一ノ瀬――5
翌朝、寝ぼけ眼でカーテンを開けると、窓の低いところに白い手形がいくつもついていた。思わず「うわっ」と声が出る。
誰かの悪戯だろうか。それにしては悪質だ。それにここ、四階だぞ……。誰かが外から上って来れるような場所とは思えない。
不気味に思いつつ、ベランダに出て雑巾で手形を拭きとろうとした。……が、いくらこすっても手形は薄くならない。まさか、と思って部屋に入り、窓の内側を拭いてみたら、手形はあっけなく消えた。
俺はしばらく動けなかった。これは……誰かが内側から手形をつけたということだ。それ以外にあり得えないけれど、それこそがあり得ない。部屋の扉はオートロックだし、深夜に誰かが入ってきたらさすがにわかるはずだ。まさか酔った二宮の悪戯か。でも、手形は子どもの手のひらほどの大きさで――そう、ちょうど笹本の手のサイズと似ている。
雑巾を握りしめたまま突っ立っていた。「一ノ瀬?」と二宮の眠そうな声がして、我に返る。
「どないしたん? そんな怖い顔して……」
「なあ、この手形……お前じゃないよな」
「手形ぁ? なんのことや?」
目をぱちぱちしている二宮は、とぼけている風でもなさそうだ。落ち着かない気持ちで窓に向き直り――そして再び唖然とする。
窓には手形なんて一つもなかった。
「最近へんやで、お前。熱でもあるんと違う?」
「あ、ああ……。かもな……」
そう言われると頭痛がしてくるから不思議なものだ。気を取り直して朝食の準備をし、食後に鎮痛剤を飲んだ。念のため熱を測ってみたが、発熱はしていないようだった。少し安堵する。今日は新しい台本の読み合わせがある。クランクインも近いし、休むわけにはいかない。相変わらず頭痛の引かない頭で、そんなことを思った。
「無理せんようになぁ」
朝食を食べ終えてすぐ、二宮はそう言って仕事に向かった。あとには静謐さだけが残された。
改めて窓を見ても、ガラスには曇りひとつなかった。
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