第82話 大魔法使い

 ─疲れた。


 さすがに疲れた僕は、ひとりパーティー会場を抜けた。

 スタッフ用のシャワールームで汗を流してからガウンを羽織り、マダムに特別に充てがわれた、自室へと戻ってベッドへ倒れ込んだ。

 ああ……吸い込まれそうな程にフカフカのベッドだ。

 それに、とても気分が落ち着くラベンダーの様な香りのポプリ。

 よほど疲れていたのか、意識もまたベッドへ埋もれて行こうとしていた。



─ガチャリ


 ………………。


 ………………。


 ……………あ。


 なんだろう、この感じ。


 あたたかい。


 そしてやわらかい。


 どこかで一度感じたことがある。


 なんだかなつかしい。


─ちぅ


 ………………。


─ちぅ


 ………………シロ……いや、今はモモ? モモなの?


─ちぅ


 この……少し不器用なキス……ん……唇にとても……甘い。


─ちぅ


 僕は夢現の中、なんとか薄目を開けて顔の前の天使を視認出来た。


 ああ……天使だ。


 そうか……僕は……死んだのか?


 ……それにしても甘い。


 口の中がとても甘い……そう、これは珈琲の……いや、ラム酒?


─ぺろぺろ


 …………………。



「ティラミスだ!!」


「ひゃうっ!?」



 眼の前の天使は目をぱちくりとさせてこちらを見ている。



「えっ!? モモ!? どうしてここに……?」



 天使は目をとろりと溶かして笑う。



「それわねぇ……モモわねぇ……」



─ガバッ


 天使がめっちゃ抱きついてくる!?



「ふにゅう……ふふふ」


「モモ?」


「ん……モモわぁ……クロにぃ……あいたかったんだぉ〜♪」



 何だこの桃色天使!? めっちゃくっついてくる!?



「そうか……モモ?」


「んん?」


「僕もねぇ、モモに逢えて嬉しい♪」


「にへへぇ〜♪ しってるおそんなことわぁ〜♪」


「酔ってるな……」


「モモわぁ〜よってなんか……ひく……らいぉ〜?」



 誰だ!? モモをこんな酔いどれ天使にした奴は!?



「ねぇ……クロぉ……クロとねぇ?」


「ん?」


「クロとちゅうするとねぇ……からだがあちゅいお……」


「おいおい……」


「なんかねぇ……こう……キュンってなるぉ」


「そう……なのか」


「ん。 あちゅい……」



 天使様はショートブーツを脱ぎ捨てて、ステージ衣装も次々と放り投げ始めた!!


 おいおいおいおいおいっ!?

 


「モモ? 暑いのはわかるが、それ以上は脱ぐのやめような? なっ!?」


「ええ!? なんれらのぉ〜?」


「だってほら……下着脱いだらすっぽんぽんだぞ!?」


「なぁにぃ〜? クロにはなんろもみられてるからぁ〜らいじょ〜ぶらぉ?」


「いや、僕が恥ずかしいだろ?」


「らぁねぇ~…………」



─っ!?

 天使様が一枚しか羽織っていない僕のガウンの腰ひもを解いてしまわれた……。



「クロもはらかになればいいらなぁい……。 ほらぁ、はずかしくらいれしょ〜?」


「僕のガウン……」



 そして、眼の前の天使は、お生まれになったままのお姿となって僕の前に降臨したのだ。


 目のやり場が……すみません、天使様!! 僕は罪深い男です……一糸纏わぬあるがままのお姿を見てしまっています……そして、目が離せません!!


 天使様は僕の眼の前で仁王立ちしているのだ。 実にあられもないお姿のまま。


 天井の照明が逆光となって、その細くて柔らかそうな肢体を、淡く、そして艶かしくその輪郭を縁取っている。


 女性の最も女性とも言うべきその御神体は……もはや言葉に出来る比喩表現を超越した、一種の超常現象に等しい。


 既に荒波を打ちまくっている僕の心臓が、テンペストと化している。


 僕は……僕はどうなってしまうのでしょうか!? 天使様!?



「クロぉ……」


「モモ……?」



 

 ああ……だめだ。


 全然だめだ。


 抗えない。


 抗う気持ちすら起きない。


 もう……このまま……。



「クロぉ……うっ……」



─っ!?

 ……涙。



「クロぉ……うぅ……」


「モモ……いや、シロ? どうした?」


「あのね?」


「うん……」


「アハトちゃんは……どうなったの?」



─一言。

 たった一言で荒れ狂っていた僕の心は凪いだ。



「………………」


「アハトちゃんとは……もうあえないの?」


「………………」


「もう……天国にいっちゃったの?」


「アハトさんは……」



 僕はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置いていた荷物を開けて、あるモノを取り出した。


 そして、徐ろにシロの前へと行くと、それを差し出した。



「これが……これが今のアハトさんだ……。 僕が彼女を守れなくって……こんなになっちゃったんだ……ごめんね? ごめん……ごめん……ごめんよぉ……」



 僕の手の中に黒ずんだ肉片が纏わりついた、彼女の瞳と同じ色をしている真紅の魔石。



「アハト……ちゃん?」



 シロはそっと優しくアハトさんを掬い上げて、自分の胸へと押し当てた。

 物悲しく、それでいて慈しむ様にアハトさんの欠片を何度も見つめては、また抱きしめてを繰り返した。


 頬を伝う珠の雫は首筋を過ぎて尚止め処なく、胸元に緩やかな流線を描く。


 僕はアハトさんごとシロを抱き寄せた。 抱いて、同じ様に涙を流し、シロの髪の毛に染み込ませていた。



「うわあああああぁぁぁぁ…」



 シロは悲しみを吐き出すように大声で泣いた。 その声はどちらの声とも似て、どちらの声とも似つかなかった。


 こころが泣いている。 うるさいくらいにわんわんと泣き叫んで止まない。 僕はもう、さんざ泣いた筈だった。 なのに泣いている。


 僕の胸のぽっかりと空いた穴は、あの日シロが埋めてくれた。 僕にはそれで十分だった。 けれど今、大きく胸を抉られて痛み悲しんで泣いているのは、シロだ。


 正直なところ、シロはアハトさんには会っていないので、あまり感傷に浸る事は無いのではないかと、ずっと黙っていた。

 それは僕の勝手な思い込みであり、大間違いだった様だ。

 シロはずっと心配してくれていたのだ……悪いことをした。


 シロにとってはたった一人の肉身、或いは自身の一部を失ったかの様な悲しみであり、空虚な気持ちなのだろう。 その代わりなんてどこにも居ないし、誰にも成れやしない。


 僕にシロの大きな穴を埋めてあげられるのかわからない。 わからないけど、埋めてあげなくちゃ。


 シロは僕の大切な人だ。


 シロの心を埋めてあげられるのは、僕だけであって欲しい。

 そんな事は自己満足でしか無いことは分かっている。 分かっている……。



 僕は哀しみに打ち震えるシロを丸ごと包みこんで覆い被さった。

 ただ、身体を重ねてお互いを感じる事で、孤独から遠退く事が出来るのだ。

 僕はそれをシロに教えてもらった。 今度は僕が教えてあげる番だろう。


─シロは独りじゃない、僕がいる!


 僕がいるよ。


 僕が、いるよ?


 君は、独りじゃない。


 ほら、僕を感じて。


 ほら、体温を感じて。


 ほら、呼吸を感じて。


 ほら、鼓動を感じて。


 ほら、声を聴いて。


 僕はここにいる。


 ここにいて


 君を愛している。


 愛している。


 アハトさんは…


 もういない。


 いないけど


 アハトさんもいる。


 きっとここにいる。


 そんな……


 そんな気がするんだ。


 きっと


 そばにいる。


─そばにいるよ


 ほらね。


 そばにいる。


 だから……


 泣くだけ泣いたら


 いつもの様に


 笑って欲しい。 


 僕も


 アハトさんも


 そばにいるから。


 泣きじゃくるシロに僕は、側にいることしか出来ないでいた。



「クロ……」


「うん……」


「私……」


「うん……」


「アハトちゃんみたいな子供が欲しい」


「えっ!?」


「将来、結婚したら……子供が出来るでしょう? そしたらねぇ? アハトちゃんみたいな子が欲しいの」


「う、うん。 シロがお母さんなら、きっとアハトちゃんみたいに可愛くって良い子が出来るんじゃないかな?」


「うん。 クロがパパだからね?」


「えっ!?」


「だって、アハトちゃんはきっとクロの事が大好きだったから……私、分かるよ。 アハトちゃんはクロのことが大好き」


「そ、そうか……」


「うん。 だからね?クロ……」


「う、うん?」


「しよ?」


「し、シロ……?」


「ねえ、クロは……いや?」


「そ……そんなことは……ないけど」


「じゃあ……いい?」


「シロは……いい……のか?」


「うん……いい……よ?」



 何だこの展開……僕はついに大魔法使いを卒業することになるのか……?



「本当?」


「うん」


「じゃあ、約束だよ?」


「ん、んん?」


「色んな問題が全部解決したら、私と結婚してね?」


「お? おおう。 わ、わかった。 約束、するよ!」



 そうか!! そうだよな!? そんな簡単に大魔法使いが卒業出来るわけないよなぁ……。



「ぜったいだよ!?」


「うん、絶対にだ!!」



 シロは頭をコテンと僕の胸に倒した。 僕はそのままシロを抱き寄せた。 ……あ。



「ねえ、クロ?」


「な、何?」



 僕はそっと腰を引いて彼女に聞いた。 あ、当たっちゃった? かな?



「何か大きな硬いぼ─」


『ああ、良かったな、シロ!! とっとと問題なんか片付けてクロと結婚しなきゃな!!』


『フェル!?』


『おう、オレサマも応援するからよう……しかしまだゴルゴンには早えな?』


『そう、かなあ?』


『ああ、帝国の強さは分かっただろう? まだオメェ等だけじゃあ、無理だ。 せめてクロが魔法でも使えりゃなあ?』


『クロは魔法使えないの?』


『僕は……魔法が使えない大魔法使いなんだ……』


『大魔法使い?』


『そう、厳しい修行に耐えた者だけが取得出来る称号なんだ』


『でも、使えないの? 魔法』


『うん……使えない。 そう言えば、マダムの魔法は凄いよな?』


『確かにアイツはやべえな。 他の者とは格が違う。 ネモも使えるみてぇだが、比じゃねぇ』


『そもそも魔法って何なんだろう? それも含めて、明日マダムに聞いてみよう』



 僕はそそくさとガウンを着て腰紐を締めた。


 ……フェル、サンキュ!

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