第122話 ローレンと小料理屋
「よし、よし、よ───っし!!」
自分の部屋に戻って来たマグヌスは、独り喜びに浸っていた。
これでまた、あの娘を追いかけられる。 またあの娘を見ていられる。 もっと見ていたい。 もっと、もっと……。
「やべぇ……俺、ヤバいよな? しかし、この衝動は止められそうにねぇ……あのローレンて野郎とんでもねぇな……俺の人生を狂わそうとしてやがる!!」
ローレンにはとばっちりも良いところだが、それほど人を夢中にさせるアイドルと言うコンテンツは、音楽業界においてもまさに異質なものだった。
ローレンはノワールに忠告されていた。 アイドルを手掛けるならば、アイドルの身辺に気をつけるようにと。 護ってあげられなければ、犯罪に巻き込まれかねないのだと。
なるほど、色んな角度から見ても、その熱量は常軌を逸している。 放置しておくと、勝手にコンテンツが増えて、それぞれが独り歩きしそうになる。
ネットへの書き込みはとても顕著で、会社や参加者への誹謗中傷は当たり前。 勝手に炎上して、勝手に鎮火するなんてこともザラにある。 社のデータベースに潜り込んで情報を得ようとする者は後を絶たない。
しかし、ローレンは出来る男だ。 そして彼を支えるバックボーンはそれこそ強固だと言える。 今、アイドル産業が世界を大きく揺るがそうとしていた!!
マグヌスがインターネットに没入した頃、ローレンはひとりナーストレンドの街を歩いていた。
「一週間……? いったい何をすれば……」
ローレンは翌日から一週間の休みを余儀なくされ、本日中に出来る仕事を終わらせたがために夜も更けていった。
城を出る頃には街灯も薄暗く、街の喧騒はどこかに消えて、人影もなくなっていた。
宛もなくナーストレンドの街を歩いていたローレンは、街の路地に灯りの点いた小さな店を見つけた。
店の看板には【小料理屋ミル】の文字が刻まれている。
ローレンは朝から栄養ドリンクしか飲んでいないことを思い出した。
「何か……食べるかな……」
ローレンはそんなにお腹が空いている訳ではなかったが、久しぶりにちゃんとした食事でも摂ろうと、店の扉を開けた。
─チリリン♪
小気味よい音がローレンの入店を知らせる。
店はカウンターだけの小ぢんまりした内装だった。 客席にはもう一人も座っていない。
「あらいらっしゃい♪ もうお店は……いいわ、そこに座ってちょうだい?」
「いや、もう店じまいだったのでしょう? 悪いので私は……」
「いいから座ってちょうだい? はい、温かいわよ」
ローレンにとても温かなおしぼりが、女将の白いたおやかな手から渡される。 外気ですっかり冷えた手が、じんわりと温もっていく。
「ありがとう……ございます」
「ん。 何か呑む?」
「いや私は……。 そうですね、何かいただきましょう」
「そ。 じゃ、コレをどうぞ」
─すっ。
女将は小さなグラスに何やら無色透明の飲み物を注ぐ。 湯気が出ているので温かそうだ。
「……穀物酒でしょうか。 いただきます」
「ん。 何か作るから、その間これでも食べてちょうだい」
─ことり。
店主はローレンの前に小鉢を出した。
「これは?」
「ん? オーガアンコウの肝よ?」
「へぇ……初めて食べます。 ん……あ、うまい」
「ほんと? 苦手な人もいるから、お口に合って良かったわ♪」
女将がにこりと笑う。 少し憂いを帯びた、艶のある顔立ちをしている。 しかし下卑た感じはなく、むしろとても上品な笑顔だ。
「女将……本当に簡単なモノで大丈夫なんで、チャチャッと食べて帰ります」
「ん。 ああ、女将はやめてくれる? うちは狭いからアットホームな感じが売りなのよ。 ミルって名前で呼んでくれるかしら?」
「ミル……さんでいいんですかね? 私はローレンと申します」
「ほらローレンさん、堅苦しいのは抜きよ?」
「……はい、ミル……さん」
ミルさんは手際よく何かの野菜を刻んでいる。 トントントンと正確にリズムを刻み、何かの椀物の上に緑の葉を散らした。
そしてそれを両手で優しく包み込むように持ち上げて、ローレンの前まで運んでくれる。
「これはさっき出したオーガアンコウのアラから出汁をとった潮汁よ。 塩だけで味付けしてるけど、身体が温まるわよ」
「……いただきます」
─ず……
あぁ……旨い。 塩味が素材の味をそのままに優しく引き立てて、そしてなにより温かい。 きっとこの人の心もこんな……。
ローレンは目線を上げてメルの顔を見た。 眼の下に泣き黒子。 さらりと垂れた髪を耳にかける仕草。 飾り気はない、されどか細く白い指先がとても美しく思える。
少し見過ぎたのかも知れない、視線に気付いたミルと視線が交差する。 ローレンは途端に気恥ずかしくなって、椀物へと目線を落とした。
「どう? おくちに合うかしら?」
「はい。 それはもう……こんなに美味しいと感じたのは何時ぶりだろうか……」
「……んふふ。 お世辞でも嬉しいわ♪」
ミルは続けて何かを焼き始めた。 鳥の肉だろうか、ひとつひとつが丁寧な仕事で、所作が流れるようで美しい。 小さな肉塊を串に刺して炭火を敷いた網の上に置いて、くるくると回しながら炙り焼きにしていく。
肉の皮目から脂が滴り落ちて炭に当たり、じゅっと煙となって引き返し、肉をくゆらせてへと空気へ溶け込んでいく。
途端に香ばしい香りが鼻腔を刺激して、温まった胃袋を活性化させる。 なるほど、食欲が湧く。
「こんなお時間まで……お仕事をなさっておられたのかしら?」
「ええ、まあ」
「それはお疲れ様。 明日もお仕事かしら?」
「……その予定だったんですが……」
「あら、変なことを訊いたかしら、ごめんなさい」
「あっ……いえ、そうじゃないんです。 仕事は順調すぎるくらい順調なのですが、急に時間が出来ちゃいまして……今、それを持て余しているところなんです……」
「そう。 じゃあ、今日はたくさん呑んでも大丈夫ね♪」
─ことり。
鳥の串焼きが皿に盛られて置かれる。 鳥の首の肉、もも肉の間に葱を刺したもの、そして鳥団子だ。 団子はタレ焼きで、他は塩だけで味付けしたらしい。
ミルさんはその皿を出すと、カウンターから入口の方へと向かい、私の肩に軽く手を置いて。
「うしろごめんなさいね。 看板入れてくるわ。 あ、追い出すわけじゃないから、ゆっくりしていってね。 看板を仕舞うだけだから」
出された串はどれも柔らかで、噛むかほどに肉汁が溢れてくる。 旨い。 そしてお酒がすすむ。
お酒が入ったせいなのか、ローレンは鼓動が速るのを感じた。
ミルさんは看板を仕舞うと、ドアを閉めてローレンの後ろを過ぎり、空いた皿を手に取った。
仄かに柔軟剤のような残り香が鼻腔をくすぐる。
何故かそれをミルさんに気付かれないように、胸の奥に吸い込んでしまう。
「……いけない。 ミルさん、どれも本当に美味しかったです。 ご馳走様でした」
「え、まだお料理の用意があるのだけれど……でも、お引き止めするのも悪いかしら?」
「……えと……では、もうすこしだけ。 あの……煙草は吸っても?」
「本当は禁煙なんだけど、今夜は良いわ。 ん、看板も仕舞った事だし、私も呑もうかしら?」
「ええ、閉店間際に来たのはこちらの方なので、どうぞ呑んでください。 お礼に私につけていただいて構いませんから」
「あらそう? 私はけっこう呑める方なのよ? 大丈夫?」
「ええ、浴びるほど呑んでいただいても、ちゃんとお支払いしますよ♪」
「んふふ。 じゃ、お言葉に甘えようかしら♪ その代わりお料理は腕に
「楽しみにしてます」
ミルさんは再びカウンターに入ると、ローレンの分のお酒と自分の分のお酒を注いだ。
「じゃ、乾杯!」
「はい、乾杯!」
ふたりぐいっとグラスを空けると、ふうっと息を吐いて、ははっと笑い合った。
ああ、居心地の良い店だ。
ローレンは煙草に火を点けて一口
─ふぅ…
「このお店……」
「はい」
「主人の店だったの……」
「だった……ですか」
「ん。 主人は私が嫌だって言うのに、平気で煙草を吸う人だったわ。 きっとそれがイケなかったのよ。 あの人、肺を悪くしても、辞めないもんだから……先に逝っちゃったのよ……」
「そう、ですか……何かすみません」
「ん〜ん、いいの。 とても小さなお店でしょ?」
「……はい。 でも、とても綺麗にお手入れされてて、良いお店です」
「ん、そうね。 主人は、このカウンターに収まるだけのお客さんを、誠心誠意おもてなしして喜んでもらうことが、自分の喜びであり、生き甲斐なんだって言って、このお店を愛していたから。 私も、このお店を大事にしているの」
「今も、ご主人のこと、愛してらっしゃるんですね」
「ん、そうね。 愛してるわ」
ローレンは少しドキッとして、少しモヤッとした。
残りの煙草を一気に
カウンターの中で女がひとり、お酒を口に運び、ため息交じりの息を吐く。
「ふぅ……でもダメね。 私、あの人が居なくなってもやれると思っていたけれど、このお店、たたむことにしたの」
「え……」
「そう、たたむの、このお店」
「だって良いお店じゃないですか……」
「良い店なだけでは食べていけないのよ。 私も、あの人もお料理やおもてなしは出来ても、商才はないみたい。 やればやるほど借金は
「そんな……」
「このお店も売りに出すことに……ようやく決心が着いたの」
「……だってこのお店は大事な……」
「もういいの。 あの人はもう居ないんだもの……」
「そんな……」
「ごめんなさいね、初めて来てくれたお客さんに……こんな……私、酔っちゃったのかしら……?」
「酔ってもいいじゃないですか、もう客も、私しかおりませんし……」
「……んふ、それもそうね♪」
「ええ、呑みましょう!」
男と女、カウンターを挟んでも、さほどの距離もない。
ふたり、酒も入って、夢も現もない。
他の何を見るでなく
視線が合う
お互い酔っているのか
いないのか
視線はやがて
揺れて
濡れて
絡み合うのだった。
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