信州屋の時子
街道の木々は初夏の日差しを通り越して、熱さを纏った陽光に照らされている。
過ぎ去っていく日々のように通り過ぎていく景色をぼんやりと眺めて、ラジオの音声だけが響いている車内だったが、唐突にそれは終わりを告げた。
『まもなく、信州屋です』
「時子さんとこ着くぞ」
別にセットしなくても道順なんかルートは分かっているだろうに、律儀にカーナビに行先を入力した光一がその声に反応して話しかけてくる。
「ええ、分かってるわ」
「ならよかった。ああ、後ろに置いてある布袋屋の菓子を渡してくれ」
後部座席に一筆書きで書かれた布袋様の笑顔がトレードマークの紙袋が8つほど並んでいた。実家へ帰るときの定番の土産、毎年同じものだから皆も飽き飽きしているんではないだろうかと心配になる。
光一のコダワリとでも言うのだろうか、こうと決めると頑固に譲らない性格はお義父さん譲りだ。
「分かったわ、それと、そろそろお昼時だし、食べていきましょうよ」
つい今しがたに正午の時報をアナウンサーが告げた。
朝食はいつも通りに食べてきたから、まだ、大丈夫と考えていたけれど、里帰りは食欲も誘う。時より家族で、また、2人で食べに行った時子の店の味は空腹を呼び起こしていた。
「そうしよう、天ぷらあるかな」
「いつものメニューね」
光一は天ぷらそば、私は山菜そばがこの店に来るたびの定番だった。あの頃からそれは一向に変わることは無い。いつも一緒の食べてると子供達から揶揄われたこともあるくらいに変化することのない注文だった。
駐車場は20台ほど止めることができるが、ほぼ満車に近かった。やはり昼時であったし、それに観光客が立ち寄っているのだろう、有名な観光ブックにも掲載されたほどの名店でもある。奥まった駐車場だったけれど、光一の運手は危なげなく、スムーズに車を停めるとちょうど店先に懐かしい顔が見えた。
丸顔に少しふっくらした体形、高校生の頃から変わることのない時子だ。彼女も気が付いたらしく、店前で席待ちをしていたお客さんを案内したのちにこちらへと歩いてくる。
私達は慌てて車を降り私は後部座席からお土産の紙袋を1つ手に持った。
「久しぶり、お2人さん」
心からと分かるほどに素敵な笑顔を見せた時子はそう言うとケラケラと笑い声を上げた。
「久しぶり、時子」
私が返事をして光一はペコリと頭を下げた。挨拶ぐらいすればいいのにと思い、ふと、高校生の頃からずっと同じような感じではなかったかと思い出した。
「何年たってもあんたらは変わんないね。さ、予約席用意してあるから、どうぞ」
「ありがとう、あ、時子、これお土産、布袋屋のだけど…」
そう言うと時子の顔が笑顔とは違う、少し別の笑いに変わったのを私は見逃さなかった。
「あ、ありがとう。ありがたく頂くわね」
受け取った時子が光一に軽く会釈して、光一もまた会釈を返していた。
案内された店内は昔と寸分変わらない作りだ、土間のようなコンクリート打ちの木製のテーブル席と、座敷席が並ぶ、そして小さなカウンター席が4席ほど、L字型に作られた大きなガラス窓からは見事な日本庭園があり、豊富な湧き水が小さな滝から流れ下っている。その奥には変わることない南アルプスの山並みが見えた。
私達の席はカウンターの端に2席だった。
「懐かしいでしょ、久しぶりに2人で来るっていたから、用意したわよ」
「時子、もうそんな年でもないわ」
「照れちゃって、可愛いんだから」
私がそう文句を言うと時子がそう返して持ってきた冷水の入ったコップを置いていく。厨房では時子の旦那さんである正孝先輩がせわしなく動き回り従業員と共に手際よく調理をしているのが見える。
先代の時からアルバイトで手伝っていた正孝先輩が時子と交際していると知ったのは高校2年生の時だ。真面目一徹で不動の正孝とあだ名されていた先輩が、学校で時子に告白して、その後すぐにお父さんにも挨拶をしたという話を聞いた時は高校生の私は小説のような話に黄色い歓声を上げたものだった。
先輩はそのまま卒業後に修行に入り、そして結婚して跡を継いで味を守り続けている。それはレジ横の壁際にある芸能人の数え切れぬほどのサイン色紙や皇室の方々がお食事に立ち寄られた際の写真が雄弁に物語っている。
「梨花ちょっと席外すよ、時子さんすみません、裏手の女将さんと先代のお墓に行ってきます」
光一がそう言って座ったばかりの席から立ち上がり、スタスタと店の外へと出ていく。私はそれを呆然と見送りながら訝しんだ顔で時子を見た。
「なんか、申し訳ないわ…」
「どういうことなの?私は知らないんだけど、時子のお父さんとお母さん、そんなに光一と仲良かったかしら…」
それを聞いた時子は笑顔からかけ離れた悲しい表情を見せた。
「やっぱり伝えてないんだ…」
「え?」
「もう、かなり時がたったからいいのかな。私の母、交通事故で亡くなったの知ってるでしょ」
「う…うん」
お店から2キロほど下った急カーブのあたりが事故現場でひき逃げだった。
3年生の卒業間近の出来事で犯人は未だに見つかっておらず時効で幕引きとなってしまった。警察も村の人々も一丸となって犯人捜しに協力したのを覚えている、すごいスピードで村を走り抜けていく異常なトラックを見た村民の証言をもとに村で隠居生活を送っていた高名な画家が写真に思えるほどの立派な絵を描いて、その絵を乗せたチラシを作っては、村の道の駅などで配り歩き必死になって探し回ったのを私も手伝ったし、卒業後に村で就職した光一も積極的に手伝っていたのを覚えている。
「あの事故の第一発見者、じつは光一君なの、母が道路で倒れているのを見つけて、病院で先生の話からは轢かれて即死だろうって言うことだったから見つけてくれた時にはすでに事切れていたと思う。それでも後続車に引かれないように血まみれの母を歩道まで介抱してくれて、必死にあの坂を駆け上がってお店に飛び込んで知らせてくれたの、この道沿いに電話があるの家の店が一番近かったから…」
時子の目からポロリと涙が落ちる、冷水を運んできて握っていたお盆を持つ手に力が籠るが見えた。
「そんなこと…、一言も…」
「ほら、あんた進路で悩んでたじゃない、だから、光一君言わなかったのよ。絶対伝えなくてくれと口止めもされてしまったから…。葬儀の時に家族でお礼を伝えしたら、救えなかったから褒められた行為じゃないって、逆に畳に頭をつけてお詫びされてしまったほど…、本当に実直すぎる人ね」
話を聞いていて光一らしいなと思う。
そんなことお首にも出さずに私には普通に接してくれていた。きっと私が知ってしまえば光一に寄り添って慰めたりする。それで進路がおざなりになってしまうことが嫌だったに違いない。容易に想像できる話だと思う。
「あ、私が言ったことは内緒ね、それと注文はいつものにしておくからいいでしょ?」
「う…うん」
「互いに旦那に思うことはあるけれど、どう、ちょっとは見直したでしょ。まぁ、過去の恨み辛みは消えないけど、でも、せっかく田舎に来たんだし思い出を振り返ってみたらどう?、少しは見方が変わるかも知れないわ。私は振り返りすぎて飽きちゃってるけど」
時子がそう言って涙目を拭きながら笑顔を見せた。
光一が戻ってくると思い出話に花が咲き、厨房の正孝先輩に怒られるくらいに話し込んだ時子が去っていくまで3人で笑い合った。
でも、久々に食べた山菜そばの味は少しだけ塩辛い気がした。
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