創作荘の魔法使い(プロローグのみ)
久佐馬野景
プロローグ
ベイカー・ストリート221Bという住所は存在しない。けれどもその地点を名乗る建物は存在する。
彼女が今向かっているのもそんな建物の一つだ。公には一切明らかにされていないくせに、シャーロック・ホームズの根城だとレッテルを張りたがる。建物の持ち主は相当な捻くれ者に相違ない。
彼女はシャーロキアンではないどころか、推理小説も冒険小説も、小説というもの自体をまるで読まない。そのため最初にこの住所を聞かされた時、携帯電話の地図機能で調べ、「そんな住所は存在しないようですが」と真顔で返答していた。
ジョークのわからん奴だと笑われたが、それよりも正確に住所を伝えるように上司に詰め寄ると、「行けばわかる」とだけ返された。
実際、行けばわかった。ベイカー・ストリートを歩いて回り、彼女の目を以てそれらしい建物を見つければいい。
目の裏がちりちりと焦げるような感覚が来れば、もうすぐそこだ。同類が頻繁に集まるここは外からでも身体に訴えてくる。
スターバックスの隣、四階建ての二階。怪しまれることなく建物に入り込むと、音も立てずに目的の部屋に向かう。
「スターバックスは普遍の理の一つだ。そうは思わないかい?」
事務机の奥に腰かけ、ハンバーガーにかぶりついている初老の男。
「マクドナルドやケンタッキーもですか」
「なんだ! 君もジョークがわかるようになってきたか!」
「いえ、単に来る途中で目にしただけです」
冷淡に言い放つと、男は笑いながらまだ三分の二は残っていたハンバーガーを二口で平らげ、紙ナプキンで手と口を拭き、包み紙を丸めて纏めて紙袋に放り込んだ。器用な人だと感心する。
「それで、何の用でしょう、フライデー」
フライデーというのは通称だ。互いに本名は明かさないという主義で集まっている団体なので、こうしたものが必要になってくる。
シャーロック・ホームズの居住地を自称するのだから素直に「ホームズ」や「ワトスン」と名乗ればいいものを、この男は二十年程前に出た日本のホームズパスティーシュの登場人物から取っている。捻くれすぎて後ろを向きながら後進しているのがこの男なのだ。
「ああ、その前に普遍の理の話を少し」
悪戯っぽく笑うフライデーの表情は、こちらを試しているのか、おちょくっているのか。
「言ってしまえば、普遍の理なんてものはない。今一番それに近いのは、やっぱりスターバックスになるんじゃないかな」
自分の言葉に何の変化もきたさない彼女を見て、フライデーは肩を落とすこともなく続ける。
「我々はこうしてヨーロッパという共通認識の上に行動しているが、それだって怪しいものだ。土地土地によって様々な主義主張が横行し、異なる言語で言い争う」
「それでも」
「そうだ。『魔法は我らの心の中に』――我々はその言葉の下、主義主張も言語も超えてこうして集まっている。ところがだ、これは決して普遍の理という訳ではないんだな。我々の世間内だけで通用する共同幻想に過ぎないと言えば、怒る連中もいるだろうが」
彼女が全く表情を変えないのに少し落胆したように溜め息を吐く。
「我々の共同幻想が、確かな力を持っていることに疑いの余地はない。だから僕はこうしてベイカー・ストリートなんていう一等地に居を構えている。力があるとわかった後にどうするか? その力を不変のものとしたい――そしてやがては普遍の理へ、とね」
「敵ですか」
彼女の素早い洞察をフライデーはまあまあと窘める。
「話が速くて助かるが、急ぎすぎるのは好みじゃない。まあ、敵と言えば敵だね。文化的な敵だ」
彼女はここで少しだけ眉を顰めた。今日初めての表情の変化だぞ――とフライデーはにやりとする。
「我々の主張はこうだ。『魔法は進化してはならない』」
「常に古きものにその存在を委ね、古きもののみを糧とする」
「その通り。魔法に前進はない。前進したと見えるのなら、それは後進であるべきだ。だから愚かな連中は我々をこう呼ぶ――〈古典魔法使い〉と」
そう言って魔法使いである男は含みのある笑みを見せた。
「敵は〈現代魔法使い〉ですか」
また先回りか――フライデーはもう一度まあまあと落ち着かせる。
「〈現代魔法使い〉などというものは存在しないよ。そもそも古典と現代に分ける必要すらない。魔法使いは全て彼らの言うところの〈古典魔法使い〉なのだから」
「
フライデーは笑いながら真剣に頷いた。
「ありっこないが、ないとも言えない。そしてこれを人為的に引き起こそうとしている気配がある」
漸く敵が見えてきたことに、彼女の張り詰めていた背筋がさらに伸びる。
「とは言え今回は
「隠秘の掟は巌に」
「神秘は隠されていなければならない。その掟を守るために掟を破る無法なら通る。ほどほどに、と言いたかったんだよ」
「場所は?」
気が逸っているのか、さっさと会話を終わらせたいのか。
「日本だ。日本語は?」
「半月あれば習得出来ます」
魔法は万能ではない。彼女は常軌を逸した己の努力によって、本当に半月で言語を習得するのだろう。
「しかし、日本と言えば――」
「ああ、今回行ってもらうのは、そのエリアAの近くになる。降魔降はあの国を変えた。今回の仕事も、裏では国が動いているという見方もある。国そのものが想像者に目を付けた――これは全く異常だよ」
「敵は国、ですか」
彼女の瞳に冷たい炎が宿る。フライデーは三度目のまあまあを繰り出した。彼女の場合、本気で相手取りそうで見ている方が気が気でない。
「そんなに構える必要はない。国が動いているとしてもあくまで裏方だ。我々が計画を潰したとわかれば大人しく手を引くさ」
「はい。では準備にかかります。用意が出来次第日本へ」
「あまり急ぐ必要はないよ。無論早いことに越したことはないが、言語は完璧にマスターしておいてくれ。我々にとってコミュニケーションは最重要だ」
「わかりました」
彼女は一礼して部屋を出る。
ベイカー・ストリートにはスターバックスもマクドナルドもケンタッキーフライドチキンもある。普遍の理とはそういうものだ。それらは彼女が向かう日本にも当然のようにあるのだから。
創作荘の魔法使い(プロローグのみ) 久佐馬野景 @nokagekusaba
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