。


 ああ、好き。

 伝えても、まだ気持ちは溢れるばかり。心が重なっても、この想いが落ち着く事なんてないんだって……そんなの、初めて知ったわ。


 ***


 ディオン様と想いを重ねてから、夜会の日まではあっという間に過ぎていった。

 彼はすぐにわたしを甘やかそうとするし、ずぶずぶと深い沼に落ちていく音がしている気がする。


 久し振りの夜会だけど、今までにないほどに高揚した気分だった。

 だって、わたしの隣にはとっても素敵な婚約者が居るのだから。



 二人連れ立って夜会の会場へと入る。

 視線を感じるけれど、それも当然。わたしは今日、とびきりのおめかしをしているし、ディオン様の美しさには磨きがかかっているもの。

 わたし達二人が揃っていて、目を向けないなんて出来るわけがない。


 そんな事を口にしたら、ディオンがおかしそうに肩を揺らす。


「僕は早くあなたを連れて帰りたいですね。こんなに美しいルシエラを見たら、皆が恋に落ちてしまう」


 低い声で囁かれて、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。ああ、やっぱり素敵だわ。

 そんな風にディオン様に見とれていたら、急にわたし達の前が開けていく。人が除けていっているのだ。

 そしてその先からは、レイス様を従えるようにシスティーナ殿下が近付いてきていた。


「ルシエラ・アムレアン! わたくしのお下がりの婚約者……って、あら……?」


 意気揚々としたシスティーナ殿下の声は途中で止まってしまう。その視線はわたしとディオン様に交互に向けられていた。


「あなた、ディオン・ラチェスタ? そんな顔をしていたかしら……」


 扇を開いたシスティーナ殿下が口元を隠しながら、ディオン様の事をまじまじと見つめる。それが面白くない気持ちと、わたしの婚約者は素敵でしょうと自慢したい気持ちと半々なのだから、どうしていいものか。


「ご無沙汰しております、システィーナ殿下」

「……随分雰囲気が変わったわね。まぁいいわ。ルシエラ、わたくしのお下がりの婚約者はどうかしら? つまらない男でしょうけれど、あなたにはお似合いよ」


 高笑いをするシスティーナ殿下が何を言っているのか、理解するまでに時間が掛かった。

 こんなにも素敵な人を目の前にして、つまらない男だなんて。


 わたしはディオン様に寄り添って、にっこりと微笑んで見せた。わたしの腰を抱き寄せたディオン様も麗しく微笑んでいる。


「システィーナ殿下、わたくしは今とっても幸せですわ。ディオン様はとても優しくて、わたくしの事を大事にしてくれていますのよ。彼が優秀なのはご存知の通りでしょうが、こんなに素晴らしい伴侶を迎えれば辺境の地も安泰だと皆様仰って下さってますの」

「は……?」

「ディオン様のおかげで仕事も捗りますし、今までにないくらいにゆったりとした時間を過ごさせて頂いておりますの。ディオン様はわたくしの好みを完璧に覚えて下さっていますから、一緒にお茶をするのがとても楽しいのです」

「ルシエラが喜ぶ事は何でもしたいと思っていますからね」


 とびきりの甘い笑顔と、甘い声でディオン様が言葉を紡ぐ。

 きっとシスティーナ殿下の前では見せなかった姿だ。システィーナ殿下が求めても、見る事の叶わなかった姿だろう。


「ふふ、またそうやってわたくしの事を甘やかすんですから。こんなにもわたくしを想って下さる素敵な方は、他にいませんわ」


 彼に愛されているのはわたしだと、そう思いながら言葉を紡いだ。


 わたしは、怒っているのだ。

 ディオン様を蔑んだシスティーナ殿下に。

 彼の自信を失わせ、背を丸めさせた事を許す事はないだろう。システィーナ殿下の我儘に振り回されたディオン様を思うと、涙が出そうになるくらいに怒っている。


「……っ、もういいわ。ディオン、もうそんな事はいいからわたくしの元に帰ってきなさい。辺境で休むのも飽きた頃でしょう」


 動揺を笑みに隠しながら、システィーナ殿下が戯言を口にする。

 その頬は薄く朱に染まり、ディオン様の事を欲しているのが分かる。それに気付いたのはわたしだけではなく、隣で眉を寄せているディオン様も、驚愕の顔でシスティーナ殿下を見ているレイス様もだ。


 やっぱりそうだ。

 システィーナ殿下はきっと……ディオンの事が嫌いではなかったのだ。

 素敵だと思っていたからこそ、仄かに恋心を抱いていたからこそ、自分に心を寄せないディオン様が憎らしかったのだろう。


 システィーナ殿下の求めていたディオン様が目の前にいるのだ。

 でも彼女は気付いていない。隣に立つのがわたしではなく殿下になったからって、ディオン様が熱の籠った視線を向けるわけではないという事に。


「いえ、お断りします。僕はルシエラの婚約者で、この場所を誰かに譲るつもりはありませんので」

「なっ、わたくしの言う事がきけないの!」

「既に僕達の婚約は破棄されております。システィーナ殿下が、そちらのレイス・エクレス殿との婚約を望んだ結果だと記憶しておりますが。僕のようなつまらなくて面白みのない男とは違って、彼は殿下のお気に召す者なのでしょう」

「婚約破棄は取り消すわ! わたくしの側にはディオンが相応しいもの!」


 システィーナ殿下の言葉に、レイス様の表情が抜け落ちていく。

 でも、同情はしない。この人は殿下と一緒になってディオン様を蔑んでいたって、調べがついているから。

 システィーナ殿下の婚約者というのはディオン様の居場所だった。それを奪ったのはレイス様だ。だからこの人も、わたしの嫌いな人リストに入っている。


「ご冗談を。もし僕がルシエラの隣を離れたとして、またつまらない男に戻るだけです。僕の全ては、今ではルシエラの為だけにありますので」

「その女が、わたくしよりも優れているというの!?」

「は──」


 はい、と即答しようとしているディオン様の口をわたしは手で塞いだ。

 嬉しいけれどさすがに面倒事が重なっていくばかりだからだ。


「何の騒ぎだ」


 低い声が響く。

 そちらに目を向けると険しい顔をした王太子殿下が、こちらに向かってくるところだった。

 さすがに騒ぎを大きくし過ぎた。いや、突っかかってきたのはシスティーナ殿下の方なのだけど。


「見違えたぞ、ディオン。元気そうで安心したが、辺境伯領は君に良く合っていたようだな」

「アムレアン家の皆様にも大変良くして頂いております」

「そのようだ。して……愚妹がまだ迷惑をかけているのか」


 王太子殿下が鋭い視線をシスティーナ殿下へ向ける。びくりと肩を震わせたシスティーナ殿下は不服そうに眉を寄せている。


「ディオンに、わたくしの元に戻っていいと言ってあげただけですわ」

「馬鹿なのか。ディオンはアムレアン辺境伯令嬢と婚約を結んでいる。割り入ることなど出来んぞ」

「割り入るなんて。ディオンだってわたくしの側にいた方がいいに決まっています」

「はっきり断られていたようだが?」

「それはそこのルシエラ・アムレアンが縋っているからでしょう。ルシエラ、ディアンを解放するわよね?」


 システィーナ殿下の言葉に、ディオンの機嫌が急降下していくのがわかった。ちらりとその表情を盗み見ると、無表情なのに怒っているのが伝わってくる。美形は怒ると怖い。


「いえ、彼はわたしの婚約者です」


 きっぱりと言葉を返すと、システィーナ殿下が目を丸くした。断られるとは欠片も思っていなかったのかもしれない。


「ディオンは……元はわたくしの婚約者よ」

「婚約を破棄されたのはシスティーナ殿下です。殿下は王族命令で、わたしとディオン様の婚約を結ばれました」

「それは……」


 うちにはしっかりとその書類が残っている。

 

 王太子殿下は深い溜息をついた。

 鋭い視線はそのままに、システィーナ殿下を見つめている。


「システィーナ、お前の処遇は俺に一任されている」

「処遇? いやですわ、そんな罰を受けるような……」

「お前は離宮で謹慎とする。婚姻も延期し、公爵となる件についても保留だ」

「そんな!」


 王太子殿下の通告に悲鳴染みた声をあげたのは、レイス様だった。

 顔色がひどく悪いのは、今後の身の振り方を考えての事だろうか。


「で、では……僕とシスティーナ殿下の婚約も解消して下さい」

「なぜだ。お前はシスティーナを愛しているのだろう?」


 王太子殿下の声に、レイス様は唇を噛む。

 システィーナ殿下はそんなレイス様を茫然と見つめていた。


「愛、といいますか……その、尊敬しておりました。システィーナ様はディオン殿を想われているようですので、僕は身を引こうかと……」


 公爵の夫になれないから、システィーナ殿下から離れたいのだ。

 それはこの場にいる皆に伝わっている。もちろん──システィーナ殿下にも。


「いや、僕には最愛のルシエラが居るので巻き込まないでくれるか」


 きっぱりと言い切るディオン様の背筋はぴんと伸びている。

 もう背を丸めて俯いた、自信のない彼はいないのだ。


 王太子殿下はシスティーナ殿下とレイス様へ、冷めた目を向けている。大袈裟な程に深い溜息を吐いた口で、言葉を落とした。


「お前達の婚約に関しては後日だ。だが……もうお互いを想い合う事など出来ないだろうな」

「嫌よ、そんなの……」


 システィーナ殿下の顔から血の気が引いていく。

 ディオン様は手に入らず、自分を愛していたはずのレイス様はそれを否定した。不幸になったように見えるけれど、でもこれは……人の気持ちを振り回した、我儘の代償だ。


 システィーナ殿下は縋るような視線をディオン様に向けた。でも、彼は──わたしの事を見つめていた。

 美しい青紫の瞳に、わたしへの愛を湛えて。

 ディオン様がシスティーナ殿下を見る事は、二度となかった。


 ***


 夜会も終わり、アムレアン辺境伯領に戻ってきたわたし達は、いつもと変わらない日々を過ごしている。


 寄り添い、二人の時間を楽しみ、笑い合う。

 そんな幸せな日々で、彼への想いは深くなっていく一方だった。そしてそれは、彼から与えられる愛も同じだった。


「結婚式のドレスが決まって良かったですね。僕は当日まで見せて貰えないようですが」


 おなじみのサロンで二人寄り添って座る。距離などなくて、彼の熱が伝わる程の近さで。

 でも今日の彼は、少し拗ねているように見える。それはわたしの結婚式のドレスが、彼には内緒になっているからなのだけど。


「当日のお楽しみにしていて頂戴。それより、宝飾品はディオン様に選んで貰いたいんだけど……」

「お任せください。あなたに一番似合うものを選びます」


 頼る言葉に、機嫌も戻ってくれたらしい。それにほっとしながら、わたしはクッキーを口に運んだ。

 花の形に抜かれたクッキーの中央には、色付いた飴が薄く伸ばされている。陽の光に透かして見るとまるでステンドグラスのようで、とても綺麗。

 この美しいクッキーもディオン様のお手製だ。彼はいつもこうやって、わたしの為だけにお菓子を作ってくれるのだ。


「結婚式の宝石は、僕の色を纏ってくれますか?」


 蕩けるくらいに甘やかな声で言葉を紡ぎながら、ディオン様が顔を覗き込んでくる。青紫の瞳には熱が籠っていた。


「結婚式だけ? わたしはずっと、あなたの色を身に着けたいのに」


 そう言いながら、わたしは薬指の薔薇を指でなぞった。青みがかった紫色の薔薇は、今日も美しく輝いている。


「これからもずっと」


 幸せそうに笑ったディオン様が、わたしの事を両腕で抱きしめる。

 伝わってくるのはコロンの香り、温かさ。少し早い鼓動は、わたしのものかもしれない。


「愛しています」

「わたしもよ」


 そう答えると抱き締める腕の力が強くなる。

 腕檻に囚われるのが好きだなんて口にしたら、きっと離してもらえない。


 今日も明日も、これからも。

 わたし達は溺れるくらいに愛を紡ぐ。

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王女殿下の元婚約者に愛を注いだら 花散ここ @rainless

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