待機所、あるいは亡者でいっぱいの冥界
篠田石斛
本編
意識が戻った時、ゴードンは自分がどこにいるのか分からなかった。
大きな事故だった。青信号の横断歩道を渡っていたところ、とんでもない衝撃を食らって宙を飛んだ。一瞬、道路脇で横転し炎上するバスが見えたが、状況を確認するよりも先にゴードンは頭から道路に叩きつけられていた。どこかの(おそらく、頭か首の)骨が砕ける音がして、そこで彼の意識は途切れている。
しばらくの間、ゴードンは体を起こすどころか、瞼を開くことすらできなかった。死の余韻が体の隅々まで残っているようで、すっかり身が竦んでしまっていたのだ。忌々しさを感じると同時に「珍しいな」ともゴードンは思った。基本的に『天使』は肉体が死んだ瞬間の情報――痛み、恐怖、衝撃などの記憶――を削除している。蘇生後の精神的ショックを軽減し、PTSDを回避するためだ。しかし、今のゴードンには生々しすぎるほどに死の感触が残っていた。全身への衝撃、妙な方向を見ている視界、砕けた骨が皮膚を突き破る痛み――ぞっとする。『天使』の調子が悪いのだろうか? 退院したらクレームを申し立てるべきかもしれない。いや、そもそもあの事故だ。自動運転が一般化して久しいのに、あんな大事故を起こすなんて。生き返るのだってただではないのだから、運転手には蘇生費と入院費含め、諸々きっちり払ってもらわないと――。
そんなことを考えているうちに落ち着いてきて、ゴードンはようやく目を開くことができた。しかしながら、眼前に見慣れた病院の天井はなかった。広がっているのはどんよりとした曇り空だ。
(一体これはどうしたことだ?)
身を起こそうと動かした手が触れたのは、ベッドのシーツではなく冷たい地面。驚いて引っ込めた手のひらに細かな砂が付着している。
訝しみながら起き上がると、そこは、どこまでも広がる荒野だった。
視界は曇天と赤茶けた大地に二分されている。あちらこちらで乾ききった草の残骸が地を這い、枯れ木がぽつりぽつりと立っている。建物らしい建物は見えず、生き物の気配がない。ひどく寒々とした場所だった。
そんな景色の中、ゴードンの周囲では大勢の人間が起き上がったり立ち竦んだりしていた。男女入り混じり、人種も服装も年齢も様々だが、彼らは揃って困惑の表情を浮かべている。口々に「ここはどこだ?」「事故はどうなった?」「どうしてこんなところに?」などと言っているのが聞こえるし、知り合いらしい連中は寄り集まって不安そうに周囲を見回していた。彼らの様子を見る限り、みんなあの大事故に巻き込まれた者たちであるようだった。
ゴードンは常日頃の癖で、手首に巻いたスマートウォッチを見た。しかしその画面は真っ暗に沈黙していて、ゴードンが何をしようがうんともすんとも反応しなかった。もしや、とポケットに手を突っ込んで携帯端末を取り出したが、そちらも同様だった。
(参ったな。電波も届かんらしい)
どうしたものか、とゴードンが考えていると。
「ああ、いたいた」
隙間風のようにかすれた、男とも女ともつかない低い声。そうして、視界の端にぬるりと黒い影が滑り込んできた。
ゴードンは影の方に視線を移し、そのまま硬直した。他の人々も似たような反応だった。
黒い、フード付きのローブを着た人影。身長二メートルはあろうかというそいつは、地面から十センチほど浮いてそこにいた。フードの奥は塗りつぶされたような闇で、その顔を窺い知ることはできない。ローブの袖から覗く手は白骨めいて白く、今にも折れそうなほど細いのに、身の丈ほどもある大きな草刈り鎌を軽々と抱えていた。
それは人々が半ばその存在を忘れかけていたもの、思い描くことがなくなって久しくなったものだった。ゴードンにも見覚えがある。『天使』の黎明期、人類は『天使』によってあれの手から逃れたのだと盛んに喧伝された。当時作られた『天使』のコマーシャルでは、あれはそそくさと画面外に消え、コミックでは鎌を置いてどこかへ旅立つ姿が描かれた。
こんな宣伝文句を用意したコピーライターもいる。すなわち――『死神に休息を』。
「いやあ、今回はずいぶんと大勢だ」
ふわふわ浮いたままそいつが言った。
「まあ問題はありません。待合所までご案内いたします。こちらについてきてください」
「ま、待て」
ゴードンが声をかけると、そいつはゆっくりとゴードンの方に振り向いた。自分の体が勝手に震えるのが不快で仕方なかったが、ゴードンはどうにか声を絞り出した。
「一体何がどうなってる? あんたは誰で、ここはどこなんだ。私は病院にいたはずだぞ、こんなところに誘拐して何のつもりだ?」
「うーん、やっぱりそうなりますか。そうですよねえ」
黒ローブは肩を竦めた。そうして。
「皆さん。誠に残念なことですが、この度あなたがたはお亡くなりになりました。いまの皆さんは魂だけの存在となっていまして、しばらくの間――それが一体いつになるのやら私には見当もつかないのですが――待合所で待機していただくことになります。私はそちらにご案内する『使者』のようなものと思っていただければ」
「そ、そんな物騒なものを持って、ですか?」
『使者』と名乗ったそいつに向かって、一人の中年女性が尋ねた。彼女の視線は鈍く光る大鎌に向けられていた。『使者』は、おや、というようなそぶりを見せてから。
「ああ、これですか。飾りのようなものですよ、ご安心を。実際に使いやしません」
何もない場所に向かって、『使者』は大鎌をゆっくりと振ってみた。それはいかにも不吉な仕草に見えた。
「うちの伝統衣装のようなものなんですがね、昨今は忘れられがちだったり、置き忘れていたりするようでして。いやあ、いつぞやのコマーシャルは傑作でしたね。私も笑ってしまいました」
「訳が分からん。私が死んだだと?」
飄々と語る『使者』にゴードンは食ってかかった。目の前の黒ローブ野郎の人を食ったような態度が気に入らなかったし、周囲の人々が怯えてばかりで誰も文句を言おうとしないのも気に入らなかった。何より、自分もまたこの状況に怯えているのだと認めるのが我慢ならなかった。
「有り得ない。『天使』はきちんと組み込んであるんだ。ここが死後の世界だかなんだか知らないが、私は帰るぞ。じきに『天使』が生き返らせてくれるんだからな」
しかしながら、『使者』はゴードンの言葉に対してあからさまにため息をついた。
「やれやれ。あなたはいつも同じことをおっしゃいますねえ」
「は?」
「では、ご自由に。気が向いたら呼んでくださいね」
不可解な言葉に面食らっているゴードンを尻目に、『使者』は他の人々に向かって言った。
「他の皆さんはいかがです? お忘れ物はありませんね? よろしい、それでは参りましょう。どうぞこちらへ」
(何なんだこの茶番は。付き合っていられるか!)
ゴードンはふてくされて荒野に横たわり、目を閉じた。ためらいがちな足音が遠ざかっていくのが聞こえ、やがて周囲から人の気配が消えた。ここに残ったのはゴードン一人であるらしいと悟った途端、ひどく心細くなったが、それでもなお目を開けずに待っていた。『天使』はいつも完璧で、これまでだってゴードンを起こしてくれていた。今回もそうなるはずだと願いながら。
『天使』とは脳に送り込むナノマシンであり、ナノマシンによってユーザーの思考と記憶をデータ化して記録する一連のシステムの総称でもある。データは常に『天使』を統括するサーバーへと送られ、バックアップデータとして保存され続ける。
『天使』はすべてを書き留める――肉体が死に、脳の活動が停止するその瞬間まで。
では、『天使』を受け入れた人間が死んだらどうなるか。
それまでの肉体が死んだ後、ストックされていた代わりの肉体(当然、クローン技術によるものだ)が速やかに運び出される。その脳にバックアップデータをインストールすることで蘇生が完了する。このインストールにも『天使』が使われており、インストール作業を終えた彼らはそのまま、新たな肉体での記録を開始するのだ。
この発明によって人類は死から解放されたと言われていた。当初はその高額さから、ごく限られた人間にしか手が届かなかったそれは、何度かの技術革新とコスト削減を経てある程度の一般化を果たした。ストックの体を若い年齢にしておくことで、先進国では少子・高齢化問題も解決に向かいつつあった。
そうして、『天使』が人類に浸透してから百年ほどが経った。
ゴードンは人類の中でも相当に『天使』の世話になっている人間の一人だった。最初の生でひと財産を築いていた彼は、『天使』が登場したかなり初期の頃からその恩恵を受けることができた。初めての蘇生の際、その衝撃と喜びが忘れられなかった彼は、面白半分に何度も死んでみた。自分の別荘の敷地内で自動操縦させた車に轢かれてみたり、素晴らしい眺めの断崖から飛び降りたり、毒抜きをしないままのフグを食べてみたり。かなり苦しい思いもしたが(中毒死は二度とやらないと決めた)その度に『天使』は問題なく彼を蘇生させてみせた。死がゴードンを分断することは最早なかった。
それなのに、今回に限って、いつまで待ってもゴードンが『蘇生』することはなかった。『天使』による蘇生は、契約時に登録した病院で行われることになっている。病院で保管されていた予備の肉体が解凍され、『天使』のクラウド上からバックアップデータをダウンロードして蘇生するのに約三時間。一晩の検査入院を経て、翌日には帰宅できるのが常だった。
しかしながら、目を閉じては開け、という動作をゴードンが何度繰り返しても、今まで何度となく見た病室の天井が視界に入ることはなく、気が滅入る曇り空が広がるばかりだった。曇っているくせに空はいつまでもぼんやりと薄明るいままで、一体ここに来てどのぐらい時間が経ったのか、ゴードンには全く分からなかった。
(……ひょっとして、今度こそ本当に死んでしまったのではないか?)
実のところ『天使』に関わる事故は、ないわけではない。今でこそ安定して稼働しているが、初期の頃はサーバーのデータ消失やハッキングによる改竄などの被害が多発したと聞く。ゴードンが死んだ時に限って障害が起きてデータが消えてしまった、という可能性もゼロではなかった。
一度思い至ってしまうと、もうそのことを考えずにいることは叶わなかった。認めたくなかったが、ゴードンは自分の内からみるみるうちに不安が膨れ上がり、叫びとなって溢れそうになるのを感じた。とにかくじっとしていられなかった。だから、叫ぶ代わりに身を起こした。
そうして――相変わらず広がる荒野の中、ぽつんとたたずむ黒ローブが一つ。
「気が向きました?」
首を傾げて尋ねてくるのが忌々しかった。
「死神もずいぶんと暇らしい」
「おや、もしや私がずっとここで待っていたとお思いで? 違いますよ、私は遍在しているのです。私はいつでも、どこにでもいる」
軽く肩を竦めて使者は笑った。
「それで、どうします? 永遠にここで横になっておいででも構わないのですがね」
「待合所とやらに行けと?」
「強制はしませんよ。一ヶ所に集まっていただいた方が、こちらとしては把握しやすいのは確かですが……まあ、些細な違いです。先ほど申し上げました通り、私はどこにでもおりますのでね」
「気に入らん。私はここから出るぞ。生き返ってやる」
「もう何時間もそこでお待ちですのに?」
使者はぞっとするほど冷たい声で笑った。
「今まであなたの『天使』が、こんなに長いことあなたをお待たせしたことがありましたか? ……ないでしょう?」
ゴードンは答えられなかった。その通りだったからだ。
「もうお分かりのはず。あなたは終わってしまったのです、間違いなく」
「……そんなはずは……」
「ここでこうしていてもお暇でしょう。待合所に行って確かめてみてはいかがですか。あそこにあるものをご覧になれば、流石にご納得いただけるかと」
実に気に入らなかったが、結局、ゴードンは使者についていくことにした。
正直なところ、一人でいるといよいよ叫び出してしまいそうだったから。
退屈極まりないことに、死後の世界はどこまで行っても変化がなかった。赤く枯れた大地、分厚い雲が垂れ込める空。生温い風がゴードンの顔を撫でる。使者は浮遊しながら、滑るような動きでゴードンの前を進んでいた。同じような景色が延々と続いているせいで、時間の感覚があやふやになってくる。
「おい、いつまでたっても何も出てこないじゃないか」
業を煮やしてゴードンが言うと、使者は低く笑い声を立てた。
「何がおかしい」
「いえ、本当にせっかちな方だと、改めて思いましてね。あなたほど毎回変わらない方も珍しいんですよ」
奇妙なことに使者の口ぶりは、まるで以前からゴードンのことを知っているようだった。
「意味が分からん。私はお前とは初対面のはずだぞ、何の話をしているんだ」
「ご心配なく。じきに分かりますよ。ほら、見えてきました」
骨張った白い手が、静かに前方を指し示した。
枯れ果てた大地の上、白い箱のようなものが無数に並んでいる。よく見ればそれらには窓があり、建物の群れであるらしいと分かった。町がある。
いつしかゴードンの足元には、ひび割れたコンクリートの道が伸びていた。道は徐々にその幅を広げながら町に向かい、やがて石畳の広場に接続した。広場の中心には白い石で作られた噴水らしきものがあった。噴水らしきもの、というのは、その中央に聳える石塊からは一滴の水も流れていなかったからだ。かつて彫像であったらしいそれは埃っぽく風化し「どうやら人間を象っているらしい」程度の造作しか読み取れない。空っぽの噴水の底には砂と枯れ葉が溜まっていた。随分と長い間、ろくな手入れもされずに放置されているようだった。
広場には数人の人影が見える。彼らはぼんやりとした、呆けた目でゴードンの方を見ていた。
そんな彼らを尻目に、噴水の側で使者は立ち止まった。ゴードンの方へと振り返り、大げさに両手を広げてみせる。
「ようこそ、待合所へ」
「待合所? ここが?」
ゴードンは思わず周囲を見回した。
「ええ」
「町じゃないか」
「そうですね、町です。かつては『裁きを待つ者の地』とか、そんな呼ばれ方もしていたのですが、だいぶ性質が変わってしまいましたので、今は単に『待合所』と呼ばれています」
裁き、という言葉を聞いて、思わずゴードンはどきりとした。ここが死後の世界だというのならば。
「さ、裁かれるのか、この私が」
「ご安心を」
使者は冷ややかに言った。
「当面その予定はありませんよ。さ、どうぞこちらへ」
そうして、再び使者はゴードンに背を向け、町の奥に向かってふわふわと移動し始めた。
「ま、待て、意味が分からんぞ! おい!」
ゴードンは慌ててその後を追った。
広場から延びる大通りを二人は進んだ。道の両側に敷かれた歩道に沿って白い建物が立ち並んでおり、どうやらそれは住居のようであった。装飾のない、劣化しかけたコンクリートの壁がどこまでも続いている。四角い穴を開けただけのように見える窓には薄汚れたガラスがはめ込まれ、中の人影を霞ませていた。誰かが建物の中からこちらを見ている気がするが、ガラスの汚れに阻まれて判然としない。
大通りには歩道に加え、四車線の車道が設けられていた。だが、それだけ広いくせに車は一台も走っていない。時折放置されている車両を見かけたが、いずれも薄白くなるほど砂埃を被っていて、長いこと動かされていないようだった。
そして何より目についたのは人だった。ゴードンは大通りのあちらこちらに、無気力に座り込んだり、虚空を見つめたまま微動だにしない人々の姿を見た。彼らの頭上には例外なく、濃淡様々なグレーのマーブル模様を描く曇天が広がっている。あまりに寒々とした景色に、ゴードンは気が滅入ってきた。
ここにいるのは自分も含めて全員が亡者だと聞いている。聞いてはいるが、いくらなんでも覇気がなさすぎるのではないか?
「何なんだ、この辛気臭さは」
空虚さを紛らわせようとゴードンは声を出した。
「天国ってのはもっとこう、景気のいいもんじゃなかったのか」
「それは」
使者が返事をした。
「あなたがたが、天国など存在しないと思ったからですよ」
「は?」
「あなたがたは『天使』によって死を克服したと判断した。故に、死の向こう側にあるものは用済みとなり、振り返られることもなく荒れ果てたのです。しかし実際のところ、私はまだここにいる」
「だが、私は現に何度も……」
「何度も死んで蘇っている。そう、ある一面ではそれは正しい。ですが、あなたはその意味を深く考えたことはありますか? 死ぬ前から記憶が続いていると言うことは、果たしてそのまま『あなた』の存続を意味するのでしょうか?」
使者の言葉は、やはり不可解だった。それなのに、ゴードンはひどく嫌な感覚が背筋を撫でるのを感じずにはいられなかった。
不安に駆られて目を逸らした先で、ゴードンは信じられないものを見た。
「ケリー?」
道端に置かれた古びたベンチ、そこに腰掛ける中年男性には見覚えがあった。色艶が褪せてシワを深く刻んだ肌、残りわずかになった髪は乱れ、薄汚れたよれよれのシャツにシワだらけのズボンといった姿は、最後に見かけた時の姿とはかけ離れた姿ではあったが――。
「おい、ケリーじゃないか?」
呼びかけが聞こえたのか、ベンチの男が顔を上げた。それは間違いなく友人のケリーの顔だった。そう確認した途端、ゴードンは彼に駆け寄っていた。何故ケリーが? 先月会った時の彼はぴんぴんしていたし『天使』だって使っている。死んだなんて話は聞いていなかった。
「一体どうして、お前がこんなところにいる。もしかして、お前もさっきの事故に巻き込まれたのか?」
問いかけるゴードンに対し、ケリーは無言で眉根を寄せた。それはケリーが不機嫌な時にする表情だとゴードンは知っていたが、同時に彼のくたびれた様子にも驚いていた。仲間内では伊達男で知られていた彼からは考えられない有り様だったし、そして何よりもゴードンを動揺させたのは、ケリーもまた他の亡者達と同じように疲れきった顔をしていたことだった。
しげしげとゴードンの顔を眺めた後、ケリーは大きくため息をついた。
「俺が死んだ後のことなんざ知らんよ。というか、お前はまた来たのか。飽きずによく死ぬもんだ。こっちは見飽きてるってのに」
「ケリー? おい、何の話だ」
「そのセリフも聞き飽きたよ」
忌々しそうに言い捨てると、ケリーはベンチから立ち上がった。そのままゴードンが呼び止めるよりも早く、すぐ隣にある建物に入っていってしまった。荒々しい音を立ててドアが閉まり、それっきりだった。どうもそこが彼の住居であったらしい。
「やれやれ、今回も怒られちゃいましたね」
呆然としていたゴードンは、使者の声で我に帰った。
「まあ、『あなた』が責められるのは、ちょっと筋違いかもしれませんがね。大目に見てあげてください。彼もここに来て長いので、それなりに参ってしまってるのです」
「……どういうことだ、何が起きている? あいつは死んでなかったはずだぞ。分かるように説明してくれ」
「ご心配なく、すぐにご覧いただけますよ。そちらに、ほら、あなたの家がありますからね」
ゴードンの家。死後の世界に家があるとはどう言うことだろう。疑問には思えど、尋ねる気力もなくなってきたゴードンは、言われるがまま使者が指し示す方向を見た。
長方形の、二階建てのコンクリートの箱。玄関のドアは木製のようだが、全面に塗られた白い塗料はあちこちが掠れ、剥げかけている。他の建物と同様に随分と簡素で、みすぼらしく見えた。(こんな風には考えたくないが)生きていた頃にゴードンが住んでいた自宅とは雲泥の差だった。広々としたリビング、大人が三人並んで寝そべっても余裕があるベッド、大画面のプロジェクターを備え、私設映画館だと自負していた書斎。あれらの元に、本当にもう、二度と戻ることはないのか。そう思うとめまいがした。
「こんな狭いところに住めと?」
「お気に召さなければ外で過ごしてもいいんですよ。ここには危険らしい危険はないですからね」
ドアの前で浮きながら使者は言った。
「長い長い間お待ちいただくのですから、せめて『寄りどころ』は必要ではないかという声がありまして――実際、そのような要望も皆様から多くいただきました。というわけで、こちらにいらした方には住居をご用意している次第です」
「待つって、一体何を」
そう言いかけた時、がたん、と大きな音が玄関の向こうから響いてきたので、ゴードンは思わず飛び上がった。ああ、と使者が頷く。
「あなたがいらしたことに気がついたようだ。壁でも蹴ったのでしょうね」
「だ、誰がいるんだ。私の家じゃないのか?」
「あなたの家ですよ。ただ、もっと正確に言うならば――『あなたがた』の」
使者はそう言って、闇そのものの顔をゴードンの方に向けた。
そこにあるのは生まれる前の闇で、眠りの間いっとき身を置く闇であり、死んだ後の闇だった。不意にゴードンはそのように直感した。彼は、死は、そこにあるのだ。自分たちはそれを克服などしていない。ゴードンは、そのことをようやく理解した。
「お分かりになりましたか?」
ゴードンの変化に気が付いたのだろう。使者が笑った。
「『天使』の本質は蘇生ではなく、複製です。『天使』は死んだ人間の、死の直前までの記憶を新しい体にコピーする。新しい体で目覚めた命は、自分の中にある人格や記憶こそが『自分』なのだと信じるでしょう。そして死に瀕した記憶があるならば『自分は生き返ったのだ』と誤認しても無理はない。たとえ記憶の中の『自分』と今の『自分』が、生命体としては同一の個体ではないのだとしても」
クローンとオリジナルは同一の個体だろうか? 片方しか存在しなければ、何となく「同じ個体だ」と言い切れてしまう気がしてくる。では、それらが同時に存在していたならばどうだろう。
もしも。『天使』によって目覚めたゴードンと、目覚める前の(つまり死ぬ前の)ゴードンが、何らかの手違いで同時に存在してしまったとしたら、それは二人とも同じゴードンだろうか? 世界は、そして何よりゴードン自身は、どちらを本物だと言えばいいのだろう? ゴードンには分からなくなってきた。
ならば、今まで何度も何度も死んできた過去のゴードンはどうなる。皆ゴードンなのだろうか? それとも「自分はゴードンだ」と思い込んでいるだけの他人なのか?
「『天使』の普及によって、こちら側では『同一人物としか思えない魂』が何人も何人も現れるようになった。宿っていた肉体は、遺伝子こそ同じですが別の個体。しかし人格と記憶は連続している。そんな魂が『天使』によって蘇生した回数分だけ発生してしまったのです」
(やめろ、それ以上言わないでくれ)
「現世での生を終えた魂は、こちらで生前の行いに応じた務めを果たし、あるいは罰を受け、最終的に浄化される。そうして無垢な魂に戻ってから命の輪に入って現世に戻る。しかし同一人物の魂が複数存在していた場合、いかに扱うべきか。複製された自我は同一の魂なのか、あるいは別人なのか?」
使者は、やれやれ、と言った様子で肩を竦めた。
「『天使』の発明以来、神々は議論を続けているのですがね。この点において決着が未だ見えないのですよ。過去のあなたが罪人だったとして、複製されたあなたにまでその罰を適用するべきか。その逆は? ……結論が出ない限り、あなたがたの処遇を決めることができない。故に神々は『天使』によって複製された魂を裁き、転生させることを保留することにしました。そうして待合所が作られたのです。複製された魂たちのための町が」
歌うように語りながら、使者は玄関のドアを開けた。
玄関の向こうは明かりのない、薄暗い廊下になっていた。廊下の先には更に別のドアが見える。その向こうにゴードンは無数の気配を感じた。恐ろしく自分に馴染む気配を。
「ここには前の『あなた』がたくさん暮らしていますが、仲良くしてくださいね。あなたはどうにも、ご自分と馬が合わないようだから」
「わ――私は死んでなんかいない!」
喚くゴードンの声が、廊下にうわんと響き渡った。
奥の部屋から誰かのさざめきが聞こえる。
「いいえ、あなたは死にました」
ゴードンの反応に動じる様子もなく、使者はきっぱりと言った。
「現世にはもう別のあなたがいる。あなたの死の記憶を引き継いで、今回も『天使』はいい仕事をしてくれた、なんて言っている新しいあなたが」
忌々しいことに、ゴードンはそんな自分をありありと想像できてしまっていた。もしも自分が「目覚めた方」のゴードンであったなら、絶対にそう言うに違いないからだ。
「あなたは『今までのあなた』の記憶を全て引き継いでいる。あなたの中ではそれは連続した記憶だったでしょうから『自分は何度も生き返った』と感じるのも無理はない。しかし、それは厳密には、あなたという個体の死ではなかったのです。あなたはあなた自身の死を迎えた。だからここにいる」
ゴードンは必死に自分の記憶を振り返った。何度も面白半分に死んだ。死んで生き返った。そう思っていた。どれもこれも、自分自身の記憶としか思えなかった。それが実際には、死ぬ前の自分をコピーし続けていただけだったなんて――。
「わ、私は知らなかったんだ! そんなことを、今更言われても」
「ええ、それはそうでしょう」
使者はそこで初めて、ゴードンを憐むような声を出した。
「死後のことなど、あなたには知る由もない。しかしそれでも、あなたはご自分の行動に向き合わなければならないのです。ここにいる『あなた』の中には、あなたの軽薄さによって長い待ち時間を余儀なくされたものもいるのだから。それに、ね」
ひどく冷たい手で、使者がゴードンの肩を掴んだ。そのまま有無をいわさぬ力で、彼は廊下の奥へとゴードンを向き直らせた。
「私はすべての命とともにある。どんな命でも私は受け止めますが……流石にね、何度も同じ方がいらっしゃって、何度も同じことをおっしゃるのは、いささか疲れてしまうんですよねえ。こんな風に、八つ当たりしたくなる程度には」
「な、何を」
「よくよくご覧になるといい。あなたの有り様を」
背中を強く突き飛ばされ、ゴードンは転げるように廊下を進んだ。奥のドアに追突しそうになった瞬間、向こう側からドアが開かれ、ゴードンは部屋の中に倒れ込んだ。
部屋の中に明かりはなく、窓からの光だけが光源であり、薄暗かった。ひしめく気配にはどれも自分と同じ匂いがした。
そうして。
無数のゴードンたちが一斉に、じっと、ゴードンの方を見た。
待機所、あるいは亡者でいっぱいの冥界 篠田石斛 @shinoda_rs_industry
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