赤い言葉

寺田香平

第1話 赤い言葉

風が冷たい夜、古びたアパートの一室で、アリスは幽鬼のような孤独感に取り囲まれていた。彼女の耳には、誰かの言葉が幻聴として響いていた。その声は耳元でさえも微弱で、他人には聞こえないものだった。しかし、アリスにとっては、それは生きる意味そのものだった。


「くだらないこと…」


声は時折、煙草の燃える音のように聞こえたり、泣き声に変わったりした。だが、その声の主は誰なのか、アリスには分からなかった。彼女はこの幻聴に取り憑かれ、その声に従うしかないと感じていた。


「なぜこんなことを…」


アリスの指先には、包丁が握られていた。彼女はそれを見つめ、心の中で葛藤を繰り広げた。彼女は知っていた。この幻聴は単なる妄想であり、血を流すことで何も変わらないことも。それでも、彼女はその声に従い、包丁を自分の手首に突き立てた。


血が吹き出し、アリスの目には赤いものが映った。しかし、それは単なる血液ではなかった。彼女には言葉が見え、それは彼女に向けられた罵詈雑言だった。


「くだらない…非生産的…」


声は耳元でさえもかすかで、アリスの感情を嘲笑うように続けた。彼女は悲しみと怒りの中で、血を吹き出し続けた。そして、その流れた血に込めた言葉を、広い海に流した。


彼女は窓辺に立ち、赤い血を手で集め、窓から外へ投げた。それは言葉のかたまりとなり、波に乗って遠くへ流れていった。アリスはその姿を見送りながら、なぜこんな行為をしているのかを自問自答した。


「何も変わらないのに、なぜ…」


彼女は包丁を手から落とし、床に崩れ落ちた。幻聴の声は徐々に静かになり、やがて消えていった。アリスはそのまま、冷たい床の上で、自分が何をしていたのかを思い出すこともなく、ただ静かに息を引き取った。


その後、警察がアリスのアパートを訪れ、彼女の遺体を見つけた。しかし、その死の背後にある幻聴や言葉の意味を解き明かすことは誰にもできなかった。彼女が独白した言葉が、広い海に沈み、永遠に消えてしまったのだった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤い言葉 寺田香平 @whkj

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る