とよばぁの店

週末の土曜日、光一の運転する車で東京から実家のある長野県の浪間村へと向かう。江戸時代には関所などもあり街道として繁盛していたが、今となっては過疎化が進んで静かな村となっていた。

 前日に突然Rainで「泊りで行くことになった。用意を頼む」といきなりの伝言に、思わず行くのを取りやめようかとも思ったが、親友で村に残った時子に行くことを連絡してしまっていたで、仕方なしに荷造りをした。光一は出張度に持って行っているスーツケースを用意しており、ご丁寧に駅前で購入したのか土産物まで玄関に整えられている。

 そんなことすら、連絡を寄越さないなんてと少しいら立ちも覚えたが、まぁ、用意してくれたのなら気にすることもないと諦めた。


 東京から3時間ほど、飯田山本インターを降りて、国道151号線を豊田方面へ下っていく途中、唐突に光一が呟いた。

 

「ああ、ここも大分朽ちてきたな…」


 子供達を乗せなくなってから二人で出かけたのは何か月ぶりだろう。

 助手席の私はスマホを見ている視線を上げて通り過ぎた景色に振り返った。


「あそこは、とよばぁのお店だったわね」


 小学校の高学年から付き合い始めた私達は、高校生になると夏の合間だけ一つ前のバス停で降りては連れ添って大切な時間を過ごしていた。なぜ夏だけだったと言えば、なんてことはない、冬は雪で歩道が覆われてしまうためだ。

 学校であったこと。村であったこと。両親とのこと。友人とのこと。お互いのこと…。

 思春期特有の悩みを抱えていた私達は互いに慰め合ったり、喧嘩しあったり、抱き合ったり、涙しあったり、と数多くの喜怒哀楽を共にしながら家路までを歩む、恥ずかしさがあっても、互いに繋いで歩いた手をふっと思い出してなんとも言えない気持ちが心を揺らした。

 長い長い付き合いなのに、どうしてこうなってしまったのかと、諦めていたのだけれどそれが疑問となって頭をもたげてきて、物思いに耽ろうとした矢先、光一の弾んだ声が耳に入ってきた。


「ああ、よく寄ったな、とよばぁお手製の梅紫蘇のジュースが梨花の定番で、俺はオレンジジュースだった。懐かしいなぁ」


「えっと…覚えてるの?」


 それを聞いて驚く。もう、興味もないと思い込んでいた。

 何を飲んでいたかなんて、私は言われるまで思い出すこともなかった。

 飲食店によくある量産品のグラスに氷と水で割られた薄赤い梅紫蘇ジュースが、姿形を現し幻想の味が口の中に広がってゆく。

 思わず唾をゴクリと飲み込んだ。

 

「忘れる訳ないさ」


 久しぶりに聞いた優しい音色のような声に思わず心が揺れる。

 あの頃によく聞いたような懐かしく柔らかな声が私の頬にふっと熱を蘇らせた。


「どこまで、覚えてる?」


 嫌味で言うつもりはなかったけれど、そう口走ってしまっていた。


「そうだなぁ…」


 光一はそう言って片手でハンドルを握りながら顎の先を右手人差し指と親指で挟むように撫で始める。

 ああ、思考するときの癖を久しぶりに見た。皺と少し弛んだ顎、整えられて刈り上げた髪だけは変わらない、きっと眉間に皺を寄せて考えているだろうと想像して、光一の横顔をしっかりと見るのは何年ぶりだろうかと考えた。


「確かあれは1年生になって1か月くらい過ぎた頃かな、バスが故障して止まっただろ。それがとよばぁとの出会いだよなぁ。」


 その通りだ。

 通学のため乗っていたバスが故障してしまい、乗客達がバスの車内車外で待ちながら、臨時のバスを待っていた時のことだった。

 光一と私はバスから降りて肩を寄せ合いながらガードレールに腰掛けて話を弾ませていた。

 そんなときだ、バス停のすぐ近くにある店先から手招きする影に気が付く。それが「とよばぁ」だった。手招きに誘われるがままにに向かってみると、店先のガラス戸の冷蔵庫から瓶ジュースを取り出してきて、とよばぁは栓を開けてこちらに差し出してくれた。


「梨花は覚えてるか?」


「覚えてる、ジュースを頂いたよね」


「そうそう、梨花がコーラで俺がオレンジジュース、受け取った時に、逆じゃないかねぇ、なんてとよばぁが言っていたけなぁ」


「ふふ、そうだったわね」


 光一は今でこそお酒から炭酸まで飲めてしまうけれど高校生の頃は炭酸系の飲料が大の苦手で避けていた。

 村の中だけで育ったから学校を遅刻するなんてことは経験したことがなく、バスの故障によってあまつさえ、外でジュースを頂くなんていう体験は初めてでとても新鮮だった。

 朝の陽ざしから徐々に昼の陽ざしへと変化する空を見つめて、時より吹いてくる心地よい風を感じながら、店先にあったベンチに腰かけて私達と、とよばぁとで楽しく話をしたものだ。

 次のバスが到着すると残った瓶ジュースをそのまま持っていきなさいとそう言って「とよばぁ」に送り出されて以降、数週間の後に意を決して買い食い禁止の校則を破るまでの短い期間、返すことがなかなかできなかった瓶は思い出として私の部屋の窓辺で輝いていた。

 どこにでもある瓶だけれど、それがとても特別に思えてその輝きは宝石に等しかった。


「それに、梨花は俺と喧嘩したあと、とよばぁに愚痴ってただろ、俺は奥の部屋に呼ばれて怒られたもんだよ」

 

「そういえばそうね、光一、よく怒られてたわね」


「女を馬鹿にするんじゃないよ、が口癖だったからなぁ」


「ふふ、そうそう、よく言ってたわ」


 女手一つで息子たちを育て上げたとよばぁ。

 小さいながらに立派に店を切り盛りしている姿に、あの頃の私は憧れを抱いたものだった。村内では古い風習ばかりが残っていて、そんな姿をした女性を見かけることなどは中々なかったからだ。村はずれのお店だったけれど、コンビニがない当時は観光客に人気があったから、高齢となって閉店までは繁盛していたと時子が言っていた。


「今、よとばぁに会ったら、どう怒られるんだろうな、俺は」


 ぼそりとそんなことを呟いた光一が口を閉じる。

 ラジオから高校生の頃に流行った懐メロが過ぎ去った日々を巻き戻すかのように、懐かしい記憶を思い越した。

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