聖母
森川めだか
聖母
聖母
森川 めだか
「愚か者の休日」
目を覚ましてはいたが、突っ伏して、ベッドから起き上がれないでいた。
うつらうつらして浅い夢ばかり見ていた。
夕焼けの空の下、黄金色に光る風景に女の人が一人立っていた。
僕は、夢の中で、この光景はこの世のものではないのを知っていた。
「・・
女の人はそう言った。
僕の名前を知っているのは誰?
僕はベッドの上でそう呼び掛けた。
その女の人は薄く笑っているだけだった。
僕は問い掛ける言葉を探すのだけれど、上手く見つけられなかった。
女の人はそれ以上、何も言わなかった。
それで夢が切れた。
僕は仰向けになって、手を目に当てがって、ため息を吐いた。
台所のシンクには使った食器がそのまま乱雑に積み重ねられている。使う物だけ洗って、使ったら、またシンクに洗わずに置く。
高文葉はこの部屋に一コしかないマグカップ、もう何ヶ月も洗っていないマグカップにコーヒーを注いだ。
そして、煙草を吸った。
今日は休日だから、時間に追われることも無い。
もう、昼過ぎだ。
疲れたまま、起きた感じだ。
僕はもう一回ベッドに横になって、壁に掛けた、『森の出口』という題の自分で描いた油絵をなんのきなしに眺めた。
二十歳の頃に描いた作品だ。
一番、気に入ってる絵だ。
赤ワインをマグカップに注いで、飲んだ。
この頃、酒がなくなるのが怖い。
今日はこのマンションの一室から外に出る用事は無い。
黙り込む携帯電話。
誰からもかかっては来ないだろう。
話すことも何も無いし。
いつからだろう。こんな寂しさに慣れたのは。
一人で生きている。
無表情な毎日。
それを選んだのは僕だ。
高文葉はそう思って、火のついた煙草を水を入れた深い灰皿にジュッと押しつけた。
何しようかな。
高文葉は、冷蔵庫を開けて、昨日買っておいたパンケーキを食べた。
高文葉の食事は、朝、食べるなら菓子パン、昼、パスタ、夜、蒸した鶏肉とバゲットと決まりきっていた。
一人暮らしなので、あまり食にこだわらなかった。
高文葉には現在、恋人はいない。
25歳で、独身だ。
一回目の恋愛は、地味だった
二回目の恋愛は、職場の人。どちらからともなく仲良くなり、付き合った。良い娘だったけど、引っ越すことになり、仲良く別れた。それきり、誰とも付き合ってない。
人生はいつも知らない道だ。
紙で作ったハート。
傾いた時計。
見つからない鏡。
人生は幸福でもなければ、不幸でもない。
穴のあいた木の葉。
水に映った鳥の影。
踏まれたたんぽぽの綿毛。
僕は前に仕事で行った、葬儀社のことを思い浮かべた。
僕は規律協会で働いている。
規律協会というのは、上から送られてくる、ここはこうあるべきが望ましいという、
違反していた場合は罰金、その後是正されていなかった場合には、それに応じた罰則が科せられることになっている。
難しい仕事ではない。慣れたら大したことはない。
本当は芸術家みたいな仕事をしたいんだけれど、今は出来ていない。
葬儀社での仕事を終え、ボールペンをしまい、「ご協力ありがとうございました」と言うと、そこの職員が、ご丁寧に、系列の墓園まで案内してくれた。
その職員は、墓を前にして、「ここに人生の何かがあるんでしょうな」と言った。
僕はそうは思わなかった。
ただ石が有るだけだ。
僕は夕方になるのを待った。特に何もせずに。何も出来ずに。
夕方になったら、ニュースがやるから。
携帯電話が鳴った。電話だ。
僕はビックリして、手を伸ばしたが、すぐに切れた。
着信履歴を見ると、「非通知」だった。
間違い電話か、イタズラ電話だろう。
夕方のニュースを見て、夜のニュースを見ながら夕食をとった。
TVを消して、風呂に入り、寝間着に着替えて煙草を吸った。
その時、いきなりガシャンと、何かが落ちた音が寝室から聞こえた。
行くと、ベッドの脇に『森の出口』が落ちていた。額は壊れ、ガラスがあちこちに散らばっていた。
「何だ?」高文葉はそう言って、ガラスを集め、ゴミ袋に入れた。細かい破片も掃除機で吸い取った。
『森の出口』は使っていない椅子の上にとりあえず置き、高文葉はベッドに横になった。
眠くなってきたので、明かりを消して、寝た。
夢を見たら、またあの薄暮の風景だ。
僕はそこにいて、真っ赤な太陽が向こうに見える。
黄金色に輝くその光景は、どこか、僕が絵に描いた『森の出口』、その出口を出たところかも知れないと思えるようなところだった。
僕はしばらくただそこに立っていて、それから、あの女の人を探した。
ススキが照らされていて、空は燃える羽のように色づいている。
オレンジと赤と光の景色は、非現実そのものだった。
見回すと、あの女の人が僕を見て立っていた。
あ。僕は声を上げた。
高文葉。遠くにいるのに声が聞こえる。
女の人がゆっくりとこちらに歩いて来る。
目が合った瞬間、情景が変わった。
僕の意識は宙に浮いていて、ある部屋の中を見下ろしていた。
若い、父と母がいる。産まれたばかりの赤ん坊を抱いて、涙を流し、喜び合っている。
僕が産まれた時か。
あんなに喜んでたのか。・・
記憶は夢に残ります。あの女の人の声がささやかに聞こえてきた。
父が横になった母に僕を預け、キスをした。
赤ん坊は高らかに泣いている。
また、情景が変わった。
三人の男の子が曇り空の下、自転車に乗って走っている後ろ姿が見えた。
ああ。これは。
僕が、友達とその友達の仲間だった不良と連れ立って海へ行った時のものだ。
僕の意識はあの時の僕に乗り移り、あの時と同じ目線で見ていた。
不良が、持っていた赤いキャップを僕に被せた。
「お前、これ被っとけよ」不良が言った。
僕は美少年だったから、大抵の物はよく似合った。
いや、いいよ。確か、僕はそう言ったかな?
僕の行っていた学校では、赤は不良の色だった。みんな不良は、赤い、Tシャツとかを着たりしていた。
あの時、赤いキャップを被っていたら・・。
妙にいい子ぶらないで。・・
付き合う友達も変わって、未来だって少しは変わったかな?
高文葉。過去を変えることが出来るとしたら、どうしますか?
・・・・。僕は答えなかった。
真っ暗な虚無の世界。
いや、宇宙か? 星明かりがそこら中に微かに見える。
あなたは選ばれたのです。未来を変える力を。女の人の声はそう言った。
何がですか? そう僕は聞き返した。
過去を変えるのです。過去を一度だけ変える力をあなたに授けます。
過去を?・・変える・・?
そう、ただ一度だけ。そして、それからどんな未来、つまり現在になるかは分かりません。これは誰にも話してはいけません。自分で決めるのです。祈りなさい。それを。そうなるように。
ちょっと待って下さい。何が僕に・・。
誰かに知られたり、能力を使えば、この記憶も消え去ります。
ちょっと、待って。意識が薄らいできた。夢から覚めるのか。
自由な瞳。語る目。曇りない
夢から手が離れた。
「聖人の誕生日」
とても良い気分で目が覚めた。
何だか素直になれそうな。
僕は伸びをしようとして、ベッドの中で何かを握っているのに、気が付いた。
手を出してみると、握っていたのは、あの、赤いキャップだった。
「・・どうして・・」
僕は遅れて鳴り出した目覚まし時計を止めて、しばらくそのまま考え込んだ。
赤いキャップを見つめて、「これも夢か?」と、自分に言った。
スーツに着替えて、部屋を出た。
頭ではあの夢のことばかりを考えていた。
雨に濡れた車。そうか。昨日、雨が降ったか。
車のキーを出す時も、慌てて部屋の鍵を差してしまった。
事務所に着くと、「おはようございます。読本、二冊上がってきてます」と、事務の人が言った。
「はい。おはようございます」高文葉はそう返し、自分のデスクに座った。
目の前には、新しい読本があるのに、頬杖を突いて、黙り込んでいた。
読本を引き出しにしまうと、今日行く、ある町工場の読本を鞄に入れて、誰とも口を利かず、事務所を出た。
その町工場は、入り組んだ道の、奥まった所にあった。
小さな会社だ。
「規律協会の者です」そう言ってから、ずいぶん待たされた。
作業着姿の社長が出て来て、名刺交換をした。
「よろしくお願いします」
大きな機械に囲まれて、そのすき間で人々が間断なく働いているといったようなものだった。
裏に段ボールが不自然に片付けられているのを見て、高文葉は苦笑した。
こんな事ばっかりだ。
「ご協力ありがとうございました。結果は後ほどお送り致しますので」高文葉はボールペンをしまった。
「ご苦労様です」社長が頭を下げる。
高文葉も頭を下げて、立ち去った。
仕事にも身が入らない。
あの夢のことばかり気にかかる。
風が強い。
夕方、事務所を出て、部屋に帰っても、やはりキャップは、ただそこにあった。
高文葉は台所に行って、水を一杯飲んだ。
そのまま、蛇口から水を流し続けた。
水の音が、ただ確かな気がして。
積み重なった食器類が、ガチャガチャと音を立て、崩れた。
過去に、こうしていたらと思う程、悲しいことがあるだろうか? 現実の否定じゃないか。
久しぶりに母に電話して、会う約束をして、煙草を吸った。
赤いキャップは、そのままにして。
夜、革のジャケットを羽織って、外に出て、歩いた。
風が強い。
「今日は
母と会ったのは、趣味の良い洋楽の効いた小さな喫茶店だった。初めて来た。
カレーの匂いが漂っている。
席についている母はすぐ目に付いた。
茶色の長い髪が特徴的だったからだ。母も僕を見つけて、軽く手を上げた。煙草を吸っていたようだ。
「何?」母が席についた僕に聞いた。
「いや、別に、さ」僕はそう言って、二人はコーヒーのブレンドだけ頼んだ。
「よく来るの? ここ」僕は聞いた。
「初めて入った」煙草の煙を吐いて、彼女は答えた。
母が何も話そうとしないので、僕は居心地が悪かった。
「ねえ」と僕から切り出した。
母は僕を見た。
「お母さんは、過去を変えられるとしたら、どうする?」僕は聞いた。
「んー」と彼女は考えて、「あんたのお父さんと結婚しなかった」と答えた。
多分、そう答えるんじゃないか、とは思っていたけど、やはりそうだった。
「そしたらさ、あんたらは生まれてこなかったかもね」母はまた煙草を口に咥えた。
「うん・・・・」僕は曖昧に肯いた。
「お母さんとお父さんはどうして離婚なんてしたの?」僕は聞いた。
「困らせないでよ」母が言った。彼女の決まり文句だ。言われる度、気が滅入る。
彼女はため息を吐いて、「私ね、・・結婚したらあれもこれも一遍に変わるんだと思ってた。・・夫になり、私は、妻になり・・。でも、あの人は何も変わらなかった。私も何にも変わらなかった。そんな私達に頭に来たの」とつまらなそうに話した。
「そう・・・・」僕は肯いて、コーヒーを飲んだ。母もコーヒーを飲んだ。
「・・カトレアは元気?」僕は聞いた。カトレアというのは、母が可愛がっているメスのロシアンブルーの名前だ。彼女はそれしか愛さない。
「ええ」母はそう答えて、煙草をしまって、コーヒーを飲み干した。もう帰りたそうだ。
母は頭が良い。多分、僕の家族の中では一番だろう。周りの人達と比べても、母より頭が良いのはそう見当たらない。
店を出てから、彼女は店を振り返って、「居心地悪かったわね」と言った。
「うん・・」僕はうつむいていた。
「あんた、医者に行ったら?」彼女は言った。
「まるで病気みたいな顔してる。また、ノイローゼになってるんじゃないの?」
「そんな話はよしてくれよ」僕は笑った。
「じゃね」母は後ろを振り向くことも無く、去って行った。
まだ幼かった頃、夜、両親が一階で激しい口論をしているのを、暗い階段の上でじっと身を固めて耳を澄まして聞いていたことを思い出した。あの、いたたまれない気持ちを思い出していた。
母親の泣きながら抗議する声。父親の口汚い罵る言葉。
あの時、お父さん、お母さん、喧嘩はやめて、と言いに行けば良かったのだろうか。
分からない。
母の後ろ姿はまだ女だった。見送って、僕は帰った。
赤いキャップを被れなかった理由を今、分かる気がする。
自立していなかったせいだ。
「貧者のクリスマス」
その夜は、あの夢は見なかった。
あれは夢だったのか? と思うようになった。
ただ、あの赤いキャップは、厳然として、ここに有るのだ。あの時もらった覚えもないし、買った覚えもない。持っていた覚えもない。
高文葉は、また、いつものようにコーヒーを沸かして、飲んだ。
思い出したくない過去ばっかりだ。
昨夜の、母の言葉から自分がノイローゼになっていた時のことを思い出していた。
僕に友達ができなくなったのは、高校に入った時からだ。僕には合わなかった。
誰の言うことも信じない若さしかなかった。僕は本当に真っ逆様に落ちた。
自分が社会を拒絶したつもりが、自分が社会から拒絶されてしまったのだ。
それから神経をこじらせ、ついに参ってしまった。
あの頃は、人の視線がナイフのように感じられたものだった。
精神科からは卒業したが、未だにトラウマで人混みが苦手だ。
高校は、ひどくつまらない、寝てばかりいた場所だった。
早くに転校でもしていれば・・。
もっと打つ手はあったはずだ。・・
成績も学力もガタ落ちしたし、また違った形で、もっと努力でもしていれば、好きな仕事、芸術に携われるような、に就けたかも知れないのに。
僕には勇気もそれを持つ優しさも欠けていた。
あの頃に比べたら、僕は今、幸せだ。
それなのに、過去を変えるなんて、今更・・。
運命がその通りになるんなら、僕はその通りになったんだ。
おとぎ話じゃあるまいし。
けど、赤いキャップは・・。
父に電話して、今夜、会う約束をした。
誰かと会わなければ、やっていられない気持ちだった。
父は、間違いなく嬉しがっていた。
嬉しいのだ。僕に会うのが。
僕も社交性は低い方だし、友達もあまりできないけど、それでも、父の不器用さには敵わない。
僕は、父の友人という人に会ったこともないし、聞いたこともない。
家族の中でも寡黙な存在だった。
父が自分の不器用さを、自分でも知っていたら。
少し怖い気もした。
ショッピングモールに行き、いつもの様に読本と照らし合わせて写真を撮り、ボールペンでチェックをしていく。
小さい子供を連れた家族連れが多く目立つ。この中でいつか、家族が終わり、名前だけの「カゾク」になるのはどれくらいだろうか? と思いながら、仕事をした。
父が待っていたのは、広いアーケード街にある空いたファミリーレストランだった。
「よお」と手を上げる。僕は対面に座り、「久しぶりだね」と笑いかけた。
「クリスマスには何が欲しい?」それが彼の第一声だった。
僕は革のジャケットを脱ぎながら、「クリスマスにはまだ早いよ。それに僕はもう、トナカイ症候群じゃないからね」と言った。彼は笑った。
父には浪費癖がある。欲しい物が無くても、わざわざ探して金を使う。その浪費癖には、僕たち家族もほとほと困らされたものだ。それがなければ、もう少し楽な生活ができたのに。
多分、父が昔、とても貧乏だったせいだろう。
子供時代、父の父と一緒に木炭造りをしていたらしいし、その後も仕事を求め、各地を転々としたらしい。彼は自分のことをあまり僕らに話さなかった。
母に聞いた話によると、食べ物を恵んでもらったこともあるらしい。
忸怩たる思いをしただろうことは分かる。
そうしたことが彼を屈折させたのではないだろうか?
父には悪いが、父は父親としての役割はあまり果たせていなかった。自分の父への反感や、家族としての見本の無さ、それから来る、子供を育てられないのではないかという劣等感も想像でしかないが、あるかも知れない。
仕事のことを聞かれたから、「段ボールを見るだけだよ。よく片付けられてるね」と言った。そうすると、父が、「段ボールが天地無用なら、家族は他人無用だな」と思い付いたように言った。自分では面白いと思ったのだろうが、僕の反応がいまいちだったので、笑わずにいた。
ウェイトレスが注文を聞きに来た。
確か、暗いレストランだった。
何故、父と二人きりでそこで食事をすることになったのか思い出せない。もう、ものごころも付いていたはずなのに。
二人ともステーキを頼むことにして、焼き加減を訪ねられて、僕は響きだけで「レア」とだけ答えた。
出てきたステーキは味付けもろくにされていなくて、フォークとナイフで切り分ける時、血が出て来た。
僕は食べるのをやめて、外にある標識や信号の点滅を数えていた。
「食べないのか?」僕の返事も聞かずに、父は僕の皿を引き寄せ、嬉しそうに食べ始めた。
父ではなく、まるで違う生き物を見ているかのようだった。
「食べるか?」気が付いたら、父がフライドポテトを僕に差し出していた。
「うん」
父は歯が白い。男のくせに煙草も吸えないのだ。
父に過去のことを聞くのは憚られた。
僕は意味もなく煙草を吸い始めた。
父は黙っていた。無口なところも僕に似ている。
僕はバタフライ効果について思い出した。
どっかで蝶が羽ばたけば、遠いどっかで雨が降る、というあの迷信だ。
あの人は、夢の中で、過去を変えると、どういう未来、現実になるか分かりませんよ、と言った。
幼い頃、バタフライ効果を知った時分、雨が止んでほしい時や降ってほしい時には、背中でそっと指をこすり合わせたものだ。
過去を、もし変えたら、どうなるだろうか? 僕は生きているだろうか? 周りの人達は?
「お父さん、覚えてる? 子供の頃、よくさ、嘘をついたり、人のことを悪く言っちゃいけないって教えてくれたよね? あれ、感謝してる」
父は、「そっか」と言って、微笑んだ。
父と離れる時、少し寂しかった。
「じゃあね」また、と言って、僕は革のジャケットを手に持った。伝票は父がしっかり押さえていたが、「いいよ」と言って、自分の分だけ出して、僕は入り口でまた手を振った。
父は白い歯を見せて笑った。
夜の人影のまばらなアーケード街をうつむいて歩いていたら、「よお」と後ろから声をかけられた。
振り向いてみると、
「ああ・・、秋津か・・」
秋津は、「相変わらずいつも眠そうな面してんな」と僕を笑った。
僕は、中学時代に仲が良かった友達に、「お前、誰と歩いててもつまんなそうだな」と言われてショックだったのを思い出して、少し笑った。
秋津は自転車を押して、左手にスパイクをぶら下げていた。
「何してたの?」と僕は聞いた。
「夜サッカー」と秋津は答えた。
しばらく二人で並んで歩いて、話していた。
アーケードの終わりに、「また車、乗っけてよ」と言われた。秋津は運転免許を持っていない。人を殺すか、自分で死ぬか、どっちか、だそうだ。
「ああ、いいよ」
「お前、運動音痴なのにな」と秋津が言った。
僕はひどい運動音痴だ。それも学校嫌いの一因になったのかも知れない。
「ウチ、寄るか?」さりげなく、聞いたつもりだった。
秋津は目を丸くした。「珍しいな。お前がそんなこと」
「変だよな」僕も笑って、「じゃあな」と別れた。
チリ紙をゴミ箱へ放り損ねた気分だった。
「凡人の明日」
兄は俳優をやっている。
仕事を終わらせて、電車を乗り継いで、兄の住む街に向かった。
電車、吊革、天使の輪。
誰かが天使の輪の中に手を入れた。
僕はうつむいた。
容姿には恵まれているが、彼には才能は無いと僕は見ている。
なぜそう言うかといえば、彼は少し俗っぽいからだ。例えば、みんなが喜びそうなところで、同じ様に喜ぶ。そんなんじゃだめだ。と僕は思っている。
駅前の、宵口の透明な暗闇に兄の姿を見つけた。
背の高い彼は、フランネルシャツを着ていた。伸び切った脚にジーンズがよく似合う。長い手を僕に振り上げている。
僕と兄は、兄弟というか、遠慮のいらない友達に似ている。
僕たちは笑い合って話して、歩いている内に、何となく洋服屋巡りをすることにした。
ジャズが流れているお洒落な店で、飾られている靴と同じ物を僕が履いていた。
兄は、笑って、「恥ずかしい、恥ずかしい」と僕の背中を押して、その店を出た。
こういうところだ。俗っぽいのは。
「君ねえ」と僕は笑って言った。僕は兄のことを「君」と呼ぶ。
rit archeという店で僕はヨーグルト色の服を一着買った。高かった。
カフェに落ち着いて、ゆっくりコーヒーを飲んで話した。
「まだ、あのつまんなそうな仕事してるの?」と兄が聞いた。
「ああ。叔父さんが言ってたよ。落ち着いた毎日の積み重ねが、大事だ。って」と僕はコーヒーを飲みながら言った。
兄は、笑った。何にも分かっていないと言うように。
「お前も俺も、Art or Nothing、なんだよ。芸術か、全て無いか、なんだよ」
「この世に芸術家なんて一人もいないよ」僕はポツリと言った。
ヘッと、笑って、コーヒーカップを手に、兄は細く長い脚を組んだ。
兄と僕は破滅的な性格がよく似ていると僕は思っている。
「歌や音楽は卑怯なほど強いよ。芸術の中では最強だ」と兄は言った。芸術談義を続けるつもりのようだ。
「芸術は音楽に始まり、音楽に終わるってホントかな? 芸術に答えを出すのはまだ早いと思うけど。芸術に終わりなんて無いよ」僕は小さめな声でひとり言みたいに早口で言った。
「あ、苦手?」兄が聞いた。カフェが混んでいたので気を利かせてくれたのだ。
僕が彼のことを好きなのは、こんなところだ。いつもは何も気にしてない素振りをしているけど、きめ細やかな愛情を持っている。彼と別れる時は必ず、もう一度会いたいな、という気持ちにさせる、魅力の持ち主だ。
「いや、大丈夫」と僕は言った。でも何が怖いのか、イスに掛けた革のジャケットの袖をギュッと握っていた。
「君さあ、こうは思わないか? 人類はもう地球の生態系から外れてるワケだよね? じゃあ、人類の中で生態系を作るべきじゃないか。とね。つまり、あるべきものはあるべきところへ。人類の人類としての生態系をさ。弱肉強食ではなくて、弱い者は守られ、共生していく術をさ。例えば、才能もそうだよね。才能を持ってない人なんていないと思うんだよ。みんな、何かを持ってる。目立つ才能もあれば、目立たない普通の才能だって有る。みんな、何かを持っているんだよ。その人が、その所で、惜しみなく、当たり前に、生きられる。それが生態系なんじゃないかな」僕は言った。
兄は僕をジッと見て、聞いていたが、ちょっと顔を近付けて、「大丈夫?」と聞いた。僕が革のジャケットの袖をずっと握り続けていたのが、気になったらしい。
「うん。大丈夫」と僕は言って、コーヒーカップに手を移した。
二人とも食事を終えて、店を出た。勘定は兄がしてくれた。僕がこういう所は苦手で、一人で外食も出来ないので、不慣れなことを知っているのだ。
優しい兄だ。
「お前、彼女は? いるのか?」別れるまでの、二人の短い帰り道をブラブラ歩きながら、兄が聞いた。兄の声は、背が高いので、いつも斜め上から聞こえる。
「うん。いないよ」と僕は答えた。
「大丈夫か?」と兄が聞いた。
「ミノタウロスほど、孤独じゃないよ」と言うと、兄が笑った。
「お前、きっと早死にするよ」兄が笑って言った。
駅前の信号で別れる時、兄がいなくなるのが少し怖かった。人がいっぱいいたからだ。
兄が離れて行く。
僕は息を溜めて、深いため息を吐いた。
信号が青に変わって、僕は大勢の人の中で肩に力を入れて、横断歩道を渡って、駅で切符を買って、また奥歯を噛み締めて、大勢の人の乗る電車に入った。
だんだん人が減ってきて、息ができるようになってから、僕は空いた席に座って、思い出していた。
兄が出ていたTVドラマの撮影現場の見学に行った時のことだ。
撮影の合間に、「君も出てみない?」と誘われたことがある。
僕はその場で断った。
ノイローゼの病み上がりだったし、俳優なら基礎を積んで、しっかりやりたかった。
俳優になるのはやぶさかではなかったけど、中途半端な気持ちで入るのが嫌だっただけだった。
あの時、断っていなかったら。
仕事を辞めていた頃だったから、丁度良かったのに。
ふんぎりがつかない意気地なしだ。
僕は、兄じゃなく僕がステージでライトを浴びている様を思い浮かべた。
僕は鳥のように腕を広げて、そのライトを全身で浴びているのだ。
フッと僕は電車の席で笑った。
そんなことできる訳ないのに。
それから思い浮かべたことは、まだ兄が駆け出しだった頃、兄が僕に向かい、「一緒にやろうよ」と言ったのだ。
僕は照れ隠しに断ったが、本当は兄にそんなこと言われたのが、嬉しかった。
僕はユラユラ揺れる電車の窓から見える夜景の、一つ一つの明かりたちが思い出のようだなあ、と思っていた。
ビル風の吹き抜ける通りを越えて、マンションに着きエレベーターのボタンを押して待っていると、歩いて来るヒールの音がした。
振り向いてみると、
「あらあ」水菜はそう言って手を上げた。片手にはコンビニの小さな袋を下げている。
「こんばんは」僕は言った。隣に水菜が立つと、レモンの香りがする。水菜はいつもレモンの良い香りをさせていて、コケティッシュだ。
エレベーターの中では何も話さなかったが、急にクツクツ水菜が笑い出した。水菜のコンビニの袋の中身はチーズだった。
僕も笑って、「思い出し笑い?」と聞いてみると、水菜は「うん」と答えて声を出して笑った。
流れた過去。忘れてきた思い出。遠過ぎて、ちっぽけに見える、けど、僕らはそれで生かされてるんだな、と思った。
水菜が先に降りる時、「ごめんね」とまだ笑いながら言って、手を振り降りた。
何が「ごめんね」なのかよく分からないけど、僕も曖昧に笑って、手を振り返した。
エレベーターが自分の部屋の階に上がるまで僕はずっと、エレベーターの中を照らしている電灯を見上げていた。
「人間は未来から学ぶことは出来ますか? 人間には過去しかありません」大学の頃、教授が言っていたことを思い出した。
エレベーターの中にはまだレモンの残り香がした。
真っ暗な自分の部屋の明かりをつけると、真っ先に赤いキャップが目に入った。
僕はそれを手でもてあそんで、「お前は・・」と呟いていた。
母は、僕には父についての文句や愚痴をいちいち言っていたくせに、兄には一切しなかった。
どうしてだろうか?
きっと兄が怖いからだ。
「白昼夢」
午前の仕事が終わり、午後の訪問先まで歩いていた時のことだ。
いい天気だった。小春日和といったところだろうか。ネクタイも解いて、スーツのジャケットを脱いで、ワイシャツだけになった。
太陽も服を脱いだようだった。
舗道に雨粒が落ちた様な暗い点が見る見る内に広がっていく。
何だ? 天気雨か? と思って上を見上げた。
手の平を上に向けてかざしてみても、何も感じない。
熱せられ乾いた舗道から立ち昇るあの蒸せるような匂いもしてくるのに。
誰も傘を差していない。
立ちくらみがした。
太陽がグラッと揺れる。
雨が日光を乱反射して、おびただしい光の暴走の中に包まれた。
何だ?
僕は、立っていられなくて、歩道にしゃがみ込んだ。
もう、光と雨で誰の姿も見えない。
目がチカチカする。目を閉じようとすると、吐き気がする。
目がくらむ。
暑い。
冷や汗が出る。
息ができない。
喘息の発作のように荒い息をして、耐えていると、目の前に誰かの足が見えた。裸足だ。僕を立って見下ろしているようだ。
顔を上げられない。
太陽がまるですぐ間近にあるように、輝きの奔流の中で僕は一人だった。
神か? 僕は思った。
ひざまずいた格好だ。
神にも足があるのか。僕はそんなことを思った。
そうだよな。人間は、神の似姿に似せて、造られたのだから。
「大丈夫ですか?」と言う人の声、肩に触れる手の温もりも感じる。「救急車!」と呼ぶ声も聞こえる。
でも、光の中で誰の姿も見えない。
これは夢なのだ。
雨なんて降ってない。
僕の目に見えるだけだ。
そして、ひざまずいた僕と、僕を見下ろしている誰かがいるだけだ。
もう僕の見開いた目から滴り落ちているのが、汗なのか雨なのか涙なのかも分からなかった。
僕は一体何の為に生まれてきたんですか?
僕って、一体何なんですか?
この世界は何の為にあるんですか?
この世界って、一体何なんですか?
終わりを知って、初めて始まりを知るなんて僕は嫌だ!
教えて下さい。
教えて下さい。
あなたは、何の為に・・。
神に会ったら、聞きたいことが沢山あった。
全て、真っ白になった。
僕の目の中に稲妻が走った、ように感じた。
自由な瞳。語る目。曇りない眼。自分を映す鏡。・・あの夢の中で言われた言葉が、思い出された。
意識を失った僕は病院へ運ばれた。
「エピソード.1」
高文葉は病室でコーヒーを飲んでいた。
まだ体に力が入らない。
ずっと寝ていたい気持ちだった。
窓の外は雨で、蒼く見えていた。
神を忘れない。
僕は仏頂面をしていた。僕は不機嫌になると黙り込む癖がある。
高文葉の父は喫茶店のカウンター席で待っていた。
高文葉の兄はその隣に腰かけて、煙草を取り出して吸った。
父はその様子を何も言わず、見るともなしに見ていた。
「どうだった」父が聞いた。
「ああ、案外、元気そうだったよ」と、つまんなそうに兄は答えた。
また、一本に火をつけて、「どうして行かないの」と兄が聞いた。
「あいつが行ってるさ」あいつとは高文葉の母のことだ。
「ふーん」兄は鼻から煙を出し、ため息を吐いた。
父は一口コーヒーを飲み、苦そうに顔を歪めて、「タガが外れたらどうなるか分からんぞ。あいつは」と言った。
兄はつまらなそうにボンヤリとそれを聞いていた。
「精神が脆いからな」と父が言った。
兄は灰皿に煙草をもみ消して、フン、と鼻で笑った。
父親を父親として見ない子供と、子供を子供として見られない父親。二人の会話は長く続かなかった。
「じゃあ、僕、用が有るから」と兄は席を立った。
「ああ」と父も分かったように返した。
喫煙所で煙草を吸ってから来たらしい。
母は煙草の匂いをプンプンさせてやって来た。
長い、傷んだ茶色の髪を軽くかき上げて、高文葉のベッドの脇のイスに座った。
ハー、と長いため息を吐いた。ひどく疲れた、とでも言うように。
「困らせないでよ」と母は言うかと思ったが、言わなかった。
ただうつむいて、自分の手ばかりを見ている。
「ごめんね」と高文葉は言った。
母がパッと顔を上げた。その瞳は潤んでいた。
「どうして、こんなことになったのよ?」母が言った。
「分からない・・」僕は答えられなかった。
「馬鹿だね。あんたは本当に馬鹿だね・・」とまた母はうつむいた。
顔を両手で覆って、またハー、とため息を吐いた。
「あんただけは・・・・」と言って、母が泣き出した。
嗚咽していた。
「いつも側にいるよ」と言って、高文葉は母を抱いた。
母は泣き止まなかった。「馬鹿だね」「馬鹿だ・・」と繰り返していた。
母の悲しさを分かりたかった。
それは僕の知らない心の深みなんだろう。
退院の日。
僕は昼が怖いから、と言って、退院を夕方に延ばしてもらった。
「お世話になりました」とナースの人達に言って、病院を出た。
わざと暗がりを歩くようにして、電車で事務所に行った。車が置いてあるからだ。
事務所で話をしたり、迷惑をかけたことを詫びたり、仕事の下調べをしたりして、時間を潰した。
夜になって、事務所を閉じる時、外に出た。車に乗って、わざと遠回りして帰ることにした。
ドライブしたかったのだ。
しばらく走った後、知らない、暗い交差点で、怒りに任せて、赤信号を突っ切った。
「友達」
会社から一時休暇をもらった。数日間、静養するように、とのことだった。
赤いキャップは見えない所にしまって、二日間は部屋から一歩も外に出ずに過ごしたが、食べ物も尽きたので、夜にアーケード街に買い出しに出かけた。
アーケード街の片隅、シャッターが下りた店の前にニット帽を被った
僕が近づいていくと、以和も僕に気付いて、「久しぶりね」と笑った。
僕も隣に座り、閑散とした通りや赤いアーケードを眺めた。
以和はキャラメルを噛みながら言った。
「一つね、ユダについて考えてみたの。ユダはキリストさんを裏切ったけど、かわいそうよね。イエス・キリストさんはその人を責める理由なんてないと思うの。もし本当に偉い人ならね。だって、一番問題なのは、その人に裏切りを許してしまった自分の力量不足でしょう? 神の使いなのかどうかも知らないけど、たった一人の裏切りも止めることができなかったのは、やっぱりかわいそうよ。両方ともね。私だったら、何も言わず、哀しい目でユダを見つめる。そして、自分を責める。謝罪するかも知れない。辛過ぎるよね。やっぱりね」
こっちを振り向いて僕の反応を見る。僕も「そうだね」と肯いた。
「進化論もね。あれ、あの、七日間? くらいで、世界創ったってやつ。あれ信じられない。むしろ、進化論のさ、何億年もかけて、進化していったやつ。その方がダイナミックで、神の行いにふさわしいわ。ね?」と言った。
僕は唇を尖らせていた。
「シカトしないでよ」以和は笑って言った。
以和とは、仕事で行った児童相談所で知り合った。
夏だった。
冷房のよく効いた部屋から外に出ると、体に張った薄い氷が溶けていくみたいな感じがした。
あの児童相談所は冷房が効き過ぎだ。
僕にぶつかって、「ちょっと、気を付けてよね」と言って、僕の財布を盗ろうとしたのが、以和だった。
ホームレスみたいなことをしていたところを保護されたらしい。
窃盗癖は直ったが、放浪癖は抜けないようだ。
「私ね、家に入る鍵が曲がっちゃったの。だから帰れないの」と以和が言った。
「新しく鍵作ればいいじゃないか」と僕は言った。
以和は、僕に向かって、嬉しそうにニッと微笑み、「あんたは優しいから」と言った。
「私、ずっとね、誕生日の翌日のあの変な気分なの。何とも物悲しいんだな」とアーケードを見上げて以和が言った。
「あんた、誕生日は?」以和が聞いた。
「4月1日」
「じゃあ私、ちょっとあんたの誕生日待ってる。時が止まっても。それは永遠の一秒前だから」膝に顎を埋めて以和が言った。
「お前さ、過去が・・。今が変えられるとしたら何になる? なりたいものさ」僕は聞いた。
以和は顔を上げて、夢見るような瞳をして考えていた。
「そうだなあ、・・鉛筆くわえて考えてる女の子になりたいなあ」以和が言った。
手を頭の上で振って、恥ずかしそうにして、「なかったことにして」と笑った。
「何で」僕は聞いた。
「このままでいいから」以和が言った。
僕は黙っていた。
「浅き夢見しか・・」以和は伸びをしながら、ため息と一緒に言った。
僕は黙っていた。
以和も黙った。
「だって、悔しいじゃないか」僕は横を向いて、言った。
真剣な顔をした僕を見てから、「うん」と以和は寂しそうに微笑んでいた。
僕は、夢の中で告げられたあの能力を、以和にあげたい、と心から思った。喉元まで出かかった。
でも、言ったら無くなってしまう。
せめて、以和のために、使いたいと思った。
でも、何も思い付かなかった。
僕は拳を握って、口元に当てた。
「お前もう18歳か」僕と以和はラーメンを食べていた。僕の奢りだ。
「そう。もう児童じゃないのよ。だからあそこにも居られないんだ」ラーメンをすすりながら、以和が言った。
「働けよ」
「パス」以和が言った。
以和が僕の着ていた革のジャケットを触り、「これいいね」と言う。
「お前、好きなものは?」
「今食べたいのはプリン」
「じゃあ、それ買ってやるから、帰れ。もう」
以和はブーとふくれた面をした。
以和と僕は一緒に高台の広い公園に上った。
階段からも綺麗な夜景が観える。
多くのビルも眼下に広がる家並もみんな輝いている。
一足先に公園に着いた以和が、「ね? やっぱり来てよかったでしょ」と言った。
僕は「ん」と言って、ブランコの柵に座って煙草に火をつけた。
以和に煙草の箱を差し出すと、「未成年だから」と断られた。
二人、黙ってしばらく夜景を見つめていた。
「寒くない?」と僕は聞いた。
以和はニット帽とお揃いみたいな、荒い編み目のニットしか着ていなかったから。
「ちょっと、寒いかもね」と以和は笑って答えた。
僕は革のジャケットを脱いで、以和に差し出した。
以和はそれを羽織って、恥ずかしいみたいな顔をした。
僕もはにかんで笑って、コンビニの袋を解いた。
以和はプリンを食べていた。僕は横で煙草を吸っていた。
「私の生まれた街ね。工業地帯だったの」と以和が言い出した。
「いつも煙突からモクモク灰色の煙が出てた。・・雨が降ってきた時だけ、空気が綺麗になる気がして、みんなして雨に飛び込んだっけ。雪は煙を吸い込んで、ちょっと苦かった」
僕は煙草を吸って聞いていた。
以和はひとり言のように、「一瞬の表情、涙、後ろ姿、かじかむ指、土埃、口癖、・・それが私達の思い出の全てみたいなもんだったな・・。雨が徐々に体温を奪っていくのと同じで、あいつらも大人になるんだね」と言った。
「どうして出たんだ」と僕は聞いた。
「私が、見限ったの」フッと以和は笑った。
「あんたが煙草吸ってるから、そんなこと思い出しちゃった」
「人は、逃げ水を追いかけて、生きるしかないんだよ」と僕は言った。吸っていた煙草が全部灰になった。僕はそれを捨てた。
「大人は、大人ってだけで忙しいんだもんね」と以和が少し寂しそうに言った。自分もそうなるんじゃないか、と思って嫌がっているように感じた。
「働けるだけ幸運だよ」と僕は言った。
ヘヘと、以和は笑って、砂地に指で何か落書きをしていた。
「私も、いつか大人になるんだもんね」と以和は呟いた。
二人、続く言葉が見当たらなくて、聞こえてくるのは電車の音だけ。
「何持ってんだ。それ」
以和は大きなキャリーバッグを傍らに置いていた。
「着替え、とか、あと、ノート」
「ノート? 何つけてんだ」と僕は聞いた。
「小説」以和はまだ砂地に落書きを続けている。
大学の頃、色んなコンペティションに絵とかを応募していたことを思い出した。
自分の力を試してみたかった。
賞金稼ぎになるつもりだった。
でも、いくらやってもダメだった。
これ以上、日の目を見せられない作品を作るのが申し訳なくて、やめてしまった。
あの頃からだ。多分。こんなに芸術に執着するようになったのは。
「お前、赤いキャップ、いるか?」僕は聞いた。
「いる」
風に混じって雨が頬に当たった。
「帰ろう」僕は言った。
「ん」以和はキャリーバッグから大きな水筒を出して、飲んだ。
何かが心配で、僕はずっと以和の顔を見ていた。
僕に革のジャケットを返して、「帰らないかもよ」と僕に言った。
並んで立った時、以和の背がこんなに小さなことに驚いた。
僕が何か言おうと思った時、「ん」と以和は言って、キャリーバッグと共に階段を駆け下りていった。
部屋に帰って、赤いキャップを被って、鏡に映してみた。
いつの間にか、それは僕には似合わなくなっていた。
僕は少し笑ってそれを外し、テーブルの端に置いて、それを見詰めながらコーヒーを飲んだ。
もう、怖くなくなった。
「エデン」
母の住居に招かれた。初めてだった。
母はコの字型のアパートに住んでいる。二階建てで六部屋しかない。その一室が彼女の住処だった。
なぜ母がこのアパートに住んでいるかというと、広い中庭があるからだった。
このアパートの空き部屋を見付けた時に、母は大喜びで、一息にすっ飛んでいって、契約して来た。
それまでは、僕と母は一緒に仮住まいをしていたのだった。
車で近くの適当な駐車場まで行き、そこからは歩いた。
住宅街の中にそのアパートは有った。
モダンな門をくぐれば、サンサンと日に照らされている中庭が別世界のようだった。木が何本か、と、草花が溢れるように咲いている。母はその全部の名前を言えるんだろう。母は植物に詳しいから。
見上げると、二階の柵越しに母が手を振っていた。
室内は広かった。
「紅茶、飲む?」母はそう聞いた。
「うん」僕は部屋を眺め回した。エキゾチックにまとめられていた。
ライトアップされた青い水槽には熱帯魚がたくさん泳いでいる。
「これ、カトレアにやられないの?」僕はキッチンに立っている母にそう聞いた。
「カトレアはそんなことしないの。私のブルー・ミュージアム」カトレアは母の足元に擦り寄っている。母はカトレアを抱き上げて、キスをする真似をした。
だけど、カトレアを見る目が、どこか悲しいのは何故だ。
熱帯魚もカトレアも彼女の悲しみの結晶のような気がして僕は目を閉じた。
メープルシロップを入れた紅茶が出て来た。
いつかのパンケーキと同じ味がした。
窓辺に置かれた小さなテーブルからは、あの中庭が見渡せた。
「四季折々の花が見られるの」彼女は満足そうにそう言って、紅茶の湯気を揺らした。
カトレアは僕には懐かない。少しばかり一緒に住んでいたというのに。
あの頃からそうだ。
男物のシャツを見つけた。
ベッドルームに無造作に掛けられている。青いシルクのシャツだ。
「誰か来てるの?」
母はちょっとバツが悪そうな顔をして、「うん」と言った。
「どんな人?」
「頼りがいのある人よ」
紅茶に重い沈黙が落ちた。
「隠しておけよ」
母が急に汚らしく思えた。
母は黙って紅茶を飲んでいる。もうすぐなくなる。きっと、なくなっても何も言わないで、ため息を吐くだけだろう。
それとも何もなかったように、話し続けるかも知れない。
珍しくしおらしくしている彼女が、僕をますますイラつかせた。
「帰るよ」僕はカップを置いて、革のジャケットを手に取った。
「行かないでよ。来たばっかりじゃないの」母はとりなす様に言ったから、僕は黙って乱暴に革のジャケットを羽織った。
「何、怒ってるのよ」母はしれっとして僕に言った。
「居たくないから」僕は彼女を睨み付けて言った。
母はバンとテーブルを手で叩いて立ち上がり、「何なのよ、それは」と言った。そして、ため息を吐いて二人分のカップをトレーに載せて、キッチンに行く時、僕の横を通り過ぎて、またため息を吐いた。
「下らない・・!」僕は怒気を孕んで言った。
「うるさい!」母がトレーをキッチンにガシャンと置いて、怒鳴った。
「私はあんたのこと可愛がった! それで充分じゃない!」母の声はよく通る。
「馬鹿じゃないか? またそうやって僕が折れると思ってんだろ。いつだってそうだ! 僕はあんたに何も言えない臆病者だとまだ思ってんだろ! 僕はもう大人だ! あんたを怖がってるあの頃じゃないんだ!」
「何であんたはそう飛躍ばっかり・・! もっと理路整然と、」母はこっちに近づいて来た。
「いつだって自分の事ばっかりしか考えてない! 僕のノイローゼだって、自分がかわいそうなだけなんだろ!」僕はわめき散らした。母と大人になってこんな喧嘩をしたのは初めてのことだった。僕は今まで言えなかったことを言ってるんだろうと自分でも分かりながら、母を責め続けた。
「そんなことない! 私があんたのこと、どう思って、」
「男がいるのに、子供を連れ込むべきじゃないってことだ!」
「あんたの理屈は筋が通ってない!」
「そうやって全部、人のせいにする!」
「私が恋人が出来たからって何? 私が人生を楽しんじゃいけないの!?」
「僕の馬鹿が、そう言ったかい?」僕は母に詰め寄った。
僕は椅子の背もたれを殴りつけ、派手な音をさせてはね飛ばした。
母は僕に平手打ちをくらわせた。そして、しゃがんで泣き出した。
「困らせないでよ・・」母は額に手を当て、目を閉じ、嘆息を漏らした。
「またそれだ」僕は口惜しさ紛れに呟いた。
「早く出てけ!」母が叫んだ。
「出てくよ。・・コインパーキングに停めてるからね」多分、一生、バレない嘘をついた。
僕は泣いている母を置いて、その部屋を出て行った。
中庭が平和な顔をしていやがった。僕は唾を吐き掛けそうになったけど、止めておいて、怒った足取りで出て行った。レンガ作りのその門を足で蹴った。
駐車場まで歩いている内に、母に心から謝りたいと思った。何度か足を止めて、踵を返したが、また向きを変えて、駐車場まで歩いた。
駐車場に着いて、僕は僕の車のルーフに手を置いて、泣いた。
「エピソード.2」
それから数日後、母との傷も癒えぬまま、僕は休日、スポーツ場に居た。
秋津に、サッカーの試合があるから見に来いと誘われたのだ。
雨上がりのランニングコースを、水たまりをまたいでジャージ姿の何人かが駆けて行く。
同じところを何遍も何遍も。
観覧席のひさしからは、ポタポタと水滴が垂れ落ちていた。
「悲しみの、花が咲くのは、油が浮いた、水たまり、か・・」僕は観覧席でひとり言を言った。
観覧席はがらんと空いていた。きっと出る人の関係者しかいないんだろう。
「よおー」声をかけてきたのは水菜だ。
聞けば、隣の体育館で、友達のバレーボールの試合観戦をしていたらしい。勝ったらしい。
「ついでだから、見ていくか? 知り合いが出てんだ。あの赤いゼッケンの8の奴」
僕は、グラウンドの端で監督を囲んで、せわしなく足を動かしている一団を指差した。
「何、あれ! カッコいいじゃない!」水菜が秋津のことを言った。
「そうかい? 良い奴だよ」僕は小さな欠伸をした。
「ねえ! 紹介してよ。お願い」
「ああ・・。試合が終わってからね」どうも運動は好きになれない。
秋津のチームは負けた。
僕は嬉しくも悲しくもなかった。
今、水菜は体をもじもじさせて、タオルで汗を拭いている秋津と話している。
水菜が観覧席にいる僕を指差した。秋津もこっちを見た。
僕は笑って大きく手を振った。
しばらく眺めて、どうやら良い雰囲気そうだと思った。
僕は、キューピッドになったつもりでいた。
僕は片目を閉じて二人の姿を弓で射る真似をした。
僕はグラウンドに出てって、置いてあったサッカーボールをゴールに蹴り入れた。
濡れた芝がグショグショと音を立てた。
僕がボールを手に持つと、秋津がパスを求めてきた。
僕がそれを放ると、胸、膝、頭、それから後ろで足と、リフティングして、手に持って笑った。水菜がそれを見ていた。
水菜も入れて、三人で蹴ったり投げたり遊んだりした。
水菜はスカートの両裾をつまみ上げて、ヒラヒラ舞う蝶の様だった。
最後にハンドボールよろしく秋津が思い切り手でボールをゴールに投げ入れた。
秋津は一人で踊る真似をしていた。
水菜はそれを手を叩いて笑っていた。
僕はバドミントンがしたかったのだが、道具が見当たらなかったので、靴下まで濡れた足を引きずってランニングコースに出て、裸足になって、靴下を絞った。
もう誰も走っていないランニングコースを僕は靴と靴下を手に持ったまま、歩き始めた。
空いた道は気分がいい。
隣に水菜が駆けて来て、一緒に歩いた。
秋津はまだ一人でゴールキーパーのいないPKの真似をしていた。
「生きててくてく」歩きながら僕は何となく言った。
「ミルククルクル」隣で水菜も歩きながら、そう返した。
僕らは短く笑って、もう片方が逆光になったスポーツ場の中を一回りして、秋津に「もう帰るぞ」と声をかけた。
「え? 今何時?」そう秋津が聞いたので、僕はポケットから携帯電話を取り出して時刻を見た。
「4時O'clock」と僕は答えた。
「なーんだ。そうか」と言って、秋津はもう一回大きくヘディングして、ボールを高く上げて、「帰ろう」とこっちへ来た。秋津の後ろで、落ちたボールがまた大きくバウンドして、バウンドして、バウンドして、あっちに転がっていった。
黄昏が赤いチューリップ色をしていた。
「森の出口」
何もかも台無しになるのは分かってはいるが、いっそ、誰かにこのことを話して、みんな忘れてしまいたいとも思った。逃げることだ。
今なら、母と喧嘩した事実だけで済む。
何であんなに立て続けに誰かと会ったり、長く話したか、不思議に思うだけだろう。
そうすれば素直に母に謝れるだろう。
夢を信じていいのか?
煙草を吸って、一人考えた。
僕はスリッパのままベランダに出た。涼しい夜風が頬を撫でた。
僕はため息を吐いた。
何か急に悲しく思えた。
この一画、ビルの立ち並ぶ、このマンションの、一室のベランダに立っている、この一人の自分だけが、まるで取り残されたような気がする。
「馬鹿だな」と呟いた。
赤いキャップを取り出して、紙袋に入れた。
いつか、以和に会った時、渡そう。
あいつならきっと喜んでくれる。
ぬるめのコーヒーを飲んで、僕は思い出していた。
まだ小学一年生の時だったと思う。初めての運動会。駆けっこ競争の時だ。
僕はゴール手前まで一等だった。ワーワーキャーキャー騒ぐ声が聞こえた。多分、あの中に親も居たんだろう。
僕は一心不乱に走っていた。このまま行けば一等は間違いない。そう思った矢先、靴が片一方脱げた。
靴が欲しかった訳じゃない。ただ、戻らなくちゃ、と思った。そして、僕はクルリと振り返って、そこまでケンケンで戻った。あーあ、とか、笑う声も聞こえた。覚えている。僕の後ろに走ってた子たちが僕を走って追いぬいて、僕は靴までケンケンで戻っている。確か灰色の靴だったように思う。
結局僕は、靴を履き直して、遅れてビリでゴールした。
一等なんてどうでも良くなった。あのまま靴を置いて、一等になったって、何が嬉しかったろう?
あの時、靴が脱げなかったら?
靴を取りに行かなかったら?
「規律協会の者です」
その日、訪れたのは、「スクラップブック」という名の大衆バーだった。若者に人気が有るらしい。
「ご協力ありがとうございました」僕はボールペンをしまって、頭を下げた。
そして、僕は帰らないで、ジンを注文した。
「いいんですか?」
「いいんだ。それで」僕は大勢に紛れてジンを二杯おかわりした。僕は微笑んでいた。
店の名前とそこまでの地図が刷られたカードを取って、財布にしまって、僕はその店を出た。
以和のいる児童相談所に行った。
丁度、外に出ていた職員に以和がどこにいるか聞くと、「以和なら、出かけてますよ」と訝し気に答えられた。
「そっか」僕はそう言って、財布を出して、「スクラップブック」のカードを職員に渡した。
職員はそれを見て、僕を悪い仲間なんじゃないかというような目で見た。
「以和に渡して下さい。もし帰ってきたら」と僕は言って、その児童相談所を後にした。
夜、家に帰って、買って来た新しい額に『森の出口』を入れて、また壁に掛けた。
僕は僕を忘れていた。
夢を見ないで。
今、やっと思い出した。
森の出口だ。
兄に電話をかけた。
「君には、夢を諦めるようなこと言っちゃったけどさ。言い直させてくれ。やっぱり、僕、俳優になるよ」僕は言った。
「才能があるかどうか、分からないけど・・」
「分かってるよ。でも俳優に、なりたいんだろ?」兄が言った。
「うん」
「才能に優る努力はない。運命ってのはね、決められたものじゃない。自分で作り出すものなんだ」兄が言った。
「うん。分かってる」
「水くさいな。もっと早く教えろよ」と兄は笑った。
僕も笑っていた。
煙草を吸っていた。メンソールの煙草は、ナッツの味がして、果物の香りがして、ミルク臭くて、クリームの匂いがした。
その時だった。母から電話がかかってきたのは。
要件だけ言われて、切られた。
「エピソード.3」
母方の祖父が亡くなった。
ここ数年、認知症を患っていたから、とうとう来たかという感じだった。
「そんなに休まれちゃ困るよ」と上司に言われたが、僕は忌引き休暇を取って、電車に乗った。
一族が待ち合わせした祖父の家には、母と、母の弟である僕の叔父さん家族が集まっていた。
僕の家族は、僕と母だけであった。
叔父たち家族はブルドッグも連れていた。
祖母は足が悪いので、もう叔父さんの車の中に座っていた。
母は、まるで僕がいないように扱った。
葬儀場まで、叔父さん家族と祖母の乗った車、母と僕が乗るタクシーと続いた。
郊外へ来た時、タクシーの中でポツリと、母が、「人生は意味のないゴールね・・」と呟いた。
参列者は祖母と僕と母と叔父さん家族と、少なかった。
一人ずつ、短い言葉と一緒に花を、祖父の入った棺の中に入れ、葬儀は終わった。
祖母はハンカチで目を押さえていた。
火葬が終わるまで、用意された部屋で軽い食事と酒を囲んだ。
僕は黙って煙草ばっかり吸い続けていた。
そんな僕に気を使ってか、先刻まで母と話していた叔父さんが、「さあさ」と僕のグラスにビールを注いだ。
そんな叔父を僕は思い切り睨み付けた。
気に入らなかった。
バン、と母が皆が並んでいるテーブルを叩き付けて、僕に、「もういい加減にしなさい! 文句があるなら私に言って! この人たちは関係ないでしょ! もうそろそろ大人になったらどう!?」と怒鳴った。
僕は立ち上がって、叔父に向かって、「あんたから見れば、みんな揃ってないのは変かも知れない! けど、それでも、僕の立派な家族なんです」と言った。泣いているつもりでもないのに、僕の目からはハラハラと涙が零れ落ちた。
さしもの母も狼狽して、「ごめんなさい。この子、今、情緒不安定だから・・」と叔父たちに弁明し始めた。
叔父も困惑していて、「ああ、・・またあの頃の・・?」と言っていた。
僕は何でこんなに涙が流れてくるのか自分でも分からないままに、また叔父さんに向かって、「あなたから見れば僕らは家族の失敗でしょう? けどね、何も知らないあんたに分かってなんかほしくないんだ」と言っていた。最後の方はもう涙で邪魔されて自分でも聞き取りにくい程だったけど、言い終わった後、僕はそこを逃げ出すように、部屋を出て、ロビーの椅子に座り込んで、おいおい泣いた。
いつの間にか、母が背後に立っているのに気が付いた。
「家族はこぼれない水なんだよ」まだ泣いていた僕は、母に言った。
母の手は優しく、僕の肩に乗って、「一緒に煙草吸いに行こう」と母の声が聞こえた。
表に出て、灰皿も無いところで、二人で煙草に火をつけた。
青空が沈んだ夕焼けは、丁度、この悲しみに同じ色だった。
「間違ってないよね?」僕は聞いた。
「ミューズが死なない内にそう聞きなさい」と母が言った。
ワオワオ! ワオ! と犬が盛んに鳴いているのが聞こえた。
目をやると、叔父の車の中で窓ガラスを足でひっかきながら、尻尾を振っているブルドッグだった。
僕も母も笑った。ブルドッグも笑っていた。
そよ風が吹いていた。
「どうしたのよ? 一体・・」戻って来た僕と母に不機嫌そうに祖母が尋ねた。
僕は祖母、そして叔父さんに謝った。
叔父は極めて常識的な人なので、本当に許してくれたのか分からないが、許してくれた。
ブルドッグの乗った車は走り去っていった。
僕は何となく、帰宅する父のためにビールグラスを冷凍庫に入れて冷やしておいた時のことを思い出していた。
幼い頃、いつも両親にねだって、ガムを買ってもらい、いつもそれを噛んでいたことを思い出していた。
そのおかげで、今でも僕は歯並びが良い。
「信者の告白」
事務所で、読本に目を通していると、鞄の中で携帯電話が鳴った。
取り出してみると、電話が切れた。
着信履歴は、「非通知」だった。
僕は何も言わず、携帯電話をまた元の場所にしまった。
午後の訪問が終わると、もう夕方になっていた。
太陽が逆さになって落ちていく。
大通りの広場はまるで、ビルや家並の影が差して、無数の日時計の中に居る様だった。
人々が行き交う中、僕は佇んでいた。
高文葉。高文葉。あの声が聞こえた。
雑踏が遠くなり、黄金色の大気に包まれた。
あの夢の中のようだ。
僕は待った。
時が止まったようだ。
やがて、あの女の人が現れた。
広場の向こうに立っている。
僕はその女の人が歩いて来るのを、黙って待った。
その女の人と向き合うと、僕は聞いた。
ここは永遠の一秒前ですか? 聞かれることは分かっていた。
どうして何も望まないのですか? あの人は微笑んだままで尋ねた。
僕は、言った。
神のものだけです。僕は。
女の人は少し笑うと、僕の額に指を当てた。
情景が変わった。
自転車に乗った少年たち。
あの、赤いキャップの夢の続きだ。
いや。いいよ。僕は不良に赤いキャップを返した。
その日は、そう、とても天気が悪かった。
自転車に乗っている間に、雨が降り出して、風も強くなった。
暴風雨になり、それでも僕らは海までやって来た。
僕が持って来た釣り竿を用意して、荒れた海に糸を垂らした。
釣り竿はギシギシ振られ、僕らは雨と風に耐えていた。
ついに、釣り竿の先が折れた。
僕らは自転車を押して、引き返して、思えば散々な旅だったな。
僕は苦笑して、女の人を見ようとした。
女の人はもうそこにはいなかった。
あの、遠い波音はいつしか雨の音に変わり、気が付くと、僕は雨に濡れていた。
傘を持っていない僕は、走って、雨宿りする場所を探した。
僕は今、川縁の道を歩いていた。昼休みだ。
カタがついたな。僕は思った。
僕は過去も現在も間違ってないと思える。
その夜、「スクラップブック」に行ってみた。
以和がいた。
「もー、ひどい。ずーっと、待ってたのよ?」以和は黄色とブラウンのチェック柄のストールを肩に掛けて、親指だけ出てる手袋をして、カクテルの前にいた。
「私を口説くつもり?」イヒヒと以和が笑った。
「これ、やるから」僕は赤いキャップの入った紙袋を渡した。
開けて、赤いキャップを見て、「趣味、悪い」と以和が言った。
僕は笑った。
「これ、あんたの?」
「まあね」僕はウォッカを頼んだ。
「どうしてくれるの?」以和が聞いた。
「どっか行ってみようと思う」僕が言った。
「何で?」
「俳優になりたいんだ」と僕は言った。
「とりあえず今の仕事は辞めて、どっかで良い劇団でも見つけて、そんでさ、働きながら、演劇で生きていくために頑張る。どっかはまだ決めてないんだけど」
以和は口をポカンと開けて聞いていた。
「向こう見ずだろ?」僕は笑った。
急に、以和は自分のほっぺを叩き出した。
「何やってんだよ?」僕は驚いて聞いた。
「もう、そばかすも隠さない!」以和が言った。確かにそばかすが見えている。
「どうしてだよ?」
「私も俳優になるんだもん」
「え?」僕は聞き返した。
以和はじっとこっちを見ている。
「一人になりたいんだ」僕は出てきたウォッカを飲んで、言った。
「もう一人は嫌だ」そう言ったと思うと、以和はカクテルを置いて、店から出て行ってしまった。
「芸術のみなし子」
一人でウォッカを飲んでいると、入り口が開いた。見やると、キャリーバッグを引いて、以和がこっちに来た。隣にまた座った。
「あれ? 私のカクテルは?」
「お前、何しに来たんだ?」
「私、根無し草だから」と言って、以和は僕に笑顔を見せた。
僕は驚いて見ていた。
「ノートは全部捨ててきた」
「いいのか? それで」
「全部覚えてるから。私の化石だもん」
小学校低学年の頃、ずっと一人ぼっちで、でも、昼休みには何か校庭に出ないとおかしいみたいで、校庭を行き場もなく、ウロウロして、ずっと友達が欲しい、友達が欲しいと思っていたことを思い出した。
校庭はいつだって僕だけ曇天の雲の上を歩いているみたいで。
僕は寂しかった。
二人でブランデーのしみたバウムクーヘンを食べていた。
「神様が人間を創ったんじゃなくて、人間が神様を創ったんだとしたら、さ・・」
「うん」
「その方が神様にふさわしいよ」僕は言った。
「そうだね」以和が笑って応えた。
僕は相当、酔っていた。
チキンサラダを食べている以和の水を指差して、言った。
「水は、同じ地球の中を、グルグルグルグル、観覧車みたいに回ってるんだろ? そんじゃ、それはソクラテスの水だ。ソクラテスも飲んだ水だよ」目をつぶると、頭の中がグワングワン揺れて、気分が悪くなってきた。
「革ジャン落ちたよ」
「ああ・・」僕は革のジャケットを拾い上げて、頭から被せた。
「眠い」僕は言った。
「もう出ようよ。ねえったら!」以和が僕の腕に腕を回して、立ち上がらせた。
僕は財布を出して、以和に渡した。以和が金を払っている間、僕は店を眺め回し、以和の後ろ姿を見ていた。忘れたくないから。
「もう盗まないよ」と言って、以和は僕のポケットに財布を押し込んだ。
外は雨が降っていた。
以和が持っていた一つの傘に肩を埋め、僕達は歩き出した。
「野宿は良いなあー。家賃も払わずに済んで」すっかり酔いが醒めた僕は、以和に言った。
二人は今、人気の無い駅の構内に座っていた。
以和はもう、ブランケットの上に寝ていた。
構内は電気が煌々とついていて、まるで真っ昼間のようだ。
僕は思い出していた。
あれは確か小学生の時、ベランダから差し込む光が、部屋の中に日溜まりを作っていた。
確か家族全員分の布団が敷かれていて、母が洗濯物をしていたのだと思う。
僕はそこで母に、なかなか九九が覚えられないことを話していた。
「じゃあ、何が数字で一番好き?」母が聞いた。
「7」
「じゃあ、7の段から覚えていこう」
僕はそうした。それをずっと母は聞いていてくれた。僕はその場で7の段を覚えた。何故、7だったのか思い出せないけど。
今でもかけ算をすると、あの時のことを思い出す。
「以和、俺さあ、・・この人生に、全てを賭けるよ」僕は言った。
以和はもう寝ていた。
「流石だなあ・・」僕は呟いた。
「誰にも何も言わずに行くべきかなあ・・。どう思う? 黙っていたら答えは“イエス”だ」
以和は寝ていた。
「そうだよな。・・寂しくなんかさせちゃいけない」僕も横になって、目を閉じた。
「コーヒーに免じて、許してくれよ」そう呟いて、疲れていたのだろう、僕は寝た。
月と野良猫が覗いていた。
「永遠の一秒後」
「お母さんへ。元気ですか? メリークリスマス。
今までありがとう。
何も言わずに、どこかへ行ってしまって、すみません。
僕はこっちで働きながら、プレゼントワークスという劇団に属しています。
俳優になるつもりです。
毎日がとても楽しいです。
こときれる時、思い出したい。この日々のことを。
兄に会ったら伝えてください。芸術は音楽で終わるのか分からないけど、人生は二人で終わる。と。少なくとも今はそう思っていますと。
懐かしい。お母さんのことも。お父さんのことも。兄のことも。
ここは海が見えます。
いつか、海を見においでよ。」
便箋を封筒に収めて、高文葉は手紙をポストに投函して来た。
父には何かクリスマスプレゼントを贈ることにしよう。
風のクリスマス。
どこかで恋人が、誰かを待っていることだろう。
渚に座れば、昔、「人が話してる時はその人の目をちゃんと見て聞くのよ」と母に教えられたことを思い出した。
それから僕は、約束を守って、じっと目を見て聞いていた。
ノイローゼになってから忘れていた。
自由な瞳。語る目。曇りない眼。自分を映す鏡。・・あれはこのことだったのか。
やっと意味が分かった詩みたいだ。
ベンチに立てかけた丸めた来年のカレンダーを手に持って、僕は立ち上がった。
アパートに帰って、以和の部屋のドアをノックして開けると、以和が机に向かって何か書いていた。
赤いキャップは以和の部屋の片隅に置いてある。
「メリークリスマス。何書いてるの?」
以和は、へへ、と笑って、「お父さんお母さんに宛てて。心配してるだろうから」と言って、便箋をヒラヒラさせて、鉛筆をくわえて考えてるフリをして見せた。
今なら答えを出せそうな気がする。人生の何かに。
以和は文面にこう書いた。
「お父さんお母さん。元気にしてますか? 私は相変わらず元気です。
私は今、ある人と一緒に俳優を目指して頑張っています!
いつか見に来てね。
その人は何となく目立つ人だった。
これが初恋です。
その人はとても優しいです。
もし本当に、優しい人の手の平が冷たいなら、その人は吐く息まで冷たい。
ここまで書いたら、何だか恥ずかしくなってきました。
失恋しないようにします。
それでは、失礼。以和」
フフ、と微笑んで、綺麗に折り畳んで、封筒に入れた。
以和は嬉しそうに笑ってため息を吐いて、それを胸の内ポケットに入れて伸びをした。
仕事で疲れて昼寝をしていた。
高文葉。あの声だ。
僕は、急に頭痛がして、頭に手をやった。
その時、瞼を越えて、手の平を越えて、世界を越えて、星を越えて、銀河を越えて、宇宙を越えて、何もかもを飛び越えて、見えるようになって、見えなくなって、見えるようになって、見えなくなって、見えるようになって、・・・・そして、光の中の瞬間。
あの女の人がいた。
ようこそ。
あなたは・・。
その人は何も言わず、微笑んでいるだけだった。
僕も微笑んだ。
慰めるつもりなんてなかったのに。
その人は少女のように笑う。
それは以和の姿になった。
夢の中だから当然か。
急にその人の姿が遠くなっていく。
待って。まだ君に。・・
ノックの音で目が覚めた。
以和だ。
僕は立ち上がって、ドアを開けた。
「はい」
「はい。じゃないよ。何よ?」
「何って何?」
「私のこと呼んでたじゃない」
「え?」
「こんな、寝息まで聞こえそうなほど壁が薄いんだから。恥ずかしいじゃない」
「夢見てたんだよ」
「それは分かってる。ま、いいわ。ちょっと付き合ってよ」
以和がポストに封筒を入れた。
「ちゃんと届きますように」
「何て書いたんだ?」
「ん? ラブレター」以和は笑った。あの夢みたいに。
「ねえ、雪降ってるみたい・・」以和が言った。
「そういえば、そうかな・・」僕は手の平を上にかざしてみた。ほとんど目に見えないくらい細かい雪が散っている。
「私、いっちばーん!」以和が走り出した。
僕も、以和の手を掴もうと走り出した。
笑っていた。
幼い頃、母が風邪で寝込んで、薬屋に走ったことを思い出す。僕はまだ走れる。
未来は永遠の一秒後から始まる。
見ているか。神よ。どこかで。
最高の人生だ。
「オーライ! オーライ! バック! バック!」以和の声が響く。
やっと届いた車をアパートの駐車場に入れた。
ドカドカと以和が自分の荷物と僕の荷物も、トランクルームと後部座席に入れた。
「これでどこにでも行けるね。ラッキー」以和が助手席に乗り込んで僕に微笑みかけた。
僕は照れ隠しに笑った。
聖母 森川めだか @morikawamedaka
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