嵩山の湧き水 (一章終わり)


 時子に別れを告げて私達を乗せた車は村の中心部を目指して街道を進んでいく。

 車内は時より光一の思い出しの話に私が相槌を打つ感じで、少しだけ会話をしながらも、やはりラジオが流れる時間のほうが多い。


「浪間の学校に寄っていく」


「学校に?どうして?」


 浪間の学校というのは私達が小学校に入学した時分から小中一貫校へとなった学校のことだ。それまで3か所の地区それぞれに学校があったのだけれど統廃合によって「浪間村立浪間小中学校」となった。妙に長ったらしい名前だったから、誰が言い出したかは分からないけれど、村内では浪間の学校と呼ばれている。


「お墓にお参りして行こうと思ってさ、兄貴の店も目の前だからね」


「あ、ああ、そうだったわね」


 どうして気がつかなかったのだろう。

 学校とは反対側に村営の墓地が整備されていてそこに母も先祖も埋葬されている。山間の墓地と言えば薄暗くて気味が悪いと想像しがちかもしれないけれど先祖や母の眠る墓地は違う。

 もともと浪間村は天竜水系の支流である温田川の谷間にできた集落で、一説には平家かどこぞの武士の落人の里だったとされている。江戸時代には宿場町として整備もされるほどに繁盛した。かなりの盛況ぶりであったらしいのだが、その際に村の寄り合いで街道沿いの陽の一番よく当たる山間を切り開いて墓地とすることにしたのだそうだ。歴史的にも珍しい「浪間の集合墓地」としても知られている。江戸中期からずっと村人は死ぬとそこへ葬られてきた。道路沿いに山肌に陽の光に輝く墓がずらりと並ぶさまは観光的にはどうかと思われてしまうかもしれないけれど…。


「どうした?」


 物思いに耽っていた私が気になったのか、心配そうに光一が声を掛けてくる。


「何でもないわ、寄ってくれてありがとう」


「まぁ、俺も参っておかないといけないから、すまんな」


「謝らなくていいわよ」


 そう素っ気ない返事をしながらも、私は母を忘れないでいてくれた光一に感謝する。妹も私も墓をどうするかまでは話し合っていない、でも、あの妹のことだろうから、姉さんがきちんとしてよねと言ってくるに違いない。

 不意に視線を上げた道の先に記憶に残る路側帯が見えてきた。


「光一、ちょっと、車止めてくれる?」


「ん、ああ、あそこか」


 納得したように後続車を確認しながら速度を緩めた車は、少し広めに作られた路側帯へと入りそして停車した。


「伝えてなくてごめんなさい。お水を汲んでくるわ」


「ああ、俺も行くよ」


 2人とも車を降り、私は後部座席の足元の籠から100均で購入していた小さなポリタンクを2つほど取り出した。光一も洗って乾かしてあったペットボトルとタオルを手に持つ。

 ふと、2人だけだった頃の里帰りを思い出してしまう。あの頃もこうして水を汲んでいた。

 

 この水場は嵩山の湧き水と言う。

 

 その昔、弘法大師様が山を登りきる途中に出会った旅人が水を欲したので祈りを込めて杖を突かれ、そこから滾々と水が湧き出したという伝説があり、村人は何か祝い事などにこの水を使う慣わしとなっていた。

 水場は路側帯のガードレールを超え山肌から伸びた1本のパイプの先につけられた蛇口が1つと、足元に苔むした古いシンクの台がビールケースを土台にして置かれている。蛇口からは山から引かれた湧き水が滾々と流れ落ちていて、棒状になった水流が日の光を浴びて輝いて、シンクに落ちたそれもまた水飛沫を上げてあたりへと宝石のような雫を散らせていた。


「こんにちは、水神様、お水を頂きます」


 水場の脇にある一枚岩の自然石に挨拶を済ませると、2人並んで2礼2拍手1礼をする。

 ポリタンクを2、3回ほど洗ってから気持ちの良い冷たさの水を汲んでゆく。

 流れる水流が薄白いポリタンクに流れ込んでいくのをぼんやりと眺めていると、あっという間に満水になった。


「ほら、次」


 隣からそんな声と共に蓋の空い二つ目のポリタンクが差し出される。


「あ、ありがとう」


 受け取って組み終えたタンクを地面に置こうとすると、光一はそれを優しく受け取って近くに置いてあった蓋を閉めてくれた。ふと、その白く水の入ったポリタンクを眺めながらぼそりと独り言のように口から零した。


「あの時も白かったなぁ」


 あの時…、きっと光一は小学校の2年生の時のことを指しているのだろう。

 小学校2年生の冬休み間近に年中組の妹の雅美が高熱を出した。

 1週間ほど熱は続いて、とても苦しそうな顔をして布団に蹲っている大切な幼い妹のことがとても心配で、学校の行きかえりに地元の神社へお参りを欠かさず行うほどだった。

 その年は雪が多くて神社の参道は除雪された雪がうずたかく壁のように積まれていたのを覚えている。


「梨花ちゃん、雅美ちゃん大丈夫?」


 友達のみさえ、今や光一の兄さんの奥さんになっている子だが、教室で自席に座って心配そうな顔で我が家の方角を眺めている私に声を掛けてくれた。


「うん…、まだ熱が下がらない…」


 これ以上続くようであれば、飯田市立病院に入院しなければならないだろうと、村で唯一の権田医院の権田先生が両親にそう話しているのを隣の部屋で壁に耳を当て、こっそりと聞いていた私は妹がもしかしたら死んでしまうのではないかと不安に陥っていた。

 母は妹に掛かりっきりだったから、私のことにまでは手が回っていなかったのも事実だろう。

 あの当時の母の口癖は「お姉ちゃんでしょ」であったのが、それを如実に表している気がする。

 授業後に図書室へ寄って妹の気晴らしに読み聞かせるために借りていた本を返却し、ほかの本を探していると偶然にもある本が目に入った。それは村の教育委員会が編纂して子供向けに配っている「郷土の伝承」と書かれている本で、小学校高学年で村の歴史を調べる授業の際に教材として使われている。

 もちろん小学校2年生では配られることは無いものだ。

 何気なく私は手に取ってそれを開く、すると偶然にも「嵩山の湧き水」の一編が書かれていた。弘法大師さまのお話と末尾にひとこと「一口飲めば、たちどころに病が治る」とあった。

 

 子供の思い込みは時に大ごとを引き起こす。


 私はその本を貸し出してもらって、ランドセルにこっそりと入れていた数か月前に買って貰いお気に入りとなっている財布を開いて中身を確認した。朧気だけれど今思えば1000円が2枚入っていたような気がする。まぁ、小学生にも大金に等しいお金が入っていることに安心すると、本を手提げにしまい雪よけのカバーを掛けて、雪が降り始めた外へと校舎から飛び出したのだった。

 学校から国道まではとても近い、そこには父も通勤に使っている飯田駅まで走るバスが通っていた。

 ちょうど最終から2本前のバスにいそいそと飛び乗って「高山の湧き水」へと向かったのだった。


「お嬢ちゃん、ここでいいのかい?」


「うん、あとでお迎えに来てもらうの!」


 心配してくれた優しい笑顔の運転士さんにそう嘘で誤魔化して、目的地でバスを降りると道路を大急ぎで横切って渡り吹雪で小さく揺れる街路灯が照らしている湧き水の場所へとたどり着いた。


「凍ってる…」


 手提げからステンレスのピンクの水筒を取り出して、底の部分で蛇口周辺の固まった氷を叩いて壊していく。妹のために必死に蛇口やパイプに着いた氷を寒さも忘れて必死になって叩き割って回った。やがて、厳冬の中で中まで凍ってしまっているはずの注ぎ口より、龍の鳴き声のような音が2、3度ほど響いてくると透き通るほど氷を吐き出しながら勢いよく水が流れ出した。

 それを見た時は心から神様に感謝するとともに、これで妹の病気が治ると勝手に確信した。

 手袋を外し手が感覚を失うほどに冷たい水を傷だらけの水筒に汲み、蓋がしっかりと閉まっているか何度も確認して手提げへと戻した。

 白い霧のような風が駆け抜けていったので慌てて帰りのバスを待つため、近くのバラックのような小さなトタン屋根の付いたバス停に向かう。

 幸い中のベンチまでは雪は降り積もってはいなかったけれど、座ろうとした途端に風雪の向きが変わってバス停に真正面から白い結晶を伴って吹き込んできた。


「すごく…寒い…」


 子供用の小さな傘を風上に広げてバス停の隅に身を丸めるようにして雪風を凌ぐようにする。

 でも、小さな体では抗うすべは殆どなかった。行きがけに見てきたバス停の時刻表には最後の一本が村へと走ってくるとなっていたから、それが頼みの綱となっていたが、運休というものを知らない幼い子供だったから、それが取りやめになっていることなど思いもよらなかった。

 どれくらいの時間をそうして過ごしていたか分からないけれど、傘にかなり厚く雪が積もって、手足の感覚はマヒし、眠気が襲ってくるのを必死に我慢して、心細さから流れ出る涙と鼻水を垂らしながら、歯を食いしばって私は耐えていた。時より風の音が女の人の笑い声に聞こえては、それが心細さに一段と拍車をかけるのを、ランドセルに着いたお守り袋を握りしめて必死になってお化けの類が来ないように祈った。


 そんな心細い最中にその声は風に乗ってやってきた。

 

「馬鹿!なにやってるんだよ!」


 突然、そんな男の子声が聞こえて傘が剝ぎ取られる。

 大きな大人用の傘を持った光一が大きなビニールシートを1枚持って持って立っているのが見えて、驚きのあまり固まってしまっていた私に、光一は私のコートの端などについた雪を払いながら、ポケットからココアを取り出して差し出してきた。


「梨花、これで温まって、指先まで冷え冷えだよ」


 手渡された缶は冷えすぎた私の小さな手には熱すぎて、思わず声を上げて雪の上に落としてしまう。

 光一もそれに気が付いたらしく「ごめん」と謝りながら、代わりに自らの手袋を取り外すと自身の手で私の手を、今までにないくらい優しく、優しく包んでくれた。

 

 ぬくもり、というものを初めて家族以外で感じた瞬間だったと思う。


「梨花すごい冷えてる。これを巻いてお迎えが来るまで待ってよ」


 私は彼の手からしばらくぬくもりを受け取って指先を動かせるほどまでになるとベンチからようやく立ち上がることができた。

 立ち上がるまでに体の各所が冷え固まっていたため、動かすたびに体が悲鳴を上げて痛みが走る。顔を顰めると光一が私を支えるようにしてくれて、それがまた、何とも言えない温かさをくれた。

 やがて、光一が建築用の青いビニールシートを風に気をつけながら広げてゆき、私を手を握って引き寄せると頭からすっぽりと被せて、自らもまた中へと入ってきた。二人でシート内に這い込んでから、ゆっくりした足取りでベンチへと移動して、足元でずっていた部分をベンチの上に敷くように垂らしてから、その上に2人して座る。

 

 寒風が途切れると途端に温かさが中を包んだ。これだけでどれだけの安心感を得たことだろう。

 

 光一の側にシートの切れ間が少しだけ開けられていて、そこから光一が持ってきた大きなビニール傘を外に突き出して開いて外の景色を探っている。風が入るのを防ぎながら外も見えるようにしているところを、ふと秘密基地を作るのが光一は得意だったことを思い出したりして、クスっと笑ってしまっていた。


「梨花が無事でよかったぁ」


 私の小さな肩に光一の手が回ってきて光一の方へ体が引き寄せられる。ジャンパー越しでも温かさが使わってくる気がして、凝り固まっていた怖い気持ちがゆっくりと溶けていくのが分かった。

 しばらくすると私はもっと安堵感を手に入れたくて、手を伸ばしてその肩に手を置いて光一の身を引き寄せる。

 

 ぬくもりに癒されながら一息つく。あの時の安堵感は途方もなく大きくて、それでいて間近に見える光一の顔が、どことなく大人びて見えた。

 

 いつもそばに居て、一緒に遊んで、一緒に泣いて、一緒に怒られて、そうやって過ごしてきたから、普段と違う行動でそう見えてしまうのも無理のないことなのかもしれない。


「うぅ…ひっく…」


「大丈夫、もうすぐお父さんかお母さんが来てくれる」

 

 泣き出した私に優しく声を掛けてくれる、腕の引き寄せる力が増してきて体と体が密着してゆき、ぬくもりの面積が増えてゆく、それがまた私の不安な心を溶かして安堵へと傾けてくれる。


「ごめんなさい…」


 ただ、謝罪の言葉が口をついた。

 何よりも先に謝らなければと思った。

 それを聞いた光一の片手が私の手をしっかりと握ってくれる。


「雅美ちゃんのためでしょ?」


「うん…でもなんでわかったの?」


「図書室で本借りてたのを見ちゃってそのあと慌てて学校から出ていったから何の本かと気になったんだ。図書室の先生に聞いたら郷土の本だって教えてくれたから、お兄ちゃんが習ってて中身も読んだことあるから、もしかしてと思って梨花を探しに行ったら、バスに乗ったよって教えてくれて、慌てて家からビニールシート持って次のバスに飛び乗っちゃった」


「でも、誰か助けに来てくれるかな…光一も同じ目に合わせちゃう…」


「バスの運転手さんにどこかの家でお店に電話して知らせてくださいってお願いしたから、きっと、お父さんかお母さんが迎えに来てくれるよ」


 先が見えてくる話というのは本当に元気づけてくれる言葉だ。

 希望が灯るってのはこういうことを言うんだと肌身で知った。

 

「ありがとう…」


「うん、そっちの方が嬉しい」


 その言葉にホッとして少し笑顔を見せて光一にお礼を言うと、いつも通りの笑顔がそこにあった。

 いつもと変わらない笑顔なのに、私の頬は蒸気して真っ赤になりながら光一から視線をはず事ができなくなってしまう。

 

 きっとこの時に見惚れてしまった。

 

 友達の好きな男の子が、友達よりも大好きな男の子に変わった瞬間だった。


「おい、どうした?水が溢れてるぞ」


「へ!?」


 ぼんやりしていたらしい、手元も見ればいつの間にか容器の口からは水が溢れていて、両手がびしょびしょに濡れている。


「なにをやってんだ、ほら」


 歳を経て幼さなんて消えてしまった顔が呆れたとでもいうようにこちらを見ている。そのくせポケットからハンカチを取り出してこちらへと差し出した。


「あ、ありがとう」


「変わんないな、梨花は」


 そう言って笑いながら水の溢れたボトルを受け取った光一の笑顔が、あの頃と重なって少しだけ戸惑った。

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