一ノ瀬――6

 連日、視線のまとわりつく気配が消えない。撮影現場でも、楽屋でも、コンビニに行った帰り道でも、誰かが俺をじっと見ている気がする。外出を必要最低限に控えても、家の中ですら視線を感じる。それとなく二宮に話をもちかけたが、首を傾げられるばかり。「やっぱり最近疲れてるんちゃう、たまには休まな」と気の毒そうな目を向けられて、俺は口をつぐむ。彼の心配が決して的外れなものではないのが、なおさら苦しかった。俺はたぶん過敏になっている。

 ただの視線だけだったら、俺の気にしすぎで終わったかもしれない。けれど、ある時、撮影現場で黒髪の女の影を見た。やけに低い背たけと、鮮血に浸したような真っ赤なカーディガン。見覚えのあるその女が、物陰からじっと俺を見ていた。目が合った瞬間、心臓が止まりそうだった。上の空になっていたせいで監督に叱られた。弁明するように女のいた場所を指さすと、女の影はどこにもなかった。余計に叱られる羽目になって、その後の撮影もうまくノることができなくて、散々だった。

 それからもたびたび、女は俺の視界に現れるようになった。一度はマンションのエントランスでも女の姿を見かけた。メールボックスを確認している時、唐突に射抜かれるような視線を感じ、振り向くとヤツがいた。オートロックの自動ドアの向こうに彼女はじっとたたずんで、気味の悪い笑みを浮かべていた。俺は女に近づいて文句を言いに行こうとしたが、その時ちょうどスマホが震え、そちらに気をとられている隙に女は消えた。

 どう考えても悪質なストーカーだった。二宮の勧めで警察に行ったものの、俺が男であることと、直接的な危害を加えられているわけではないことで、警官はまともに取り合ってはくれなかった。

 こんなことで参ってたまるかと俺は気を張るようになった。一方で、いつからか、毎晩のように悪夢にうなされるようになった。女がこちらを見ている夢だった。女との距離は夢を見るごとにどんどん近くなる。笑みに歪んだ口も、どんどん大きくなっているような気がする。

 目に見えて憔悴しているのが自分でもわかった。二宮は時間をつくってなるべく一緒にいてくれるようになったが、一人の時間が完全になくなることはなく、ほんの気休めでしかない。

 体重が一カ月の間に三キロ落ちた。目の下の隈がひどく、メイク担当に「大丈夫ですか?」と聞かれることも増えた。俺がストーカーに遭っているという噂は業界内で広まりつつあるらしく、同情してくれる人もいたが、俺が具体的な話をすると、皆が気の毒そうに目をそらした。

「嘘だとは全く思ってないねんけどな」

 ある時、二宮はそう言って、気まずそうに眼鏡をあげた。

「一ノ瀬のことをつけまわしてるストーカー女、これだけ一緒にいる俺が全く見てないってのもおかしな話やろ」

 その先に続いたのは、一度病院にいかないかという誘いだった。気づくと、自分でも思ってもみない剣幕で二宮を怒鳴りつけていた。二宮は怯えた目をしていた。我に返り、「ごめん」と取り乱した俺を、「大丈夫や。一ノ瀬は、ちょっと参ってるだけやから」と、彼は優しく宥めた。その優しさがなおさら堪えた。

 俺はおかしくなっているのだろうか。

 自分で自分の歯止めがきかなくなってきているのが、たまらなく恐ろしかった。


 そんな折。休日、自宅で配達物を待っていると、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けようとしたところで、おかしい、と唐突に気づく。このマンションはオートロックのはずなのに、エントランスではなくいきなり玄関の呼び鈴が鳴るわけがない。

 俺は恐る恐るのぞき穴に目を当てた。視界に女の黒いつむじが映る。俺は声をあげて飛びのいた。

 がちゃ、とひとりでに鍵が回る。ドアがゆっくりと開き、白い手がのぞく。金縛りのようになって、身体はぴくりとも動かない。女が家の中に入ってくる。小さな身体と、それに不釣り合いな大きな顔。そこに浮かんだ、歪んだ笑み。

 ヒステリックな笑い声が辺りに反響した。

 頭部が肥大化し、口が大きく開かれた。てらてらと光る真っ黒な口腔が、喉の奥まで見えた。怖気が背中を走る。動けない。瞼すら閉じれない。

 そのまま俺の視界は闇の中に呑まれた。

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