第4話
例によって窓からの日差しで目があいた。まだぼうっとしているので、仰向けのまま少しじっとしていると、天井の電灯がついたままなのに気づいた。たちまち嫌な予感がして意識がはっきりした。右のタンスのほうに、かつてないほどの気味の悪い感じが、硝煙のように揺らめいているのを感じる。
やはり、いる。
それは分かったが――
(先生は、どこに……?)
右に目をやると、椅子の茶色い足がある。そのまま見上げていくと、黒くボコボコした底が見え、凸の部分のこっち側が、かすかな日で縁取られて陰鬱に光っている。
先生はいない。
起き上がり、見たくなかったがそっちを見て、人形が変わらずケースの中にいるのを確認してから、部屋の中を探した。
いないが、玄関に靴はあるから外へは行っていない。
以前は親子三人で暮らしていたこの一室には、玄関からすぐのフローリングの間を入れると部屋が三つあるが、押入れや風呂場、トイレまで見ても、やはりいない。
また嫌な予感がむくむくと膨れあがり、奥の自分の部屋に戻ると、ベランダが目についたので、行ってガラス窓を引き開けた。顔を出して左を見たとたん、息を呑んだ。小太りの男の黒ズボンの尻が見える。彼は洗濯機の口に上半身を突っこみ、そのままだらんと両足を投げ出していた。
部屋の左奥にある窓の前には机がくっつけてあり、高い棚にさえぎられて、向こうのベランダの左はしに置いてある洗濯機が見えない。もし机がなければ、洗濯機に右側からだらりとしなだれかかっている黒い大蛇のような異様な物体が、窓の向こうにぼうっと見えたろう。
あわてて外に出て近づくと、先生の小柄な体は、水色のチェックのセーターの腰のあたりまで洗濯機の槽に深々と突っこまれ、そのまま微動だにせず伸びていた。
呼びかけようとすると、不意にある音がしているのに気づいた。それは小さく、さっきから洗濯槽の中から延々と鳴り響いている。
「んふふふ、んふふふ、ふふ……!」
引きつった、尋常でない笑いだった。あきらかに、いつもの先生の、タヌキっぽいような高めの声だ。それが、この槽の中からくぐもって、かすかに聞こえてくるのに気づき、背筋が凍りついた。
呼びかけることも出来ずにしばらく突っ立っていたが、急に意を決して彼の肩をつかみ、後ろに思いきり引っぱった。抵抗はなく、ただ頭を突っこんで伸びていただけらしく、楽に引き出せた。
だが、彼は気絶しているのではなかった。外に出ると、「んふふふふ、ふふ」という笑いはわっと大きくなり、ついには――
「んふふふふふ、ひゃは、ひゃははははああ!!」
笑い声をほとばしらせ、先生は一度わっと顔を上にあげた。白目をむき、大きく吊りあがった口元から、引きつった不気味な笑いを延々もらし続けている。
彼は完全に正気を失っていた。
そのままベランダに、どさりと仰向けに倒れた。
俺はがく然となって身を引き、奥の壁に背をもたれた。這うように部屋に戻り、とりあえず病院に電話を、とスマホを取ったとき、まだ誰もいそうにないことに気づいた。
ふとタンスの上へ目が行くと、そこには何度壊しても燃やしてもすぐに甦るおぞましい化け物が、変わらぬ薄笑いを浮かべて、こっちを見ていた。俺は恐怖より怒りが勝り、そいつに向かって吐き捨てるように怒鳴った。
「お、お前だろ! お前がやったんだろ!」
先生が怪我を負ったり、最悪殺された、とかいうのなら、俺がやった可能性がきわめて高い。だが、こんなふうに頭をいかれさせるなんて真似は、俺には出来ない。こいつが何かやったとしか考えられない。
(いや待て、落ち着け……!)
俺はしゃがみ、両手で顔をぐっと押さえて、冷静になろうとした。何か飲ませて狂わせるとか、そういうこともありうる。たとえば俺が何か劇薬でも用意していて、それを騙して先生に飲ませた。で、こうなった、と。
だが、いくら夢遊病でも、そこまでするだろうか? そして、そんな俺を先生が、そうやすやすと信用して引っかかるだろうか?
部屋を探しても、そんな薬のようなものは見当たらない。と、奴の後ろに何かあるのに気づいた。
そうだ、先生のスマホだ。
手を伸ばして取ると、まだ撮影が続いていたので、停止させた。
俺は生唾を飲み込んだ。ここに全ての真相がある。
(このスマホに撮影された映像を見れば)
(昨晩、何か起きたかが全て分かる……!)
俺は布団の上に座り、その映像を初めから再生させた。ベランダからは、先生の引きつった笑いが、かすかに聞こえてくる。
先生を部屋に入れるべきだったろうが、そこまで思いつかなかった。外が寒くなかったのは幸いだった。
映像は俺が眠った午前二時ごろから始まり、それ以降は何時間早送りしてもタンスの上に変化はない。
だが、午前六時ごろだった。急に画面が真っ黒に変わったので、あわてて戻し、その直前から再生した。しばらくは以前と変わらず色あせたタンスの屋根の部分が映っているだけだが、いきなり映像が途切れたように真っ暗になった。
電源が落ちて撮影が止まったのかと思ったが、そうではなかった。黒い画面が始まって一分もすると、不意にスピーカーから、ある異様な音が聞こえてきたのだ。それはたったいま俺が聞き、今も聞こえ続けている、あの気味の悪いものだった。
「んふふふ、んふふふ、んふふふ……」
引きつったような先生の笑いは、耳を付けると確かにスマホからしていた。画面は黒いのに音がしているということは、撮影は続いているわけだ。
だが、なぜ急に真っ暗になったのか。手でふさいだとか、黒い紙かなんかをカメラに押しつけた、とかいう感じではない。画面がいきなり断ち切れたように、ガクンとゆれて黒に変わったのだ。どう見ても映像が終わった感じだ。
しかし映像が終わったのに、音だけが続くというのはありえない。それなのに、黒に変わった直後、先生がいきなり笑い出し、それがずっと今も続いている。
つまりこのとき、先生の正気を失わせるような何かが、このタンスの上で起きた、ということだ。
笑いはしばらくすると遠のき、ガタンと鈍い音がして、それきりになった。おそらく、先生はベランダへ行って洗濯機の蓋を乱暴にあけ、そこへ頭を突っこんだのだ。あとは真っ黒な画面だけが延々と、さっき俺が気づいて電源を切るまで、二時間は続いた。切る直前、映像はもとに戻った。タンスの黄色い屋根のうえ、ケースに入った人形の背が、はっきりと映っている。
俺はあまりの不可解さに呆然とした。
いったい先生は、このとき何を見たのか。
ある考えが浮かび、背筋が一気に凍りついた。
先生は、人形とガラスケースが自分で復元していく様を目の当たりにし、あまりの恐怖に気がふれたのではないか。粉々に壊れたものが見る見るもとに戻っていくなんて、どれほどおぞましい光景だろう。ゴミ袋に入っていたカケラが自分でここへ戻ってきて合わさり、この薄笑いの日本人形を形作る。そして最後に、こいつは驚がくする先生を、いつもの寄り目ではない、完全に彼の方を向いた視線で、にらみつけたに違いない。
なぜなら、こいつは今立っている俺の三十センチほど右にいるが、その二つの小さな黒い瞳は、ぐっと俺の方に寄った流し目なのだ。その口元は悪魔のように大きく吊りあがり、今にも噛みつきそうな冷たい野獣の表情で、俺をじっと見つめているのだ。
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