二宮――3

 帰ってきた時、玄関の扉に鍵がかかっていなくて、嫌な予感がした。一ノ瀬はいつも神経質なくらいに戸締りをするのに。今日に限って忘れてたんやろか、と思いつつ家に入って、さらに違和感に気づく。一ノ瀬の靴はあるのに、電気がどこもついていない。

「いちのせー?」

 不安を胸に、わざと軽薄な調子で呼びかける。返事はない。まさか、どこかに隠れて俺を驚かそうとしているわけではないだろう。一応クローゼットや風呂場をのぞいてみたけれど、もぬけの殻だった。

 スマホから電話をかけてみた。ヴー、とすぐ近くで振動音がした。一ノ瀬のスマホがダイニングテーブルの上で震えていた。俺はそれを呆然と見つめていた。


 その日から、一ノ瀬の存在はこの世からぽっかりと消えてしまった。警察に届けを出し、調べてもらうよう懇願したが、警察が出した結論は「事件性が低い」というにべもないものだった。俺なりに手を尽くして、つき合いのあった仕事仲間や友人たちに話を聞いても、誰も彼の行方を知らない。むしろこちらが聞きたいくらいだと問い詰められ、何度も唇を噛んだ。

 この頃の一ノ瀬はどこかおかしかった。心配だと思いつつ、明日の仕事のことを考えてしまって、「疲れてるから過敏になってるんやろ。とりあえずもう寝ときや」などと流したことは、悔やんでも悔やみきれなかった。一ノ瀬の訴えたことをどこかで大袈裟だと思っている自分がいたのは事実だった。俺はもっと事態を深刻にとらえるべきではなかったのか。もっとちゃんと話を聞いてやるべきではなかったのか。警察からいくら冷たくあしらわれても、諦めず被害を訴え続けなければならなかったのではないか。

 後悔に後悔ばかりが重なって、眠れない夜が続いた。浅いまどろみの中で、一ノ瀬が帰って来る夢を何度も見た。それが夢だと知るたびに、俺は深い絶望感に襲われた。

 どこかにふらっと行っているだけかもしれないよ。俺が血眼になって一ノ瀬の手がかりを探っていた時、誰かが言った。慰めのつもりだったのだろう。だけど俺の直感は、一ノ瀬はもうこの世にいないのだと告げていた。――認めたくは、ないけれど。

 もちろんストーカー女のことについても調べた。マンションの管理人に言って防犯カメラの映像を見せてもらったが、それらしき人影は一秒たりとも映り込んでいなかった。

 頭を掻きむしりながら階段を上っていた時、はたと気づくことがあった。一ノ瀬の違和感のある言動の発端は確か――あの、コインランドリーに行った夜のことだ。赤い傘を借りて帰ったと言っていたが、結局傘が見つからなかったあの時。

 いてもたってもいられず、俺はぐるりと踵を返し、階段を下った。確か彼は、歩いてすぐの裏通りにコインランドリーがあると言っていた。

 だが、それから何十分、何時間と歩いても、それらしきコインランドリーは見つからなかった。一駅分ほど歩いたところに真新しいコインランドリーがあったが、聞いていた印象はもっとさびれた古臭いものだったし、この距離だと「ちょっと出てくる」って距離でもない。

 結局、手掛かりは白紙に戻り、いたずらに時間だけがすぎていった。


 そうして数年が経った。俺は一ノ瀬の存在を引きずったままで、けれど日常は容赦なく続いていた。何かを忘れるように仕事に没頭するようになった。教員としての責任も徐々に重くなりはじめ、それ比例して解決しなければいけないトラブルも増え、忙殺という言葉通り忙しさに殺されそうだった。息つく間もない目まぐるしさは、過去の後悔を忘れさせてくれる分にはちょうどよかったが、そのうちガタが来た。授業中に目眩がして、思わず座り込んだら、そこから動けなくなってしまったのだった。

 今日はとりあえず帰っていい、と半ば命令のように言われて、俺は夕暮れ時の路地を歩いていた。そういえばこの道、買い物帰りによく二人で歩いたなあ。疲れているからだろうか。気を抜くと一ノ瀬との思い出が溢れてきて、思わず涙が滲んだ。

 マンションに入り、ふらふらと階段を上る。上りきった先に見えた光景に、俺は思わず息を呑んだ。

 彼が、立っていた。

 行方不明になった時のままの格好で。手には、真っ赤な傘を持って。

「一ノ瀬……?」

 思わず喉から声が出る。彼が俺に気づき、ゆっくりと振り向いた。おかえり、と言おうとした瞬間、口がひきつった。彼の目がどうしようもなく虚ろで――まるで、この世のモノではないみたいだったから。

 にやり、と一ノ瀬が笑った。

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愛遭い傘 澄田ゆきこ @lakesnow

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