空席
うたた寝
第1話
『最後に握手くらいしようぜ?』
そう言って差し出してくれた先輩の手を、私は握り返すことができなかった。
不貞腐れたように、顔も合わせず、足元を見つめることしかできなかった。
先輩は握手を諦めるとその手で私の肩に触れた。
『じゃあな』
そう言うと、先輩の手は私の肩から離れていった。そのまま私の横を通り抜けていく。
最後になるかもしれない先輩の背中さえ、私は振り返れなかった。
触れられた肩にそっと手を重ねることしかできなかった。
違和感はあった。
ここ最近、先輩は妙に後輩たちとコミュニケーションを取るようになった。
元々、後輩を気遣ってくれるタイプの先輩ではあったが、それはあくまで業務時間内でのこと。業務時間外、つまりプライベートな時間は尊重してくれるような人で、退勤後にご飯行こうとか、休みの日遊びに行こうとか、そういう誘いをしてくれることなどあまり無かった。
先輩から誘うと後輩は嫌でも断りづらいだろうから、というのが先輩の言い分だった。気遣ってくれているのは分かるが、誘ってほしいこちら側からすると少し複雑でもあった。後輩から先輩を誘うのは結構勇気が要るのだ。
だから、ご飯に誘ってくれた時は、本当に嬉しかったものだった。二人っきりの食事だったから、ちょっと期待したりもした。
けど、後から聞くと、後輩みんな一対一の食事に誘われていたらしいことを知った。私だけ特別ってわけじゃないんだ、と若干ショックを受けないこともなかったが、それと同時に、何で急に後輩とご飯に行き出したのだろうと、純粋な疑問も覚えた。
『アイツも意識変わってきたなー』
なんて上司は能天気に言っていた。見ようによっては確かに、先輩が意識を変えて後輩と関係性を築こうとしているように見えなくもない。
だけど、私にはどこか先輩の様子に不安があった。
まるで、最後の挨拶をみんなに済ませているような、そんな風に私には見えたからだ
だから私はある日先輩を捕まえて聞いてみた。
『辞めたりしませんよね……?』
何の脈略も無く不意に伝えた言葉に先輩は驚いたようだった。今思うと、図星を突かれて固まっていただけなのかもしれない。
『……どうした? 急に』
驚いたように聞き返してきた先輩の顔に、私はどこか胸に不安を覚えた。笑い飛ばしてくれないんだ、と思った。それがどこか、自分の言葉を肯定されてしまったような気さえした。
そんな私の様子を悟ったのか、先輩は笑顔を作ると、
『辞めないよ』
私を安心させたいかのように、そう言ってくれた。その言葉を信じようとはしたけれど、どうしても私には信じ切ることができなかった。
そして後日、正式に先輩が会社を辞める連絡が着た。先輩から会社への不満も聞いたことがなく、そういう話も聞いたことが無い上の人たちは驚いていたようではあったが、後輩たちは全員、何となく察してはいた。
退職の理由は分からない。説明も無かったし、してもくれなかった。いつからそう思っていたのかも分からない。何も相談してくれなかったから。
理由を尋ねる機会はもうきっと無いのだろう。送別会も本人の希望で開かれないとのことだった。お別れを言いたい相手にはもう挨拶を済ませてある、とのことだったという。
やはり、後輩たちが急にご飯に誘われたのは、本人なりの、後輩と最後に同じ時間を過ごそう、という気遣いだったのだろう。
食事中、冗談めかして言われた、『俺が居なくても大丈夫だろ』という言葉が思い出される。『いやいやいや』なんて笑い返しはしたが、先輩なりの『さようなら』だったのかもしれない。
先輩は普段からそういう人だった。凄い先輩だって後輩みんなが思っているのに、本人にはその自覚が無い。後輩の方が全然優秀だ、なんて言ってくれる。
先輩ぶったりはしないくせに、後輩が困っていると先輩らしく絶対助けてくれる。先輩、というだけで高圧的な態度を取って来る人も多かったから、より一層優しく見えたのかもしれない。
この人が居なかったら辞めてたかもしれない。多分、後輩のほとんどが、一度は思ったことのある気持ちだと思う。自分の方が遥かに忙しいだろうに、後輩が忙しそうにしていると、その仕事を手伝ってくれたりもした。落ち込んでいる時に優しい言葉をかけてくれるのは、決まって先輩だった。
そんな先輩が居なくなってしまう。それがどうしても現実のことに思えなかったが、何度見ても、いつも先輩が座っていた席に先輩はもう座っていない。
私は誰も座っていない席を見つめて言う。
「うそつき……」
空席 うたた寝 @utatanenap
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