エイズで死んだ童貞

山本貫太

エイズで死んだ童貞

 童貞会幹部の水永栄喜がエイズで死んだ。より正確に言うならば、この世のありとあらゆる穴へ挿入を行わなければ引き受けることはないであろう数多の性病を抱きかかえ、彼は死んだ。


 童貞会は僕らが大学生のころ、誰が決起を宣言するでもなく、自然と生まれた非公式サークルだ。締まりのない唇や寝癖を残した前髪、曇った眼鏡にサイズの合っていない服……。「ああ、コイツは間違いなく童貞だ」と一目でわかる見た目をしていた僕らは、自然と惹かれ合い、自虐し合い、時に罵り合いながら童貞としての絆を育んだ。


「童貞会に居るからには、裏切りはなしだぜ」


 童貞会に明確なルールはなかったものの、彼女をつくり、童貞を卒業することは忌むべきこととされていた。手の届かないこと、と言い換えたほうがいいかもしれない。童貞会は僕こと山本、水永、月田、斎藤の四人から成る組織だったが、その誰もが女性との交わりを夢見ていた。


「夢を見ながら叶わない。だから俺たちの絆は絶対なんだ」


 水永は平気でクサイ台詞を言える男だった。ひょろりと背は高く、髪の毛はいつも河童に近いボサボサ加減。ぎょろりとした両目はカメレオンを想起させ、お世辞にもカッコいいとは言えない外見をしていたが、愛嬌のある顔立ちで、僕は嫌いじゃなかった。


 童貞会のメンバー同士は大学を卒業しても、三カ月に一回くらいのペースで顔を合わせ「元気でヤッてるか?」ならぬ「まだ、ヤッてないか?」という挨拶が交わされ続けた。

 僕らは社会人になっても驚くほど童貞で、浮いた話はなく、常に沈んでいた。しかし、海底とも呼べる童貞の世界は居心地がよく「こんな美女を抱いてみたい」「年上のお姉さんに筆下ろしされたい」「いや、生意気な後輩に迫られて喰われたいなあ」など妄想で満たされていた。

 中でも、水永の性欲には凄まじいものがあり、飲みの席に突如として持ってきた卒業アルバムの写真の下に男女問わず「この人としてみたいプレイ」がびっしりと書き込まれていた時は、ただただ恐ろしかった。


「俺は全人類と同時にセックスしてみたい。一人を選べないから、童貞でいるしかない」


 水永曰く、バイセクシャルを通り越したオールマイティーだそうで、滝などの大自然や満天の星をオカズにオナニーをすることも多いと語っていた。理解はできなかったけれど、納得はできた。水永の目には、たぶん、すべてが穴のように見えているのだろう。


 そんな水永が童貞会の集まりに顔を出さなくなった。そして、連絡も取れなくなった。


「ついに水永さん、地球を抱いたんじゃないですかねえ? こう、地面に穴掘って、ズプリと」


 童貞会のメンバーでは一番年下の斎藤が居酒屋の畳の上で、穴を必死で掘るジェスチャーをすると、僕らは耐えきれず、笑った。ひとしきり笑った後、水永は本当に童貞を卒業してしまったから顔を出せなくなったのではないか、と思った。


「童貞卒業しても、来てほしいっスよね。というか、いつか皆さんに聞こうと思ってたんですけど、……皆さん、マジモンの童貞です?」


 斎藤の言葉によって、僕らは固まった。意図して固まったわけではないが、動作を一度すべて止めて、斎藤の顔を見た。


「ボク、まあ、童貞ではあるんですけど。その、実は彼女、いるんですよね……」


 斎藤は、目を伏せ、鼻孔を膨らませながら、打ち明けた。その告白に続くような形で、月田は「オレは風俗に行ったことがある。わりいな」と語った。

 僕だけは、打ち明けるものが自分の内側に何もなかった。やや大げさに「すご、マジかよ、クソッ」とだけ答えて、冗談めかして「解散だ、童貞会、解散!」と叫んだ。

 そう叫んではいたけれど、こんなものだろうとも思っていた。「童貞であること」が絆になどなり得ないだろうし、話のタネがせいぜいだろう。むしろ、童貞というテーマだけで何年もよく持った方だ。


「でも、まあ、アレですね。普通にまた集まりましょうよ」



 斎藤はそう言ったが、その日以降、童貞会は集っていない。思えば、水永が毎回予約から日程調整まで行っていた。その水永が参加しなくなり、連絡も取れなくなったのだから、あとは自重で潰れてしまう。非公式サークルなど、その程度の存在なのかもしれない。


「本当に童貞だけが僕らの絆だったのかねえ……」


 僕は、部屋で一人、わざとらしく呟いた。自分の人生が漫画や小説だったら、このボヤキを拾ってほしいなと思いながら。

 

 そのボヤキが何かを呼び寄せたのか、あるいは、予感があったからそうボヤいたのか、今となっては分からないが――。


電話が鳴った。水永からだった。


「もしもし?」

「……よお」


 水永の声はひどく頼りなかった。


「どうした? 電話なんか珍しい」

「ははっ……、確かに、な……」


 肺に少ししか空気を溜めずに話しているような、咳を押し殺しながら発声しているような、居心地の悪い声。


「風邪でもひいてるの? ひどい声だけど」

「ん……、まぁ……」


 電話越しに、老人の、痰の絡まった咳が二度聞こえた。


「エイズになったんだ、俺」

「え?」


 もう一度、老人の咳が聞こえた。


「エイズだけじゃ……、ないんだ。その……、色んな、色んな性病に罹ってるんだ」

「童貞卒業おめでとう」


 僕はほとんど反射的にそう答えた。


「してない」


 水永の否定も、ほとんど反射じみた速さだった。


「信じられないかもしれないが……、本当に。俺はセックスをしてないんだ」

「どういうこと? セックスをしてないのにエイズ? 血液感染とかってこと?」

「本当にわからないんだ、心当たりがない。何もない……。本当にないんだ。ただ性病だけ、性病だけが俺の身体に在る……」


 僕はマイクが拾わないよう、小さく溜め息をついた。


「処女受胎ならぬ童貞罹患ってこと? 性病の」

「……そうだ」

「あんまり、何だろうな。そういう冗談は良くないと思う。僕は別に、水永が童貞じゃなくなっていても構わないし、気にしない。その、普通にエイズは心配だしさ。それとも、エイズの話もタチの悪い冗談? 本当のことを話し――」


 電話は切れた。もともと掛かってきてなどいなかったかのように、静かに切れた。



 水永は死んだ。

「人の口に戸は立てられぬ」ということわざ通り、水永がエイズで死んだこと、それどころか数多の性病に罹患して死んだことは、瞬く間に広まった。

 水永の葬式で童貞会のメンバーは再び集まった。月田は冗談めかして「オレも風俗でビョーキもらわないよう気をつけねえとな」と言った。僕は作り笑いを返して、頷いた。


「山本さん、死んじゃう前に水永さんに会いました?」


 斎藤が何かを噛み殺すような表情をしながら、ヒソヒソ声で僕に話しかけてきた。


「ないよ。だから驚いてる」

「そうなんですねえ。連絡もナシでした?」


 僕は一度口に溜まった唾液を飲み込んでから「ないよ」と答えた。


「はぁー、山本さんにも無かったんですね。誰にも言わずに、一抜けで童貞卒業して、病気もらって死んじゃうなんて、……馬鹿だなあ。びっくりですよね」

「……まあ、そうかもな」

「ははっ。……実はボク、水永さんが死んじゃう前、一度会ってるんですよ」


 斎藤は歯を見せずに笑った。


「直接、水永さんに呼ばれたわけじゃないんです。まあ、ボクこう見えて友達多いんで、人づてに知った感じです。水永さんがヤバいってことと、病院に入院してるってことを」


 斎藤は大げさな身振り手振りで話を進めた。


「水永さん、そのころにはもう意識なくて。会ったにカウントしていいのか微妙ですけど。まあ、その時は生きていましたし、いいですよね、カウントしても。いやあ、初めて見ましたよ。管……、何て言うんでしたっけ、カテーテル? なんか色んなものが水永さんから伸びてて、刺さってて。目も口も閉じてる水永さん、初めて見たかもしれません。ドラマみたいでしたよ、本当に」


 水永の目のよく目立つ顔を思い浮かべる。叶いもしないような夢を語っている時に見せる、前歯を自慢しているような水永の笑顔が割に気に入っていた。


「あと、病院って臭いんですね。消毒液のニオイなのか、それとも、水永さんが腐りかけてたのか分からないですけど、本当にすごいニオイでした。温泉の硫黄と下水と、あと何だろう、魚介っぽい感じでしたね。水永さん、随分やつれちゃってたんですけど、何て言うんですかね、発疹というか斑模様というか、水膨れみたいなのが皮膚に浮かんでて、指先なんか蝋燭みたいに溶け始めてて……。あれはエイズよりもっとヤバい、エゲつない性病っスよ、絶対」


 水永が僕に電話をかけてきたとき、彼はどこにいたのだろうと思った。どんな身体で、どんな痛みを堪えながら、僕にだけ打ち明けたのだろう。


「あの人、マジで何にチンコ突っ込んだんでしょうね?」

「童貞だよ」


 斎藤の口が「は?」の形に開かれた。


「水永は童貞だよ」


 僕は、もう一度繰り返した。



 葬式が終わったあと「すみません」と、声を掛けられた。振り返ると、ひどく整った顔立ちをした女性が立っていた。


「水永栄喜の妹です。山本さん、ですよね?」

「はい、そうですが……」


 水永の妹は目を細めると、破れそうなほどに膨れた封筒を手渡した。


「兄が、自分にもしものことがあったら、山本という友人に渡してほしいと」


 封筒の中身を覗き込むと航空機チケットの半券、それから、海外で撮った写真が何枚か入っていた。


「兄は、ろくに働きもせず、海外によく行っていました。何故、こんな物を山本さんに残したのか、私には分かりませんけれど。要らなかったら捨ててください」

「……いや、ありがとう。大切にします」


 航空機チケットの半券はホーチミン、カイロ、ニノイ・アキノ、クアラルンプール、ジョモ・ケニヤッタ、エドワルド・ゴメス……と次から次へと出てきた。写真は6枚あり、どれも現地の住民がワラワラと写り込んでいる。裏には殴り書きされた住所が記されていた。


「ここへ行けってか……」


 結果だけ見れば、水永は童貞ではない。

 けれども、彼は最後まで自分を「童貞だ」と信じていた。信じる、という言葉はやや強すぎる気がする。水永にとって、それは当たり前のことで、本来なら、わざわざ口に出す必要も、証明の必要もないことだったはずだ。

 海外に行っても、結局何も分からないかもしれないし、むしろ、裏切られることもあるかもしれない。無駄足も踏むだろう。面倒事も両手に収まらないほど起こるに違いない。行ったところで童貞だった確信や証拠に巡り会えはしないだろう。


「それでも……」


 裏返しにされた航空機チケットの半券の中から、ランダムに一枚めくった。


「カイロ……、いきなりエジプトか。遠いな」


 水永は童貞だ。童貞だった、と僕は信じる。

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エイズで死んだ童貞 山本貫太 @tankatomoma

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