第5話
先生は病院の職員に連れて行かれ、その後、音信は途絶えた。後日、鎌田医院を訪ねると、そこは空き家になっていた。先生はあのまま戻らなかったのだろう。俺のせいでもあるが、彼の家族の誰も俺の責任を問おうとはしなかったようだ。
先生を連れに来た屈強な外見の職員たちに、俺はただ、起きるとこうなっていた、とだけ説明した。彼らはスマホの映像をチェックしたが、何も言わなかった。そのまま先生を車に押しこむと、「後日電話する」と言って去った。
電話では先生の容態などはいっさい話さず、ただ医療費の精算の話だけを一方的にまくし立てられ、そのまま切れた。病院に来て欲しくないのか、銀行振込みだった。それで行ってみたら、前述のように誰もおらず、塀には早々と「売家」の紙が貼られていた。
俺がそうしたのではないが、本当に申し訳ないと思っている。俺を診なければ、あの優しく気さくだった鎌田先生は、ああならずに済んだのだ。
だが、もうどうにもならないことだ。
こうなる運命だったのだ、と今は感じている。
全てはあいつのせいだが、俺はもはやあいつをどうこうする気がなくなっている。
あいつは今も変わらずタンスの上にでんと立っているばかりか、このごろは俺をにらんだり、かと思うと目を見開いて笑ったり、ついには口まできくようになった。「ちゃんと食べてるか」とか、「風邪は引いてないか」とか、まるで母親のようにうるさく聞いてくるので、俺はそのたびに不機嫌に「大丈夫だ」と言い返している。
それで最近、思い出したことがある。そうだ、母親もずっと俺の記憶の中にあったような血も涙もない鬼畜ではなく、本当は優しく接してくれたり、気遣ってくれたことが何度もあったのだ。ただ俺が、それら全ての裏に下心があると決めつけ、「全ては俺を利用するためにしている偽善だ」と解釈していたために、母の何気ない優しさまで全て否定し、気持ちの奥に葬っていた。「今さら優しくすんじゃねえよ」と意固地にもなっていた。
だが、そう思われても仕方がないことを奴は散々やったのだ。そのことで俺がどんな思いをしているかに、とうとう最後まで気づかなかった。いくら優しさがあっても、その逆を平気で数倍の量でやっていたら、冷酷非情と同じである。
恐ろしいのは、その非情さが死んでからも、こんなふうに俺に向かって続いていることだ。
その理由は分からない。人形に取り憑いたか転生したかしてまで俺を脅かし、俺の周りの人まで不幸に陥れて、いったいなんのメリットがあるというのか。
まあ、この世ならざる者のすることだ。動物と同じで、自分の意思ではなく、その体質のせいで自動的にやっているだけかもしれない。
だが、ひとつ確実なことがある。
俺の母親は生きている。
肉体は事故で死んでも、その魂は人形になって、今もこのとおり、俺の目の前で生きている。
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俺は全てがどうでもよくなった。就職が決まっていた会社には一度も行かずに終わり、わずかな貯金をちびちび使い、日々ろくに飯も食わず、朝から昼、夕暮れから夜中まで、ただ敷きっぱなしの布団の上に座り、背を後ろの壁にもたれて、廃人のようにぼうっとタンスの人形を眺めて暮らしている。
俺が自堕落になると、奴は小言を言わなくなり、今日は寒いとか、いい天気だとか、当たり障りのない話だけをするようになった。
たまに子供の頃の俺の話をし、以前ならそんなことに触れようものならブチ切れて怒鳴り返していたところを、今の俺はとても穏やかな気持ちでそれに聞き入り、気づけば、薄っすらと幸福な笑みさえ浮かべている。
ひと月もすると貯金がなくなり、もう家賃も払えないので、俺は催促される前にケースから人形を出して手に抱え、そのまま外に出て川へ向かった。真夜中の川原には誰もいない。奴が寒いと言うので、少し辛抱しろ、と叱った。
俺は奴を抱えたまま川に入っていった。冬の水は飛びあがるほどに冷たいはずだが、今の俺には、肌がやや痛いだけで、そうきつくはなかった。溺れる深さではないが、頭まですっぽり潜れば確実に凍えるだろう。
母は足が水に浸かっても嫌がりもせず、ただ横目でこっちを見て、ぽつりとこう言った。
「お前は、いい子だね」
彼女が喜んでいることを俺は知っていた。
胸まで浸かると、意識が薄れてきた。どこまでも続く川のどんよりとした水に、見たこともない深淵が真っ黒な口をあけているのが見える。
もうすぐ、あそこへ行ける。父と母の待つあの暗い永遠の闇の世界へ、俺ももうすぐ行き着くのだ。
だが、もし母のようにここへ戻ってくることがあるとしたら――
俺はいったい、誰のもとへ行くのだろうか?(「人形の怪」終)
人形の怪 ラッキー平山 @yaminokaz
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