PSBB(ペーエスベーベー)

奄美蒼子

恋か?コロナか?日本語講師インドネシア脱出劇

 教室の窓から差し込む熱帯の太陽が、アジズの足元に置かれた五百ミリリットル入りのペットボトルの中身を今にも発火させそうで、カオリは透けてみえる黄色っぽい液体を睨みつけていた。水面が微かに揺れているということは、用を足してからさして時間が経っていないのだろう。いつのまにと、こみ上げてくる怒りをどうにか堪えた目に今度は、前の席でラマが窓の外を見ながら鼻毛を抜いているのが飛び込んできた。ここにいる十八才から二十六歳までの男子生徒の多くは鼻毛が出ている。それも太くて黒くて長い。最初に見た時は面食らったが、道路渋滞が名物と言われるインドネシアでは、車やアンコットという乗り合いタクシーやオートバイが吐き出す排気ガスの量は半端ではない。汚れた空気から自衛するため人々の鼻毛は伸びる。それがわかってからは気にしないことにしている。というかいつのまにか慣れてしまったというのがあたっている。

 それぞれ十五分の休憩が入るとはいえ午前に四時間、午後に四時間の授業は生徒にとっても講師にとっても結構ハードだ。十五分の休憩時間はトイレタイムにあてられるのだが、数少ないトイレに学生たちが大挙して押しかける。中には時間内に用を済ませられない者も出てくる。その苦肉の策としてペットボトルが登場するわけだ。 

 カオリがインドネシアにやってきて二年になる。日本にある一部上場の人材派遣会社の現地法人に日本語講師として採用されたのだ。カオリも最初のうちはその都度注意をしていた。だが、どうにかカタコトのインドネシア語を話せるようになったばかりのカオリの指導には限界がある。いずれ日本に送り込まれる技能実習生たちだ。日本社会の中で痛い目にあって徐々に学んでいくだろうと割り切ることにした。もっともそうならないために教育するのがカオリたちの務めでもあるのだが、常時二百人から三百人はいる全く日本語のわからないインドネシアの青年たちに三カ月間でノルマとして課せられた四百八十時間の授業で日本語能力検定N4レベルまでもっていかないといけない。日本のマナーや慣習までとなるととても手が回らない。

 ラマの斜め後ろで頭を規則的に揺らして居眠りをしているイマンに気づくとカオリはブラウスの袖をめくって時間を確認した。十一時十五分だった。金曜日は男性だけがお祈りをするジュマタンの日だ。それも四十五分という長丁場、そのためにいつもより三十分早く授業を切りあげることになっている。授業終了まで後十五分だと思うと怒りが幾分和らいだ。始業前にトイレに駆け込み替えたナプキンもどうにかもってくれるだろう。カオリは二〇二〇年度学習記録と表書きのあるノートの三月一日の欄に授業内容と欠席者の名前を記入すると残っている力を振り絞るようにして教壇を降りた。 

 学生達の私語と忍び笑いの中を歩いていく。イマンの横に立つと前後に揺れる汗に汚れた白シャツをつついた。気づかない。かえって揺れが大きくなる。動きに合わせてカオリがイマンの肩を押すと大きくのけぞって目を覚ました。拍子に椅子からずり落ちる。周囲のしのび笑いが爆笑に変わる。中には手を叩いて喜んでいる者もいた。カオリは釣られて笑ってしまいそうになるのを我慢するとその日初めて使うインドネシア語で授業の終りを告げた。教室にたちまち生気が戻った。いっせいに椅子を立つ音がして口々に挨拶をすると学生達は教室を飛び出していった。

 スタッフルームに戻ろうと廊下を歩いていると後ろから足音が追いかけてきた。

「カオリセンセイサヨナラ」

 すれちがい様、覚えたばかりの日本語で元気のいい声をかけて生徒がモスクのある方角へ走っていく。アジズだった。ペットボトルが手の先で揺れているのを見て思わず吹き出した。日本にいた頃のカオリは電車の吊り革さえ持てないほどの潔癖症だった。それが笑って見ていられるまでになったのだと思うと自分の変わりようがおかしかった。

 スタッフルームのドアの前で同僚教師のデデンと鉢合わせをした。熱心なイスラム教の信者ムスリムだ。その昔、中華系女性と大恋愛の末両家の反対を押し切って結婚したのは語り草となっている。大騒ぎして結ばれたわりには夫婦喧嘩が絶えない。妻は頻繁にジャカルタにある実家に帰り、その度にデデンがあわてふためいて迎えに行く。今や年中行事でカオリの知っているだけでも四回はある。問題はデデンが妻を迎えに行っている間、代わりの講師が授業の穴埋めをしなければならないことだ。カオリは二度ほど代講を務めた。

「今度のテイサンのオーダー、百二十人だよ」

からかうような口ぶりで言うと肩をすくめて見せた。気障なポーズも外国人だとさして違和感はない。

「うそ。無理無理。だいいち教室はどうするんですか。空いてる部屋なんかないもの」 

 カオリはさっきまでの解放感を忘れ、きつい語調になった。授業では日本語以外禁止となっている。もちろん講師同士は普段の会話も日本語だ。デデンはもっともだという風にうなづいてみせたが、顔は笑っている。

「知らないよ。社長さんに聞いて。もう職業訓練校にオファーを出したって言ってたから仕方ないでしょ。ねえ、東京から北海道はどうやっていくの。船がいい、それとも飛行機がいいの」

 知らない。知っているけど教えない。デデンのにやけた顔を見ているとなぜか日本のパワハラおじさんたちを思い出す。これで結構女性にもてるというのだから不思議だ。まあ、日本語講師はインドネシアではエリートには違いはないのだけど。そんなことを考えていると突然真顔に戻ってデデンが走り出した。学生達に校内を走ることを禁じているのだから、小走りくらいにとどめておけばよさそうなものだが、結構なスピードだ。お祈りが始まるのだ。


 カオリの勤める学校はジャカルタから車で数時間走ったジヤワ島西部のバンドゥンにあった。バンドゥンは標高七六八メートルの高地にあり比較的涼しく過ごしやすいこともあってリゾート地として人気があった。大学の数も多くて都会なのだがそのわりに緑も多い。広い敷地に余裕をもって建てられた建物のいくつかを行政機関から借り受け日本語学校を運営しているが、カオリが来た当時は生徒の数が数十名の日本語学校だった。カオリが所属するのは教育部門だが、メインの事業である派遣部門は本社のあるジャカルタ本部の管轄になっていた。

 派遣されて一年が経った頃、ジャカルタ本社への転勤を打診されたがことがあったがカオリは断った。昇進と昇給がセットになった好条件だったが、日本から来るスポンサーの接待や日本に送り込む卒業生の選定や企業とのマッチング、トラブル処理など仕事の量と繁雑さはバンドゥンとは比べものにならない。

 日本企業から求人のオファーが入ると会社は全国各地にある職業訓練校に声を掛け日本で働きたい若者を募る。技能実習生だ。日本で働きながら技能を習得し、いずれそのスキルを母国の発展のために役立てるという目的で設けられた制度だった。

 応募を希望する学生達はまず面接を受けることになる。その数が半端ではない。何百人の学生達を日本から来た企業の担当者が面接する。体力測定、適性検査、場合によっては実際にネジ回しをさせる会社もある。採用したはいいが、現場で使いものにならなくてはどうしようもないからだ。同時に医療機関のメディカルチェックが始まる。喘息、A型肝炎、B型肝炎、色盲、梅毒、HIV、手術痕も見逃さない。家庭環境も考慮される。日本で働く期間は一年か三年のどちらかを選ぶが、契約期間内に突然失踪してしまう者もいる。同じ成績ならインドネシアに婚約者がいるなど失踪の可能性の低い方が選ばれる。一度の求人に応募者が五百人来たとしたらふるいにかけられこの段階でおよそ半分になっている。ほぼ同時に日本語の授業がスタートする。日本企業からの需要に応えるためには悠長に検査やテストの結果を待っていては間に合わないのだ。

 難関を突破した技能実習生たちは全国各地からバンドゥンにやってきて三カ月間、朝から晩までみっちり研修を受ける。おそらく生徒の誰もが人生に於いてこれほど勉強をしたことはないだろうしこれからもないだろう。学校は全寮制で寮の費用や学費は自費だ。辺鄙な農村からやってくる者にとっては大金のそれをなんとか捻出して親たちは息子を送り出す。インドネシアの新卒の平均初任給は一万八千円だから、それだけ親は子供に期待しているのだ。 

 これが団体型と呼ばれるクラスで別に現地の雇い主である日本企業から研修に送り込まれる単独型クラス。それに国立大学のトップであるウイ(UI)と呼ばれるインドネシア大学とイーテーベー(ITB=バンドゥン工科大学)の卒業生を対象にした授業料免除の特別クラスがある。特別クラスの生徒達は高度人材教育プログラムと称したカリキュラムの元で即戦力を目指し教育を受ける。これら三つのクラスをあわせると相当数の学生達がいるはずなのだが入れ替わりが激しいため、カオリでなくても正確な学生数を把握することは難しい。


 お祈りのためにモスクを目指して走っていくデデンの背中を見送りながら、やはりジャカルタへの転勤を断って正解だったとひとりごちながらカオリはスタッフルームへと急いだ。

 スタッフと講師の内訳はインドネシア人が六人、中華系インドネシア人が三人、カオリを含めた日本人が四名だが、部屋には五名しかいない。後の講師やスタッフはおそらくモスクか食堂にいる。

 トイレから戻ってくるとカオリのお腹が鳴った。隣の席に人はいない。カオリに関心を持っている風のインドネシア人講師のブディに聞かれなくて良かったと思いながらケータリングのランチを受け取りに食堂に向かった。

 日本語講師は肉体労働だ。立ったまま数時間大きな声を張り上げなければいけない。その分、お腹も空く。日本で広告代理店に勤めていたときには考えられなかった食欲に、カオリは自分でも驚いていた。禁酒の国に来てアルコールをやめざるを得なかったこともあるが、二年で六キロも太った。三十六歳という年齢でそう呼ぶのかどうか微妙だが、立派な中年太りだ。

 食堂の入り口に置かれた長机の上にケータリングのランチの箱が山積みになっている。その中の一つを取ると蓋を開けた。どこが日替わりかというくらい昨日と同じ献立に見える料理が並んでいるが、香草の匂いは嫌いではない。食欲にせかされながら引き返そうとすると食堂の中が見えた。広いフロアに横長のテーブルが整然と並び、折り畳み椅子が何重にも重ねて壁にたてかけてある。利用者は自分たちで椅子を持ってきて好きな場所に座り食事をとるのだ。

 入り口近くに数名のグループがいて、窓際に講師たちが、少し離れて特別クラスの生徒達が仲間うちでしゃべっている。八五パーセントがムスリムのこの学校では、ムスリム以外の人間はムスリムの学生達が大挙してお祈りから帰ってくる前に食事を済ませるのが常だ。食堂に入ろうかどうか迷っているとカオリに気づいたブディが手をあげてこちらに来いと手招きをした。カオリは咄嗟にスタッフルームのある方角を指さした。スタッフルームで食べるというサインを出したのだが、悪かったかなと案じつつその場を離れた。 日本ならつきあいが悪いと後ろ指をさされそうだが、インドネシアでそんな意地の悪いことを考える人はまずいない。そこが気楽なのだが、良いことばかりではなかった。

 

日本を離れたカオリはジャカルタ校で一週間の研修を終えるとすぐにバンドゥンに赴任した。その頃は教師も数名で日本人はカオリの他に若松という男性講師が一人だけだった。インドネシア語が話せないカオリにとって日本人である若松だけが頼りだったが、休み時間になっても校内を案内すらしてくれない。後になって知ったことだが若松は極度の人間嫌いだった。噂によると日本トップの大学を卒業したということだったが、組織からドロップアウトしてきたに違いないと思わせる協調性0の人間だった。

 カオリが初めての授業を終えて戻ってくるとスタッフルームにすでに人影はなかった。仕方なく漂ってくる匂いを頼りに食堂にたどりついた。ランチの箱を持って場所を探すと大きな窓から真っ赤な花が見える位置に座った。周りを見渡すと男子ばかりの中で女性はカオリ一人だった。女子のクラスはここから車で十分ほど走った別の場所にある。ここで気後れしていてはこれから先、やっていけない。そう自分に言って聞かせてランチの蓋を開けた。食べることに専念してつと視線をあげた時である。カオリは思わず箸を落としそうになった。数人の男子学生たちがカオリの周りを取り囲んで笑っている。顔に見覚えがあった。ついさっきまでカオリが教えていた生徒たちだ。学生達はそれぞれ手に食べかけのランチの箱を持ち身振りで横に座っていいかと尋ねてくる。カオリがうなづくと前に三人、両脇に二人の学生がカオリを挟んで座った。中には立っている者もいる。

「カオリセンセイ、カシハン」

「カシハン、センセイ」

食べながらインドネシア語で話しかけてくる。カオリの名前を呼んでいるのだけはわかった。わからないのはインドネシア語の方だ。中でも頻繁に飛び出す単語があった。カシハン、カシハン。その言葉を発する度に人懐っこい笑顔の眉間にシワが寄るのが気になる。後で先輩の講師に聞こうとカオリは頭の中に単語をしまいこんだ。それからも口にものをいっぱい詰め込んで学生達は話しかけてきた。会ったばかりの異国の人間に親しげに話しかけてくる彼らにカオリは嬉しくなる。どこの世界に初対面に近い人間を前に今どきこんな見事な笑顔を浮かべてくれる人間がいるのだ。カオリの小学生になる甥っ子の含み笑いを思い出したくらいだ。

 食堂から戻るとスタッフルームには若松しかいなかった。言葉の意味を聞くくらいはいいだろうとカオリは世間話をするような感じで話しかけた。

「先生、カシハンってどういう意味なんですか」

「どうして」

 書類を整理する手を休めないで若松は言った。

「食堂で食事をしていると生徒達が寄ってきて私にそう言うんですが、なんて言っているのかわからなくて」

 若松の手がとまりカオリを見た。

「カシハンねえ。あなたがねえ、ふうん。そうですか」 

 聞かなければ良かった。なんだか嬉しそうなのだ。でも質問したのはこちらだ。答えを聞かないわけにはいかない。

「かわいそう」

 一瞬何を言ってるのかわからなかった。いや、言葉が出てこない。少しの沈黙が流れて若松が口を開いた。

「カシハンはかわいそうというインドネシア語です」

 若松の授業ぶりが想像できる事務的、かつ冷酷な響きだった。

「かわいそうって。私のことが…。何を言いたかったんでしょう」

 縋るような気持ちだった。だが聞く相手が間違っていた。生徒に文法を説明するような口調で若松が解説を始める。

「インドネシアはご存じのように群れ社会です。食事をするのも買い物に行くのも、トイレに行くのさえ連れ立っていきます。適齢期をとっくに過ぎた女性が一人で食事をするなんて彼らにとってはカシハン以外の何ものでもありませんよ。独身の女性が遠い日本からはるばるやってきて一人ぼっちで食事をしているのを見て同情したのでしょう」

 カオリの体から静かに血が引いていった。学生達に怒ったのではない。目の前で得々と解説している若松に無性に腹が立った。お前こそ日本社会の落ちこぼれではないのか。だがここで怒ったら相手の思うツボだ。インドネシアに来て間もなくわかったことがある。こちらに来る日本女性は総じて気丈で適応能力が高い。一方男性は駐在員などの一部の人を除いて逆の傾向がある。ここで怒ってはそれこそ若松と一緒になる。

「そういうことだったんですね。謎が解けてすっきりしました。ありがとうございます」

 誰もいないスタッフルームで一人で食事をとりながらカオリは二年前の出来事を思い出していた。若松は後から後から入ってくるスタッフの間で鼻つまみものになり一年も待たずに会社を去って行った。おそらく次の職場でも同じようなことを繰り返しているだろう。世界にはそうして国から国を渡り歩く人たちがいることを知ったのは無駄ではなかったと思う。

 インドネシアの青年たちに自分がかわいそうな存在だと見られていることを知ったことは、カオリの心に風穴を開けた。日本の組織の中で幾度となく同じ目にあってきたカオリであるが、おとなしく引き下がってきたわけではない。それほど寛容な人間ではなかった。ところが学生達に気の毒な人間と見られていることがわかっても悔しくも惨めでもなかった。むしろそんな自分に驚いたくらいだ。学生達はあまりにもあっけらかんとしていた。同情も極めれば心地よいものだと知った。雑挟物のない感情表現は日本では稀有である。そうか、私はかわいそうな人間だったんだ。それならそれでよいではないか。よしよしとカオリは自分の頭を撫でてやりたいくらいだった。自分の中の何かがふっ切れたような気がしたのはあの時だ。


 廊下に足音がして講師たちが賑やかなおしゃべりとともに部屋に戻ってきた。入れ違いにカオリは席を立ち空になった容器を返しに食堂に向かった。

 若い男たちの汗と脂の混じった臭いが近づいてくる。当初は辟易して呼吸を止めたりしたものだが、今はもう慣れたものだ。それより複数の怒声が聞こえてくるのが気になった。今度は何事か。想像できないことを日々起こしてくれる生徒達である。いちいち驚いてなんかいられるものかと思いつつも足が自然と速まる。扉の前で数名の学生がもみあっている。カオリはわざとゆっくりと近づいていく。カオリに気づいて見物していた学生達の輪が解けた。中心にいるのはアジズとアセップだった。アジズがアセップの胸ぐらをつかみ、アセップがアジズを蹴っている。こんな場合下手に止めに入ると怪我をするだけだ。カオリは腹に力をこめた。

「やめなさい。ストップ。ジャンカン」 

 三つの言語で叫んだ。カオリに気づいたアセップはアジズを突き飛ばすと駆け寄ってきた。

「アジズが僕のランチを盗った。盗った。盗った」

 またか。内心うんざりしながらカオリはアジズを見た。呼吸を荒げながらこちらを睨んでいる。

「どうなの、アジズ。説明しなさい」 

 カオリの問いかけにアジズの目に動揺が走った。

「黙ってたら認めたことになるわよ。それでもいいの」

 横でアセップが叫んだ。

「アジズお金ない。だから他の人のを食べる。ドロボーだ」

アジズがアセップに突進していく。アセップが尻餅をついた。

「ジャンカン、ジャンカン」

 なおも殴りかかろうとするアジズをカオリは懸命に引きはがそうとした。アセップの言うことは多分本当だ。同じようなことは前にもあった。ケータリングのランチは事前に本人達が申し込むことになっている。ある日、ランチボックスの数が一つ足りなくなった。申し込み者の名を書いたノートを調べてみた。名前の載っていない学生が堂々と弁当を食べていた。それがアジズだった。

 アジズは辺境の村からやってきていた。両親は百姓をしていたが父親は病気がちで母親が畑仕事をして妹と弟を含め一家五人を養っていた。おそらくアジズの学費を出すのが精一杯で食費まで手が回らないのだろう。それだけアジズの日本行きは一家の悲願であり希望なのだ。

 昼休みに隠れるようにして水道の蛇口に口をつけ空腹をごまかしていたアジズを見たことがある。カオリは胸が詰まった。だがそんな顔はおくびにも見せてはいけない。弱さを見せると言葉が悪いが生徒達は図に乗るのだ。一見おおらかにみえる生徒達であるが、講師たちの一挙手一投足には敏感だ。ことにカオリにはそうだ。

 まだインドネシア語がよくわからなかった頃、学生達は本人のいる前で平気でカオリの話をした。白い人。きれいな女性。怖いセンセイ。わからないフリをしながらカオリは笑いを堪えた。白い肌の日本のきれいなセンセイは結構人気があることがわかり満更でもなかった。

 

 午後の授業が始まってもアジズの席は空っぽだった。 多分ふて腐れて寮で昼寝でもしているのだろうと思ったが気になって授業に集中できない。結局、その日一日アジズのことが心に居座ったままだった。

 通勤にはいつもオジェックという配車アプリを利用している。車かバイクのどちらかを選べるのだが、建物に響き渡る激しい雨音を聞き、カオリは急いで車を呼んだ。だが、注文が殺到しているのかなかなかつかまらない。しばらく待ったが同じだった。仕方なくアンコットで帰ることにした。アンコットは止まる場所が決まっているためそこから家まで十分ほど歩かなければならない。暴力的な雨が心の中の沈殿物を雨と一緒に洗い流してくれるかもしれないと微かな期待とともに頭を切り替えた。生徒の家庭の事情にいちいち心を奪われているようではここではとてもやっていけないのだ。 

 スコールに打たれながらカオリはアンコットが来るのを待っていた。傘はさしていたが、この国では焼石に水だ。ほぼ役にたたない。雨のカーテンの向こうを何台かのアンコットが通り過ぎる。夜目にもカオリの乗るアンコットと色が違うのがわかって、その都度落胆する。

 国際貢献とか国を越えた絆とか自分探しとか、そんな大層なことを考えてカオリはインドネシアに来たわけではない。ありていに言えば日本で暮らすことに倦んだのだ。どこの国でも多かれ少なかれ、そういう傾向はあるのだろうが、シングルのアラフォーの女性にとって日本は決して暮らしやすい社会ではない。女性総活躍のなんのと騒がれてはいるが活躍しているのはごく限られた一部の女性だ。カオリのいた広告代理店でも同様で、男性上司の中を泳ぐのが得意な女性や若い柔順な女性が重用される。能力のない男性が能力のある女性を地位の面でも給与の面でも追い抜いていくのをいやというほど見てきた。  

 カオリの場合もまさにそうだった。男性のチームリーダーがカオリの企画を会議の席でとうとうと自分の案だと述べたてているのを聞きながらカオリはここらが潮時だと思った。翌月辞表を出すとかねてから案内書を取り寄せてあった日本語講師養成講座の入学手続きをとった。六カ月の集中講義を終えて資格を取るとネットで日本語学校を検索してみた。日本で働くつもりはなかった。マレーシア、インドネシア、ベトナム、カオリが思っていた以上に講師を求めている国はたくさんあった。その中からまだ一度も訪れたことのなかったインドネシアの語学学校にメールをしてオンラインで面接を受けた。たまたま前任の講師がやめたとかで三日後に採用のメールが届いた。

 スコールの夜の街は汚れや恥部を隠して輝きながら滲んでいる。人がほとんど通っていない道路をたくさんの乗り物が走り回っている。カオリの前を紫色をしたボディのアンコットが走った。目当てのアンコットだ。急いで手をあげた時、背後から強い衝撃を受けた。顔にかかる雨しぶきを感じながら自分の体が空のどこか遠いところへ持っていかれそうでカオリは夢中で宙をかいた。実際は一瞬のことだったのだろうがスローモーションのようにゆっくりと体が大地に打ちつけられた。痛みを感じるゆとりはない。何が起きたかわからなかった。正気に戻ったのはオートバイのタイヤとホイールに挟まれた自分の足を見た時だ。悲鳴をあげた。切断という言葉がとっさに頭を過る。終わったと思った。泣き叫ぶカオリの目の前の道端に男が二人、投げ出されている。横で転がったオートバイが唸りをあげている。こいつらだ。こいつらが衝突したのだ。

「どうして。どうしてなのよ。救急車を呼んで、早く。でないと死んでしまう」 

 カオリは男たちに向かって罵声を浴びせた。雨で視界が悪くてよく見えなかったが体つきからして若い男たちだ。二人乗りで前をよく見ないで運転していたのだろう。

「マアアフ、マアアフ」

 痛い痛いと叫びながら非は自分たちにあるのがわかっているのか、男は股間を押さえて跳びはねながらインドネシア語でしきりに謝っている。地面に倒れてうめいている男の手首が九十度に曲がってぶらりと垂れている。一瞬カオリの怒りが和らいだ。だが溜飲を下げている場合かと気づく。病院に行くのだ。

「助けてっ、誰か助けて」

 男たちは頼りにはならない。走ってくる乗り物という乗り物に向かってカオリは声をはりあげた。だが誰も止まってはくれない。その時だった。どこからか黒い影がカオリたちの前に躍りでた。影は無言で男たちが被っていたヘルメットを剥ぎ取ると自分が被った。走行していた車のヘッドライトが男の顔を一瞬照らしたが、すぐに見えなくなった。男はもう一つのヘルメットを座り込んでいたカオリに投げてよこした。

「被って」

 英語だった。カオリは言われた通りにした。男は転がっていたオートバイを立てるとまたがった。

「乗って」

 巧みな英語に思わず尻を浮かしかけたが、この足でどうして歩けるものかと思った。だが乗らないと病院には連れていってもらえない。一か八か、力を込めて足を引っぱってみた。皮膚が破ける感触がして足がタイヤとホイールの隙間からスポンと抜けた。足を引きずりながらカオリは男のいる方に駆け寄った。スカートがめくれて股があらわになるのもかまわず男の後ろに乗った。

 二人の男たちをその場に残してすぐにオートバイは走りだした。男の運転は乱暴だったが、正確だった。アンコットや乗用車の間を縫って猛スピードで走っていく。振り落とされないように男の背中に巻きつけた腕に力を込めるのが精一杯だった。男の体温が濡れたブラウスを通してカオリの肌に届き、二人の体から水しぶきが後ろに散っていく。いったいどこまで行くんだろう、そう思った時、急にオートバイが止まった。どこにも病院らしき建物はない。不思議に思ってカオリはヘルメットを脱いだ。見慣れた景色が広がっていた。片足を地面につけるとそっと座席から降りる。男が手を伸ばしてきた。ヘルメットを返せというのだ。渡すと代わりにカオリのバッグを返してくれた。礼を言う暇を与えず男がアクセルを踏む。

「心配ない、大丈夫だ」

 ヘルメットの中から男は言った。今度は流暢な日本語だった。キツネにつままれたような気分で男を見送るとカオリはバッグの中をかき回して家の鍵を探した。スコールはいつのまにか止んでいた。 

 頑丈な門に守られ木造の住宅が四戸並んでいる。右側の大きな平屋の横にある小さな長屋風の一軒がカオリの借りているコスだ。カオリが足を引きずって庭を横切っていくと大家のフサコが声をかけてきた。日本人だが結婚と同時にインドネシアに渡ってきた。夫は早くに亡くなったため女手ひとつで二人の子供を育てあげた。子供たちは就職や結婚で家を出て一人で暮らしている。コスからあがる家賃収入で生計をたてているらしいが、自分の気に入った日本人にしか貸さないため部屋はいつも空いている。今の入居者はカオリだけだ。

「その足、どうしたの」

とぎれとぎれの息の中から話しかけてきた。自転車を漕いでいるのだ。七十歳を過ぎてから足腰が弱ってきたといって庭に放置してあった壊れた自転車を漕ぎ始めたのが三カ月ほど前だ。人の良いお婆さんだが、つかまったらなかなか離してくれない。日本語を話すのが嬉しいのだ。だがカオリは疲れていた。それにたった今起こった出来事を自分なりに整理してみたかった。

「擦りむいたみたい。けど大丈夫よ。おやすみなさい」

 わざと明るく言うと手を振るフサコを残して家の中に入った。

 冷たいシャワーを足にあて見てみると、薄皮が剥がれて少し血が滲んでいるだけだった。なるほど男の言った通りだと思い、改めて男のことが気になった。カオリが何も説明しなかったのに家を知っていたのはなぜか。オジェックのドライバーだろうか。二週間ほど前にスマホに怪しいメッセージが入ったばかりだ。カオリの休日の予定とか好きな食べ物を聞いてきた。教えたはずのない番号を知っていることや仕事から帰るのを見計らったように入るメッセージにオジェックのドライバーを疑ってみたが結局わからないままだ。だがオジェックのドライバーはほとんどがインドネシア人だ。英語はおろか日本語もしゃべれない。あの男性はきれいな英語を話し日本語も巧みだった。

 事故のショックと突然現れた謎の男。さっきまでカオリの心を占めていたアジズのことはどこかに消えていた。


事故から数日が過ぎた。カオリがスタッフルームに入っていくとデデンが待っていたように駆け寄ってきた。

「カオリセンセイ。助けてください。奥さん、いなくなりました。僕奥さん愛しています。だから迎えにいきます」

まただ。それが自分とどう関係がある。私にどうしろと言うのだ。カオリは言いたい言葉を堪えてデデンの次の言葉を待った。

「来週から少しの間、僕の代わりに特別クラスの授業をお願いします」

「無理」

一言だった。カオリが怖いセンセイだと言われるのはこんなところだ。自分でもわかっている。だが二年のキャリアで特別クラスを受け持つのは荷が重い。教えるだけならまだいい。企業に提出する大学の卒業論文の作成を手伝うのだ。航空関係、ロボット関係、IT関係、専門用語を知らなければとても翻訳できるものではない。だがデデンは諦めなかった。

「センセイなら大丈夫。社長も賛成しました。次のクールから特別クラスを持ってもらうつもりだったからいい練習になるって」

そう言い残すとデデンはカオリの肩を叩き出ていった。どうして同僚の夫婦喧嘩の後始末を自分がしなければいけないのだ。日本の会社にはない、いい加減さにカオリは歯軋りをする思いだった。 

 午前中の授業が終わってカオリがスタッフルームに向かっていると向こうから一人の男性がやってくるのが目に入った。ここでは生徒は制服を支給されるのだが、その男性は目の覚めるような真っ白いTシャツに下は縦に一本白いストライプが入った濃紺のジャージ姿だった。ブランドのロゴの入ったシューズを履いている。陽光を跳ね返して光る肩までの髪の毛を風になびかせ長い脚で大地を蹴るようにこちらに近づいてくる男性に足が止まる。なぜかカオリはライオンを連想した。授業を受け持ったことはないが男性の存在だけは知っていた。仲間たちの間でキングと呼ばれているらしい。鍛え上げられた肉体と透明感のある肌、目尻がややつり上がった端正な顔立ちは、褐色の肌に大きな目をしたローカルのインドネシア人に混じると目立った。男性はカオリが目の前に来ても眼中にないのか歩く速度を緩めない。ここでは生徒にとってセンセイは特別な存在だ。顔を会わせると必ず生徒達から挨拶をしてくる。わざわざ講師の教材を恭しく教室まで運んでくれる者さえいる。もちろんカオリは断っているが。ところが男性はカオリが思わず道を譲ったほど堂々としている。それだけのオーラを全身から放っていた。

「足は大丈夫のようですね。僕の言うことに間違いはなかったでしょう」

 男性の日本語が耳元を過ぎる。カオリは一瞬棒立ちになったが、言葉の意味に思い当たると急いで後ろを振り返った。男性は遥か遠くを歩いていた。

 スタッフルームに戻るとカオリはパソコンに入力してある学生達のデータを調べた。特別クラスは生徒数が少ない。顔写真はすぐに見つかった。プロフィールを読んでいく。レオナルド・アンクスーク。二十三歳。インドネシア大学・工学部卒。在学中に一年間日本の有名私立大学に留学。一カ月前にこの学校の特別クラスに入学していた。不思議なことが一つあった。特別クラスの生徒は求職者リストに登録して日本の企業側からのオファーに備えるのだが、レオナルドの希望業種の欄は空白になっている。

「何を見ているの」

突然の声にカオリは焦った。コーディネーターのジェフリーだった。

「デデンの代わりに特別クラスを受け持つことになったものだから一応調べておこうと思ったんです」

「特別クラスは出来がいいから逆にラクだよ。カオリセンセイなら大丈夫だ」

「このレオナルドという生徒なんですけど、キングって呼ばれているのはどうしてか知ってますか」

 ジェフリーはカオリが見ているパソコンの画面に顔を近づけた。香草の匂いがした。

「ああ、彼ね。生意気。自分が一番。だからキング」

 好意ではない、尊敬しているのでもない。明らかに揶揄している。「華僑。大富豪の息子。頭いい。顔もいい。スタイルいい。悪いのは性格」

どの生徒にも好意的に接すると定評のあるジェフリーには珍しく言葉に刺がある。カオリが不安になったと勘違いしたのかジェフリーが柔らかな表情に戻った。

「大丈夫。頭いいから問題ない。誰も近づかないだけ。彼は一人でいるの好き。ホウチしておけばいい」

まるで危険生物のような言われ方だ。そう言えばさっきレオナルドが歩いてくるのを見たときにライオンを連想したのを思いだした。草原をゆっくりと横切るライオン。周りの動物たちは皆怖れて道をあける。自分もそうだったと苦笑しながらパソコンの前を離れた。ジェフリーがまだ何か言いたそうにカオリを見ている。カオリは目で問うた。

「困ったな。センセイに相談するか」 

 わざわざカオリに相談したいこととは。大体の想像はついたが黙っていた。

「もうすぐ日本からインターンのセンセイが二人やってくるんだ。誰かが指導してやらなければなあ」

カオリはうなづいた。自分の場合は誰もついてくれる者がいなくて苦労したが、組織が大きくなった今は新人の講師に先輩の講師がついて指導することになっている。

「シスカセンセイの番じゃなかったですか」

「シスカとイルサだ。でも二人とも嫌だと言ってるんだよ」

「どうしてですか」

「コロナが流行っている日本から来るから怖いそうだ」

 カオリは絶句した。確かにインドネシアは日本に比べてコロナに感染している人の数は少ない。十日ほど前に母親が悲壮な声で電話してきてそちらは大丈夫かと聞かれた。カオリの知っている限りだが感染者は0だった。そう告げて日本より安全だと答えたばかりだ。だがインターン生はPCR検査を受けて問題ないと判明した人たちだ。

「そんなあ。仕事じゃないですか」

正論は通じないとわかっていても一応言ってみた。

「インドネシアにコロナを持ち込んだのは日本人のダンスインストラクターだという噂があるのは知ってるよね。ただでさえ日本人のイメージが悪くなってる」

 一週間ほど前にジャカルタで新型コロナの第一号が報告され、感染者が少しずつではあるが増え始めていることは聞いていた。日本人女性がウイルスを持ち込んだとの噂も知っている。だがそれとこれとは話が別だと思った。しかしカオリはあえて抗議をしなかった。異国に生きる者の知恵だ。そんなことを言い合っていられるのもそこまでだった。突然ジェフリーの携帯が震えた。

「社長からだ」

 ディスプレイを見ながらジェフリーが言いスマホを耳にあてた。

「はい。はい。わかりました。すぐに招集をかけます。六時からですね」

ジェフリーの切迫した顔をカオリは何事かと見守ってた。携帯をシャツのポケットにしまうとジェフリーがカオリを見た。

「とうとうバンドゥンにもコロナが出た。六時から対策会議だ」

 そう言うと社内メールを打つためにヤンドンは自分のデスクに戻っていった。

 時計を見ると午後の授業までにまだ四十分ほどある。すっかり食欲は失せていたが昼食を抜くと午後からの授業に差し障りがでる。カオリは急いで食堂に向かった。廊下の窓からプレハブ造りのトイレが見えた。横にある散水用の水道の蛇口に口をつけて水を飲んでいる生徒が目に入った。アジズだ。カオリは窓を開けるとアジズの名を呼んだ。アジズがきまり悪そうに近づいてくる。

「ちょっとお願いがあるのだけれど」

怒られると思ったのか、アジズが身構えた。

「食欲がないの。私のランチ、代わりに食べてくれないかな」

 アジズの顔つきが一瞬で変わった。ハイッハイッとうなづきながら顔中で笑っている。子供のような素直さにカオリは胸が熱くなる。自分にこの素直さがあったら人生は変わっていただろうか。

「良かった。何か言われたら私に頼まれたと言えばいいから」

それだけ言って窓を閉めた。次の窓の前を通りかかると窓を叩く音がした。アジズだった。ヒョコヒョコと頭を下げながら食堂に向かって駆けていく。

 カオリはふと思いついてそのまま廊下を進んだ。角を二つ曲がる。あたりは静まり返っていた。足音をしのばせて一番奥の教室の前に立った。窓から中を覗いたが誰もいない。いや、一人だけいた。椅子を三つ繋げた上に仰向きで寝ている。顔の上に本を置いていたが、レオナルドだ。床に届きそうな髪でわかった。制服に着替えている。わざと咳払いをしてカオリは教室に入っていった。レオナルドは少し身じろいだが、寝たままだ。

「このあいだのスコールがあった夜、家までバイクで送ってくれたのはあなた」

 単刀直入に日本語で聞いた。返事はない。

「聞こえてるんでしょ。起きてちょうだい」

レオナルドの顔を覆っていた本が動いた。授業のテキストではない。英語で書かれた専門書かなにかだった。本の下から顔が半分見えている。

「そうだとしたら」

「お礼を言ってなかったから」

「わかった。わかったから眠らせてくれないか。時間がもったいない」

人が礼を尽くしているのに、この態度はなんだ。問題はない、ただしホウチしなさいと言ったジェフリーのアドバイスはあながち的外れではないのかもしれないと思った。それでもカオリはなんとか話の接ぎ穂を見つけようとした。

「ランチは食べないの」

「ふん。あんなまずいもの」

 本の下からくぐもった声が聞こえた。

一瞬でカオリの体中の血が沸騰する。あんたにはまずいものでも食べることさえできない人間もいるのだ。そう思うと、カオリは本をひっぱがしていた。本の下に隠れていた顔を見て思わず息を飲んだ。間近で見るのは初めてだったが、高すぎず低すぎない形の良い鼻が男にしてはやや薄い唇へときれいな曲線を描いている。半開きの口から覗く歯は白い光をたたえ、上気した頬とシャツの下から見える胸元は艶やかに光っていた。カオリがとっくに失ってしまった若さが匂いたっている。彫像のような顔にカオリは見とれていた。閉じた瞼はぴくりともしないが、見られていることを、相手が自分をどう見ているかを知っている顔だ。よほど自信がなければこんな態度はとれるものではない。冷静にならなければ。早くここを離れなければ。カオリは我に返ると背筋を伸ばした。ふと下を見ると椅子の側にスポーツバッグが置いてある。その上にマスクと日本製のプロテインの袋。エビアンのボトルも横にある。どこかでジョギングか筋トレでもしていたのだろう。汗とコロンの混じる不思議な匂いがした。 教室を出ていこうとしたカオリは尋ねなければならないことが残っていたことを思い出した。どうしよう。このまま引き返えそうかと思った。だがそれも癪だった。迷っているカオリの背に声がかかった。頭の良い人間特有のキレの良い話し方でレオナルドは話し出した。

「車を運転しているとオジェックのバイクに乗った女性が横を通った。ヘルメットを被っていて顔はよく見えなかった。僕の車は新車だけど、悔しいことにこの国ではオンボロオジェックの方が速いときてる。車はオジェックの後をノロノロと進んだ。ある門の前にきてオジェックは止まった。女性がヘルメットを取ってドライバーに返した。どこかで見た顔だと思った。門を入って三つある右側のコスの中に消えていく女性を見て僕は確信した。この女性はバカの二乗だ」

 出口のところで思わずカオリは振り返った。カオリの聞きたかったことを先回りして説明したのはいいが一言も二言も多い。カオリはどうにか声を絞り出した。かすれている。

「私のどこがバカなの」

 自分の声が震えているのがわかった。日本のパワハラおじさんでさえ、こんな無礼な言い方はしない。

「まず、自分が男たちの目を引く存在だということを自覚していない。次にオジェックをわざわざ家の前につけさせる想像力の欠如。あれでは自分の家をその辺の男たちに触れ回っているようなものだ」 腹がたった。悔しかった。恥ずかしかった。様々な感情が入り乱れてカオリは理性を失った。寝そべったまま得意気にしゃべっている男に馬乗りになって口を塞いでやりたいとさえ思った。だがその時、始業のチャイムが部屋に響いた。衝動と戦っていたカオリはようやく自分の立場を思い出した。自分はこの日本語学校の講師で、男はその生徒なのだと。


 少し気を許すと午後の教室はたちまちランチで腹が膨れた学生達の居眠りタイムと化す。いつものカオリならクイズやゲームでなんとか生徒達の瞼が閉じないように工夫するのだが、テキストに沿って淡々と授業を進めるのがせいいっぱいだった。

 たった今会ったレオナルドの顔や声、ちょっとした仕草が浮かんできてカオリの心をかき乱すのだ。あのバカげた衝動はなんだったのだろう。思わずレオナルドに飛び掛かりそうになったのはなぜなのか。怒りのためか。それとも恥辱。久しく忘れていた感覚にカオリはとまどっていた。あの時……レオナルドからオスの匂いがした。あの生意気な生徒の息の匂いを、体臭を私は嗅ぎたかったのではないのか。欲したのではないか。カオリはこんがらがった自分の感情を一つ一つときほぐしていった。郷愁に似た感覚が体内に満ちてくるのをもう一人のカオリがうっとりと見つめている。そしてわかったのだ。私はメスとして発情した。十三歳年下のレオナルドという異国の青年に、日本の男性には久しく感じたことのなかった男を感じたのだということを。


 会議室にはスタッフと講師たちが集まっていた。中心にいるのはカオリと同年齢の社長だ。現地採用の社員と違って日本の親会社の社員である時任は東京本社とジャカルタオフィスを往来して滅多にバンドゥンには顔を見せないが、堅実に事業を拡張しているやり手だ。

「ジャカルタの動きを見ているとバンドゥンも時間の問題だと思う。今のうちに手を打っておきたい。まずは学生達をコロナからどう守るかだ」

 時任が口火を切った。

「ジャカルタ校に右へならえではいけないのですか」

ジェフリーが言う。コーディネーターとしてジャカルタ校も見ている立場だ。

「そうだな。バンドゥン校の規模を考えるともう少しきめ細かな方法もあると思うが、政府の出方を見てからでも遅くはないだろう。とりあえずバンドゥンはジェフリー、君がリーダーとしてやってほしい。聞いておきたいことは他にあるか」

「わかりました。明日から早速検温を始めます。それに手洗いとマスク。マスクは全員というわけにはいかないでしょうが、せめてスタッフとセンセイ方はどうにかして手に入れてください」

「個人で手に入れろということですか」

 ジェフリーの言葉にデデンが不満気な声をあげた。

「それができないから困っているんじゃないですか」

尖った声は老練のインドネシア人女性講師だ。

「あくまで努力目標です。何か問題はありますか」

 覆いかぶせるように時任の声が部屋に響いた。雰囲気が一変したところでジェフリーが手を上げた。

「問題は授業です。随時、オンライン授業に切り替えていくとしてもインターネットや諸々の費用はどこが持ちます。うちですか、学生ですか、企業ですか」

「学生は無理だろう。全員がインターネットができる環境でもないだろうし」

「ジャカルタではどうしているのですか」

「まだ準備段階だがスマホやパソコンを持っている者を中心にチームを組むつもりだ。少しでも料金を節約したいからな。企業にかけあうつもりだが全額はまず無理だろう。いずれにしてもすぐに答えは出ない」

インドネシア、日本、華僑と三つの人種が集まる会議は、下手をすると収集がつかなくなることがわかっている時任はあらかじめ自分が考えておいた答えに出席者を誘導していくというやり方をとっていた。時任の意を汲んでジェフリーがフォローするのもいつものことだ。

「他にないようなら終わります」

時任の言葉に全員が席をたちかけた。

「言い忘れたが日本からの研修生の件は、しばらくペンディングだ。入国は難しいかもしれないからな。そのつもりで仕事を割り振ってくれるか」

 シスカとイルサの被っていたヒジャブがその日初めて動いた。時任が部屋を出ていくと会議室に安堵の空気が流れる。はしゃいでいるシスカとイルサをその場に残して全員が部屋を出ていった。


 校門を出るとオジェックが待っていた。今さら遅いとも思ったが、コスの前まで行かずに二百メートル手前で降りると歩いた。カオリが門を入っていくと暗がりから声がした。

「良かった。遅いから心配してたんだよ」

 フサコだ。声のする方にカオリが歩いていこうとすると、

「いい、いい。こっちに来ないで。うつると年寄りは厄介だから」

まるでカオリがすでにコロナに罹っているような言い方にカオリは足がすくんだ。面倒見のいい女性だとはわかってはいたが、言葉に配慮というものがない。長年異国で暮らすということはこういうことなのだろう。わずか二年でも知った人の一人もいない国に暮らしてきたカオリはフサコの気持ちもわからないではない。

「ジャカルタの息子に頼んでおいたマスクがやっと今日届いたんだけど、どう、いる。一箱二万ルピアだけど」

「いるいる。助かる。困っていたところよ」

「じゃあ、今夜中にドアの前に置いておくから。お金はいつでもいいけどポストの中に入れといて。しばらく誰にも会いたくないの。ああいやだいやだ。長いこと生きてたらこんなこともあるんだねえ」 フサコの嘆息をかき消すようにペダルの音が大きくなった。


 出勤の支度に手間取ったカオリが慌ただしく部屋を飛び出すと、玄関のコンクリートの上にマスクの箱が置かれていた。昨夜のフサコとのやりとりを思い出す。中から一枚を取り出すと口にあて箱は室内に向かって放り投げる。我ながら行儀が悪いと思ったが、遅刻するよりはいい。門を出るとオジェックを呼ぶ時間も惜しくて、ドライバーたちが客待ちをしている場所まで走った。数人のドライバーが煙草を吸いながら雑談していた。毎朝のことだから、中には顔なじみも数人いる。

「おはよう」

日本語で挨拶してきた。

「おはよう」

 カオリも日本語で返す。考えてみれば国籍、住所、勤務先、出勤退勤を始めとした行動パターン。ドライバーたちはカオリのデータを把握し、かつ共有している。レオナルドにバカな女と嘲笑されても仕方ないのかもしれない。 

学校に着くと建物の前に人だかりができていた。近づいていくとジェフリーが登校してきた学生達の額に検温器をかざしていた。読み上げた数字を横でブディが記録している。

「ロクドサンブ」

「はい。ロクドサンブ」

「ゴドハチブ」

「ゴドハチブ」

「ナナドニブ」

「はい。ナナドニブ」

 もの珍しそうに額を突き出してくる学生達に混じってカオリも検温してもらった。

「カオリセンセイ、おはようございます」

 ジェフリーの声にブディが顔を上げた。

「センセイおはようございます。わあ、ずるい。自分だけマスク。どこで買ったんですか。ボクもほしいです」

「次、サンドヨンブ」

「はあい、サンドヨンブね」

 復唱しながら記録するブディに学生達から笑いが起こった。

「センセイ、真面目にやってくださいよ。サンドヨンブですよ。生きてませんよ」

ジェフリーにからかわれたのだ。悪びれることなくブディは頭を掻いている。


 午前の授業がない日は、デスクワークにあてている。年度初めの四月は前年度に積み残した仕事も片付けなければならないので結構忙しい。カオリはさっきから窓の外を見ながら悩んでいた。迷っていたと言ってもいい。テイサン枠の残りの一人を早く決めなければならないのだ。自分が受け持つ技能実習生の中から企業側に推薦する生徒を選ぶのだが最後の一人がなかなか決まらない。生徒たちはあらかじめ企業側の面接を受けて合格してはいるが、メディカルチェックの結果と語学研修を経て初めて本採用となる。求人より希望者の数が多いのはいつものことで、その時は講師が本人たちの適性や授業態度などを考慮して判断するのだが、学生達の人生を左右することにもなるので講師側のプレッシャーは大きい。

 成績から言えばイマンなのだが、カオリとしてはアジズを推薦したいところだ。バンドゥンの比較的裕福な紅茶農園の次男であるイマンに対してアジズは地方の貧しい農家からやってきている。アジズの肩に一家の生活がかかっているといってもよい。学費や寮の費用などの捻出のため一家は借金をしたとも聞いている。

「カオリセンセイ。どうしましたか。さっきからため息ばかり。僕にわかることなら相談に乗ります」

 声と一緒にカフェオレが出てきた。ブディだった。 カオリがカフェオレを好きなことを知っていて自分の分と一緒に注文してくれたのだろう。

「わあ、嬉しい。ちょうど喉が乾いていたんです。いくらでしたっけ」

「僕からのプレゼントです」

「いいんですか。ありがとうございます。じゃあ次は私がご馳走しますね」

「ご馳走してもらうなら夕食がいいな」

 おどけた様子でブディが言った。ブディはいい人だ。だが本人の気持ちをうすうす知っているだけに安易に乗っかるわけにはいかない。さりげなく話を逸らした。

「ちょっとぬるくなってませんか、このカフェオレ」

「またさぼってたな。あのドライバー、配達する途中で時々寄り道するんです」

 デリバリーのドライバーのことを言っているのだが視線は窓の外にあった。

「キングだ。この暑いのによくやりますよ」 

 ブディの声にカフェオレを啜っていたカオリの心臓が鳴った。ブディの視線を追うと真っ白いシャツが上下に揺れながら敷地の右から左へ移動していく。いつのまに現れたのだろう、レオナルドが走っていた。

「あれって特別クラスの生徒ですよね。いつもああして走ってるのかしら」

「労働をしない分、体を鍛えてるんじゃないですか。変わってるんですよ。いつも一人だし。センセイは授業を受け持ったことないのですか」

「ええ、来週からデデンセンセイの代わりに入りますけど」

「ナニゴトもホドホドにね。日本人の好きな言葉でしょ」

 ブディが何を意味してそう言ってるのかよくわからなかったが、深く尋ねることはよした。

「毎日の食事さえ食べられない人もいるというのにねえ」

空腹を満たすために手洗い場の水を飲んでいたアジズの姿を思い出した。カフェオレを半分ほど飲むとカオリは仕事に戻った。パソコンの画面にアジズの顔がある。こちらを見て笑っている。カオリの中で残りの一枠に記入する名前が決まった。


「飛行機は飛ぶかしら」

刺し身をほおばりながらマミが言った。母親が病気になり看病のために急遽帰国することなったのだが、日本行きの飛行機はこのところ減便が続いていた。マミの前に座っているジェフリーは社員を送り出すことに慣れているのか、

「大丈夫じゃないの。ジャカルタまで行ってしまえばなんとかなるよ。問題はバンドゥンからジャカルタまでだな。道路規制がかかるとどうなるか」

 マミの送別会を兼ねていきつけの日本料理店で夕食を囲もうということになった。ジェフリーとブディとマミにカオリ、いつものメンバーだ。

「マミ、あんたその頭で成田に降り立つわけ」 

 久しぶりに飲んだビールのせいでカオリは言わずもがなのことを言ってしまった。

「おかしいですか。美容院はコロナでどこも閉まってるんですもん」 ショートカットが伸びてセミロングになった髪を撫でながらマミが口を尖らせる。

「マミさん、可愛いいです。それより彼は置いていくのですか」

 ブディがウーロン茶を飲みながら聞いている。カオリの聞きたかったことでもある。マミにはこちらに来て知り合った恋人がいた。インドネシア人だ。

「仕方ないじゃないですか。そんな勇気も覚悟もありませんて」

 ムスリムとの結婚の難しさを言外に込めてマミは言ったのだが、表情は案外明るかった。国籍の違うカップルをたくさん見てきたであろうジェフリーが、白けそうになる場を盛り上げようとする。

「恋は障害レース。結婚は長距離走。走法が違うだけ。どちらも幸せというゴールは一緒だよ。マミセンセイの新しい出走に乾杯だ」 仕事熱心で四十歳近くになっても独身を通しているジェフリーの唯一の趣味がマラソンであることを知っている三人は笑顔でジェフリーの杯に自分の杯を合わせた。


 廊下を歩きながらカオリは自分が緊張しているのがわかった。特別クラス、別名高度人材育成クラスといういかめしい名前がいけないのだと思おうとしたが、そうでないことはわかっていた。キングと呼ばれるあの男のせいだ。ライオンのタテガミのような髪を持つ青年。平気で人を傷つける野獣のように粗野な男。カオリはレオナルドに会うのが怖かった。だが一方では求めてもいた。会って顔を見たかった。声を聞きたかった。体臭を嗅いでみたかった。

 ドアの前で深呼吸をして教室に入る。静まり返っていた。カオリの方を見ている者もいたが、ほとんどの生徒は手元の教材に目を落としている。

 この二年間はなんだったのだろうと思うほど緊張しながら教壇に上がった。学生の視線を感じると逆に肚が座る。これからのインドネシアを背負って立つ青年たちの強い眼差しが挑みかかってくるようでカオリは竦む心にムチを入れた。

「まずは自己紹介しますね。町田カオリです。日本語講師としてこの学校でお世話になって二年になります。その前は日本の広告代理店で働いていました」

反応はない。カオリは言おうかどうか迷った。だが二年前の轍は踏みたくなかった。ならば余計な詮索をされる前にこちらから言ってやろう。心を決めると冗談めかして言った。

「ちなみに彼氏はいません。今のところ結婚の予定もありません。でも心配しないでハッピーだから」

 カオリの自虐ぶりを誰か笑ってくれると思っていた。だが誰も笑わないばかりか空気が冷えた。作り笑いを浮かべるしかなかった。一人の学生の手が上がる。ほっとしてカオリは目で促した。

「僕たちは勉強に来ています。センセイのプライバシーに興味はありません。授業を始めてください」

 息が引っ込んだ。喉が詰まって泣きそうになる。だが生徒達の真摯な視線に背中を思いきり衝かれた気がした。ここは日本ではないのだ。遊び半分で勉強に来ている人間などいるはずがない。彼らにとって一刻一刻が真剣勝負なのだ。思わず背筋が伸びた、その時。教室の後方から笑い声が聞こえてきた。全員が驚いて振り返るほどの大きな声だ。レオナルドだった。何がおかしいのか机を叩かんばかりにして笑っている。遊び半分の人間が一人だけいた。


 バンドゥンの街を歩いていてもマスク姿は少なかったが、講師たちは毎日マスクをして学校に来ていた。 

 いちはやく手を打ったこともあり学生達もコロナとは無縁で、オンライン授業は着実に進んでいった。殊に特別クラスは全員がパソコン所有者ということもあって全てリモート授業に切り替わった。

 レオナルドに会わなくてすむのでカオリはほっとした。一度ならず二度までも屈辱を受けたのだ。まして二度目は生徒たちの前だ。一方でレオナルドのことを思いださない日はなかった。そんな自分に腹がたった。自分の中で何かが壊れたような気がしていた。それとも錆び付いていた何かの歯車が再び回り始めたのか。三十六歳の女教師が二十三歳の教え子に心を奪われるなんてどうかしている。昔、祖母が若い男に走った近所の奥さんのことを嘲って言った言葉を思い出す。狂い咲き……。自分は狂ってしまったのか。波打つ自分の心を鎮めようとすればするほどカオリの心は逆にレオナルドという年下の男に傾いていくのだった。

午後の授業のためにパソコンを立ちあげた時、ジェフリーが入ってきた。カオリの方を見ようともせずに唇を噛んでいる。カオリは異変を感じて立ち上がった。目が合う。ジェフリーが大股で近づいてくる。

「良かった。センセイを探してたんです。今ちょっといいかな」

 言いながら誰もいない会議室に入っていった。嫌な予感がしてカオリは後に従った。ドアの向こうで待っていたジェフリーはカオリが入ってくると声を潜めた。

「まずいことになった。アジズはアウトだ」

 一週間ほど前にテイサンに提出する推薦者のリストを本部にあげたばかりだ。その中にアジズの名もあった。

「どういうことですか。テイサンが断ってきたのですか」

 テイサンにアジズを推したのは自分だ。先方都合なら抗議しなければとカオリは詰め寄った。

「メディカルチェックの結果がさっき届いた。HIV陽性、エイズだ」

「うそっ……」

 カオリは後の言葉が出なかった。そんなはずはないと思った。学校ではあらかじめ健康状態を調べてから入学を受け入れる。本人申告ではあるが、書類には健康状態は良好と書いてあった。

「どうして。本人は知ってるんですか、このこと」

「知らんよ、そんなこと。本人に聞いてくれ。知ってて入学してきたのならぶっ飛ばしてやる。即刻退学の手続きに入ってくれ。不幸中の幸いだった。日本に行ってからでは損害賠償ものだ」

 体の力が脱けそうになるのを叱咤してカオリは会議室を出た。ジェフリーが電話している声が背後で聞こえる。おそらく相手は時任だろう。


 スコールが滝のように流れるうす暗い窓を背にして二つの影がソファに並んでいる。大きい影はアジズだった。横でおそらく母親だろう、なにもかも縮んでしまったような小さな老婆が俯いて座っている。カオリは乱れる息を整えようと何度も深呼吸をして近づいていった。

 結局、本人への告知も一連の退学手続きもすべてジェフリーがやってくれた。カオリにはとても耐えられそうになかったからだ。インドネシアに来たことを、日本語講師という仕事を選んだことをカオリは初めて後悔した。同時に自分の甘さを思い知った。ジェフリーが本人に問いただしたところによると自分がエイズであることをうすうす知っていたらしいのだ。その無責任さにジェフリーの怒りはおさまらなかった。だがアジズとて馬鹿ではない。自分のついた嘘がいつかばれることは予想していただろうし、嘘がどれだけ大きな悲劇を社会にまき散らすことも考えなかったわけではないだろう。だが嘘をついてでも日本に行ってお金を稼ぎたいと願ったのだ。それを思うとカオリは心が痛んだ。だが一方では哀れんだり同情するのは違うとも思った。そんな生易しいところで彼ら一家は生きてこなかったし、おそらくこれからもそうだ。

 カオリを認めると呆然と宙を見ていたアジズの表情が一変した。カオリが知っている無邪気で人懐っこい笑みが顔中に広がる。こんな時でも笑っていられるアジズが哀しかった。カオリも笑おうとした。母親は下を向いたままだ。

「カオリセンセイ」

「アンコットで帰るの」

 カオリの声に驚いたように母親が顔をあげた。老婆のように見えるが、おそらくカオリと大差ない年齢ではないか。

「はい。でも今日は親戚の家に泊めてもらいます。明日のアンコットに乗ります」

「そう。気をつけて帰ってね」

思わず元気でねと言いそうになり急いで口を閉じた。エイズの彼に掛けるどんな言葉があるというのだろう。この期に及んで何を言っても虚しく響くだけだ。それでもなんとか励ましたいと言葉を探しているとアジズが立ち上がった。

「センセイごめんなさい。黙っててごめんなさい。ほら母さんも」

頭を下げるアジズに促されて母親は脅えたような目でカオリを見て手を合わせた。

 それからのことはカオリはよく覚えていない。自分がどんな言葉をかけたのか、行動をとったのか。覚えているのは一本の傘を差してスコールの中に佇む二つの背中だった。荷物を持たない方の手を母の背中に回したアジズ、母親の赤いヒジャブがカオリの網膜に焼き付いて離れなかった。

アジズの報告書を書き終えるとカオリは顔を上げた。いつのまにか部屋には誰もいなくなっていた。スコールはまだやまない。今夜はオジェクを呼ぶのはやめてアンコットで帰ろう。頭を冷やすのだ。そう決めるとカオリは建物を出て横殴りの雨の中を歩き出した。校門についた頃は靴の中に雨が入って下着まで濡れていた。せめてものアジズへの罪滅ぼしのような気がしてカオリは雨が体を打つのに任せて歩いた。車のライトが時折闇を照らして通り過ぎていく。カオリが行く方向に車が一台止まっていた。誰かを待っているのか、ライトをつけたままだ。車種に疎いカオリにも高級車だとわかった。なんとなく近づくのがためらわれる。だがアンコットの乗り場に行くには横を通らないわけにはいかない。できるだけ車から距離をとって迂回しようと顔が見えないように傘で顔を隠して歩いていくと突然運転席のドアが開いた。驚きのあまり声が出た。傘を落としそうになる。

「乗って」

どこかで聞いたことのある声だった。まさか……。カオリの体は固まったままだが、目が声の主を探した。ドアから身を乗り出した半身を照明が照らし出す。レオナルドだった。スコールが頭から顔にかけ容赦なく打ちつけている。

「早く」

レオナルドの声に苛立ちが混じる。

「どうせ帰り道だ。乗せてあげるよ」

偉ぶった口ぶりにカオリの心の中に灯った温かな光がたちまち消える。どうしてこの男はこんな言い方しかできないのだろう。無視して通り過ぎることにした。数メートルほど行ったところで、背後でレオナルドが叫んだ。

「待っていたのに。ずっと待っていたのに」

おもちゃを買ってくれと駄々をこねる子供のような言葉遣いにカオリは虚をつかれた。振り返った。スコールを斜めに斬って一筋のヘッドライトがカオリを照らしている。激しく飛沫をあげる車の屋根はまるで泣いているみたいだった。あの屋根の下にレオナルドがいる。私を待っている。気がつけばカオリは光の中を駆け出していた。レオナルドの気が変わって今にもどこかに行ってしまいそうな気がして筋肉を全開にして走った。濡れた道に足をとられそうになりながら駆けた。

 息を切らすカオリの前で助手席のドアが静かに開いた。濡れそぼった体のままカオリは滑り込んだ。傘はいつのまにかなくなっていたが、バッグは肩にかっている。安心してシートに座るとすかさずタオルが出て来た。

「拭いて。シートが濡れる」

 さっきの声の主とは別人のような冷たい口調にカオリに理性らしきものが戻ってきた。

「ありがとう。助かったわ」

それでも声が弾むのは抑えられなかった。すぐに車が動きだす。カオリは前を見たままレオナルドの横顔を盗み見た。窓の外の降りしきる雨をバックに触れてみたくなるような美しいラインだった。カオリの昂揚が元に戻らないまま沈黙が続いた。数分たったころ、突然レオナルドが口を開く。

「さっき走ってくるセンセイを見て思ったんだけど、ちょっと太り過ぎじゃないか」

カオリは一瞬レオナルドの言っている言葉の意味がわからなかった。耳膜に入った声をもう一度頭の中で再生してみた。血が沸騰して、引いていく。有頂天になった自分をぶん殴ってやりたいような自己嫌悪に陥った。隣で得々と筋トレについて語る口に詰め物でもしてやりたいと思った。実際カオリは手に持っていたタオルを横の席に向かって投げつけてやった。レオナルドが驚いたようにカオリを見た。

「そこでとめて。降りるから」

「どうして」

「一緒にいたくないからよ」

「怒ってるの」

「怒るなという方が無理でしょ。いいから止めなさい」

 ブレーキがかかって車は路肩に止まった。カオリはドアに手をかけた。背中で声がする。

「どうしてなのかわからない。いつもこうなってしまうんだ。怒らせるつもりも傷つけるつもりもない。なのに人は勝手に怒って勝手に逃げて行く」

 ハンドルに突っ伏したレオナルドのくぐもった声が激しい雨音にかき消されそうになる。まるでカオリが悪いような言い方ではないかとカオリはとまどいながらも不満だった。だが髪の毛で隠れてはいるが、おそらく泣いているに違いないレオナルドにカオリは浮かせかけた尻を元に戻した。

「誰だって怒るでしょ。太ってるなんて言われて喜ぶ女性がどこにいるのよ」

 許している声音だった。雨に捨てられた子犬のようで手を差し伸べずにはいられなかったのだ。だが騙されてはいけないとも思った。「どうして。本当のことを言っているだけだよ。僕は嘘はつけない。つかないんじゃなくてつけないんだ」

 よけい悪いではないか。カオリは幼児並みの常識の詰まった男の後頭部をあきれながら見ていた。レオナルドが顔をあげた。

「キングと呼ばれていることは知っているさ。尊敬してるのでなく軽蔑して言ってることも。誰も僕を好きにならない。僕を嫌いなんだ」

 レオナルドが顔を上げる。カオリは無防備に目の前で泣き顔をさらす男を観察した。横柄で傲慢で人を人とも思わない男。自分が嫌われていることを承知で、それでも威張り散らすことをよしとする男。濡れた髪の間からこちらを見るレオナルドの濡れた目はなぜかカオリの哀れを誘う。怒る自分の方が間違っているような気がしてくる。

 確かにインドネシアに来てから日に日にカオリの体重は最高値を更新していた。ショーウィンドーに映るおばさんの姿を自分だと気づいてショックを受けたこともある。今まで誰もカオリの体型に触れなかっただけだ。レオナルドは嘘をついていない。そう思うことにした。彼の無礼な言葉を許すことしか自分に道はないとわかっていた。なぜならレオナルドの側にいたいのだ。カオリは思い直すとハンカチを取り出してレオナルドの髪を拭いてやった。

「もういいわ。痩せることにするわ。さあ、車を出してちょうだい」 とたんにレオナルドの顔に尊大さが戻った。だがカオリにはそれが嬉しかった。大金持ちで抜群の頭脳と容姿を併せ持つ王様は寂しかったのだ。孤独をわかってあげられるのは自分しかいないと思った。そう思うことでレオナルドの欠陥をプラスに転じようとした。

「僕は僕の道を行くさ。上の者が下の者に合わせる必要なんてないもの」

 車から降りようとするカオリを引きとめるようにレオナルドが後ろで言った。今自分が泣いてしまったことへの悔し紛れの言い訳のようにも聞こえた。振り向くと目があった。笑っている。スコールの後の空のように晴れわたった笑顔を見ると、たった今の車の中の出来事が夢の中のお話しのように思えてカオリは不安になった。何か言わなければ。でも何を言えばいいのか。カオリが黙っているとエンジンのかかる音がしてレオナルドの声が重なった。

「いつ来るかと待っていたんだ、スコール。もうすぐ乾季だろ。間に合ってよかった」

 カオリにというより自分に言っているようなしんとした声だった。カオリの不安はたちどころに霧消した。子供のように舞い上がった。多分レオナルドはこう決めていたのだ。今度スコールが来たらカオリを迎えにいこうと。

 視界から車が消えてもカオリは佇んでいた。もう少し夢の中にいたかった。

「カオリなの。そんな所につったって物騒じゃないか。早く入んなさい」

 カオリを呼ぶフサコの声で現実に返った。小降りになった雨の中、門の前でほうきとビニール袋を持ってフサコが立っていた。ネズミ取りにネズミがかかったのだろう、袋が小さく動いている。


 複数の店舗が入る商業ビルの前にカオリは立っていた。いつも行く居酒屋は照明が消え、広大な駐車場には数台の車が止まっているが人影はない。うす闇に包まれた周囲をうかがうようにしてカオリは歩きだした。ビルの玄関に人影が現れてこちらに向かって歩いてくるのが見える。カオリは咄嗟にバッグの中のスマホを握って身構えた。昨夜、仕事から帰るのを待ち受けていたようにスマホがメッセージを受信した。知らない番号からだった。無視しようと思ったが、そんな勇気もなく恐る恐る画面を開いた。

 オカエリナサイ。 カオリサンダイスキデス。ボクトデートシテクダサイ。ドコガイイデスカ。ナニヲタベタイデスカ。

 インドネシア語だった。電源を切ろうとしてカオリは思いついた。震える指で文字を拾う。 

ワタシハインドネシアゴワカリマセン。メイワクデスカラニドトメッセージヲシナイデクダサイ。 

 相手に伝わるように拙いインドネシア語で打った。すぐに既読になって返信が来た。

 カオリサンウソツキデス。ヨンデマス。カイテマス。

 しばらく途絶えていた悪戯メールだ。気味が悪くなって電源を切るとスマホを部屋の隅に放りだしたのだった。

 近づいてきた男の服装を見てカオリは安堵した。ビルの守衛だ。

「カオリさんですか」

「はい」

「待ってました。どうぞこちらへ」

 守衛の後をカオリはついて歩いた。階段のところまで来ると守衛は腰に下げていた懐中電灯を取り出した。暗闇の中に丸く照らされた光を踏むようにして二階についた。守衛のノックにドアが内から静かに開く。馴染みの美容師がにこやかに迎えてくれた。室内は明るかったが、窓は全てダンボールで塞がれている。いつのまにか守衛はいなくなっていた。

「電気をつけたらお店を開けてるのわかるでしょ。こうするしかないの。コロナでも髪の毛は伸びるものね。きれいでいたいものね」  

 いつもの席につくとカオリの首にケープを巻きながら美容師は店を開けていることへの言い訳をした。そうだ、コロナでも人は恋をする。カオリは鏡に向かって笑顔でうなづいて見せた。

「カオリさん。きれいになりました。少し痩せましたか」

 美容師が言った。いつもならお世辞と聞き流すところだが嬉しさが顔に出る。ほめられて素直に喜ぶことを長い間忘れていた気がする。この国に来てよかったと思う。カオリは笑顔のまま礼を言った。ダイエットをしていることを打ち明けようかどうか迷った。言えば理由を聞いてくるに決まっている。好きな人に気にいられたいからと告白する。次にどんな人ときいてくる。想像するだけで口がうずうずした。まるで女子中学生の初恋ではないかと思うと顔が赤くなる。

「ねえ、もし恋人にするんだったら男性は年上がいい。それとも年下」

 まずはジャブだ。

「カオリさんが、そんなこと聞いてくるなんてびっくりです」

「どうして」

「どうしてって」

 ハサミを使っていた美容師の視線が手元からカオリに移ってすぐに戻った。次に口を開いた時には美容師の話題は変わっていた。

「長さはこのくらいでいいですか」

「もう少し短い方がいいかな」

 何食わぬ顔で答えながら内心は興ざめした。もう少しで口を滑らせてしまうところだった。二十歳になるかならないかで結婚する、この国では三十六歳の女性はとっくに恋愛事など卒業した中年のおばさんだ。話題にする方がおかしいのだ。

 幼少期から白磁のようだと言われるカオリの肌は今も十分に美しく年齢を聞いた人は皆一様に驚く。だが若く見えるのと若いのとは違う。少女のように弾んでいた気分がみるみる萎んでいくと、新たな疑念が沸き出した。レオナルドは果たして私の年齢をわかっているのか。わかっていて声をかけたのだろうか。もしかすると自分と同年齢と思っているのかもしれない。明日会った時に聞けばいいと思ってはみたが、今すぐにでも飛んでいって問いただしたい気がする。一方では答えを聞きたくない気もして相反する二つの心がカオリの中で攻防を繰り返す。

「カラーどうしますか。白い毛増えてます」

 美容師の言葉にカオリはなんとか立ち直った。くよくよしていても始まらないのだ。 

「ついでにお願いしようかしら」

 ついでなどではない。ヘアカラーのついでにカットをしたのだ。毛先に緩くウェーブもかけた。インドネシアに来てから随分白髪が増えたように思う。年齢相応なのかもしれないがレオナルドの年齢を思うと少しでも若くみられたかった。

 遠足の前日の小学生みたいな気分でベッドに入った。だがなかなか眠りは訪れない。ベッドの中で寝返りを打つ度にまたしても不安と喜びが交互に顔を出す。

 三十六歳の日本語講師と二十三歳の生徒。他人はどう思うだろう。不道徳。年甲斐もない。職業倫理に反している。数えあげたらきりがない。会社にはどう説明するつもりだ。なにより二人の関係のどこに未来がある。光があるのだ。出口のない迷路に足を踏み入れるべきではない。だが、人を好きになることがそんなに悪いことなのか。誰にも責める権利はないはずだ。恋かどうかなんてわからない。そもそも恋なんて理屈でするものではない。ただレオナルドに会いたい。一緒にいたいのだ。

 常識を尊ぶ女性と恋愛至上主義の女、カオリの中で二人の女が白刃を斬り結ぶのだった。 

 ようやく眠りに落ちた頃には夜が明けていた。アザーンの声を寝不足の頭で聞きながらカオリはベッドからを脱け出した。丁寧に全身を洗った。シャワーの水を弾き返す肌は二十代の時のそれと変わらない。時間をかけて慈しんでいるうちに昨夜の心配事が杞憂のような気がしてきた。

 

 キャリーバッグの中に入れっぱなしにしてあったオーガンジーの桜色のワンピースをひっぱりだした。日本を発つ時に持ってきたものだ。鏡の前に立つと体のシルエットが強調されてなんだかいやらしい。日本にいた頃より太ったせいだ。だがウエストが苦しいのさえ我慢すればなんとか着れないことはなかった。汗と友達のようなここでの生活にお洒落は無用だ。講師らしい服装をという会社の方針でTシャツや短パンは避けていたが、洗濯のきくシャツや木綿のロングスカートでカオリは年中通している。

 ダゴパカールにレオナルドの家がある。カオリの住むダゴポジョックから十分ほどのところにある華僑が多く住む高級住宅地だ。どちらの住まいからも歩いていける距離にあるインターコンチネンタルホテルのカフェをカオリたちは待ち合わせの場所に選んだ。

 ガラス張りのカフェの窓から外を眺めていると車寄せに黒い外車が一台静かに滑り込んできた。スコールの夜にカオリを迎えにきた車とは車種が違う。制服姿のボーイが恭しく車のドアを開けるとレオナルドが出てきた。マスクをつけているのを見てカオリはついさっきまでしていたマスクを探した。レオナルドがボーイに車のキーを渡した。ボーイはおしいただくように受け取ると車に乗りこみ、横にあるホテルの駐車場まで移動させた。自分でやればいいじゃないか。カオリはなんだか嫌な気分だった。後で注意をしようと思ったがすぐに思い直した。学校の外では先生と生徒ではない。今日はデートなのだと思ったが、これはデートなのかと問う自分もいた。ここに来るまでに考えてあった質問がいくつかあった。レオナルドの答え次第では、この先の展開がどうなるかわからない。

 ボーイに案内されてレオナルドがカフェに入ってきた。カオリを認めるとマスクを取った。屈託のない笑顔にレオナルドの泣いた顔を思いだした。今鳴いたカラスがもう笑た……。子供の頃、祖母が泣きじゃくるカオリが機嫌を直すとよく遣った言葉がふと口をついて出る。可愛い……。祖母もカオリを見てそう思ったに違いないと思いカオリは表情を緩めた。

 ビジネスマンが多いホテル客の中でレオナルドのラフな姿はよく目立った。真っ白いスニーカーがカオリの前で止まる。

「待った」

 このタメ口はいつからだろう。最初に会った時のような気もするし、この間のスコールの晩のような気もする。腹が立たないどころか心地いいのだからそのままでいいと思った。カオリは首を振った。

「ううん、今来たところよ。車で来たのね。歩いてもすぐでしょ」 軽い調子で言ってみた。

「なるべく歩きたくないんだ。靴が汚れるからね」

 言われてカオリはレオナルドの足元を見た。そのために靴はあるんじゃないの。思わず出そうになる言葉をレオナルドの声が遮った。

「八万円するんだ」

 自慢なのか。いや自慢なのだろう。普通の大人ならためらってしまいそうなことを王様は誇らしげに自慢した。やはり無理だ。もういい。予定していた二つの質問を終えて帰ることにしよう。カオリに分別が戻る。

「ねえ、この前の晩のオートバイ。私を家まで送ってくれたでしょ。あれからどうなったのかしら」

 ずっと気にかかっていた。正確にはオートバイではない。オートバイに乗っていた二人の青年たちのことだ。

「どうして」

「どうしてって。気になるでしょ。怪我していたみたいだし」

「自業自得だよ。言っとくけどあんなオートバイ、僕はいらない。元の場所に戻しといた」

「そうじゃなくて乗ってた人のことを知りたいんだけど」

「知らない」

「知らないって。心配じゃないの」

「心配しなくても取りに来てるよ」

 言っていることが全く通じない。じれったさについカオリの声が尖った。

「そうじゃないの。乗ってた人がどうなったのか聞いてるの」

「それって僕とどう関係があるの。僕は被害者を家まで送っていってあげただけだよ。心配だったらセンセイが自分で調べたらいいじゃないか」

 オートバイやヘルメットを拝借したことは間違ってはいない。悪いのはその原因を作った人間なのだ。レオナルドの中ではいつのまにかそういうことになっているらしい。これ以上話しても無駄だ。二つ目の質問をする必要もなくなったと思いながらカオリは伝票を持つと立ち上がった。レオナルドのしなやかな筋肉に覆われた腕がカオリのドレスの袖に伸びる。仕方なく座る。

「どうして帰るんだよ。オートバイに乗っていた彼らを見た。手首に包帯を巻いていたけど二人で楽しそうに市場に入っていったよ」

 本当だろうか。カオリが疑わしげな目で自分を見ているのがわかったのだろう、レオナルドが泣きそうな顔をして訴えた。

「ちゃんとこの目で見たんだから。嘘はつかない、家訓なんだ。約束は破ってもいいけど嘘はついちゃいけないって」

 変な家訓だ。だが横柄な王様から突然子供に戻ってしまった。そのギャッブがおかしくてカオリは失笑した。四ケ国語が話せて飛び級で国立の名門大学を卒業して日本の大学での留学経験もある二十三歳の人間の口吻ではない。ふと珍種という言葉が頭の片隅に浮かんだ。

「今ね、車を降りた時、窓の向こうにセンセイが座っているのが見えた。その時、はっきりわかったんだ。僕は恋をしているって。入学してすぐにキャンパスでセンセイを見かけた。なんて美しい人なんだろうと思った。それからずっとセンセイを見ている」

 思ってもみなかった言葉に飲みかけていたカフェオレが噎せた。ストローを手に持ったままカオリは固まった。混乱の中から歓びが沸き上がってくる。過去にカオリを好きだといってくれた人は何人かはいた。プロポーズされたこともある。だが大の大人にこんなにもわかりやすく感情をぶつけられたことは一度もない。いや、私が会ったことがないだけで世界には色々な男性がいるのかもしれない、とカオリは思った。その一人が今目の前にいる。

「やっぱりセンセイも僕のこと嫌いなんだ。どうせ僕はキングさ。裸の王様なんだ」 

 もう涙声になっている。少し離れた所で車のキーを返しにきたボーイが困惑げにこちらを見ている。カオリはなんだか自分がいけないことをしたような気がして、王様の差しだす手に自分の手を重ねてみるのも悪くないかもと思い始めた。それならばやはり聞いておかなければならない。

「レオナルド、あなた私のことをどれだけ知っているの」

「何のこと」

 不思議な表情でカオリを見つめている。

「私のことを何歳だと思ってる」 

「知らない」 

 首を振った。やはり……カオリは落胆した。普通の男性なら十三歳も年上の女性に恋をしたりはしない。だがレオナルドは普通ではない。常識の枠の外で生きている。カオリは勇気を振り絞った。

「三十六歳。あなたより十三歳も年上よ。それでもいいの」

「意外だな。もっと若いと思ってたけど」

日本語が話せるということと日本語がわかるということは別物だ。カオリは改めて日本語講師としての仕事の難しさを痛感した。だが腹はたたなかった。悲しいだけだ。レオナルドの放つ毒に慣れてしまっていた。

「僕はセンセイが好きだ。年齢なんか関係ないよ」

 カオリの言葉に憮然としながらレオナルドが言い放つ。カオリへの思いやりで言っているのではない。明らかに気を悪くしている。カオリはレオナルドのこんなところが好きなのかもしれないと思った。常識を鼻で笑う男。その裏にある強烈な自我に圧倒されるのだ。世の中の仕組みも人の心も全くわかっていない。あるのは自信だけ。自己を恃む心の強さが、すりへった薄弱な自意識しか持たないカオリを眩惑するのだ。生きてみようか、この男と。カオリはレオナルドの顔を見た。おそらく道はすぐに尽きるだろう。当たり前だ。だがそれでもいい。行けるところまで行ってみよう。

「あなたがいいならいいわよ。私もあなたが好きだから」

 カオリは言っていて顔が赤くなった。いいだろう、ここは日本ではない、インドネシアだと自分に言って聞かせる。

「あなたは嫌だな。他人みたいだ。レオって呼んで」

 レオナルドの甘えた声にカオリが応えようとした時、テーブルの上に置いたレオナルドのスマホが震えた。

「ごめん」

 レオナルドがとる。一瞬にして表情が引き締まった。英語だった。カオリが見たことのない表情だ。仕事上の指示を出しているらしいのだが、話すスピードが速くてカオリにはよく聞き取れない。スマホを元の場所に戻すとレオは言った。 

「日本からだよ。新しいビジネスを始めようと思って準備してたんだけど。今やめたらオフィスのキャンセル料がばかにならないし。ったく人騒がせなコロナめ」

 言葉の割に悲愴感はない。学生の分際でビジネス……。親の会社か、それとも自分のか。その時になってカオリはレオナルドが大富豪の息子であることを思い出した。問題は年齢だけではなかったのだ

「そんなことより相談しなければならないことがあるだろ、僕たち」レオナルドの興味は他に移っていた。もう何を聞いても驚くまいとカオリは自分に言い聞かせる。

「はやくカオリが欲しいよ。いつにする。今でもいいよ。ここはどう。僕メンバーだし」 

 そう言ってホテルの階上を指さした。カオリは思わず周りを見た。こんな場合、一応断ってみせるのがマナー、いや慎みだろう。しかし相手はレオナルドだ。それに今朝、あんなに丁寧にシャワーを浴びたのは誰なのだ。カオリは考える風を装ってから薄くうなづいてみせた。

 部屋に入るなりレオがカオリに突進してきた。まるで飢えた野獣のようにカオリの喉に食らいつく。首筋を貪るレオの舌の音が部屋に響き、長い髪がふりまくコロンの匂いが広がる。  

「待ってレオ」

 さすがにカオリは鼻白んだ。熱い息とともにレオナルドが囁く。

「どうしてさ」

「ベッドに行きましょう。その前にシャワーも浴びたいわ」

 カオリの言葉が終わらないうちにレオはカオリを抱き抱えて運び、ベッドの上に投げだした。スプリングでバウンドしたカオリの体の上にのしかかる。Tシャツを脱ぎ、ジッパーを下げる。下から見上げるレオの顔の凶暴さにカオリは一瞬たじろいだが、自ら脚を開くと目を瞑った。荒々しい息遣いが喘ぎ声に変わる。カオリは薄く瞼を開いた。レオの顔を見たままいきたいと思ったのだ。レオと目があう。見開いたレオの瞳に徐々に薄い膜がかかる。

「いい? いってもいい」

 涙色をした膜の奥からカオリを見てレオがきいた。返事の代わりにカオリは腰を振った。レオの体が一瞬で硬直した。低い咆哮めいた声がレオの口から漏れるのを聞きながらカオリも後に続く。あげまいと思った声はレオのそれによく似ていた。

 カオリの顔にレオの髪が落ちてくる。汗に濡れたレオの髪に包まれてカオリは目を開けた。まるで洞窟みたいだと思った。ずっとこのまま隠れていられればどんなにいいだろうとも思った。だが髪の隙間から陽光がこぼれている。世界がコロナで騒いでいることが嘘のように思えた。日本から遠く離れた異国のベッドの上で男に抱かれているのだと思うと泣きたいような笑いたいような気持ちになる。奇妙な感覚の中をカオリは漂っていた。

「割礼って知ってる」

 突然声がした。仰向きに寝転がったレオの声が天井を這う。甘い囁きを待っていたわけではないが、いつも見事に期待を裏切ってくれる。タイムリーなのか、そうでないのか、それにしても唐突過ぎる話題だ。

「インドネシアという国はインドネシア人と中国人がいる。もちろん日本とかそういう国の人もいるにはいるけど大きく分けるとこの二つだ。割礼はムスリムの慣習だからインドネシア人にとっては義務みたいなもんなんだけど、ムスリムでもない中国人までが割礼だけは真似したがる。おかしいだろ。当たり前のようにやるんだ。男子のほぼ九十パーセントというから驚くだろ」

 レオは言いながらカオリの手をとり自分のものを握らせた。

「レオもしたの」

 手の中のものを撫でながらカオリは聞いた。

「やるもんか。バカバカしい」

 吐き捨てるように言う。

「でもほとんどの男の子はやるんでしょ」

「あんなの痛いだけだよ。何の得にもならないことを僕はやらない」「仲間はずれにはならないの。割礼って子供の時にやるもんでしょ」 

 ふん。鼻から空気を吹き出すと少しの沈黙があった。

「他人がやるから自分もやる。考える習慣がないんだ。それだけ自分に自信がない。そんなやつらの仲間に誰がなりたいもんか」

 今のレオならそう考えても不思議はない。だがたかが十歳やそこらの少年が周りに流されずに自分の考えで判断し、その意志を貫き通せるものなのだろうか。やはりこの人は変わっている。変わってはいるけど聡明だ。心に浮かんできた考えに自分で満足してレオの頬にキスをした。レオが横を向いてカオリのキスを受ける。

「生まれた時からずっと普通でないと言われ続けていると普通がなんだかわからなくなる。僕が何を言っても何をしてもお前は普通じゃないからとこうくる。そのうち普通クソクラエみたいになってくる。普通ってそんなに大切なものなのかと悩んだ時もあったけど、そもそも普通というものが僕にはわからないんだから仕方ない。大人になったらわかるかなと思ってたけど。センセイ僕は普通でしょうか」 

 ふざけた調子でレオは言った。ここで笑ってはいけないとカオリはレオの瞳を覗き込んだ。瞳の中に映っている自分に話しかける。

「インドネシアは好き」

「嫌い。道が汚い」

「じゃあ中国は」

「嫌い。人がうざい」

「日本」

「嫌い。街がうるさい」

 韻を踏んでいるのはわざとか。見事に同じ答えが返ってきだ。どれか一つでも語調が違っていたら想像力を働かせることもできるのだが。きっとレオの中では三つの国は同列に並んでいるのだ。日本を好きかと問われれば自分ならどう答えるだろうと考えるとカオリは質問がまずかったと反省した。

「レオは家では何語を遣ってるの」

「家では中国語、外ではインドネシア語、ビジネスでは英語。愛する人とは日本語」

 最後の言葉は熱いキスと一緒にだ。身をよじりながらカオリは笑った。レオも笑っている。

「そう言えばケンカの時は中国語を遣ってるかな。よくわかんないや」

「考える時はどう。それも中国語なの」

「書くときは中国語だけど考える時はどうだったかな。ただ考えてるだけのような気がするけど」

 宙を見つめ答えを探しているレオの横顔は道に迷った子供のように心細げでカオリは思わず抱き寄せたくなった。人は言葉で考える。その人の生まれ育った国の言葉でだ。言葉がない、あるいはあり過ぎることは祖国がないに等しいのではないか。カオリは自分の生まれた国のことなど真剣に考えたこともない。まぎれもない祖国としての日本があるからだ。日本が好きかどうかなんてことも考えない。当然のことを人は考えようとはしない。レオの「嫌い」は好きといえないことの寂しさやもどかしさの裏返しではないのか。そう考えるとレオの奇妙な言動が少しわかる気がした。カオリは目の前の傲岸な青年が愛しくて上を向いていた顔を無理やり自分の方に向けた。

「さあ、始めようか」

 レオはベッドに座ると笑いながら大掃除を始めるみたいに肩をごりごりと回した。カオリはなんだか肩透かしをくったような気持ちになってレオが体を重ねてくるのを待った。

 

 窓の外から激しいクラクションの音がしてカオリは目が覚めた。いつのまにか微睡んでいたらしい。横を見るとレオがいた。両手を首の後ろで組んで天井を見ている。カオリが起きた気配を察したのか、それとも独り言なのか小さい声で唐突に言った。

「コウモリたちの逆襲だよ」

 逆襲……。コウモリ……。何のことかわからずカオリはレオと同じ言葉を繰り返した。

「地球上からどんどんコウモリがいなくなってるんだ。今や絶滅危惧種に近いものもある。人間が森を奪い山を拓き彼らの住む環境をどんどん破戒しているからだ。自業自得だよ」

 現世利益の体現者が環境問題を持ち出すことにカオリはとまどった。だが何について言っているのかはわかった。どう答えようかと考えていると、

「確かに肉はうまいんだ。それだけにしとけばいいものを連中は脳みそまで食うからな」

 主語はなかった。カオリは咄嗟にレオの唇を見た。数分前までカオリの唇を吸っていた口が舌なめずりしそうで目を瞑ると妄想を追い払った。粟立つ腕をシーツで隠す。伸ばせば手が届く距離にいるのにレオと自分の間には深い川が流れているのだとカオリはため息をついた。

 ホテルを出るとカオリは言われるままにレオの車に乗った。

 ラジオをつけると待っていたように男性の声が聞こえてきた。

「コロナ、バンドゥン、ペーエスベーベー。ペーエスベーベー、コロナ」

 カーラジオから聞こえてくるアナウンサーの声が昂ぶっている。新型コロナ肺炎に関する内容なのはわかるが、時々わからないインドネシア語が混じっている。カオリは横にいるレオを見た。

「ペーエスベーベーってどういう意味なの。初めて聞く言葉だけど」

 そんなことも知らないのかという風にレオが自慢げに解説を始めた。

「PSBBと書いてペーエスベーベーだよ。日本語に訳すと大規模社会制限というところかな。そうかバンドゥンもいよいよか。ジャカルタに出た時にこちらも時間の問題だと思ったけど案外早かったな」

 そう言えば十日ほど前にジャカルタにコロナに関しての発令があったと講師たちが騒いでいた。あれがペーエスベーベーだったのか。それだけ心がレオのことで占められていたのかと思うとカオリは自分が怖くなった。多くの生徒を預かる講師としての自覚はどこに行ってしまったのだろうと唇を噛んだ。  

 行く手にダゴパカールの住宅街を囲む高い塀が見えてきた。邸街の入り口に遮断機があって横に制服を着た門番が立っていた。

「寄っていくかい」

 前を見たままレオが聞いた。コスまで送ってくれるのではなかったのかとレオの身勝手さに失望した。だが抗議してもきっと理屈を並べたてて打ち負かされるだろう。生まれてこの方、無縁の感情だと思っていた忍耐がこのところ自分に育ちつつあることにカオリは自分でも驚いた。

「ここで降りるわ。コスまで歩いてもすぐだから」

「わかった」

 あっけらかんとしたレオの声にカオリは傷ついた。嘘でもいいから家に寄ってほしいと言ってほしかった。誘われたところで寄るつもりはないが。

 数歩行ったところでカオリは振り返った。遮断器のバーの下をくぐり抜け、レオの車が舗装された道を樹木に囲まれた住宅街の中に吸い込まれていく。ふとカオリの耳にさきほどのレオの声が蘇ってきた。《日本語に訳すと大規模社会制限というところかな》

「ペーエスベーベー。大規模社会制限」

 口に出して言った。愛嬌のあるインドネシア語といかつい日本語訳のミスマッチになんだかぞっとした。自分は社会のルールを逸脱したのではないか。講師と生徒、年齢、国籍、環境、本来なら踏み込んではならない進入禁止エリアに入ってしまったのではないか。レオの情熱に負けたのだ。いや自分から進んで飛び込んだのだ。好きなんだからいいではないかとか、ここは日本ではないのだからとか、考えられるだけの弁明をしたが日本社会の中で生きてきたカオリにはレオのように割り切ることはできない。 

 レオの消えた方向に目をやりながらカオリはそのまま後ろ向きで歩いた。昔、確か宗教関係だったと記憶しているが、その本に書いてあったことを唐突に思い出した。 《未来は前にあり加来は後ろにあるものと人は思っているが、実はその逆で過去が前で未来は後ろにあるのだ》 確かそんな風なことが書かれてあった。意味はわからなかったが、だから人は過去のことは知っていても未来はわからないのだという解説には妙に納得したものだ。自分は前を見ているつもりが後ろに歩いているのではないかと思うと、蹴りあげる足に力が入らなかった。

 高い塀に囲まれた敷地の奥に西洋の童話に出てくる城みたいな邸が見える。レオの邸かどうかはわからないが周りには同じような建物が並んでいる。やはりレオとはこれきりにしよう。カオリは自分の心を振り切るように前を向き歩きかけた。ふと足裏に異変を感じる。目を落とすとパンプスが泥濘みに浸かっていた。

 

 生徒の数がめっきり少なくなったキャンバスを歩いているとラマと出会った。決まっていた日本での就職先がコロナで受け入れ困難になりそのまま寮に留まっているのだ。

「おはよう」

 カオリの声にラマが駆け寄ってきた。

「カオリセンセイ。ちょっと来てください」

 悪戯っ子の様な笑みを浮かべるラマに誘われてカオリは建物に入った。建物内に生徒の姿はない。リモート授業に切り替わり田舎に帰る者、寮にとどまる者、生徒は好きな場所を選んでオンラインで授業を受けている。ラマは自分たちのクラスがあった教室の前で立ち止まるとドアを開けてカオリを先に入れた。中からパラパラと拍手が起こる。カオリが受け持っていた技能実習クラスの生徒たちだった。アセップがいる。イマンがいる。アリフもいた。イマンが手に持っていた箱を差し出した。

「ソツギョウおめでとうございます」

 卒業したのは自分たちなのに全員がカオリに向かってお辞儀をした。カオリが教えたとおりの日本式のお辞儀だった。顔が火照って涙腺が緩みそうになる。箱を開ける間にも涙が滲んでくる。箱の中から木の実と貝殻を組み合わせたネックレスが出てきた。お揃いのブレスレットもついている。会社の方針で指導は厳しくと言われてその通りに実践してきたカオリだ。時には叱ったり、声を荒げたこともある。前にいるのは卒業したもののコロナの影響で就職ができないでいる生徒ばかりだ。彼らの置かれた経済環境を考えるとアクセサリー一つでも負担にならないはずはない。それなのにカオリを気遣ってくれている。そう思うと生徒達の純朴な優しさにカオリは胸が詰まった。

「ありがとう。どう似合うかしら」

 カオリがネックレスを鎖骨あたりにあてると生徒たちは口々に何か言いながら手を叩いてくれた。 

 全員で教室を出ると人のいない廊下を進んで玄関まできた。別の建物内の寮に戻る生徒達を見送るとカオリはスタッフルームに向かった。

 スタッフルームには数人のスタッフがいた。ジェフリーがカオリを認めると声をかけてきた。

「バンドゥンにペーエスベーベーが出たことは知ってるね。授業はできるところからテレワークに切り替えていこうと思うんだけどカオリはどう」

「はい。いつからでも大丈夫です。けど」 

 カオリは気になっていたことを聞いた。

「デデンは帰ってきたのですか。特別クラスはどうします」

 レオと一線を越えたからには今までのように接する自信がカオリにはなかった。

「帰ってはきてるんだけど、そっちは引き続きカオリがやってくれるかな」

「どうしてです。デデンが休暇の間だけという約束ですよね」

「わかってるけど人手が足りないんだ。日本から帰国してくる技能実習生のアシがない。移動制限が出てるからスカルノ・ハッタ空港についてもそこからが大変なんだ。生徒の出身地は全国に散らばっているだろ。そこまで送ってやらなければならないんだ。会社から車は出すけど地理に詳しいデデンに運転してもらわないと今いる運転手だけではとても間に合わない」

 カオリの答えを聞かずにジェフリーは速足で部屋を出ていった。

 いつのまにかカオリは一人になっていた。改めて窓から外を眺める。いつもなら学生達で騒がしいほどなのに陽光を跳ね返してキャンバスだけが白々と光っていた。いたたまれずに廊下に出た。窓からの強烈な太陽が床をつきさして行き場をなくしたように埃が光の中を舞っている。食堂の香草の匂いも若い男たちの体臭も消えた。

 今までどこか他人事だったコロナウイルスの触手が自分の身にも伸びてきているのを感じないわけにはいかなかった。心細くて泣いてしまいそうなほど寂しかった。日本のことがふと頭を過る。遅れてレオの顔が浮かんでくる。レオがいるのにどうしてこんなに寂しいのだろう。もしかするとレオがいるからかもしれないと思った。

 

 休日は一人で家にいるのが好きなカオリだったが、レオの顔が浮かんできて落ちつかない。買い物でもしようと思いたって家を出た。こちらに来てから衣類を買ったことがない。レオとのデートに着ていくワンピースを買おうと開いている店を探して歩いていると、前から一組のカップルが歩いてきた。

 襟元の大きく開いた白のノースリーブに同色のパンツを合わせ、太い金のバングルをした手を背の高い男性の腕にからませている。明らかにブランド物とわかる高級品をまとったトースト色の肌はよく手入れされている人のそれだった。白いTシャツ姿の男性とお揃いの黒いマスクが妙にちぐはぐなのが気になった。ただものではないオーラをまとって二人がこちらに歩いてくる。見ては悪いような気がしてカオリは目を伏せて通り過ぎようとした。

「カオリ」

 親しげに呼びかけられた。驚いて顔をあげる。男性がマスクを外した。レオだった。カオリは言葉を忘れたまま横の女性に視線を移した。女性が応じるようにマスクを外す。美しい女性だった。年齢はカオリより少し上のようだが、きれいな卵形の顔にきれ長の目が印象的だった。レオが笑顔を浮かべて女性を見ている。いったい何者なのか。レオのこんなに優しい表情は見たことがない。カオリの中に黒い炎が燃え広がった。熱量たっぷりの視線で女性の頭の先から足元までをカオリは舐め回した。レオの声がした。

「これからママと買い物なんだ。カオリも一緒に行くかい」

 ママ……。カオリは愕然とした。取り繕うゆとりがないまま呆けたようにつっ立っていた。

「カオリは僕の日本語のセンセイだよ」

 レオの声に女性は笑顔でうなづくと、レオの腕に回していた手を離した。

「ママにはまだ言ってなかったけど、僕の恋人なんだ」

 そう言うとレオはいたずらっぽい目をカオリに向けてきた。カオリも釣られて微笑んだ。二人の間に流れる濃密な空気をかん高い声が断ち切る。

「何を言ってるの。馬鹿じゃないの。この人何歳。若く見えてるけど私と変わらないわよ。こんな年上の女性とつきあって何の得があるっていうの。それにこの年齢で子供を産めるの。無理よ。絶対にだめ」

 レオの母親は一気にまくしたてた。インドネシア語で地団駄を踏まんばかりに訴えている。さっきまで婉然とほほ笑んでいた女性の変貌ぶりにカオリは呆然とした。

「落ち着いてよ、ママ。僕はこの人が好きなんだ。僕たちは愛しあってる。年齢は関係ないだろ」

 レオがカオリに背を向けるようにして女性を諭している。カオリは完全にリングの外だ。レオが中国語で何か囁いた。女性がたじろぐ。一瞬は黙ったが再び機関銃のように中国語を発した。レオも激しく応酬する。カオリはいたたまれなくなってその場から走りだした。後ろでレオがカオリを呼ぶ声が聞こえたが振り返らなかった。みじめだ。悔しい。悲しい。

 追いついてくるものと思ったレオはとうとう来なかった。


 特別クラスの授業を終えて廊下を歩いていると後ろから走ってくる足音がした。床を叩くリズミカルな足音が誰なのか想像がついたが、カオリは振り返ることをしなかった。レオの母親がカオリに放った言葉の数々はカオリの心を深く抉り、四六時中カオリを苦しめている。

「カオリ、カオリ」

 敬称もつけずに自分を呼ぶレオの声にカオリは焦った。思わず周りを見渡すと止まった。レオが立ち塞がる。

「怒っているの。ママにはよく言っておいたから機嫌を直してよ。僕たちの問題だ。ママが何と言おうと関係ない」

 レオがカオリの肩に手をかける。二人の横を他のクラスの生徒たちが不審な顔をして通り過ぎていく。

レオの口から出るママと言う言葉にカオリは違和感を持った。レオには似合わない甘ったるい響きがある。改めてレオの母親の声が耳に蘇ってきて屈辱でカオリは顔が赤くなった。

「わかったわ。もういいでしょ。急いでるの」 

 そう言って行き過ぎようとしたカオリの前にレオが白い用紙を突き出す。

「これ」

 用紙は数枚あって隅をホチキスで留めてあった。見るとパワーポイントで作成したレポートだった。受け取らないわけにはいかない。表紙に仰々しく《冷却サイクルの効率的な電流数値の算出と分析》と太字で書かれた文字が躍っている。レオがインドネシア大学の工学部を卒業していたことを思いだした。卒業論文の日本語訳をチェックするのは講師の重要な仕事の一つだった。カオリは渋々レポートを受け取るとその場を離れた。

 スタッフルームに戻ってもカオリの心は曇ったままだった。最もショックだったのはレオの母親が一目で自分の年齢を見てとったことだ。どんなに若く見えても同性の目はごまかせないのだとカオリは今さらながらレオとの年齢差を思い知らされた。レオの母親が指摘したように妊娠することすら危ぶまれる年齢なのだと思うと女性としての自信が根底から揺るぎそうでカオリの心は沈んだ。椅子に座ると不安を払うようにファイルに挟んであったレオのレポートを取り出した。紙面いっぱいに文字が並んだ表紙をめくった時だった。

「何、どういうこと」

 思わず独り言を言っていた。レポートは白紙だった。正確には白い用紙の上の方に数行の文字があった。カオリはお世辞にも上手とは言えないその日本語を読んだ。

 神はすべてを時宜にかなうように造り、

 また、永遠を思う心を人に与えられる

   (コヘレトの言葉三章十一節)

 どうも聖書の一節らしい。幼い頃に洗礼を受けたとレオが言っていたことをカオリは思い出した。教会には行かない似非クリスチャンだと自分を揶揄していたことも。

 詩的な言葉だと思ったが、どう解釈していいのか解らない。カオリは大胆にも自己流に挑戦した。

 こうだ。年齢が離れていてもそれがなんだ。僕は永遠にカオリを愛する。無知というものは恐ろしく、かつ勁いものだ。地獄の底からはい上がるエネルギーが湧いてくる。一行空けて書かれた次の一節を読んだ時にはカオリは地獄の渕から見事這い上がっていた。

 神は天にいまし、あなたは地上にいる。

 カオリ、生まれてきてくれてありがとう。

 レオは誕生日を覚えてくれていた。プレゼントの代わりにバースデーカードをくれた。カオリの心はまたたく間に天高く舞い上がった。だが、その分着地も早かった。レオがこんな謙虚なことを思う筈がない。なにしろ天さえ自分のためにあると思っている男なのだ。だがそのレオがこうまで言ってくれているのだと思い直した。レオの母親のことなど取るに足らぬ気がした。それにプレゼントを買うにはお金がいるが、言葉はただだ。

 複雑な気持ちになりながらカオリはレポートをめくった。後の数枚は無聊をかこつように白々と光っていた。

 

 休日の昼間だというのにインターコンチネンタルのロビーは空いていた。

 カフェの窓から紺のBMWが見える位置に座るとカオリはカフェオレを注文する。十分ほどするとレオが入ってきた。

「ああ、喉が渇いた」

 カオリの飲んでいたカフェオレを見ながら言う。だがレオは後ろに控えていたボーイが差し出すメニューを押し返し首を振った。ボーイは黙って去っていく。

「喉が渇いてるんじゃなかったの」

 カオリの言葉にレオは笑いながらスポーツバッグの中から銀色に光るパックを取り出した。プロテインだった。袋の口を開けると一気に飲んだ。カオリは思わず顔が赤くなった。責めるように自分を見るカオリに気づいたのかレオが言った。

「せっかく汗を流しても、ここで甘いものを飲んだら何にもならないだろ」

 今までホテルの上にあるジムでトレーニングをしていたのだ。ということは昼食も食べないつもりか。待ち合わせの場所を指定してきたのはレオである。十二時という時間もそうだ。当然ホテルで昼食をとるものと思って朝も軽目に済ませてきた。カオリの心を読んだかのようにレオが言った。

「何か食べたの。僕はいいからカオリは食べれば」

 とたんにカオリの食欲は失せた。悪気がない。食べたくないから食べないのだ。わかっていても空腹が空しさに拍車をかける。

「いい。あまり空いてないから」

「そうなんだ。じゃあ行こうか」

 カオリの返事を待たずに立ち上がる。カオリは急いでテーブルの上の伝票をつかんだ。レオの後ろ姿を目で追いながらカオリはカフェオレの勘定をすませた。

 カフェ代のことに一言も触れようとはしないままレオは車をスタートさせた。自分が飲んだものではないから関係ないというレオの態度が心に引っ掛かったままカオリはシートに身を沈めた。

「ついたよ」

 見るとレオの家の前だった。

「どこへ行くの」

「見ればわかるだろ。僕の家」

 展開が早すぎる。心の準備というものがあるだろうとカオリはついキツイ口調になった。

「何のために」

「決まってるだろ」

 レオの笑いを含んだ声と顔でカオリはすぐに理解した。冗談じゃないと思った。邸にはあの母親がいるのだ。祖父と両親と妹、お手伝いさんに庭師などを含めて十数名が住んでいると聞いている。まるで伏魔殿ではないか。いくら広い邸かもしれないが、そんな所でまっ昼間からセックスなどできるものか。どうしてホテルで待ち合わせをしたのか。そのためのホテルではないのかと暗にカオリは言った。

「ホテル代がもったいないだろ」

 八万円のスニーカーを履く人間が眉を潜めて言う。レオとの間にジェネレーションギャップはさして感じないカオリだったがカルチャーギャップは相当なものだ。体一つで異国に渡って莫大な富を築きあげたレオはその末裔なのだとしみじみ思う。

 車の窓から見える空を斜めにバーが横切っているのが目に入った。ゲートの横に立った門番がこちらを見ている。カオリは黙ったまま前を見つめていた。ホテルでは切り出すことができなかった大事な話が残っていたが、今なら言えそうな気がした。

「もう会わない方がいいと思うの私たち」

 一瞬の間があってレオが聞いた。

「どうしたの、何かあった」

「自分の生徒とこんなことになるなんてどうかしていたのよ。だからもう連絡はしてこないで」

 諭すように言ったつもりだ。とたんに激しい言葉が返ってきた。だがカオリは中国語がわからない。さらに言い募るレオを残して逃げるように車の外に出た。これでいいのだ。どうせ未来のない関係だ。出口のない迷路なのだと言い聞かせながらカオリは歩いた。オジェクが通りかかって止まった。ドライバーがヘルメットを脱いだ。知っている顔がカオリの方を見て怪訝な顔をしている。自分は泣いているんだと思った。ドライバーが黙ってバイクの後ろを指さした。顔なじみのドライバーは黙ってカオリをコスの前まで運んでくれた。 

 

 午前中のリモート授業を終えるとカオリはキッチンに立った。出勤していたころは外食したり出前を頼んで好きな食べ物を配達して貰っていたが、最近は簡単なものなら自分で作るようにしている。悪戯メールのことが気になるのだ。いったい何の目的でメールをしてくるのかと考えると不気味だった。レオに言わせるとお金が目的だという。日本女性が強盗に襲われて亡くなったのはつい最近のことだ。だが一介の日本語講師にどれほどのお金があるというのか。

 冷蔵庫からチキンの胸肉を取り出した。ダイエットのこともあり最近はこればかりだ。ピーマンとトマトを加えて一緒に炒めているとドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

 カオリが返事をするとドアの外でフサコの声がした。開けるとドアのそばにフサコが蹲っている。

「カオリ、ここに塩を撒かないでっていってるだろ。床の色が変わるんだから」

 再三注意されてはいたが、ナメクジが入ってくるのだから仕方ない。越してきた当初はいちいち箸でつまんで少し離れた敷地に捨てに行っていたが、それも面倒だった。

「使用ずみのコーヒーの粉、あれなら大丈夫だから。あんたコーヒー飲むんでしょ」

「わかった。今度からそうする」

 で、何の用事ー―とカオリは目で催促した。せっかく作った料理が冷めてしまう。

「マスクを縫ったから。今からジャカルタに持っていってやろうと思ってね。もしかすると泊まってくるかもしれないから留守をお願いね」

 このところマスクを手に入れることが難しくなってきていた。どこの店にも置いていないのだ。フサコは裁縫が趣味で旧式のミシンで孫たちの服を縫ってはせっせと子供たちの元に運んでいる。マスクも縫ったのだろう。

「ジャカルタは移動制限が出てるでしょ。大丈夫なの」

「知り合いの車に乗っけてもらうことになってる。だめだったら引き返すよ」

「そう。でもどうして私なの。アプリラがいるじゃない」

 アプリラはフサコの家のお手伝いだ。広い敷地で一人で夜を過ごすのは心細い。

「田舎に帰ったよ」

「帰ったって。帰省したということ」

「やめさせたの。いつまで立っても満足に家事もできないんだから」

 まただ。カオリがここに来てからお手伝いさんが二人も変わっている。これで三人目だ。フサコは掃除も洗濯も料理も自分のやり方でやらなければ気がすまない。フサコが生まれ育った日本のやり方をインドネシアの田舎から出てきた少女のような年齢の女の子に踏襲させようとするのが無理なのだ。最初の契約ではカオリの部屋の掃除も洗濯もお手伝いがやってくれることになっていた。数回やってもらってその雑さにカオリは自分でやることにしたのだがフサコは嫌われても結果が出なくても諦めない。ある意味親切なのだが、毎日同じ小言を言われ続けるお手伝いを見ていると気の毒になってくる。お手伝いだけではない。家族にも同じことが言える。インドネシア人との間に生まれ、インドネシアで育った子供にも孫にも日本のやり方を強要する。フサコはクリスチャンだ。毎週日曜日に教会に行くこと。外で遊ぶ時は靴を履くこと。食べ物は手づかみで食べないこと。ムスリムの子供達の中で成長した子供や孫のやることがことごとく気に入らないのだ。口やかましい母や祖母のことがしだいに疎ましくなってくるのは世の常だ。子供たちは一家でフサコから逃げ出したーーというのは前にいたお手伝いから聞いた話だ。

「カオリの分も作っておいたから。はいこれ」 

 グレーにピンクの花柄の散っているマスクを二つくれた。口は煩いが親切なのだ。

「ありがとう。気をつけていってきてね。もし泊まるようならラインちょうだい」

 両手に大きなバッグを持って歩いていくフサコの後ろ姿を見て、カオリは不安になった。いくら気丈だからといって年齢が年齢だ。渋滞に巻き込まれると、そうでない時の方がまれなのだが、バンドゥンからジャカルタまで、六~七時間はかかる。その上途中の道路はトイレが極端に少ない。そのためにフサコは大人用の紙おむつを履いて乗り込むらしい。最初にその話をフサコから聞かされた時は驚くと同時に感動した。日本の女性にはない逞しさと強さを見たような気がした。 

 結婚のために船で海を渡ってきたフサコは、日本から持参した大量の生理用ナプキンがなくなった時、大きな喪失感に襲われたという。当時のインドネシアにナプキンという概念はなかった。夫を失っても子供達から疎んじられても周りから嫌われても、この国で生き抜いたフサコは立派だとカオリはオムツで膨らんだズボンが遠ざかっていくのを見送った。

  

 レオはあれから何も言ってこない。邸前のゲートでの諍いを思い出してカオリはなかなか寝つけないでいた。

 別れたいと言ったカオリに猛烈な勢いで中国語でまくしたてていたことを考えると相当怒っているに違いない。だがいずれ訪れる別れだ。年の離れたカップルは珍しくない。だが女の方が十三歳年上なんてうまくいくはずがない。自分だけの物差しで生きてきたレオにはそれがわからないのだ。一方ではお互い結婚を前提につきあってはいるわけではないのだから好きなら一緒にいてもいいではないかとも思った。生徒といっても語学学校だ。それにレオは二十三歳の立派な大人の男性だ。

 錯綜する自分の思いを持て余して何度も寝返りを打った。しばらくすると葛藤に疲れたカオリの耳が微かな音をとらえた。ネズミか。天井を見あげた。静かだった。方向からしてどうもドアの方から聞こえたような気がする。携帯の明かりを照明代わりにして起き上がると玄関に向かった。ドアに耳をつける。何も聞こえない。気のせいだったのかとベッドに潜り込むと目を閉じた。不審なメールのことが頭を過る。フサコのいない広い敷地に自分は今一人なのだと思うと恐ろしくて胸の動悸が速まる。再び物音がした。今度は窓の外からだ。隣にあるフサコの家の方角から鈍い金属音のようなものが聞こえてくる。足音を殺して窓辺に歩いていくとカーテンを少しずらした。辺りは闇に包まれている。だが音は闇の中で続いている。泥棒……。声が出そうになる。思わず口に手をあてた。咄嗟に窓のそばにたてかけてあった傘を握りしめる。体が硬直して動かない。このままやり過ごそう。盗るものを盗ったら引き上げてくれるだろう。混乱する頭でそう判断したが、隣家に侵入する前に賊がカオリの部屋のドアを開けようとしていたことを思い出した。次はここに戻ってくるかもしれない。そう思うと体が震えた。どうにかしなければ。カオリはスマホを持つと頭から布団を被った。

 助けて。家に誰かいる。ドロボーかも。

 焦って思うように文字が拾えない。ようやく打ち終えると送信した。音はさっきより大きくなっている。目を瞑り耳を押さえてカオリは助けを待った。

 どれほど時間が経ったのだろう、気がつくと音は消えていた。カオリはそっとベッドを脱け出した。動転して閉めるのを忘れていたカーテンの向こうがうっすらと明るい。閉めようと手をかけた時、窓に顔が映った。心臓が止まりそうになる。飛びのいた。脚がベッドの角にあたる。恐怖と痛みでカオリは絶叫した。絶叫しながら窓に映る顔を見た。レオだった。カオリは痛い脚をひきずって窓に走り鍵を開けた。

「しっ」

 レオが声を潜める。カオリは黙って隣の家を指した。そちらに向かって歩いていくレオの背中が緊張で強ばっている。

「待って。これ持っていって」

 窓の下に投げ出してあったフサコの剪定用の長バサミが目についた。先に刃がついている。格闘となったら武器になる。レオがいらないと首を振る。でも相手は泥棒だ。何をされるかわからない。カオリは意を決すると長バサミを手に玄関に走った。そうしている間にレオはフサコの家についた。すぐに家の裏側に回っていく。カオリが追いついた時にはレオの上半身は窓の中にあった。レオの下半身が闇を蹴り同時に怒声が響いた。カオリは必死で窓をよじ上ってレオに加勢しようとした。脚が窓の桟に届かない。

「レオ、レオ」

 夢中で名前を呼んだ。

「玄関に回れ」

 レオの声に混じって泣き声がする。女性の声だ。カオリに少しゆとりが戻った。言われる通りに玄関に走ると内から鍵を開ける音がした。レオが女性の腕をつかんで立っていた。女は泣きじゃくっている。

「アプリラ……」

 カオリはつぶやくと同時に膝から崩れ落ちた。

 項垂れるアプリラを促して家の中に引き返した。リビングのソファの上にポテトチップスの袋と飲みかけのペットボトルが散らばっている。テレビにはヒジャブがかかっていて白々と画面が光っていた。下に置かれた大きなバッグの口から中のものがはみ出している。

「どうしたのアプリラ。田舎に帰ったんじゃなかったの」

 首になったはずのお手伝いの女の子は下を向いたまま返事をしない。悪い娘ではない。だが驚くほど頑固なのだとフサコはいつもこぼしていた。ソフアに脚を組んで座っているレオのスニーカーが小刻みに揺れている。いらいらしている証拠だ。カオリは最後の手を遣うことにした。

「わかってる、アプリラ。他人の家に無断で忍び込むなんて泥棒と一緒なのよ」

 アプリラが脅えた目でカオリを見た。確か、まだ十六歳のはずだと思うと可哀想になった。アプリラの肩を抱いて耳元で優しく諭す。

「怒ってるんじゃないの。どうしてなのか理由を聞きたいだけ。悪いようにはしないから」 

 カオリの言葉に安心したのかアプリラが重い口を開いた。

 フサコに実家に帰るように言われてお金をもらった。一カ月分の給金に加えて雇い主の都合だからと相応の額を加えたものをもらった。生まれて初めて手にした大金に舞い上がったまま町に出た。バスはあるにはあったがいつものようには走っていない。出発まで時間があるのをいいことに開いていた店を探して美味しいものを食べて洋服も買った。土産も買った。時間になってバスの乗り場まで来た時に財布がなくなっていることに気がついた。落としたのか、盗まれたのかはわからない。お金がなくては家に帰ることができない。ホテルに泊まることもできない。フサコに頼るしかなかった。乗り場からここまでひたすら歩いた。だが帰ってみると家の中は真っ暗だ。隣人、カオリのことだが、起こそうとしたが返事はない。仕方なくフサコの家に戻った。鍵はなかったが裏手の窓のカギが壊れていることを知っていた。開け方のコツもわかっている。寝るだけのつもりがお腹が空いたので戸棚にあった菓子と冷蔵庫の飲み物を飲んだ。寝ていると突然、男の人が入ってきて怒鳴られた。腕をつかんで引っぱった。もの凄く怖かった。

 そこまで一気に話すとアブリラは泣き出した。よほど怖かったのだろう、肩が震えている。こんな小さな子供がと思うとフサコのドライさに腹がたった。どうしたらいいのだろうと考えているとレオが立ち上がった。

「帰る」

 白けた口調で言って行きかけるレオをカオリはあきれる思いで見た。アプリラも驚いたように顔を上げる。弱い人間、愚かな人間を馬鹿にする傾向があるのは知っていたが、ここは違うでしょとカオリは思った。カオリを助けるために空を飛んできたスーパーマンが一瞬にして悪の使者に早変わりする。二人のことなど目に入らないように歩いていくレオを見ているとカオリはどうしてもその背に一矢放ちたくなった。

「車じゃなかったの。靴が泥だらけだけど」

 レオが足を止めた。不思議なものを見るように自分の足元を見ている。

「うわっ、ひでえ。ラインを読んで気がついたら走ってたんだ」

 忌ま忌ましそうに言ったが、そのまま出て行ってしまった。

 いくら家から近いといって呼んだのがどうしてレオだったのか。他にも呼べば飛んできてくれそうな知り合いはいる。咄嗟にレオを呼んでしまった自分が癪だった。唇を噛んでいるカオリをアプリラが不安げに見ている。カオリは気を取り直してアプリラに向き直った。

「今夜はここで寝なさい。明日のバスで帰るといいわ。バス代は私が貸してあげる。都合ができたら返してくれればいいから」

 アプリラの濡れていた瞳に力が戻る。

 お金が返ってこないのはわかっている。バス代にいくらかプラスしてアプリラに渡してあげようとカオリは思った。困っている人、貧しい人にお金をあげるのはインドネシアではごく普通の行為だ。日常の生活の中に組み込まれていると言ってもいい。だが日本人のカオリはお金をあげることにどうしても抵抗があった。

「無くしたお金は戻ってこないわね」

 口の中でアプリラに言って聞かせるようにつぶやく。カオリの声が聞こえたのかアプリラは手で顔を覆って泣きだした。

 

 翌朝、バス乗り場までカオリは送っていった。バスが来てアプリラが乗り込み、すぐに窓に小さな顔が覗いた。カオリが手を振ってやるとアプリラは子供のように口角を下げた。泣いているのか笑っているのかわからないアーモンド色の顔にふとアジズの顔が重なる。生きていくのは大変だ……。心に浮かんだ思いを振り払うとカオリはバス停を後にした。

 コスに帰りつくとフサコからラインが入った。 

  昨日は連絡できなくてごめんなさい。嫁が親戚の結婚式のために実家に帰ります。留守の間、家事を手伝ってくれと皆が頼むので週末はこちらにいることにしました。火曜日には帰るつもりです。

 短文ながら息子や孫と過ごせる喜びがあふれている。アプリラのことを伝えようかどうか迷ったが、黙っていることにした。話の流れ次第でレオのことに触れなければならないかもしれずフサコに余計な詮索をされたくなかった。

わかりました。こちらのことは大丈夫だから、ゆっくりして来てください。

 送信するとベッドに入った。昨夜からの疲れと睡眠不足ですぐに眠りに落ちた。

 翌日は土曜日だった。

 ゆっくり寝ていたかったが、スピーカーから流れてくるアザーンの声でカオリは目を覚ました。

 授業は休みだが、リモートになってからデスクワークはかえって増えている。出掛けようと準備にかかったが、どうも気持ちが乗らない。なんとなく体が重いのだ。熱を計ってみたが平熱だった。コロナではないと安心すると少し元気が出た。レオのこと、アジズのこと、職場環境の変化などが一気に押し寄せたことで疲れが出たのかもしれないと思い、今日は一日家にいようとカオリは履いていたスカートをハーフパンツに替えた。

 再びベッドに潜りこんだがなかなか眠れない。仕方なく起きだすとアプリラを送っていった帰りに買っておいたパンを取り出した。コーヒーの香りが室内に満ちてくると同時に一昨夜のレオの顔が浮かんできた。あの時は腹が立ったのに笑いがこみあげてくる。自慢の靴が汚れているのを見た時の顔。あるフレーズが浮かんだ。鳩が豆鉄砲。そう、あれはまさしく鳩が豆鉄砲をくらった時の顔だ。生徒に教える時の例文にしてやろうかと考えながら舌の上に広がるモカジャバの苦みを甘い菓子が中和していくのを味わっていた。

 インドネシアに来た時はコーヒーもパンも口に合わなかったが、最近では気にならない。むしろ美味しいと思う自分がいる。同じことは夜明けに鳴り響くアザーンにも言えた。驚いて目を覚ましたのは最初の二~三日だけで後は夢うつつの中で子守歌代わりに聞いていられるまでになっている。

 レオの無礼な態度や言葉もいつか慣れる時が来るのだろうか。だとしたら別れを告げるのをもう少し待っても良かったのではないか。 未練だと自分を戒めながらそんなことを考えていると物音がした。一昨晩のことを思い出した。おそるおそる椅子から立ち上がると体を伸ばして音のする方に目を向けた。窓の外にレオが立っていた。髪の毛が邪魔をして顔が半分しか見えないが、ガラスに鼻をつけるようにして笑っている。カオリは少しの間、窓を凝視した。やはりレオだ。糸で操られた人形のような足取りでカオリは窓辺まで歩いていった。窓を開ける。強烈な太陽と一緒にレオが飛び込んできた。

 

 さっきまでカオリが眠っていたベッドにレオが大の字になって寝そべっている。足元に転がったスニーカーは汚れたままだ。何をどうしていいかわからない。カオリはとりあえずスニーカーを玄関に持っていくとコーヒーメーカーに手をかけた。

「コーヒー、飲むでしょ」

「いらない。コーヒーを飲みにきたわけじゃない」

 またこれだ。次にレオの口から出るであろう言葉の内容はわからないがカオリの意表をつくものだろうことは予想できる。

「カオリを抱きにきた」

 そう来たか。無駄な言葉を嫌う合理主義者の堂々たる宣言にカオリはなぜか嬉しくなる。けだるい体に新鮮なエネルギーが注入されたような気がした。カオリは平静を装ってベッドに近づいていった。

「レオ聞いて、教師と生徒なの私たち。だから」

 仰向きのままレオが横目でちらりとカオリを見る。

「学校はやめてきた」

 聞き間違いかと思った。

「僕はもうカオリの生徒ではない。カオリは僕のセンセイではない」「どうしてなの。どうしてやめちゃったの」 

 カオリはそれだけ言うのがやっとだった。

「カオリを抱きたいからに決まってるだろ。だから早くこっちにおいでよ」

 レオは起き上がると笑顔で自分の横のベッドを叩いた。

「そんなことで……。せっかく今まで勉強してきたのにもったいないと思わなかったの」

 叱るような口調になったが、少し遅れて申し訳ない気持ちが芽生えた。カオリの言葉をまともに受けて行動した教え子をどう受けとめればいいのか。

 レオの手が伸びてくる。振りほどこうかどうか迷う間もなくカオリは唇を塞がれた。 

 レオの若い体は飽くことを知らなかった。牡ライオンのように髪を振り乱してカオリの上で何度も果てた。獰猛なレオに組み伏せられてカオリも獣のように咆哮する。柔順な雌になったと思うと調教師のごとく牡を叱咤した。

 疲れ果てて自分の胸の中で眠るレオの寝顔を嬰児を見るようにカオリは見ていた。子供を生んだことがないが想像はできた。こんなにも愛しい存在がこの世の中にあったのだということをレオは教えてくれた。傷つけられてもわかりあえなくてもレオのそばにいようと心に決めた。求めることはいっさいしない。壊れることが目に見えていても、いや、それだからこそレオとの今を生きたいと思った。釣り合いや損得を計算した今までの恋がいかに浅薄であったかをレオを知って初めてわかった気がした。 

 ベッドに落ちる窓からの光が衰え始めた頃、レオはカオリの胸の谷間を脱けだした。キッチンに歩いていくのを疲れで朦朧とする目でカオリは追った。広い肩と大きく張った肩甲骨、盛り上がった臀部から続く二本の長い脚。筋肉に覆われた全身は、今にも敵に襲いかからんばかりの獰猛な力が漲っていて暑苦しいくらいだ。私の恋人はこんなにも若いのだと思うとカオリはため息をもらした。半分嬉しくて半分悲しかった。

「このパン食うよ」 

 パンをほおばりながらレオが言った。

「スニーカー、汚れちゃったね。洗ってあげようか。ドライヤーをあてればすぐ乾くよ」

 カオリの声にレオは玄関の靴に目をやった。

「いいよ。汚れきるまで履いたら洗濯のおばさんに洗ってもらうさ」「この間の晩はありがとうね。驚いたでしょ、寝てたわよね、もちろん。あんな時間だもの」 

 レオはテーブルの前の椅子にまたがるとペットボトルの水を飲んだ。

「悪戯メールの件があったからね。とうとうストーカーの奴、家にまで乗り込んできたのかと焦ったよ。車より走る方が早いと判断したんだ」

 嘘だ。気がつけば走っていたと言ったではないか。嘘はつけないのではなかったか。だが苦しまぎれの言い訳がカオリには可愛いくてならない。

「悪戯メールの相手だけど本当に心あたりはないの。僕は金目当てだと思うけどな。でなければつきあっている人とかいるんじゃないの。昔つきあってて別れた男とか」

「いない。つきあっていた人ならいたけど何年も前のことだし日本だし」

 ベッドに戻ってくるとカオリの顔に顔をくっつけるようにしてレオが笑った。笑ってはいるが目は真剣だ。

「怒らないから言ってみなよ。昔のことにいちいち焼き餅焼くなんてみっともないこと僕はしないから」

 これも嘘だ。現に本人にさえ心当たりのないカオリの架空の恋人に嫉妬しているではないか。合理的な現実主義者も嫉妬はするのだと思うとおかしかった。

「カオリの年齢で今まで誰もいなかったなんて僕が信じると思ってるの」

 本人が気にしていることを堂々とついてくるのがレオだ。

「だから言ってるでしょ。みんな昔の話なんだって」

 カオリの口調にレオが真顔に戻った。

「じゃあ、その人と僕どっちが上手だった」

 不安げな顔でカオリを見ている。吹き出したいのを堪えてカオリはレオの唇にキスをした。

「もちろんレオよ。決まってるじゃない」

 カオリの言葉にレオがベッドにひっくり返る。広げた手がカオリの尻に触れた。

「そっかあ。そうだよね」 

 無邪気に喜ぶレオを見てカオリは考えていたことを口にした。

「ねえ。もうすぐ私の誕生日なんだけど、どこか開いてるお店あるかしら」

 レオが起き上がる。顔付きが変わっていた。カオリは早くも後悔した。

「誕生日の何がめでたいのさ。プレゼントだ、食事だ。世間の奴らのやることは僕にはわからない」

「だって年に一回よ。好きな人と一緒にいたいと思わないのレオは」「好きな人といたいとは思うけどそれは別に誕生日でなくてもいいわけだろ。こうしているじゃないか」

 理屈ではそうだ。そうなのだけれども。

「プレゼントしたものがその人の好みに合わなかったらお金を捨てるようなものじゃないか。別にお金が惜しくて言ってないよ。もったいないだろ。カオリは何か欲しいの。欲しいものがあったら具体的に言って。買うよ」 

 そこまで言われて、はいそうですかと答える女はいない。いるとしたら金目当ての女だ。だが、なおもレオは言い募る。

「決めてるんだ。自分のお金は自分のためにしか遣わないって。施しとか寄付とか、そういうの好きになれない。偽善だろ」

 恋人へのプレゼントが施しなどであるものか。だが話してわかってくれる相手ではないことは痛いほど身にしみていた。

「日本に留学していた頃、僕が富豪の息子だとわかると女性たちがアリのように群がってきた。ティフアニー、ルイヴィトン、アルマーニ、ドルチェ&ガッパーナ、ブランドの名前はみんな女性たちに教わった。最初はモテてるんだって舞い上がったさ。言われるままに買ってあげた。でもある日、わかったんだ。この女性たちは僕が好きなんじゃない。僕が持っているお金が好きなんだって。プレゼントするのは気が進まないけど、カオリと一緒に遣う分にはいいよ」 

 最後の方は機嫌をとるような言い方だった。家訓か何か知らないが馬鹿にするなと思った。レオがつきあった女性と、その程度の女性と一緒にされたくはなかった。だが抗議すればするほど自分が惨めになるだけなのはわかっていた。たった今誓ったではないか。レオのそばにいられるだけでいい。見返りは求めないと。 

 カオリは懸命に心を立て直そうとしたが、レオの興味は既に他に移っていた。カオリを抱き寄せる。

「明日から日本だ。しばらく会えなくなるから今のうちに貯金しとこう」

 急に言われてカオリは驚いた。このコロナ渦になぜ渡航。しかも日本。無謀ではないのか。出国しても入国できるのか。口から出かかったカオリの疑問や質問を封じるようにレオが脚をからませてくる。乳房にレオの手がかかり息が顔にかかる。混乱する心を戻そうとするかのようにカオリの体が跳ねる。


 翌日もカオリはレオと一緒に過ごした。お腹がすいたらピザやナシゴレンを注文してオジェックに届けてもらった。ドライバーがインターホンを鳴らすとレオが玄関に取りにいく。馴染みのドライバーたちは一瞬レオを見て驚く。カオリが後から出ていって、こう言うのだ。

「今日から一緒に住むことになったからよろしくね」

 悪戯メールの犯人がもしオジェックのドライバーだとしたら男と暮らす女性に手だしはしてこないだろうからと二人で相談してお芝居をしたのだ。インドネシアの人々は女性に貞操を求める。結婚もしないで男女が一緒に住むことは彼らの常識からして考えられない。驚きと軽蔑の混じった顔をしてドライバーたちが帰ると悪戯に成功した子供のように二人で手を叩いて喜んだ。

「見ててごらん。後一年もしたらこの国はベビーブームになるから」 コトの続きのようにベッドの中でレオが言った。

「どういうこと」

「外に出歩くなと言われた連中が家ですることと言ったら決まってるじゃないか」

 新型コロナ肺炎が騒がれだした頃、夜の営みは危険だと騒がれていたことを思い出した。講師たちとそんな風評を笑い飛ばしていたカオリだった。どう答えていいかわからず黙っていると再びレオの手が伸びてくるのだった。 

 このまま時間が止まってくれたらどんなにいいだろうとレオの腕の中で何度も願いながら夜を迎えた。

 明日はどうしても学校に出なければならない。明後日にはフサコが帰ってくる。それを思うと今夜のうちにどうしても聞いておきたいことがカオリにはあった。干渉を嫌うレオがいい顔をしないのはわかっていたが機会は今しかない。

「どうしても日本に行かなければないの」

「変なこと聞くね。必要がないことを僕がするわけないだろ」

「だって空港についても検疫とか色々あるんでしょ。例えPCR検査が陰性だとしても二週間も外と接触できないのなら仕事にならないじゃない」

 レオに一番利く言葉を遣ってカオリはなんとか日本行きを引きとめようとした。

「準備していた事業をいったんリセットするんだ。ビルの賃料とか入社するはずだったスタッフの保障とか僕がいかなければ始まらない。コロナだからって地球は動いてるんだ」

 実業家の顔になったレオが言う。それでなくてもとらえどころのないレオだ。ビジネスの話になるとカオリの手の届かない所へいってしまう。カオリの知らない顔になる。だがカオリは追及の手をゆるめなかった。

「どんな事業なの」

「カオリに説明してもわからないよ」

「そんなこと言わないで教えてくれたらいいじゃない。私だって広告代理店に勤めるキャリアウーマンだったんだから」

 カオリを抱き寄せるとレオは渋々話し始めた。

「富裕層にターゲットを絞った旅行会社だったんだけど新しく別会社を作ろうと思って準備してたんだ。東南アジアの富裕層は別荘を数軒持っている人も珍しくない。僕のところは三軒だけど顧客リストに載っている人はたいていそうさ。その人達を会員にして別荘をシェアするビジネスを展開するんだ。個人では荷が重いプライベートジェットも共有で持てばそれほど負担にはならない。日本は観光客に人気があるし本社を置くとしてもコスパがいいんだ」

 なるほど。言っている意味はカオリにも理解できたが富裕層と言う言葉が出たとたんに思考がストップする。

「カオリはいつか日本に帰るの」

 唐突なレオの質問にカオリは言葉に詰まった。漠然と考えないことはないが真剣に考えたことはない。いつでもその気になれば帰ることができるからだろう。

「たぶんね」

 曖昧な答えしか返せない自分がカオリは情けなかった。

「やっぱり日本がいいんだ」

 それもわからない。私は日本が好きなのだろうか。

「帰りたいところがあるのはいいことだよ」

 レオはなにげなく言ったのだろうがカオリは傷ついた。今は一緒にいてもいずれ道は別れる。暗にそう言っているのだ。だがわかっているのと言葉にされるのとは違う。

「レオにもあるじゃない。大きな邸と立派なご両親のいる国が」

 落胆を隠そうとして探しだした言葉がそれだった。

「どうなんだろ、わからないや。わからないということはないのと一緒じゃないのかな。インドネシアでも中国でも日本でもいいわけだろ」

 レオの言葉を聞いてカオリはフサコを思い出した。嫌がる子供にみそ汁を飲ませ、今でも腰の手術をしにわざわざ日本に帰国するフサコが骨を埋めたいのはインドネシアなのかそれとも日本か。レオは子供の頃に親戚のいる中国で一時暮らしたことがあると聞いている。長じてからは留学やビジネスのために日本とインドネシアを頻繁に往来していた。

「僕の祖父は中国人なのに堂々と中国語を話せなかっんだ。どうしてだかわかる。華僑とインドネシア人の間で色々あって、華人文化禁止令って言うのが出されて中国語を公共の場所や教育の現場で遣ってはいけないという時代があったんだ。華僑の子としてはインドネシア大好きとは簡単にはならないわけさ。まあ昔の話だけどね。今はお互い適当に距離を置いてやってるんじゃないの」

 中国人なのに中国語が遣えない。もし自分がそうなら辛いだろうなとカオリは思った。言葉が心の発露であるならば常に心に蓋をして生活をしなければならないのだ。レオの他を寄せ付けない偏狭さはそうしたルーツにも関係しているのかもしれないとカオリは考えた。

「もういいだろ。僕は僕のやりたいようにやるよ。国も社会もいざとなったら守ってくれないさ。結局恃むのは自分と金、こんな時だからこそ次のビジネスの手を打っておきたいんだ。他人と一緒のことをしている臆病者に金は集まってこない」

 他人という中にはもちろんカオリも含まれているのだ。悲しくて寂しくて、だが言えなくてカオリはレオの胸に顔を埋めるしかなかった。

 翌朝、次に会う約束もないままレオは部屋を出た。まるでカオリのことなど眼中にないように前だけを見て歩いていくレオの姿をコスの窓からカオリは眺めていた。今にもスコールが来そうな空だった。だがレオの行く道の先だけはなぜか輝いて見えた。カオリはそれが怖かった。このままカオリを置いて知らない世界へレオが旅立っていこうとしているように思えた。それがレオなのだと言ってしまえばそれまでだが、この三日間の心と体の歓びはカオリを臆病にした。

「レオッ」

 気がつけばカオリは叫んでいた。レオが振り向く。

「いってらっしゃい」

 あたりさわりのないことしか言えなかった。レオが手を振っている。

「好きよ」

 声にならない言葉をカオリが口の中で転がすとレオが手を口に持っていった。

「僕もカオリが好き」


 ジャカルタから帰ってくると疲れたのかフサコはその日一日顔を見せなかった。翌日心配したカオリは出勤前に実家から送ってきたカップ入りのみそ汁を持ってフサコを訪ねた。声をかけたが返事がない。家に入るとカオリの顔を見てフサコはベッドから起きだしてきた。

「ああ、これこれ。こっちのスーパーでも売ってるけどどこか日本のと味が違うんだよねえ。悪いけどお湯を沸かしてくれる」

 言いながらカップのセロファンを剥がしている。この分なら大丈夫だろうとカオリは安心した。

「何か変わったことはなかったかい」

「別に。どうだった、久しぶりにお孫さんに会ったんでしょ。楽しかった」

 返事を濁してカオリは逆に尋ねた。

「どうもこうも。相変わらずこっちが何か言っても返事もしない。来てくれと言うから行ってやったのに甲斐のない話だよ」

 何度も聞かされている愚痴だった。カオリは不自然に聞こえないように注意して言った。

「変なことを聞くけどフサコさん日本に帰ろうと思ったことはないの」

 フサコが不思議なものを見るようにカオリを見た。

「どうなんだかねえ。全然思わなかったと言えば言えるし、ずっと考えてたような気もするしね。私らくらい長くなると感覚がマヒしちゃうんだよ。別に日本を懐かしいと思うこともないけど今度のようなやっかいごとが起こるとちらっと頭を過るね。手術するなら日本だとか、コロナにかかるんだったら日本がいいなとか。結局いくつになっても人間、生まれた国を信頼しているのかねえ」

「根っこは日本にあるということ」

「それもちょっと違うね。インドネシアに住んでる方がずっと長いんだもの。強いて言えば強く引っ張ったらスポンと抜けてしまいそうな根で地面にしがみついているというか。なに、カオリは急に里心がついたのかい」

「そういうんじゃないんだけど、ちょっと聞いてみたかっただけ。私は出掛けるけど食事はどうする。自分で作れる」

「平気だよ。食べたら元気になった。あんたのお母さんが送ってくれた乾物があるし野菜も前の畑にいやというほどあるから」

 そう言ってフサコはカップの底のみそ汁を音を立てて啜った。


 出勤するとジェフリーとブディが廊下で立ち話をしていた。カオリを見るとブディが手招きをする。二人の顔付きからしていい話でないと思いながら側に寄っていった。

「この間、徳島の食品工場に送り出した僕のクラスの技能実習生がいなくなったんです。心当たりを探しているんですが、見つからない。センセイのクラスの生徒たちから何か聞いてませんか」

 他のクラスの、まして日本に行ってからの生徒の動向などカオリが知るはずはない。

「一人だけですか。一緒に就職した生徒達が何か聞いてるんじゃないですか」

「それが」 

 口ごもるブディの横でジェフリーが言った。

「八名です」

 数を聞いて驚くカオリにブディが口を開いた。目はジェフリーの方を見ている。

「十名のうちの八名ですよ。よほどの事情があって逃げ出したに決まってるじゃないですか。だから僕は言ったんです。その会社もしかしてブラックじゃないですかって」

 ジェフリーが腕を組んでなにやら考え事をしている。このコロナ渦の中、いったいどこに消えてしまったのか。日本語の拙い外国人を受け入れてくれるところがあるとは思えない。あるとしたらろくなところではない。実習生たちの日本での就職先のことをしっかりと調べないで派遣してしまうことが過去に何度かあった。仕事を通して技能を修習するという建前の元に安い賃金で朝から晩まで休みなくこき使う企業も中にはあるのだ。困るのは派遣された者たちだ。異国の劣悪な環境に耐えきれず契約期間を終えるのを待たず脱走してしまう事件が社会問題になっている。カオリの勤める会社は親会社が一部上場会社ということもあり良心的な方だった。

 笑顔で日本に発っていった生徒たちの顔を思い出し、カオリは怒りを覚えた。

「とりあえず私の方でも日本にいる生徒たちに片っ端から聞いてみます。何かあってからでは遅いですものね」

 脅しのような言葉を遣ってカオリはその場を後にした。今までの経験から言って見つかるケースの方が少ない。

 深い考えもなしにこの学校に職を得たが、一人の人間の人生を預かることに喜びと同時に怖さを感じるようになった。カオリは両者の間で天秤のように揺れていた。このところ天秤は後者に傾いている。

 自分が把握している範囲の教え子たちにメールを送り終えると、仕事をする気力が萎えていた。

 誰もいない窓の外を見るともなく見た。風もないのに樹木が揺れている。揺れはしだいに大きくなってくる。地震かと思って机の端をつかんだ。目の前が一瞬で暗くなったが直ぐに戻った。貧血だ。前にも同じことが何度かあった。このところ体調が優れない。倦怠感にコロナを疑ってみたが、コロナ特有の症状はない。以前なら平気なことが体に堪えるようになっている。 

 家に帰るのが面倒になって昼食を終えるとカオリはそのまま会社のパソコンの前に座った。リモート授業になってから体力の消耗が激しい。二十人の生徒に対して講師はカオリ一人だ。生徒達は五人に一台のスマホを前に授業に臨むが、生徒も講師も教室での授業のようには集中力が持続しない。講師たちの間から悲鳴があがって一時間授業に短縮することにしたのだが、その分授業のコマ数は増える。アプリの様々な機能を駆使しての授業は準備も大変だった。大学を卒業したばかりのような若い講師なら巧みに使いこなせるが、カオリには負担だった。年齢を痛感することが多くなったことがカオリの心に少なからず影響を与えていた。

 質問する生徒の声が途切れ画面がフリーズする度にカオリは何度もため息をついた。今までなら疲れたら自習をさせるというテがあったが、一時間という短いリモート授業ではそれもできない。

 生徒達の顔が画面から消えた時、カオリは立ち上がれないほど疲れていた。疲れてはいたが授業中ずっと気にかかっていたことを確認するために急いでメールを確認する。行方不明になった学生達の所在を知らせるメールは誰からも入ってなかった。

 帰り際にトイレに立ち寄った。シスカが頭に被っていたヒジャブを脱いで顔を拭いている。鏡に向かって目礼をするとカオリはマスクをとった。向こうから声をかけてきた。

「センセイ大丈夫ですか。顔色が良くないです」

 言われて改めて鏡を見る。確かにむくんだ顔をしていた。

「どうなるのでしょうか、私たち」

 突然話題が変わるのはいつものことだ。何がという顔でカオリは問いかけた。

「ケイエイですよ。センセイならシャチョーから何か聞いてるんじゃないですか」

 ヒジャブを取った幼さの残る顔でカオリを見ている。カオリが黙っていると曇った顔を突き出してきた。

「コロナでどんどん日本での働き口がなくなっていると聞いてます。学生達が行く会社あるんですか。大丈夫ですか、この学校」

 誰もが口に出さないだけで不安に思っていることを単刀直入に聞いてきた。返事に困ったカオリはどちらにでもとれるように曖昧な笑顔でうなづいた。

「私とても困ります。家族います。夫、子供、夫の両親」

 カオリの前でわざとらしく指を折った。まるであなたは独身だからいいだろうと言われているようでカオリは面白くなかった。無視してトイレに入る。すぐにドアを開ける音がして静かになった。

 ころあいを見計らってトイレから出た。そんなにひどい顔色をしているのだろうかと鏡に顔を近づけたとたんに、胃にむかつきを覚えた。食べたものが悪かったのだろうかと洗面器に顔を埋めグェッと怪鳥のような声を出してみた。喉から出たのは唾だけだ。気のせいだと安心して視線を鏡に戻した顔が蒼白になった。生理がまだこない……。予定日は過ぎているはずだ。妊娠という二文字が恐怖と一緒にこみあげてきた。

 酩酊状態のような足つきでカオリは校門を出た。レオとベッドを共にしたのは数えるほどだ。しかも避妊をしなかったのは最初の一度だけだった。いや、妊娠しているとまだ決まったわけではない。一刻も早く確かめたかった。コスの近所にドラッグストアはない。わざわざ遠回りをしてカオリはショッピングセンターのある場所を目指してタクシーに乗った。ドライバーの荒っぽい運転は生きた心地がしなかった。出てくる脂汗を拭おうともせずひたすら吐き気に耐えた。それからのことはよく覚えていない。センターのトイレの中に駆け込むと探し回ってようやくみつけた妊娠検査薬の箱を開けた。スティックの先にかかるように注意して排尿する。終わるとその姿勢のままスティックを目の高さにかざした。凝視する。しばらく待ったが変化はない。ほっと安堵した時だった。スティックの真ん中に+のマークが少しずつ浮かびあがってきた。うめき声が漏れる。ドアの外が騒がしくなった。とにかくここを出なければとカオリは震える指で使用済みのスティックを箱に戻しバッグに入れた。 

 トイレを出ると誰も座っていないベンチが目に入った。とにかく座ろう。心を鎮めるのだ。カオリはそちらに歩いていった。しばらく座っていたが、前をマスクをした女性が通り過ぎた。自分の顔に手を当ててみてマスクをしていないことに気づく。トイレの中で落としたのだろうか、予備のマスクがあることを思い出してバッグをまさぐった。妊娠検査薬の箱のピンク色が目に飛び込んでくる。周りに誰もいないことを確認すると箱を取り出し中からスティックをつまみ出した。+のマークはさっきより濃くなっていた。

 コスの前まで辿りつくと門の中でフサコが自転車を漕いでいるのにいきあった。今は顔を合わせたくない。カオリは門の影に身を潜めるようにしてフサコの日課が終わるのを待った。ギコギコギコ。車輪の回る音を聞きながらスマホを取り出した。画面にレオの名前が浮かびあがる。指が逡巡する。触れては離れ離れては触わる。心は指以上に葛藤していた。レオだ。あのレオだ。そう思うと怖ろしくなる。平凡なことでも突拍子もないリアクションが返ってくる男だ。カオリが妊娠したと聞いたら、その父親が自分だと知ったら想像を絶する応えが返ってくるに違いない。それを聞いて耐えられるだけの自信は今のカオリにはなかった。ギコギコギコギコギコギコ。いったいいつまで続けるつもりだ。カオリは心の中でフサコに八つ当たりをした。スマホをバッグの中に放りこむとカオリは歩きだした。自転車を漕ぐ音が止む。

「お疲れさん。ヒジキを炊いたけど持っていくかい」

 ヒジキと聞いたとたんに胃がむかついた。

「ごめん。ヒジキはあまり好きじゃないの。お休みなさい」

 そう言い訳をするとカオリは部屋に駆け込んだ。


 スコールが降った日の午後。晴れわたった空を見てカオリは外の空気を吸ってみようと思いたちコスを出た。あれ以来レオから連絡はない。日本に行くと言っていたからバンドゥンにいないのかもしれないと思いながら、一日に何度もスマホを確認する。そんな毎日が続くと次第に気が滅入ってくる。

 スコールが上がった後の街は埃だらけの道路や建物が雨で洗われ、そこに太陽が射して街ごと輝いて見えた。空気までもが美味しく感じられる。塞ぎ込んでいた心が少しマシになる気がして足が軽くなった。気がつけばダゴパカールまで来ていた。もう少し行けばレオの邸だ。なんだか恐くなってきて引き返そうかと思ったが思い直した。このまま邸街のゲートまで歩いて行こう。レオに会えるかもしれない。会えない確率の方が高いが、もし会えたら妊娠のことを打ち明けるのだとカオリは自分に言い聞かせた。

 道の先にゲートが見えてきた。門番もいる。丁度ゲートの遮断器バーがあがって中から車が走ってきた。バーの下をスピードを落としたままくぐり抜けるとカオリのいる方に向かってきた。レオの車かどうかはわからない。何台も所有しているからだ。カオリは車から自分の姿が見えるように道の真ん中に躍り出た。クラクションとともに車はカオリのすぐ横を通り過ぎた。よく磨きこまれた窓の向こうに顔が見えた。横顔の美しい女性だった。

 肩を落としてカオリはその場を離れた。

 いったい自分はなぜここにいるんだろう。日本を離れた異国の地に何を求めてやってきたのだろう。十三歳も年下の男の子供を身ごもるためか。カオリはおもいっきり自分を嘲笑してやりたくなった。

 スコールが道のあちらこちらに水たまりを作っている。水たまりを避けるようにカオリは進んでいった。ふと前方に大きな黒い鉄の塊が見えた。よく見ると手押し車だった。錆びついた車輪の上に木製の蓋のついた四角い箱が据え付けられている。ゴミ拾いの車だ。中年の男女がそれぞれ手に大きな袋を持って車の方に歩いてきた。男の方が蓋に手をかけた。すると開いた箱の中から子供が出てきた。まだ幼児といっていいくらいの少年が笑いながら地面に飛び降りる。転げそうになる少年に母親とおぼしき女性が手を貸してやった。父親が母親の手からゴミで膨れた袋をとると自分の袋と一緒に箱の中に投げ入れる。一家は大きな声でしゃべりながらカオリの前を歩いていく。スキップをしながら歩いていた少年が水たまりに足を突っ込んで小さく叫んだ。裸足だった。両親は少年にかまわず歩いていく。イブ、イブと母親を呼びながら少年が二人に駆け寄る。歩くたびに全身がこんがり灼けた少年の足裏が白く輝くのをカオリは目で追っていた。道の向こうに一家の姿が消えた時、カオリの心は決まっていた。

「産もう」

 自分に言い聞かせるようにカオリは声に出した。カオリの内から沸きあがった衝動ともとれる思いは、ずっと前から決まっていたことのようでもあった。曖昧だが確固たる意志に裏打ちされていることにカオリは自分でも驚いた。カオリの人生の中でこれほど揺るぎのない決断をしたことはなかった。これまでのカオリはいつも、どんな時でも揺れていた。細胞のひとつひとつが産まれたばかりのように瑞々しく蘇る気がした。

 カオリは一家の消えた方角へと歩いていった。

 次第に人通りが多くなってくる。目の前を走り去る車、手をつないで歩くカップル、コーヒーの屋台、店先のバナナ、あらゆるものが愛しくてならない。その事実にカオリは陶然とした。すると不思議な変化がカオリの内に起きた。レオの存在が少しばかり遠のいたのだ。熱が失せたのではない。レオはカオリにとって唯一無二の存在だという思いは変わらない。確かにレオは奇妙な人間だ。だがそれはカオリの価値観を基準としたものだ。角を矯めて牛を殺さず。レオはレオのままでいい。レオに栫は必要ない。むやみに立ち入るとレオはレオでなくなる。そう気づいたことがレオへの執着を薄めたのだ。

 自分の心を試すようにカオリは空を見上げた。底の抜けたような水色の空に半透明の雲が浮かんでいる。空を流れるあの雲の流れに乗って自分はこの地に辿りついたのではないかとカオリは思った。遠くで赤ん坊の泣く声がしていた。

 歩き疲れた時、タクシーが通りかかった。カオリが手をあげると数メートル行き過ぎたところで止まった。ドライバーは前を向いたまましきりに話しかけてくる。マスクをしていないドライバーの唾液が社内に飛散してカオリの顔に飛んでくるようで苛立った。返事をしないでいるとわざとらしくスピードを速める。道路が陥没している所に差しかかると無意識に腹をかばった。この国の乗り物は危険なのだと気づいて一刻も早く降りたくなった。

「ここで降ります」

 ダゴポジョックに入るとカオリはドライバーに言った。 

 タクシーを降りると歩き出した。黒い大きなマスクをした女性とすれ違う。レオの母親の顔が頭を過った。思い出したくない顔だった。頭に浮かぶ度に苦労して追い払っていたその顔に向かってカオリは嘯いた。

 ご心配をかけましたが、あなたの大切な息子さんの子供を身ごもりました。

 端正な顔を歪めて憎々しげにこちらを睨むレオの母の幻と別れを告げてカオリは歩き続けた。

 歩きながら前から来る人やカオリを追い抜いて行く人を点検していく。どの顔にもマスクはない。学校ではスタッフや学生達のほとんどがマスクをしているが、街を行く人の半分くらいはマスクをしていない。今まではさほど気にならなかったことに敏感になっている自分に半ばあきれながらカオリは逃げ込むように家に帰り着いた。

 何事にもおおらかなこの国の人達がカオリは好きだ。陽気で素朴で少しだけ天然な愛すべき生徒達だから今までやってこれたのだと思っている。だがコロナのことに関しては少し楽天的すぎないか。

 カオリはネットニュースで報じられる世界各国のコロナの感染状況を見ながら案じていた。今はまだ感染者数は少ないが、いずれヨーロッパやアメリカのように広まるだろうし第二波、三波も来るだろう。マスクをせずに悠然と街を歩く人々の危機感のなさがいつか結果となって現れた時のことを想像すると暗澹とする。医療体制が万全とは言えないこともカオリの危機感を煽る。この国にいずれベビーブームが来ると予想したのはレオだが、カオリはこの国をコロナが席巻する時のことを想像するのだ。

 夏休み終盤になって急いで宿題にとりかかる娘をからかって《尻に火がつく》と母がよく言っていたのを思い出した。おちおちしてはいられないのだとカオリは画面を覗き込みながら腹を撫でた。パソコンの横にレオの残していったプロテインがあるのを見つけた。デリバリーのランチが不味いと昼食代わりに飲んでいたものだ。どんな味がするのだろう。封を開けて試しに一口飲んでみた。思わずティッシュに吐き出す。

 パソコンを消すと少しでも不安を洗い流すことができそうな気がしてシャワーを浴びた。迸る生ぬるい湯に打たれながら体をつぶさに点検していく。乳房が心なしか張っているようだ。乳首を取り囲むうす青い血管は元々あったものだろうか。妊娠検査薬は初期の場合には万全ではないと知って、あれから何度も検査をしてみたが結果はいつも同じだった。

 シャワールームの外でラインの着信音がした。レオかもしれない。今までなら飛びつくようにしてスマホに走ったが、カオリはわざと丁寧に体を洗った。

 タオルを使いながらカオリは自分の考えたことをもう一度なぞっていった。

 ラインの送り主はレオでない方がいい。いずれレオには妊娠のことを告げなければならない。だがまだ少し先でもいいような気がする。確かにレオはお腹の中の子の生物学上の父親だ。だが生殺与奪の権利はレオにはない。ライオンの牡はテリトリー、プライドというらしいが、プライドを他のライオンから奪うために子供を殺すこともあるという。いくらレオでもそれはないだろうが、妊娠を告げられた時のレオの言葉を想像すると怖い。妄想上のレオがカオリに言うのだ。

「僕がいつカオリに妊娠してくれと頼んだ」

「僕の子供かどうかどうしてわかるの」

「結婚するつもりもないのにカオリは産むの」 

極めつけは、「僕のお金が目的なの」 

 どの言葉もレオの言いそうな言葉でレオの口から絶対に聞きたくない言葉だ。これから産まれてくる生命への冒涜の言葉だ。子供の輝かしい未来を黒く染める暗雲だ。例え本人が知ることはなくても生まれる前に父親からそんな言葉をかけられた子供が幸せになれるはずがない。カオリの取り越し苦労かもしれない。だが相手はレオだ。うかうかと近づくことは危険だ。カオリが傷つくのはいい。自ら選んだことだ。だが赤ん坊を道連れにして進入禁止エリアに飛び込む覚悟はない。レオを愛している。だから産むのだ。だが自分を正義だと信じ、他人の思いをはかる術を知らないレオだ。悪意のないことはわかっている。悪意がないから厄介なのだ。だから時間がいる。どれだけの時が必要なのかはわからない。だが今はまだその時ではない。 

 嗅覚にも似た思いに没頭しながらカオリはドライヤーで念入りに髪の毛を乾かした。

 シャワールームを出るとおそるおそるスマホを開けた。ラインはブディからだった。 

  明日、一時から会議です。

 いつもより文章が短く素っ気ないのが気になった。迷ったあげく、了解とだけ打つ。

 ベッドにもぐり込んだ。 

 妊娠のこと、会社のこと、自分の身辺があわただしく動きだすのを感じながらカオリは闇を見つめていた。決めなければならないこと、行動しなければならないことがやまほどある。それも早急にだ。優先順位の一位は無事に赤ん坊を出産すること。お腹の中で赤ん坊が今も育っていることを考えたら急がなければならない。でないとコロナ渦の異国で大きな腹を抱えた女が一人で暮らすことになるのだ。決めるのは今しかない。

「今、そこにある危機なんだよねえ」

 テレビで観た昔の映画の題名をわざと陽気につぶやくとカオリの頭の中がどうにか整理された。

 リスクと思われるものを一つ一つピックアップしていく。それらを乗り越えるには少しだけ勇気が必要だが、躊躇するつもりはない。武者震いにも似た興奮にベッドを脱け出すとカオリはノートを取りにいった。やらなければならないことを書き出していく。大仕事だと思ったことは、たったの数行で収まった。


 オジェックがなかなか来なくて会議に出るのが遅れた。部屋に入ると講師とスタッフ、全員が仲良く俯いている。異様な感じに呑まれているカオリを見て時任が空いている椅子を示した。

「やはりコロナが落ち着くまで新規の募集はいったん中止にした方がいいんじゃないですか」

 ブディが時任の方を見て言った。時任は腕を組んだまま黙っている。

「コロナはいずれ収束しますよ。その時になって生徒を募ってどうするんですか。遅いですよ。その間のブランクをブディセンセイは考えてるの。学校だって営利事業なんだよ」 

 ジェフリーだ。時任の顔色を伺っている。

「社員以外の講師は休むということにしたらいいんじゃないですか。その間の経費が節約できる」

 デデンの意見に座が騒がしくなる。

「センセイは自分が社員だからそんなことが言えるんです」

 カオリの知らない顔だが、確か一カ月ほど前に入社した非常勤のインドネシア女性だ。

 全員で意見を戦わせて最後に総括をするのが時任のいつものやり方だった。意見を参考にはするが反映させることは滅多にない。カオリは黙って聞いていた。これから自分がしようとしていることを考えれば口を出すのがはばかられた。半時間ほど経過しただろうか、ようやく時任が口を開いた。

「教育と派遣の二本の柱があってこその我が社だ。残念だが派遣の方は今開店休業の状態だ。このご時勢に海外から社員を雇う企業はないに等しいからな。だからこそもう一本の柱を大切にしなければならない。今までどおり新入生の募集はかける。ただしリモートメインで授業をしよう。規定の授業時間を消化しようとすれば当然コマ数が増える。デメリットをメリットに変えるんだ。入学案内にはこう謳え。万全な準備体勢ときめ細かな配慮で将来の即戦力を養う。ただし講師陣はこのままの布陣で行く。だから気を抜くなよ。生徒達からクレームが出たセンセイは即やめてもらう」

 時任の言葉が静まりかえった部屋に流れていくのをカオリは他人事のように聞いていた。

 それだけ言うと時任は足早に部屋を出ていった。ブディが自分の方を見ているのがわかったが、カオリはトイレに行くフリをして席を立った。

「社長」

 カオリの声に時任が振り向く。

「退職したいのですが」

 用件だけを言った。時任は単刀直入を好むのだ。

「いつ」

 顔色を変えないで時任は聞いた。わざとだろう、時計に目をやる。「いつでもいいのでそちらの都合で決めてもらってかまいません。できるだけ早い方がいいのはいいのですけど」

 カオリの言葉に時任は初めて表情を緩めた。

「わかった。時期や引き継ぎの件はジェフリーと決めてくれるかな。まあ、こんな時期だから仕方ないか」

 肩を叩くと時任は踵を返した。早くもシャツのポケットからスマホを取り出している。

「ジェフリーか。カオリセンセイがね」

 時任の声が遠ざかっていく。最後まで退職の理由を聞かれなかったことにカオリは少なからず傷ついた。聞かれても正直に答えるつもりもなかったことを思うと鬱憤がいくらか晴れた。

 疲れていた。

 一人になりたくてひたすら廊下を歩いた。

 静かだった。だが今にも廊下の角から生徒が飛び出してきそうな気がする。教室に学生が座っているような錯覚に陥る。誰もいないはずの食堂からランチの匂いがしてくるようでカオリの足は自然に食堂に向いていた。初めてきた時と同じ窓際の席に座った。窓の外は無人だったが、樹木はあの時と同じ赤い花をつけている。

「結構ハードだったな」

 赴任してきてからの二年を思うとひとりでに言葉がついて出た。すぐに別のカオリが苦笑する。お前が甘かっただけではないかと。その通りだと同意する。

 アジズはどうしているだろう。日本に渡った生徒達は皆元気で働いているだろうか。彼らとともに過ごした日々がかけがえのないものだったことにカオリは気づいた。だが一方ではこれで良かったのかという疑問も沸く。

 慚愧も後悔も全てを糧にして新しい人生を始めるのだ。今までのように逃げることも投げ出すことも諦めることも、もうできないのだとカオリは自分に言って聞かせた。

「センセイ、ここにいたのですか」

 突然の声に驚いて振り向いた。ブディが立っていた。

「急にいなくなったから心配してました。ずっと顔色悪いです。大丈夫ですか」

 言いながら前に座った。この人がいなければ自分はやってこれなかっただろうと思うとカオリは胸が熱くなった。インドネシア語も満足にしゃべれなくて同僚の講師たちとの軋轢に悩んでいたカオリに温かい手を差し伸べてくれた。生徒への接し方から現地で生活する知恵までいつも的確なアドバイスをくれた。残念ながら好意には応えることができなかったが、彼がいなかったらカオリの心はとっくに折れていただろう。

「センセイこの頃少しおかしいです。僕にできることなら言ってください。相談に乗ります」

 笑いを含んだブディの声にはカオリの心をときほぐす優しさがあった。今の今まで迷っていたことがふっ切れる。退職の意志を打ち明けるのだ。

「社長には言ったんですけど、学校をやめようと思って」

 ブディの笑顔が固まる。一瞬瞑った目を大きく見開くとまっすぐにカオリを見る。

「どうしてですか。どうしてやめるのですか。コロナだからですか」 畳みかけるように聞いてくるブディの剣幕に動揺しないではなかったが、覚悟はできていた。

「それもあります。でもセンセイには本当のことを言います」

 カオリのことをこれほど案じてくれているブディに嘘はつけない。カオリは大きく息を吸った。

「子供が産まれるんです。だから日本に帰ります。日本で産みたいんです」

 ブディはキツネにつままれたようにカオリの顔をしばらく見つめていたが、両肘をテーブルにつくと頭を抱えた。何やら口の中でブツブツ言っている。カオリは言葉を失ったままブディの頭頂部を見ていた。ブディが急に頭を上げる。恐ろしい形相だった。

「センセイは結婚していないじゃありませんか。いきなり赤ん坊なんておかしいです」  

 ブディの悲壮な顔付きにカオリは思い出した。インドネシアは未婚の男女が外で手をつなぐのさえ許されない国だということを。

「わかってます。でも日本ではそういうのもアリなんです」

 アリではない。アルだけだ。そして自分はその数少ない一人になるのだ。だがここで倫理観や人の道を論じてみても始まらない。そもそも文化が違うのだからとカオリは口を噤んだ。

「相手の男性は日本人ですか」

 カオリは答えに窮した。だが言ってはならないと警鐘が鳴る。

「言えません。言いたくないんです。でもムスリムではないからそれだけは安心してください」 

 ブディが俯いた。膝に置いた手が震えている。沈黙が続き、ブディがようやく言葉を絞り出した。

「わかりました。僕にできることがあったら何でも言ってください。僕はいつでもセンセイの味方です」 

 少しの間があった。

「最後まで」

 いつもの優しいブディに戻って言った。カオリは深く頭を下げる。

 問題はフサコだ。カオリが日本に帰ると言ったら寂しがるに違いない。

 熱心なクリスチャンであるフサコは毎週必ず日曜日に礼拝に行く。帰国することを告げるには少しでも機嫌のいい日曜日がいいだろうと思った。

 

 家に入ろうと鍵を探しているフサコにカオリは声をかけた。コーヒーが入ったところだと言って自分の部屋に招き入れる。

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

 カオリが日本に戻ることにしたと伝えると、さして驚くこともせずコーヒーに砂糖を何杯も入れながらフサコが言った。どうしてわかったのか。拍子抜けするくらいサバサバしているのがなんだか面白くない。

「どうしてわかったの」

「わかるよ。何年ここでコスをやっていると思ってるんだい。下は十八歳の大学生から上は六十七歳の爺さんまで、色んな日本人がやってきては去っていったよ。顔を見てたらわかるんだ。もうそろそろだなって」

「そうなんだ。私、そんな顔してた」

「してた、してた。心ここにあらずって顔だったもの」

 カオリはフサコの鋭さに舌を巻く思いだった。動物的といってもいいほどの勘だ。

「帰る理由は聞かないの」

「理由ねえ。自分探しから定年後の第二の人生まで、理由なんて言い出したらきりがない。要は里心だね。なんやかや言ったって日本がいいんだよ。日本人だもの。ここは人生の立ち寄り先みたいなもんだよ」

 そう言ってフサコは乾いた目で部屋の中を見回している。フサコの割り切り方が眩しかった。異国で生きて異国で骨を埋めるということはこういうことなのだとカオリは腑に落ちた。話の流れ次第で打ち明けようと決めていた妊娠のことは黙っていることにした。フサコにとってはカオリはいつかは去っていく旅人なのだ。気持ちよく別れていこうと思った。

「それより大丈夫なのかい。帰れるの。飛行機は飛んでるの。ジャカルタまでどうやって行くんだい。移動制限が出てるだろうに」

 感傷に浸っていたカオリをフサコが現実に引き戻してくれた。

 フサコが部屋を出ていくとカオリはスマホを手にとった。呼び出し音が聞こえるだけで誰も電話口に出ない。まさかツーリストまで休業しているのかと焦った時、ようやく通じた。

「エアチケットの件でご相談したいことがありまして」

カオリは思わず早口になった。

「はい、ありがとうございます。どのような件でしょう」

「日本に帰るのですけど飛行機は飛んでますか。チケットを手配してもらいたいのですが」 

「とれないことはないんですが、ご希望の日時とか便とかはちょっと難しいかもです。どんどん減便になってますので」

何度も同じような質問を受けているのだろう、電話口の男性は暗唱するように一気に答えた。

「でも飛んでることは飛んでるんですよね、飛行機」

「今は火曜日と金曜日の週に二便だけです。そのうちどうなるかはわかりませんが。観光客はもちろんですが、駐在員もどんどん日本に引き上げていきましたからね。乗る人がいなくなったら航空会社だって採算を考えますから。機内はもうガラガラですよ。余裕で横になって帰れます」

 男性が笑っているのがわかった。悪気はないのだろうが気分が良くない。国内は移動制限が出ているが、帰国ができないことはないだろうとタカをくくっていた。だが飛行機が飛ばなければ帰れないのだ。

「わかりました。日程が決まりしだい連絡します」

 電話を切ろうとすると真剣な声が追いかけてきた。

「チケットはとれても搭乗手続きが終わるまで安心はできませんよ。ロビーにいたらこれこれの便は欠航になりますというアナウンスが結構流れてますからね」

 やばい……。カオリは誰にともなくつぶやいた。大きなお腹を抱えて病院に走る自分の姿を想像する。もしコロナにかかったら。もし難産だったら。もし生まれてくる赤ん坊が病気になったら。もし収入がなくなったら。

 だめだ。やはり日本だ。日本で出産するのだ。その時になってカオリは自分がどれほど日本という国を信頼しているのかよくわかった。たとえ不慮の事故が起こって赤ん坊やカオリが命を落とすようなことがあっても日本なら諦めがつくとさえ思った。

 時計を見た。 

 日曜の午後は家にいるはずだとすぐに母親に電話をした。

 何回めかの呼び出し音で母の美奈子が出た。

「ああ、もう何やってんのよ。ここでおしっこしたらあかんって言ってるやろ、プリン」  

 電話に出たのはいいが飼猫のプリンに話しかけている。美奈子らしいと苦笑しながらカオリは待った。

「ごめんごめん。どうしたん。びっくりするやんか。ラインしてもろくに返してけえへんあんたが」

 いつもならすぐに喧嘩になってしまう母親のきつい大阪弁が涙が出そうなほど懐かしかった。カオリはインドネシアでは標準語で通していた。仕事柄ということもあるが、日本語が話せる講師たちでも大阪弁だと理解できない場合があるからだ。

「わかったわ。母の日に何もプレゼントしてくれへんかったもんな。ええで気を遣ってくれんでもお金を遣ってくれたら」

 美奈子のセンスのないジョークにつっこむ気にもなれない。

「そっちは大丈夫なんか。日本もまあまあ増えてるから心配してたとこや」

 美奈子の話はいつも主語がない。何のことかわかるのは長年の慣れだ。コロナが心配だからと帰国するように度々ラインが入っていた。心配性の母親に戻ったところでカオリは切り出した。

「日本に帰ろかなと思てんねん。かめへんかな」

 いくら実家だとはいえ三十六歳の女がいったん出た実家に戻るというのだ。お伺いを立てるのが筋というものだろう。久しぶりに遣う大阪弁に唇がこそばゆい。

「そんなこと言うてる暇があったらはよ帰っといで。あんたがそっちでコロナになっても、うちはよう看病にいかんで。あんたかてそうやろ。うちがコロナにかかったらどうするつもり。親の死に目にあわれへんねんで。それでもええんか」

 日本に帰る理由はコロナだけではないのだが、勝手に解釈して自分の着地点に持っていくのも美奈子の得意技だ。今回はかえってそれが都合いい。

「わかった。なるべく早く帰ることにするわ。決まったらまた連絡します。ほんならね」

 電話の向こうでこらっ、プリンと美奈子の声がして通話が切れた。祖父が一人で住んでいた家を借家にしてそこからあがる少しの家賃と八年前に亡くなった夫の孝雄の遺族年金で生計をたてている美奈子がプリンを飼い始めたのはカオリが実家を出てすぐの頃だった。カオリが帰ることで美奈子の寂しさが解消するのだと思うことにした。ただしお腹の中の子供まで歓迎してくれるかどうかは話が別だ。いずれ直面する修羅場を思うとカオリはとたんに憂鬱になった。

 

 レオのこと、妊娠のこと、プライベートにかまけていたカオリだったが、学校側から指示された授業を消化していく間にもコロナの感染者は増え続けていた。

 リモートで生徒達に別れを告げた日、カオリはスカルノ・ハッタ空港から関西空港までの翌々日の飛行機のチケットの手配を済ませた。あまり先のチケットをとってしまうと、便が欠航する恐れがあるからだ。後は飛行機が欠航をしないことを祈るばかりだが、もう一つ大きな問題が残されていた。道路が封鎖されているため国内各地からジャカルタまでの通行不能という記事が新聞に連日報道されていた。当然公共交通機関はストップしている。アンコットやバスも同様だ。タクシーやオジェックで走るには遠すぎるし途中で検問にひっかかったらアウトだ。カオリは自分の迂闊さに頭を抱えた。

 ネットで日本大使館の電話番号を調べると電話をかけた。

「日本国大使館です」

 けだるそうな女性の声がした。

「バンドゥンで働いている者なんですけど、明後日の飛行機で日本に帰りたいのですが大丈夫でしょうか」

「大丈夫なんじゃないですか。飛行機が飛んでいるんなら」

そっけない返事が返ってきた。カオリの読みに間違いはなかった。

「私が聞きたいのはそういうことではなくて、バンドゥンからスカルノ・ハッタ空港のあるジャカルタまで行けるのかどうかなんですが。通行が規制されていますよね」

「それは我々に聞かれても困ります。インドネシア政府の管轄ですから」

 どこか他人事だ。カオリはなおも食い下がった。

「こんな危機の時に日本人の安全を守るのが大使館の人達の役目じゃないんですか」

「そんなことを言われてもねえ。わからないものはわからないですものねえ」

 優柔不断は日本人の得意芸だ。相手は女性だ。カオリは賭けにでることにした。

「妊娠してるんです。もうすぐ産まれるんです。実はちょっとトラブルがあって、こちらのドクターには出産は日本でと言われてるんです。なんとかなりませんか」

 妊娠以外は皆嘘だった。言っていて額に汗が噴き出てきたが、背に腹は代えられないと言い聞かせる。少しの間があって女性が口を開いた。

「わかりました。スラットを発行します。それを車の窓に貼って走行してください。絶対とは言えませんが多分大丈夫でしょう。ただしバンドゥンナンバーの車はだめですよ。ジャカルタナンバーでないと」

 お大事にという言葉を残して電話は切られた。カオリは真っ黒になったスマホの画面をしばらく惚けたように見ていたが、すぐに正気に戻った。ジャカルタナンバーの車とドライバー……。カオリは滴り落ちる額の汗を拭いた。

 

 車がない。ドライバーもいない。カオリは頭を抱えこんだ。少しの間距離をおくと決めたことも忘れて最初に脳裏を過ったのはレオだった。お腹の中の父親なのだから当然と言えば当然なのだが、すぐにカオリは恋人の顔を黒く塗り潰した。カオリの中の何かが、そちらに近づくなと叫んだ。レオは相当に面倒くさい人間だ。同じ言葉で話すことができない。自分の心を理解してもらうにはもう時間がない。そもそもカオリがレオの子を身ごもっていることさえ知らないのだ。途方もない時間と労力を必要とする難事業をやり遂げる気力も時間も今のカオリにはなかった。それにレオが今どこにいるのかさえカオリは知らされていない。日本に行くと言ったきり連絡が途絶えているのだ。

 順番がまずかったのだ。最初にバンドゥンからジャカルタまでの足を確保してからチケットを手配するべきだった。どんな仕事もソツなくこなしてきた自分の初歩的なミスにカオリは頭をかきむしりたい思いがした。それだけ平常心を欠いていたのだと思うと心細くなる。いったんチケットをキャンセルするしかないかと覚悟しかけた時、ブディの顔が浮かんだ。思わず声が出た。天啓のような気がした。カオリが学校をやめると言った時のブディの言葉を思いだす。《できることがあれば言って下さい。僕は最後までセンセイの味方です》 そうだブディなら協力してくれるかもしれない。時計を見た。電話やラインで頼めることではない。もしかしたら学校にいるかもしれない。会って直接事情を話して頼んでみよう。そう決めた時にはもう立ち上がっていた。外出の準備ももどかしくカオリは部屋を飛び出した。

 

 ブディは果たして車を出してくれるだろうか。ブディのカオリに対する好意につけいるようで廊下を歩いていても足が重い。もし断られたらと思うと動悸もする。開け放った窓から風が花の匂いを運んできた。食堂の窓から見える赤い花……。あの花の名前を知らないまま、この国を去ろうとしている自分に後ろめたさを感じながらカオリは進んだ。

 スタッフルームのドアを開けるとブディがいた。パソコンに向けた目をカオリに転じた。

「忘れものですか」

 カオリは黙ってブディに近づいていった。

「今いいですか。センセイに相談したいことがあって」

 ブディは窓際に置いてあった小さな応接セットを指さした。

「何か飲み物を注文しますか」

 カオリが椅子に座るとブディは席を立ってきた。手に紙コップを持っている。コーヒーを飲んでいたのだ。

「いいえ。突然ごめんなさい。すぐに帰りますから」

「僕ならいつでも歓迎です。気にしないでください。それより急用ですか。センセイ、顔が怖いです」

 カオリの緊張をほぐすようにブディが笑う。

「センセイ、明後日とか予定入ってますよね」 

 ブディは一瞬とまどった表情になったが、黙って自分の席に戻っていく。

「午前に授業が一コマ。午後はそのまま残ってレポートの採点をするつもりです」

 それが何かという風に手元の手帳に目を落としたままカオリの次の言葉を待っている。カオリは腹に力を入れると一気に話した。

「明後日の飛行機がとれたんです。それだと多分欠航にはならないだろうと言われたもんだから。でもスカルノ・ハッタ空港まで行くアシがないんです。公共の乗り物は全部ストップしてるし州をまたいでの移動はできないし」

「じゃあ無理じゃないですか」

「そうなんです。無理なんです。それで私、大使館に電話してみたんです。そうしたら大使館がスラットを発行してくれることになったんです。それを車の窓に貼って走れって。バンドゥンナンバーの車だとまずいらしいんですが」

「バンドゥンからジャカルタですからね。州をまたいで移動するなとなってるんだからまずいでしょう」

「見つかったらね。でもスラットがありますから」

 ブディは腕を組んで考え込んでいる。カオリは椅子から立ち上がった。

「学校の車ってジャカルタナンバーですよね。なんとか一日だけ貸してもらえないでしょうか。もちろん無料でとは言いません。高速道路の料金もガソリン代も払いますから」

 突然ブディが声を出して笑った。

「わかりました。センセイはこう言ってるんですね。学校の車を借りて僕にスカルノ・ハッタ空港まで運転していけと」

 カオリは顔が赤くなった。自分の身勝手さが恥ずかしかった。

「いいでしょう。行きましょう。センセイとセンセイのお腹にいる赤ん坊のためです」

 張りつめていた神経が緩んでカオリは椅子に尻を落とした。


 カオリが学校につくと授業を終えたブディが門の前で待っていた。マスクをしているのを見てカオリは安心した。長時間密室で二人きりになるのだ。たとえブディだろうと油断はできない。ブディはカオリの姿を認めると駐車場の方を指さして先に歩いていく。カオリはブディの後におとなしく従った。いつもなら講師の出退勤用に使われる社用車だが、今はコロナ渦の中で里帰りする学生の送迎用に使われている。それだけに調達が難しいのではと案じていたが、ブディが頑張ってくれたのだろう。

「ドライバーが休暇をとっていて一台車が空いていました。ラッキーでした」

 カオリの心を読んだかのように言うとブディは車のドアを開けてくれた。優しさに思わず涙ぐみそうになる。カオリはバッグの中から一枚の紙を取り出した。昨日大使館から送られてきたスラットだ。A4用紙に、

 《この日本人一名を速やかに国外に出すこと》 

 とインドネシア語で書かれていて大使館の発行印もある。持参してきたテープで、破れないように注意しながら運転席のフロントガラスの隅に外から見えるように貼った。カオリが助手席に乗り込むのを待ってブディが車をスタートさせた。 

 人影のない中庭を別れを惜しむように車はゆっくりと進んでいく。かつては学生達のおしゃべりや笑い声にあふれていた敷地は太陽にいためつけられた草原のように白茶けた光を抱いていた。

 コロナは世界中の誰もが予想しなかった凶事だった。富める者から貧しき者、老いたる人から生まれたばかりの子供たち、男性、女性。地球を一嘗めしたコロナウイルスは、誰の上にも多かれ少なかれ影を落としている。

 通りに出ると前を見ながらブディが言った。

「一般道はまあこんなものでしょう。問題は高速道路に入ってからです。何時間かかるか行ってみなければわかりません。もし辛くなったら早い目に教えてください」

 カオリの体を気遣ってくれているのだ。渋滞とまではいかないが車は結構走っている。道の両側の店は半分くらいは開いていたが、人がいない。

「私は大丈夫です。それよりセンセイお腹空いてませんか」

 昼までにまだ時間はあったが、朝食を食べていないということもありうる。

「フサコさんが持たせてくれたおにぎりがあるんです。ジャカルタに着くまで何時間かかるかわからないし開いてるお店がなかったら困るだろうと今朝届けてくれたんです。センセイおにぎりは嫌いですか」

 カオリは言いながらバッグの中から包みを取り出した。まだ温かい。前を見たままブディが答えた。

「後で食べます。僕のおにぎり初体験は、カオリセンセイのでした。家で作ってきたからと大きな梅干しが入ったのをくれました」

「そうやった。思い出したわ。センセイ飛び上がってたもんね。酸っぱい酸っぱいって」

 その時のブディの様子を思い出すとおかしくて思わず大阪弁が飛び出した。少し心が楽になる。

 冗談を言い合っていると車はいつのまにかチプララン高速道の入り口にさしかかっていた。二人とも黙りこんで前方に目を凝らした。速度を落としてゲートに近づいていく。料金所だ。ブディが係の男性に料金を払っているのをカオリは祈るような気持ちで見ていた。いざとなれば鼻薬でもとブディは言うがそんな簡単なものではないだろう。

 料金を受け取った係員は、片手で待てと合図をした。カオリの心臓の鼓動が速くなる。係員は車の前に回ってくると窓に貼ってあるスラットに目を近づけた。それから車のナンバーを一瞥すると助手席に座っているカオリに視線を移す。カオリと目が合った。このスラットにある日本人とはお前のことかという風に男は指をカオリとスラットの間で往き来させた。カオリはそのたびに何度もうなづいた。ようやく係員が車の行く方向に向かって手を振った。

 これがあのチプララン高速道路かと疑いたくなるほど道は閑散としていた。カオリたちの車線は前に一台軽自動車が走っているだけで反対車線から走ってくる車も数えるほどだ。ブディはカーラジオから聞こえてくる音楽に合わせて上機嫌で歌っている。あっけないほど簡単にゲートを通過できたのだ。それにいつもなら牛歩のような速度しか出せない渋滞の名所を結構なスピードで走行しているのだ。気持ちよくないはずはない。だがカオリはブディほど無邪気に喜べなかった。道はまだ始まったばかりなのだ。料金所はここだけではない。どこかで検問にひっかかるはずだ。それも一か所とは限らない。ブディにそう言おうとしたが、せっかくの気分を台なしにすることはないとカオリは黙って窓の外を見ていた。 

 道の両側には工事中の建物が延々と続いている。鉄骨だったりテントで覆われていたりとほとんが工事の途中だ。人はいるのだろうがその気配がない。カオリはこの国の伸びしろを見たようで嬉しくなった。いずれカオリが教えた学生達がこれらのビルの中で働くのだと思うと自分のことのように誇らしくなった。

 無機質な風景に囲まれて無機質なコンクリートの道を走っているとまるで地球上に自分たちしかいないような錯覚に陥ってくる。ラジオから聞こえてくる音声だけがカオリたちを現実につなぎとめていた。突然、ブディの声がラジオから流れていたインドネシア民謡に割って入った。

「ほら、カラワンです」

 見ると生活の匂いが感じられる建物群が見えていた。話には聞いていたが日本人のために作られた町だ。工場や高層アパートが並んでいる。カオリたちの会社の派遣部門の一つもここにあると聞いていた。

「センセイはまだ行ったことないんでしたね。あのビルの裏に美味しい居酒屋さんがあります。ここで働く日本人のたまり場になっていて、出し巻たまご僕も食べました」

 ブディが自慢するように言った。

「そうなんですか。行ってみたかったな」

「もっと早くに教えてあげれば一緒に行けたのに残念です」

 悲しそうに言うブディにカオリはつい口が滑りそうになる。今度ねと。私とブディに今度はないのだと思い唇を噛んだ。

「カオリセンセイに話しておかなければならないことがあります」

 いつのまにかラジオの音が止んでいた。神妙な声音にカオリは思わずブディの顔を見た。今になっていったいどんな話があるというのだ。それにブディの顔つき。どう見てもいい話ではなさそうだ。カオリは黙ったままブディの言葉を待った。

「センセイに謝らなければなりません。僕はいけないことをしました。罪を犯しました」

 罪という言葉にカオリは動揺した。この心優しいブディが私に何をしたというのか。親切にされこそすれ悪いことなどされた覚えはない。

「センセイのことが好きでした。でも僕は臆病者です。卑怯者です。断られるのが怖かったのです。でも諦めることできません。センセイと僕のキズナがほしかったのです。だから、だから僕は」

 車体が大きく横にそれた。隣の車線につっこみそうになったが、寸前のところで車は元に戻った。

「ごめんなさい」

 隣で低い声がした。恐怖で硬まったカオリの体は緩んだが緊張は続いている。 

 ブディの言う《罪》の輪郭がおぼろげに見えたのだ。とうとうわからずじまいだった悪戯メールの送り主。もしカオリの想像に間違いがないならば……。だがたとえ、そうだとしてもこの二年、自分に優しく接してくれた。そして今、自分のためにこうして車を走らせてくれている善意の人を糾弾して何になろう。ブディに自らの罪を告白させてはならないとカオリは咄嗟に決めた。

「罪と罰。センセイ、ペナルティはもう払ってもらってますよ。ほらこうして走ってもらってるんだから、お釣りをあげたいくらいですもん」 

 カオリはわざと明るい声を出した。

「ずっと謝らなければと思っていました。だからセンセイから空港まで送ってほしいと頼まれた時、最後のチャンスだと思ったのです。でないと僕のセンセイへの気持ちが嘘になってしまう」 

 ブディの声が車内の湿度を少しばかり高くした。ブディを好きと言えたらどんなに良かっただろう。人生は思うようにはならないものだ。

 カオリは瞼を閉じた。レオの顔が網膜いっぱいに広がる。どこでどうしているのだろう。バンドゥンから離れていけばいくほどレオを思う気持ちが強くなっていくことにカオリはかなり前から気づいていた。まるで自分の肉体の一部を千切りながら前進しているような感覚だった。この中にレオがいるのだと自分の腹を撫でさすることでカオリは心の痛みをどうにか宥めていた。 

 横目でブディを見ながら手は無意識に腹をかばっていることにカオリは気づいた。ブディの心の揺れが車の走行に出ている。もうこの話はここまでにしよう、そのためには休憩を入れた方がいい。そう判断した時、折良く前方にスターバックスの看板が見えた。

「次のサービスエリアでとめてもらっていいですか。トイレに寄りたいので」

「そうですね。気がつかなくてごめんなさい」

 ブディは申し訳なさそうにそう言うとスピードを緩めることなく車を広大な駐車場に滑りこませた。停まっている車も人もほとんどいない。

 スターバックスの入り口は電気が消えて半分シャッターが下りている。ブディがカオリを残してどこかへ消えた。男性はこんな時に便利だが、女性はそうもいかない。カオリがシャッターを潜って中に入るとカウンターの向こうで若い男性が洗い物をしていた。公けに商売はしていないが、請われればコーヒーくらいは出すのかもしれない。

「コーヒーとカフェオレ。どちらもアイスでお願いします」 

 試しに言ってみると気持ちよい返事が返ってきた。

「すみません。トイレ借りてもいいですか」

 言うより早いか、男性がわかっているという風に店の奥を指さした。

 両手に紙コップを持ってカオリが広い駐車場を歩いていくと目の前を赤茶色の大きな猫が横切った。口に何かを銜えている。目を凝らすと大きなネズミだった。まだ四肢が動いている。この環境でも変わりなく働いているのだと思うと笑ってしまう。コロナになって食料は増えたのかそうでないのか猫に聞いてみたい気がした。自分に近寄ってくる気配を察したのか猫はカオリを一瞥したが、あわてる様子もなく悠々と歩いていく。その様子は獲物を銜えて草原を行くライオンのように力強かった。武器を持たなければ戦えない、道具がなければ生きていくことさえできない、お前たちの時代はもう終わったのだと言っている風にも見えた。

 紙コップで両手の塞がったカオリを見てブディが助手席のドアを開けてくれる。マスクを取ると二人でフサコの作ってくれたおにぎりを黙々と食べた。カオリはおにぎりの中に入っていた梅干しをわざとブディの顔の前に持っていった。ブディがとんでもないという顔で首を振り、二人して笑った。空腹が満たされると心も和む。いつのまにかブディから沈鬱な表情が消えていた。 

 車は再び走り出す。チプララン高速道が終わりチカンベック高速道の入り口にさしかかった。ブディとカオリは同時に声を飲んだ。今までのゲートとは明らかに雰囲気が違っている。これが新聞に載っていた首都境界線の検問所なのかもしれない。そう思った時、料金所の中から制服を来た男性が飛び出してきて車の前に立ち塞がった。とうとう検問にひっかかったのだ。今度のは手ごわそうだ。運転席側に駆け寄ってくると窓を乱暴に叩いた。血相が変わっている。ここで引き返せと言われたら飛行機に間に合わない。ブディがインドネシア語で男性に何か言っているが早口なのでよく聞き取れない。

「スラット、スラット」

 カオリもスラットが貼ってあるフロントガラスを指さして叫んだ。男性は聞こえないのかしきりに手のひらを下に向けている。窓を開けるように言っているのだ。ブディが言われた通りにするとまだ半分くらいしか開いていない窓から男性の怒鳴り声が雪崩れこんできた。何を言っているのかわからない。ブディが車のエンジンを切る。男性が道の片側の崖に向かって走り出す。仲間の警備員を呼びに行くのだ。

「トイレに行きたいそうです。大きい方だから帰るまでここで待ってろと言ってます」

 笑いを含んだ声でブディが説明してくれた。カオリは呆れもしたが吹き出した。

「先に仕事をすませてからじゃだめだったんですか。すぐに終わるんだから」

「待てなかったんでしょうね」

 律義さといい加減さがミックスしているのがなんともおかしい。係の男性はなかなか帰ってこなかった。笑いあった後の沈黙はなんとも気まずい。カオリは助手席のドアを開けると外に出た。硬くなった体をほぐそうと両手を広げて深呼吸をする。膝を曲げて屈伸運動をするカオリを車内からブディが見ている。見られていることを意識すると動きがぎこちなくなる。カオリは助手席に戻るとバッグを取り出した。ブディから見えないように車の後ろに回る。マスクをとると息苦しさから解放された。化粧ポーチから鏡を取り出して顔を直す。生徒達からプレゼントされたブレスレットを外し消毒薬を腕から手首、指にかけて念入りにスプレーをした。すべて終わってポーチのチヤックをしめたところで係員がようやく戻ってきた。急いでマスクをするとカオリは車内に戻った。係員はちらっと窓のスラットに目を走らせたが、料金を受け取るとすぐに建物の中に消えた。

 相変わらず道は空いていた。

「あれって検問だったんですか」

 カオリは後方を指さしながらブディに質問した。

「さあ、どうなんでしょう。聞いてみようとしたのですが、こちらから聞くのも催促してるみたいでしょ」

「そうですね。私たち違反してますよって言ってるみたいですものね」

 カオリは難関を突破した受験生のような晴れ晴れとした気持ちになった。弾んだ声が出る。

「この分だと予定よりかなり早く到着しそうですね」

「持ってますね、センセイ」

 ブディの言葉に笑顔で応えてバックミラーを見ると、カオリたちの車の後ろを猛スピードで追ってくる車が目に入った。

「センセイ。後ろ」

 カオリが言うより早く気がついていたらしくブディもしきりにバックミラーを気にしている。

「仕方ない」

 忌ま忌ましそうに言うとブディはアクセルを踏みこんだ。前のめりになった。腹をかばうようにダッシュボードに手をついた。もし捕まったらと思うとカオリは走れ、もっと走れと心の中でブディに檄を飛ばした。後ろの車もスピードを上げる。どこまでも追ってくるつもりだ。だが、どうして。カオリたちの車はジャカルタナンバーだ。咎められる筋合いはない。バンドゥン方面からきたから州をまたいだと判断されたのか。そう思いついてカオリは他の車はどうなのかと周りを見た。走っている車が一台もないことに気づく。道路はとっくに封鎖されていたのか。いやそんなはずはない。現にこうした走っているではないか。

 どちらにしてももう終わりだ。ブディにまで迷惑をかけることはできないとカオリは判断した。

「止まりましょう。これ以上は危険です」

 カオリの声にブディが速度を落とした。徐行しながらゆっくりと側道に入った。後続車が鼻先をカオリたちの車の尻につける。すぐにドアが開いて中から男が一人飛び出してきた。男の顔を見てブディとカオリは同時に声をあげた。カオリたちをゲートに待たせてトイレに駆け込んだ男だ。手に何かを掲げて男はカオリを見ながら走ってくる。車のそばまで来ると男は持っていたものをカオリに突き出した。男の手にあるものを見てカオリは声をあげた。自分の手首を見る。手首に嵌めてあったはずのブレスレットが、男の手の先で揺れているではないか。

「センセイ、窓をあけて」

 それまでブディは用心して窓を開けていなかった。窓が全開になるのを待ち切れないように男は半分開いた窓の隙間からブレスレットを差し出した。

「落ちてたよ。ここ飾るね。大事なものでしょう」 

 インドネシア語で言いながら男性は自分の手首を無骨な指で擦った。手渡されたブレスレットの木の実と貝殻の触れ合う音を聞きながらカオリは言葉を失っていた。わざわざこのブレスレットを渡すために追いかけてきてくれたのかと思うと胸が詰まった。日本なら職場放棄だと糾弾されかねない行動だったが、大事なアクセサリーを失くして悲しむカオリの顔が頭を過ったのだろう。後先考えずに車に飛び乗った男性を思いカオリは性善説を信じたくなる。人間っていいなと思った。

「テリマカシーテリマカシー」

 カオリは何度もインドネシア語でありがとうの言葉を繰り返した。暮らしの中で当たり前のように繰り返される感謝の言葉の意味をこれほど実感したことはなかった。笑いながら男性は自分の車に駆け戻った。ブディがお礼代わりのクラクションを鳴らすと窓が開いた。カオリがもう一度頭を下げると、応えるように男性が手を振る。心が浄められた気分になってカオリは自分の手首に嵌めたブレスレットを自慢するようにブディに見せた。

「良かったですね。センセイの守り神ですね」 

 ブディにそう言われてカオリは気がついた。もしかしたらこのブレスレットが自分を守ってくれたのかもしれない。綱渡りのような脱出劇をギリギリのところでくぐり抜けてこれたのは生徒達からもらったこのブレスレットを身につけていたからではないかと思うとカオリは人肌のブレスレットを愛し気に撫でた。

 余韻に浸りながら車は寡黙に走り続けた。

 やがて前方にスカルノ・ハッタ国際空港らしき長大な建物が見えてきた。いつもなら七~八時間はかかるところがわずか二時間あまりで到着したことになる。ところが広大な空港の敷地には車はおろか人影さえ見あたらない。空港は機能しているのかと新たな不安がカオリたちを襲った。大規模社会制限が発令され出入域規制がかかり国内移動もままならないのだから当然と言えば当然なのだが、果たして飛行機は飛んでいるのかとカオリは思わず頭上に広がる空を見上げた。

「もし欠航になるようなら近くにホテルがあります。ここから少しありますが、歩けない距離ではありません」

 そう言ってブディはスマホのディスプレイを見せてくれた。カオリが事前に調べてあったのと同じホテルが載っていた。ブディも同じことを考えていたようだ。

 不安を抱えたままカオリは車の外に出た。ブディも降りてくる。「出発ゲートまで送っていければいいんですが、今夜中に戻らなければならなくなりました」 

 ブディは黙っていたが走行中に会社から車の返却を急かす電話が何度か入っていたのをカオリは気づいていた。言い訳をするブディにカオリは平静さを装ってうなづいた。これ以上甘えるわけにはいかないことはカオリが一番わかっている。

「センセイにはお世話になるばかりで何もお返しができませんでした。このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました」

 感謝の言葉はどれも同じような言葉になってしまうことをじれったく感じながらカオリはこれ以上ないというくらい深く頭を下げた。

「これでノーサイドね。でも最後に望みがかなった僕はちょっと得です。カオリセンセイとドライブデートできたのだから。元気なベイビーを産んでください」

 カオリの好きだった笑顔を残してブディは車に戻っていった。カオリの方を見ようともせず、まっすぐに前を向くとハンドルに手をかけた。静かに滑り出す車に向かってカオリは手を振り頭を下げた。涙がこぼれそうになる。

 顔を上げると車の姿はなかった。

 カオリは建物がある方角へと歩きだした。ブディが横にいてくれたことがどれほど心強かったかが一人になってわかった。いや一人であろうと仲間がいようと前途は難題だらけだ。それを選択したのは自分なのだ。これくらいのことで弱気になってどうするとカオリは自分を叱咤した。

 建物の前に出た。

 同じ形をしたガラス張りのドアが横にずらりと並んでいる。中を覗くとうす暗い。自動ドアの前に立ったがドアは動く気配すらない。仕方なく手動式のドアに手をかける。堅牢な貝のように口を閉じたままだ。隣のドアを開けようとしたが、同じだった。隣からその隣へ、並んでいるドアを一つずつ開けようとしたが、すべてクローズされていた。ドアが開かなければ中に入ることはできない。助けを呼ぼうにも辺りに人はいない。

これでだめなら裏手に回ってみよう、関係者用の非常口かなにかあるはずだ。そう決めるとカオリは最後に残った右端のドアに手をかけ力いっぱいに引いた。扉はあっけなく開いた。覗くと中は外から見るよりかなり暗い。入ってはいけないような気がしたが足を前に踏み出した。熱気が顔を襲った。照明が落ちて冷房も消えた人気のないフロアをチケットに印字された搭乗口を探しながらカオリは進んでいった。売店はすべてシャッターが降りていた。おにぎりを食べていて正解だったとカオリは改めてフサコに感謝した。

 恐竜の腹の中のような暗く、だだっ広いフロアをひたすら歩いていくと前方に人影が動いているのが見えた。吸い寄せられるように近づいていくと数人の人がベンチに座って新聞を読んだり仮眠をとっていた。日本人らしき人もいる。フライトを待ってるのだ。どっと疲れが出た。時間を確認すると予定のフライトにはまだ八時間もある。渋滞や検問にひっかかった場合のことを考えて余裕をもって出発したのだ。

 心細さも手伝ってカオリは本を読んでいる日本人とおぼしき男性の隣に座った。

「日本ですか」

「はい」

 男性は驚いたような表情で本から目を上げた。

「飛ぶでしょうか飛行機」

「まだ何もアナウンスがないからなあ。欠航ならとっくに何か言うんちがいますか」

 男性の関西訛りがこれほど頼もしく思ったことはなかった。

「こっちへは仕事ですか」

 カオリは遠慮がちに聞いてみた。意識せず大阪訛りになっている。

「はあ。そろそろ日本に戻れるかなと思てたところにこれですわ。帰国命令が出たのはもっと早かったんですけど色々やらなあかんことがありましてね。そちらさんは」

 男性はそう言うと品定めをするようにカオリを見た。

「ええ、まあ」

 自分から聞いておいてよけいな質問をしたとカオリは後悔した。カオリが口ごもっていると男性が急に立ち上がった。忘れ物でもしたのか、心ここにあらずという風に両手に大きなカバンを抱えてそそくさと歩き去った。 

 昨夜はジャカルタまでの道中を思うと心配でよく眠れなかった。機内で眠ることができるかどうかわからない。今のうちに眠っておこうとカオリは目を閉じた。 

 すぐにレオの顔が浮かんできた。今までもとらえどころのない存在だった。だが同じ空間で呼吸をしているという感覚がカオリにある種の安心感を与えていた。これからはそうはいかないのだと思うと広い宇宙に一人投げ出されたような気持ちになった。永遠にレオを失うかもしれないという恐怖がカオリを襲ってきた。吐き気がする。悪阻によるものか恐怖のためかわからないまま口を抑えた。心を鎮めようと手で腹を撫でる。インドネシアを離れることに決めたのはコロナが心配だったこともあるが、この腹の中の命をレオから遠ざけるためでもなかったのかとカオリは自分に言って聞かせた。するとなんとか落ち着きを取り戻した。今はただやるべきことをやればいいのだ。日本に帰る。赤ん坊を産む。レオに赤ん坊のことを告げるかどうかはその後だとカオリは自分に言い聞かせた。無事に赤ん坊の顔を見てから決めても遅くはない。優先させるべきは子供なのだと心に去来するレオの存在を追い払った。

 解決しなければならないことは他にもあった。もとより金銭面でレオに頼るつもりはない。だとしたらカオリと子供が生きていくための仕事を日本で探さなければならないのだ。このコロナ渦で果たしてみつかるのだろうか。カオリの心は不安と希望の狭間を右往左往するのだった。 

 いつのまにか眠っていたらしい。どこかで搭乗の案内を告げるアナウンスが聞こえている。半覚醒の耳がカオリの乗る便名を告げていた。跳ね起きると搭乗口に向かって歩いた。さっきの日本人男性がカオリの前を歩いていく。ジャカルタ発関西空港行きのフライトナンバーが書かれた案内板の下にたむろする十数名の日本人を見てカオリはもうすぐ日本に帰れるのだと思った。マスク越しに喜びと安堵の交じった吐息がこぼれる。




 パソコンの画面の向こうから学生達がカオリを見ている。陽に灼けた健康的な肌が制服の白いシャツに映えて眩しい。

「いつかあなたたちが日本に来たとします。好きな女性ができてデートを申し込みます。ここからが問題です。また今度ねと言われたらどうしますか」

 画面の端っこの学生が手をあげた。

「はい。アグン」

「少し待ってからもう一度申し込みます」

「ブー、残念でした。また今度ね、は断る時の言葉です。日本人の女性は拒絶の言葉をはっきりと言いません。だからアグン、勘違いしないようにね」

 アグンを含めた数人が笑った。

「では今日はここまでにします。イマン、今度宿題を忘れたらレポートを提出してもらいますからね」

 笑いながら頭をかいているイマンの顔が画面から消えるとカオリは表情を緩めた。

 カオリが仕事部屋として使っている部屋はインドネシアに行くまで自分の個室として使っていたものだ。違うのはパソコン用のデスクが増えたのと小説類が収まっていた本棚に日本語能力検定の教材や書類が並んでいることだ。

 帰国して半年ほど経過したころだった。クリスマスシーズンを迎えてはいたが、外出自粛の要請の出ている街を出歩く気にはなれずカオリは生まれてくる子供のためにネットで産着を買おうと探している最中だった。

 珍しく家の電話が鳴った。カオリも母も専らスマホを遣っている。出てみるとカオリが勤めていたインドネシアの会社の社長からだった。時任と名前を告げられてカオリは一瞬何があったのかと不安になった。

「よお、久しぶり。今、どこかへ勤めてるの。それとも結婚したとか」

 時任が唐突に聞いてきた。よけいなお世話だと思ったが、他意のないのがわかる明るい口調にカオリはつい笑ってしまった。時任はすぐに本題に入った。

「まいったよ。日本語を教えるのに日本人のセンセイが一人もいなくなってしまってさ」

 さして困っている風には思えない言い方にカオリは時任がこれから言おうとしていることがわかった気がした。

「センセイたちが全員、日本に帰ってしまったんだ。カオリも知ってのとおり元々インドネシアでもリモート授業してたんだからそれならいっそインドネシアと日本をリモートで繋ごうということになったんだ。そうと決まったら何もわからない日本のセンセイより学校の事情もわかってスキルも上のセンセイがいいということになったのよ。で、当然カオリの名前が出たというわけ」 

 時任の口ぶりから本人は日本に帰国中なのがわかった。それで電話してきたのだ。カオリは内心で手を叩きたくなった。日本語講師の仕事は嫌いではない。やり甲斐を感じることが多かった。それに日本にいてしかも在宅でできるというのがなによりの魅力だ。

「生徒達の卒業後の働き口はどうなります。せっかく日本語をマスターしても今は日本に来れない状態でしょ。かわいそうですよね」

 時任のやり方を知っているだけにカオリは確かめずにはおれなかった。

「大丈夫だよ。どんどんワクチンが出回ってるから、もうすぐコロナも裸足で逃げていくさ。日本の経済力を甘く見てもらっちゃ困る。そんなヤワじゃない。その時のために満を持して準備しとくのが我々の務めじゃないか」

 少々我田引水のような気もしたが時任の自信に満ちた言葉が失いかけていたカオリの仕事への情熱を奮いたたせた。インドネシアの青年達の希望に燃えた瞳が記憶の中から立ちあがってくる。技能実習生の名の元に安い労働力を得ようとする日本の企業とそれを仲介する会社のやり方に懐疑的になったこともあったが、なにより学生本人達が日本で働くことを望んでいるのだ。もちろん中には失踪したりブラック企業の仕打ちに泣かされたりというケースもあるが、インドネシアにいては得られない職とお金を得ることができるのも事実だった。

「わかりました。私でよければ喜んでやらせていただきます。ただ途中で一カ月ほど休暇をいただくことになりますがよろしいですか。もちろん事前にお伝えして授業に穴が開かないように気をつけます」 

 カオリは引き受けることにした。生まれてくる子供のためにも定収入がほしかったこともあるが、こちらで就職した教え子たちのサポートなど日本にいる自分だからこそできることがあると思ったのだった。

 

 パソコンデスクの上に散らばった日本語のテキストを片付けていると隣の和室から赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。カオリは急いでフスマを開いた。泣き声は六畳の壁に沿って置いてあるベビーベッドの中からだ。

「あらららら。礼くん、もうお腹が空いたの。さっき飲んだばっかりやんか」

 四肢をばたつかせる赤ん坊を抱きあげてやると泣き声が止んだ。礼は蕾のような口を動かしてしきりに乳を探している。カオリは立ったまま胸をはだけるとベッドの上に置いた容器から消毒綿を一枚抜き取り自分の乳首を拭いた。消毒が終わると礼を抱いたまま横座りになる。裸の胸を礼の顔に押しつけてやると、すぐに乳首に吸いついてきた。クチュクチュと乳を飲む音が静かな部屋に響く。乳房に半分隠れた我が子の顔を見下ろしていると目を閉じて乳を飲んでいた礼が目を開けた。カオリと目が合う。一点の曇りなく澄みきった水色の空みたいな瞳に向かってカオリはほほ笑みかけた。飲むことに忙しい礼は表情を変えなかったが、口を動かしながら一心にカオリを見つめている。

 お腹が満たされて眠ってしまった礼をそっとベッドに寝かせるとカオリは仕事部屋に戻った。生徒達の成績表を今日中に作成しなければならないのだ。できれば買い物に出掛けている母の美奈子が帰ってくるまでに済ませたい。仕事にかまけて礼の世話が疎かになっているというのがこのところの美奈子の口癖だ。

 

 関西空港に着いたカオリは検査の結果を待つために空港近くのホテルで一泊したが、陰性とわかった後もホテルに留まることになった。海外からの帰国者は公共交通機関の利用を禁じられていたから実家に帰る方法がなかったのだ。タクシーを利用する手もあったがインドネシアからだと言うと体よく断られた。探そうと思えば探せないこともなかったが、運賃も馬鹿にならない。結局実家に帰ったのは帰国して二週間後だった。

 美奈子はカオリの好物を用意して待っていた。久しぶりに食べる料理は故郷の味がした。心のこもった母の手料理がカオリに勇気をくれた。並んだ器を全て空にしたカオリは御馳走さまの代わりに妊娠していることを打ち明けた。美奈子の顔色が変わった。父親は誰だ。結婚もしていないのに子供を産むつもりかと持っていた箸を投げ付けてきた。父親のことをしつこく聞いてきたがカオリは絶対に明かさないと決めていた。

 食卓の上を片付けると美奈子とカオリは再び向かい合った。その頃には美奈子もどうにか落ち着きを取り戻していた。

 相手の男性は外国人で結婚ということになればインドネシアに住まなければならないが、環境の違いが互いのアイデンティティにまで影響するようになっている。無理をしてこのまま結婚しても双方が不幸になるだけだ。距離を置いた方がいいのだということで今では二人とも納得している。

 カオリがあることないことを言うと、次第に美奈子の口数が少なくなってきた。カオリはとどめの一矢を放った。

 結婚すれば自分たちはインドネシアに住むことになる。もし離婚ということにでもなれば子供の親権は父親に渡る。カオリは子供を置いて一人で帰国することになるだろう。

 脅しめいた言葉だった。娘を思う母親の気持ちを巧みについたのだが、あながち嘘でもない。結局、美奈子はカオリの出産を渋々ながら了承した。老いた母親の頬に流れ落ちる涙にカオリは詫びた。

 世間体を気にする美奈子の願いでカオリは近所の産院を避けて急行で駅二つ向こうのマタニティクリニックに通院することになった。妊娠三カ月と告げられた。インドネシアから帰ってきたと言うとそれまでパソコンの画面を見つめていた医者が初めてカオリを見た。PCR検査は陰性でしたとカオリが言わずもがなの説明をすると再び医者の目は画面に戻った。 

 待合室には数人の妊婦がいた。全員マスクをつけてはいるが、申し合わせたように目に不安が宿っている。コロナを恐れているのだ。いつ自分や胎児を襲ってくるかもしれないコロナウイルスの影に脅えているのだ。それはカオリも同様だった。おそらく日本中の妊婦がカオリと同じように不安と戦っているのだと思うと同士を得たような心強さを感じた。初孫を心待ちにしている美奈子のためにもコロナになんか負けるものかと心に誓って軽く目礼をするとカオリは妊婦と妊婦の間に座った。同士たちはすかさず尻をずらして間隔を開けた。

 妊娠予定日を五日過ぎてようやく陣痛が始まった。カオリはフェイスマスクをした看護師に支えられ分娩室に入った。分娩台の周りに張り巡らされたビニールカーテンをくぐるようにして大きな腹を滑り込ませる。陣痛がやってきて六時間になろうとしていた。これがピークだと思いながら歯を食いしばる先からさらに激烈な痛みがカオリを襲ってきた。息をするのもままならないのに動物のような唸り声が迸る。もとよりカオリにはいないが、付き添いは禁止されている。

 目を瞑って耐えているとレオが現れた。草原を行くライオンの尻が見える。痛みを忘れて尻の先で左右に揺れる太い尾に向かってカオリは叫んだ。行かないで、私を置いて行かないで――。声にならない声がもどかしい。誰かがカオリの背中を叩いた。ハッハッスー、ハッハッスー。看護師の声だ。促されてカオリも思い切り息を吐き出した。吐いた息を力の限り吸い込んだ。ハッハッスー、ハッハッスー。もうすぐですよ。そこまで来てますよ。耳の側でする声に励まされながら遠くなっていく意識を取り戻そうと目を瞑り懸命にいきんだ。すると今度は瞼の裏にアジズがいた。笑っている。駆けている。泣いている。ハッハッスー。あと少し。あと少し。男の声だ。するとリヤカーのゴミの箱の中から少年が飛び出してきた。スコールの後の街を父と母に囲まれ楽しそうに車を押しながら歩いていく。アプリラの小さい顔がバスの窓から覗いた。ハッハッスー、ハッハッスー。息ができない! カオリは顔の下半分を覆っていたマスクを無意識にむしりとった。すかさず看護師の手が伸びてきてフェイスマスクが顔にかけられる。息が少しラクになった。あと一回! 助産婦の鋭い声にカオリは体中の力を一点に集中させると力んだ。岩石のような固いものが体をきり裂き、続いて柔らかなものがカオリの体から外に滑り出た。意識が遠のいていく。桃色の雲の中を昇っていくような不思議な感覚の中でカオリは赤ん坊の泣く声を聞いていた。

 胸の中で何かが動く気配にカオリは目を覚ました。眠っていたらしい。横臥したカオリの体に包まれるように赤ん坊がいた。手足をもぞもぞと動かしている。人形のような手首には既にリストバンドが巻かれていた。

「おめでとうござまます。元気な男の子ですよ」

 助産婦が言いながら赤ん坊の頬をつつくと赤ん坊は思い出したように泣き声をあげた。看護師が笑いながら手に持ったスマホをカオリの耳にあてる。美奈子の声が聞こえてきた。

「よう頑張ったな。母子ともに健康やって。良かった良かった。何か食べたいもんあるか」 

 入院時に渡してあったカオリのスマホから看護師が美奈子を呼び出してくれたのだ。新型コロナウイルス対策の一環で分娩時の付き添いや見舞いを禁じている病院側のせめてもの配慮だった。画面の中の美奈子の顔が半分泣いて半分笑っている。カオリはうなづくと声をしぼり出した。

「ありがとう、お母ちゃん」

「えっ、なんやって。聞こえへん」

 大きな声を出したつもりだったが美奈子には聞き取れなかったようだ。看護師がスマホを自分の耳にあてる。

「お母さん、おめでとうございます。ママも赤ちゃんも疲れてますから切らせてもらいますね」

 看護師はカオリの顔を見て目配せするとスマホとともにどこかへ消えた。すぐにカメラを持って戻って来る。

「ほおら、お写真撮りましょね。こっち向いて」

 赤ん坊の顔の向きを直すとすかさずシャッターを切った。分娩台の側には助産婦もいた。

「えらいえらい。僕は強い子や。コロナに負けんとよう産まれてきた」

 マスクの向こうで言っているのが聞こえる。カオリは改めて腕の中の我が子を見た。両手に収まりそうに小さいのに一人前に頭も手も指も足もある。目も鼻も口もついている。短い手足でしっかりと空を蹴っている。健気さに、儚さに、雄々しさにカオリは打たれた。気がつけば泣いていた。腕の中の命が眩しいほど愛しい。自分の手に赤ん坊を抱けたことが奇跡のように思えた。産まれてきてくれてありがとう。カオリは心の中で深く頭を垂れた。

 この世界のどこかで今も命が誕生している。母親たちはいつか子供にこう言うだろう。あなたはコロナという怖い病気が流行している時に産まれたのよ。それだけ生命力があったのよと。あなたは戦争中に生まれたの。お前は東日本大震災の時に生まれたの。かつての母親たちがそう言ってきたように。それがどのような意味があるのかカオリにはわからない。意味などないのかもしれない。だがカオリは思うのだ。自分が体験したからわかるのだ。コロナ渦の中でみごもった女性たちは誰よりも強く祈ったはずだ。子供の命と健康を。その分、祈りが叶えられた時の感謝の気持ちも深いに違いない。強く祈られ深く感謝された命なのだ。多くの命を奪った疫病は確かに憎い。恐ろしい。人間がやってきたことへの報いを受けたのだとかわかったようなことを言うつもりは毛頭ない。だが世界中の人間がウイルスの前に自分たちがいかに非力であるかを思い知らされたはずだ。目に見えないものを畏怖すること。謙虚に真摯に対峙すること。お化けや祟りや罰を畏れたのが美奈子たちまでの世代だとすると、カオリたちの世代の人間は賢くなり過ぎたのではないか。

 カオリは柄にもないことを考えていた。するとレオがカオリにくれたバースデーカードの一節が浮かんできた。 

 神はすべてを時宣にかなうように造り、

 また永遠を思う心を人に与えられる。

 前に読んだ時はわからなかった意味が少し分かりかけたような気がしたが、思考はすぐに中断された。看護師がカオリの胸の中から赤ん坊を抱きとったのだ。

「さあ。ママはこれからお引っ越しですよ」

 そう言うと看護師は赤ん坊を抱いて部屋を出ていった。残った看護師たちはカオリの体を分娩台から移動ベッドに転がすようにして移した。病院の廊下を運ばれていると複数の赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。あの中に我が子の泣き声も混じっているのだと思うとひとりでに笑みがこぼれた。

 

 つけ終えた成績表をチェックしていると玄関が騒がしくなった。ドア越しにおしゃべりしている声は美奈子だ。

「ズイキが出始めてたさかいにお揚げさんと一緒に炊こと思て買うてきたわ。お乳がよう出るいうからな」

 年齢のせいもあるだろうがカオリが二年の間日本を留守にしている間に随分と一人言が増えた気がする。 

「ああ疲れた」

 元気な声とともに美奈子が部屋に入ってきてそのまま通り過ぎようとする。手にはエコバッグをさげている。バッグの口からは白ネギとピンクのチューリップが仲良く並んで顔を出していた。

「ちょっと手を洗ってよ。汚い手で礼に触らんといて」

 一刻でも早く孫の顔が見たいのだ。大阪は新型コロナ肺炎による緊急事態宣言が解除され、まん延防止等重点措置に移行したばかりだ。まだまだ油断はならない。

「わかってるわ。いちいち煩いねえ。あんたのママは」

 ベッドの中の礼に話しかけると名残惜しげにカオリのいる部屋に戻ってきた。

「そこでお隣の小堀さんに会うたんよ。きれいな格好してはんねん。どこ行くんと聞いたら絵手紙教室やて。結構なご身分や。不要不急の外出は避けなあかん言われてんのにようやるわ。こっちは朝から晩までオサンドンやってるいうのに」

 マスクの下から言う。どんな時でも言葉に毒を含ませなければならないのはこの人の癖だ。

 娘は単身赴任の夫を残して出産のためにインドネシアからほうほうの体で逃げ帰ってきたというのが世間向きに美奈子が作り上げたストーリーだった。それを聞いた時にはカオリは呆気にとられたものだ。だがカオリの出産を譲歩してくれたのだから自分も嘘の片棒をかつぐことにした。ばれたらばれた時のことだ。カオリのなりいき任せは母親譲りだと思うと気が楽になった。

「お母さんも行ったらええやないの。絵手紙でもコーラスでも」

 カオリが帰国してから美奈子はそれまで通っていた公民館での習い事を全てやめていた。カオリが頼んだ訳ではない。本人が自主的にそうしたのだ。

「ふん。うちがおれへんかったらこの家は回っていけへん。礼が泣いてるんも気がつかんとパソコンにしがみついているアンタに可愛い孫を任せておけるかいな」

 憎まれ口をたたきながら美奈子が部屋を出ていく。カオリは美奈子について居間に入った。テレビをつける。コロナ関連の話題ばかりだ。画面ではコロナで職を失った独身女性を取材していた。住む家と職を失い、生理ナプキンを買うことさえできないと女性は訴えている。居間に続くキッチンでは美奈子が米を研いでいた。美奈子がいたから、帰る実家があったから自分たち母子の安泰があるのだとカオリは美奈子の丸い背中に感謝した。

 

 夕方からはバンドゥンとオンライン会議だった。会議が終わると画面から講師の顔が次々と消えていく。一人だけ笑顔でこちらを見ている顔にカオリは気がついた。ブディだ。

「ブディセンセイ、いつからいたんですか」

 懐かしさのあまりカオリはつい大きな声を出した。子供を起こしたのではないかとフスマの向こうに耳を澄ます。大丈夫のようだ。予定では後一時間は眠ってくれるはずだった。

「遅くなってすみません、授業が長引いてしまって」

「バンドゥンからジャカルタに転勤になったって聞いていたけど」

「はい、でもバンドゥンのセンセイが足りなくなって、しばらくピンチヒッターとしてまたバンドゥンで教えることになったんです」

「良かった。センセイに早く連絡しなければと思っていたのですが忙しくて。バンドゥンも忙しいでしょう」

「忙しいのではありません。センセイたちがコロナにかかってしまって人手がないのです。バンドゥンだけで二人です。ジャカルタはもっと。センセイと学生が亡くなりました」

 そう言うとブディは首を振って両手をあげる仕草をした。カオリは毎日のようにインドネシアのコロナ関連の情報をチェックしていた。六月二十一日、昨日の情報だが新規感染者数が一万四千五百三十六人にのぼり、連日過去最多を更新していた。東南アジアで初めて累計二百万人を超え死者数も一番多い。医療も相当逼迫しているらしい。

「レバランがいけなかったのです。断食が終わって浮かれたい気持ちは分かりますが移動制限を無視して国中を動き回るもんだから」

 レオは大丈夫だろうか。眉を顰めるブディにカオリは不安になった。突然ブディの表情が変わる。

「それよりおめでとうございます。コロナベビーですね。男の子ですか。女の子ですか」

「男の子です。毎日泣いてばかりいて大変です。でもコロナベビーってなんですか」

 耳慣れない言葉にカオリは聞いた。

「日本は違うのかな。コロナが流行りだしてから妊娠する人がどんどん増えてます。インドネシアは今、出産ラッシュですよ。どんどん亡くなってどんどん生まれてます」

 ブラックジョークか。ブディらしくない。笑えない。

 コロナで外に出られなくなると妊娠する人が増えるとレオが予想していたことが現実になったのだ。カオリは改めてレオの先を見る才に舌を巻く思いだった。

「赤ちゃんは泣くのが仕事です。それより社長が喜んでいました。センセイがカムバックしてくれて」

 ブディは話題を変えた。

「お礼を言わなければならないのは私の方です。社長に私のことを推薦してくれたのセンセイなんでしょ」

「僕もですがジェフリーセンセイです」

 そうだったのか。ジェフリーは少しもそんな素振りを見せなかったが、話す機会があったらお礼を言わなければとカオリは思った。

「覚悟してたんです。こんな時だから仕事を探すとなってもなかなか見つからないだろうと。ほんとに助かりました」

「良かったです。センセイは学生たちの人気者でしたからね」

「人気があったかどうかはわかりません。なんだか叱ってばかりいたような気がします。皆、どうしているのかな。元気でやっていてくれたらいいのだけど」

 カオリの懐かしげな声にブディが体を乗り出してくる。

「センセイの卒業生、いいことと悪いことが一つずつあります。聞きたいですか」

 こんな言い方をされて聞きたくないという人はいない。カオリは黙って頷いた。

「アジズが亡くなりました。噂ですけと同郷の学生からの情報だから間違いはないでしょう」

 カオリは頭をいきなり殴られた気がした。アジズの笑顔が浮かんだ。剽軽だったアジズ、いつもお腹をすかせていたアジズ、エイズとわかって母の肩を抱いて故郷へ帰っていったアジズ。言葉が出ない。喉元にせりあがってくる嗚咽をカオリは必死で堪えると聞いた。

「やはりエイズですか」

 この状況だとコロナということもあり得る。

「はい、たぶん。でも泣かないで。アジズはいい子でした。今頃きっと天国にいます」

 いつのまにか泣いていたようだ。ブディの言葉にカオリは頬に手をやった。濡れている。カオリを慰めようとするのかブディの声音が突然明るくなった。

「いいことを言いましょう。あのキングがね」

 キング……。ブディの口から出たレオの呼び名にカオリの心臓が跳ねた。アジズを悼む気持ちがつかの間飛んだ。カオリは表情が変わったのを悟られないようにするのが精一杯だった。

「自分のことしか考えないキングが、経営する会社の商業施設やホテルを無償でワクチン会場に開放しているんです。あの変人でケチで毒舌家のキングがですよ。新聞にも取り上げられたからキングを知る連中は皆売名行為だと言ってます」 

 ブディの言っていることがカオリには信じられなかった。カオリの知っているレオは他人のためにお金を遣うことなどあり得ない。自分でもそう言っていたくらいだ。たとえ恋人のためでもだ。だが同時にレオは嘘をつかない。自分を飾らない。約束は破っても嘘をつくなという家訓を大事に守っている。そのようにして何代にも渡って築き上げた富を次代へ引き継ぐのかもしれないと日本の平凡な家庭で生まれ育ったカオリは自分を納得させようとしたものだ。レオなら売名行為はコストパフォーマンスが悪すぎると言うに決まっている。鼻で笑い飛ばすのがオチだ。そのレオが公共の利益を考えるようなことをするだろうか。混乱するカオリの脳裏に一年前のレオの罵声が蘇ってきた。

 

 機内に関西空港到着のアナウンスが流れると防護服を来た数名の人が乗り込んできた。カオリがあっけにとられていると一列に一人、係の人がついてカオリたち乗客の額に順番に検温器をかざしていった。その間、カオリたちは言われたとおりにアンケートに記入する。防護服の擦れる音が機内に響くが誰も何もしゃべらない。沈黙が重い。すべての乗客の顔に不安と疲れがはりついている。検温が終わるとようやく機外に出された。うす暗い廊下を検査のための部屋に誘導される。綿棒を鼻の穴に突っ込まれてPCR検査が終了したが、自由の身ではない。迎えの車がある人は係員に監視されながら車の待つ場所へと移動する。車が走りだすまで監視の目は光っている。迎えの車がない人は、カオリもその口だったが結果が出るまでホテルに一泊しなければならない。カオリは窓に暗幕を張った小型のバスに乗った。護送者で刑務所に送られる囚人のようだと思った。どことなく自分が悪いことをしたような気になって伏し目がちにバスを降りた。政府指定のホテルの裏口にも係の人が待機していて検温を受ける。館内に入るとようやく人心地がついた。すぐにスマホの電源を入れてホテルのWiFiに繋ぐと待っていたように着信があった。発信者の名前を確認した。レオだ。静かなロビーに鳴り響く着信音にカオリはうろたえて思わず周りをうかがった。小走りで柱の陰まで行くと電話に出た。

「今、日本から帰ってきたんだ。足どめされてた。カオリは今どこにいるの」

 懐かしい声に一瞬心が弾んだ。機嫌のいい時のレオの声だ。だが嵐がやってくる予感がカオリの口数を少なくさせる。

「日本にいる」

 沈黙があった。カオリは身構えた。

「えっ、何て言った。もう一度言って。よく聞き取れなかった」

「私も今日本に着いたところ。連絡しようと思ったんだけど繋がらなくて」

「インドネシアを出たの。どうしてそんな勝手なことをするんだ。こっちはそれどころじゃなかったんだよ。日本で身動きができないというのにインドネシアの会社の売上はどんどん落ちていく。従業員がコロナになって社員全員にPCR検査を受けさせなければなくなったんだ。検査費用だけでも莫大だったんだから。そんな時に里帰りだって。日本が今どんな状態なのかわかってて帰ったの。インドネシアよりひどいんだよ。僕のことが頭に浮かばなかったの。カオリに会うのが楽しみに帰ってきたというのにどういうつもりなんだよ」

 カオリの事情はいっさい聞いてこない。自分の気持ちと状況を話すのに懸命だ。いつものことだが、宥めるにはカオリは疲れ過ぎていた。

「事情が変わったんだから仕方ないでしょ。誰にだって都合はあるわ。世の中が自分中心に回っていないことがわかっただけでも良かったじゃない」

「何が言いたいの」

 声に凄みが出た。

「私がどうして帰ってきたのか一言も聞いてくれないじゃない。あなたに足りないのはそういうところよ。自分は何もかも持っていると思ってるみたいだけど、貧しい人は貧しいなりに、能力のない人はないなりに、弱い人は弱いなりに足りない所を補いあって助けあって皆一生懸命生きてるのよ。あなたは人にやさしくしてあげようとか何かをしてあげようとか考えたこと一度だってあるの。彼らにあってあなたにないのはそれよ」

「もういい。カオリは僕のことを嫌いになったんだ」

 カオリの言葉を最後まで聞こうとせずレオは通話を切った。こんな筈ではなかった。冷静に話そうと思っていたのについレオの剣幕に同調してしまったのだ。かつて自分の生徒であった十三歳年下の恋人を矯正したいという思いあがりがどこかにあったのかもしれない。王様は傲慢なのだ。それも含めて愛したはずなのに日本の土を踏んだとたんに人の道を説いている自分にカオリは地団駄を踏んだ。赤ん坊のことを告げるどころではなかった。たとえ告げたとしてもどうにもならなかっただろう。子供が生まれるまではと慎重にコトを運んできたつもりが全部水泡に帰したのだ。レオはもう戻ってこない。カオリは絶望的な気持ちで生徒達と一緒に撮った待ち受け画面の写真を見ていた。画面の中のアジズの顔が、ラマの顔が、イマンの顔が涙で霞んでいる。


「センセイ聞こえてますか。キングのすることは我々にはわかりません。恋人でもできたのかもしれませんね。人は恋をすると優しくなると言いますから」

 聞こえてくるブディの声にカオリは我に返った。レオは見え透いた売名行為などしないとつい口から出そうになる。彼を形作っているのは何代にも渡り受け継がれてきた富とやすやすと他者を受け入れることを潔しとしないほどの矜持だ。だがとカオリは思った。自分の分身である子供にはどうなのだろう。試しにレオが赤ん坊を抱いている姿を想像してみた。子供を近づけることさえ危険だとさえ思ったレオである。強い顎と鋭い爪で我が子を貪り食う獣の顔が次第にレオの顔に変わっていく。赤ん坊を抱いて穏やかな笑顔を浮かべるレオがいた。 

 日毎に成長する礼の存在がカオリの心に影響を与えたのかもしれない。あるいはたった今、ブディから聞かされたレオのことがカオリの思うレオ像にいくばくかの変化を生じさせたのかもしれない。いずれにしても母としての本能が危険は去ったのだとカオリに告げていた。 

 ブディに挨拶をしてパソコンを閉じると耳を澄ませた。静かだ。隣室のフスマを細目に開けて中を覗くと礼は眠っていた。そばに寄っていって顔を見る。まだ小さくてよくわからないが鼻筋から唇にかけてのラインがなんとなくレオに似ている気がする。抱き上げると礼は目を開いた。哲学者のような目でカオリの顔を見る。ほほ笑み返すとカオリは話しかけた。

「パパに会うてみよか。礼のパパは若くてかっこよくて頭がええんよ。怒りん坊で泣き虫やけど心配せんでもええ。礼にはママがついてる」

 ついにその時が来たのだとカオリは思った。礼に父親のことを告げる時が来たのだ。レオは変わっていた。少なくてもカオリの知っているレオではなかった。それに考えたくないことだが、レオにもしものことがあったら礼は永遠に父親と会うことができなくなる。レオもそうだ。息子のことを知らないまま逝くことになる。カオリは最愛の二人からその機会を奪うことになるのだ。 

 カオリを見つめていた礼がまるで母の心中を察したかのように小さく笑った。無垢な笑顔がカオリに決心させた。出口を求めてくすぶっていた勇気の塊が一気に弾ける。妊娠したとわかって一年、か細く未熟だったカオリの心根は太く逞しくなって大地にしっかりと根付いていた。

「梅雨はかなわんわ。洗濯物がなかなか乾けへん。今は紙オムツやから昔のこと思たら贅沢は言われへんけどな」

 母が畳んだ洗濯物を持って部屋に入ってきた。礼を抱いたままカオリは棚に礼の肌着をなおしている母に聞いた。

「血圧の病院行くの明日やったね。何時から」

「午後からの予約やけど用事があったら変更しよか。無理きくのが近所のお医者さんのええとこや。仕事か」

「ううん。忘れてたらあかんと思て」

「大丈夫や。シングルマザーを抱えて認知症になんかなってられるかいな」

 自分の冗談に自分で笑いながら美奈子が部屋を出ていく。明日なら美奈子に邪魔されることなくレオと話すことができるだろう。ラインが変更になっていないことを祈りながらカオリは礼をベッドに寝かせた。


「病院に行ってくるけどもし雨が降ってきたら洗濯物入れといてな」

 玄関から聞こえてきた美奈子の声に生返事をするとカオリはすぐにパソコンを切った。

 昨夜のうちに用意しておいたスマホスタンドをデスクの上に置いて本体をセットする。準備しながらも胸の鼓動が速くなっていく。隣室は静かだ。半時間ほど前に授乳とオムツ替えを済ませてある。まず泣きわめくことはないだろうと考えながら礼の側に行く。起きていた。不思議なものを見るような眼差しで天井を見つめている。

「さあ、礼君、パパに会おね。パパいるかな。まだ怒ってるかもわかれへんね」

 不思議そうな目のままカオリを見上げる礼を抱いてデスクの前に座った。レオを呼び出すとビデオ通話のボタンを押す。呼び出してはいるがなかなか本人が出ない。もしかするとわざと出ないのかもしれないと思うとカオリの心に一気に黒い泥が吹き出す。出るまで切ってやるものかと意地になって呼び出し音を聞き続ける。と突然画面にレオの顔が現れた。膝の上に抱いていた礼をあやうく落としそうになる。

「なに」

 不機嫌な顔をして挑みかかるように聞いてきた。

「元気にしてるかなと思って」

「ここはどこだと思ってるの。インドネシアだよ、君がとっとと逃げ出した。元気なわけないだろ」

「ワクチン接種の会場に場所を提供しているって聞いたものだから。偉いわね、大変でしょ」

 覚悟はしていたもののいきなりの喧嘩腰にカオリは怯む。だがこの程度のことで弱気になっているようではレオとはつきあえないのだと自分を奮起させた。

「君には関係ないだろ。誰に聞いたの僕のこと」

「ブディよ。同僚の先生」

「あのいつもニヤニヤしていた奴か。同僚じゃない元同僚だ。とっくに学校はやめてるんだから」 

 毒舌ぶりはちっとも変わっていない。レオに限って改心などあるはずはないのだ。カオリはいっそ肚が座った。明るく言った。

「それがまた働くことになったの。コロナでしょ。日本から来てたセンセイが全員インドネシアから引き上げてしまって。学校の方針でしばらく現地と日本をつないでオンライン授業をやろうということになったの。それで私に声がかかったのよ。日本からリモートで授業してるわ」

 画面の中のレオは持ち前の野性味に以前にはなかったナイーブさが加わって大人の男性としての魅力が加わっていた。思わず顔に触れたくなる。自然と唇が綻んでくるのがわかる。少女のように心がときめく。頬が熱くなる。甘えたくなる。

「働かなくては私たち食べていけないもの、ね」 

 レオの視線がさっきからカオリの膝の上に向けられているのがわかっていた。カオリはわざとらしく礼に囁いた。少し間があった。

「なに、僕のこと笑ってやろうと思って連絡してきたの。そうだよ、大変だよ。失ったさ、ママも財産も人も。恋人に逃げられた上にこのザマだ。僕は空っぽだ。笑いたいなら笑えばいい」

 レオが唇を歪めた。目が異様に光っている。レオの言葉にカオリの甘やかな気持ちが吹っ飛んだ。聞いてはいけない気がしたが聞かずにはおれない。

「今、ママって言ったの。誰のこと。誰のママなの」

 レオは開きかけた唇を閉じた。沈黙が流れ、絞り出した声は震えていた。

「僕のママに決まってるだろ。他にどこにママがいるっていうの」

「嘘、どうしてなの。あれだけ元気だったじゃない」 

 カオリは思わず口走った。皮肉でもなんでもなく本心だった。生命力の塊のような女性だったのだ。

「コロナだよ。バリの別荘にステイしていたんだ。あそこなら安全だろうと言われて出掛けていった。わかった時にはもう遅かった。僕は結局何もしてあげることができなかった。パパもだ。ママは一人で死んでいった」

 レオと腕を組んで颯爽と歩いていた母親の姿を思いだした。眩しいほどのオーラを周りに撒き散らしていた母親を憎らしいと思った。母親から浴びせられた言葉は長い間、カオリを苦しめた。だがあの暴言は息子を思って周りが見えなくなった結果だったのだと人の親になった今ならわかる。カオリは心の中でレオの母に詫びた。

「パパはショックで寝込んじゃうし事業は殆ど開店休業状態だ。従業員も毎日のようにコロナで倒れていく。三人が亡くなった。患ってる人。治った人を入れると全部で」

 感染した人を数えているのだろうかレオの声が詰まった。カオリも耳を塞ぎたくなる。

「言いたくない。思い出したくないんだ。店のため会社のために頑張りますと笑顔で帰っていったスタッフが、翌日から来ないんだ。こんな気持ち、カオリにはわからないだろ。僕がどんなに頑張ってもコロナは決して許してはくれない。僕から何もかも奪っておいてまだ足りないんだ」

 カオリがインドネシアから逃げ出してきたのは事実だ。自分が責められているわけではないとわかっていても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だがあのままインドネシアに留まっていたらと思うと胸を撫で下ろしている自分がいるのもまた現実だった。カオリ自身がそんな自分を許せないと思うのだからレオがカオリを許せないのも無理はない。

「誰の子、その赤ん坊。まさかカオリの子じゃないよね」

 突然レオが言ってカオリの思考は中断した。めそめそぐじぐじしている場合ではないのだと気持ちを切り換える。カオリは視線を礼に落とすと言葉を溜めた。心臓が鳴る。

「まさかよ……。私の子です」

 ならどうなの。ならどうする。後の言葉は飲み込んだ。画面越しにレオが固まった。

「いつ産んだの。こっちでそっちで」

 帰国して一年以上になるのだ。そっちの訳はないだろうとカオリは心で突っ込みを入れた。

「日本に決まってるじゃない。もう三カ月よ、可愛いでしょ」

「可愛いいかな。僕には猿の赤ん坊にしか見えないけど」

 憎らしげにレオが言った。それでも腹は立たない。レオ独特の強がりが懐かしい。

「礼、パパが猿だって。ひどいよね」 

 鼓動が速まる。カオリの言葉の途中で画面からレオが消えた。画面が乱れる。元の画面に戻った。レオがいた。別人の形相だ。

「今なんて言ったの」

 声が上ずり唇がわなないている。あまりの動揺ぶりにカオリは逆に心に余裕が出た。子供の父親だからといってレオに何の要求をするつもりはないのだからその点、気持ちは楽だ。礼に父親のことを教えておきたいだけなのだ。母が愛した父の存在を伝えておきたいのだ。レオに対してもそうだ。父と息子の当然の権利を守ることはカオリの義務だ。昂ぶりを隠せないレオにカオリは静かに告げた。

「この子はあなたの子よ。レオがくれた私の宝物よ。こんな素敵なギフトを貰える日が私の人生に用意されていたなんて自分でも信じられない。レオが驚くのも無理はないわ」

 カオリはそれまで横抱きにしていた礼を膝に立たせるようにしてレオに顔を見せた。聞いているのかいないのか、もちろんカオリの声は届いてはいるのだろうが、レオが礼を凝視している。

「僕の、本当に僕の子供なの」

 来た、とカオリは思った。カオリが想定していたレオの回答の何番目かに入っていたセリフだった。予想はしていても実際に聞くと体中の血液が逆流した。目の前のスマホを叩き落したくなるのを必死で堪えた。

「信じたくなかったら別に信じてもらわなくてもいいのよ。この子に何かをしてほしいなんてこれっぽっちも思ったことないし元々私一人で育てるつもりでこっちに帰ってきたんだから。ねっ礼君」

 カオリは礼に頬ずりをした。乳臭い匂いに思わず涙ぐむ。

「ウアーーー」

 突然レオが叫んだ。カオリは思わず腕の中の礼を抱き締めた。何が起こったのかと画面に目を凝らす。画面が激しく揺れている。

「僕の子、僕の子なんだ! 本当に? まさかからかってるんじゃないよね。夢を見てるんじゃないよね。こんなことがあるなんて。ざまあみろだ。ああ、神様、感謝します。カオリありがとう。僕の子を産んでくれたんだね。信じるさ。信じるに決まってるじゃないか」

 レオが吠えている。興奮ぶりが滑稽で可愛くてみっともなくてカオリは吹き出した。笑っているのに泣けてくる。涙で礼の顔が霞んでいる。

「見たい、見たいよ。もっと顔を見せて」

 レオが顔を歪めて懇願する。カオリはレオによく見えるように礼の顔を画面いっぱいに映した。

「おお、僕にそっくりだ。カオリにも似ているけど僕だ。男の子なの女の子なの」

 ブルーのベビードレスを着せてあるからわかりそうなものだが真剣に問う。

「男の子よ」

「名前は、名前はもうつけたの」

「礼節の礼と書いてレイ。レオの子供でレイ。いけなかった」

「そんなわけないだろ。僕の子なんだからレイでいいよ。そうか、レイか、いい名前だ。僕の遺伝子がその小さい体に詰まってるんだね。嬉しいよ。これでもし僕に何かあったとしても安心だね。レイがしっかり引き継いでくれるんだ」

 喜色に満ちたレオの声にカオリはかえって不安になる。たとえ天地がひっくり返っても自分だけは生き残ると言うのがレオだ。それだけコロナに痛めつけられたのだと思うとカオリはレオが可哀想でならなかった。そばにいてやれなかった自分を責めた。できることなら今すぐ飛んでいって抱き締めてあげたいと思った。

「行くよ。日本に行くから」

 カオリは驚いてレオを見た。どうやら本気らしい。

「何を言ってるの。インドネシアから日本への渡航は禁止されてるじゃない。だいいちバンドゥンからジャカルタまでどうやって移動するつもり。いつロックダウンになってもおかしくないのよ」

「くそっ、コロナの奴め。僕は自分の子供にさえ会うことはできないのか」

 画面の中でレオが頭をかきむしっている。天井を仰いでいる。立ち上がると画面から消える。

「レオ、レオ」

 カオリは呼びかけた。返事はない。

「そのうちきっと会えるわ。だから機嫌をなおしてちょうだい」

 しばらく待ってみたがやはり返事はない。礼がぐずりだした。そろそろ切り上げなければならない。カオリはこれ以上はないほどの優しい声で話しかけた。

「礼が泣き出したからそろそろ切るね。私も気をつけるけどレオもね。コロナにかからないで、絶対よ」

 言うが早いか画面にレオが飛び込んできた。

「どうして僕の気持ちがわからないんだ。親にだって説教されたことのない僕がカオリの言うことを聞いてホテルを開放したんだ。どうしてだかわかってるの」 

 なんだかわからないが責められている。カオリは言葉に詰まった。わからないのだから仕方がない。

「他人のことを考えろって、弱い人を助けろって言ったじゃないか。だからレストランもホテルもビルもワクチン会場に開放したんだ。カオリを喜ばせたら僕の所に戻ってくるんじゃないかって思った。カオリは戻ってきた、僕の子供と一緒に。僕は正しかったんだ。なのにどうして会えないんだよ」

 ああやっぱり変わってないな、私のキング。なんだか肩透かしをくった気もしないではなかったがカオリはそんなレオが愛しくてならない。計算高いようでいざとなると子供に戻ってしまう。もし触れることができるのなら、あのライオンのたてがみのような髪を撫でてやりたいと思った。

「わかった。私が悪かったわ。ごめんなさい」 

 いつのまにか悪いのはカオリになっていた。だが謝りながら快感を覚えている自分がいてそのことが少し心配になる。

「僕はどうかしていたんだ。もう少しで忘れるところだった」

 レオが突然、話を変えた。カオリは思わず詰問口調になる。

「何を忘れてたの」 

「コロナにも奪えないものがあるってことだよ。僕に怖いものなんかないということさ」

 意味がよくわからないが突拍子もないことを言い出すのがレオだ。カオリは身構えた。

「僕は指揮官だ。今、現場を離れるわけにはいかないんだ。従業員の命と生活がかかっているからね。コロナになったら野外のテントで治療するんだよ。そんな環境にいつまでも会社の者たちを置いておくわけにはいかないだろ。あと少し時間をくれ。会社は絶対に立て直す。わかるだろカオリ」

「……」

「聞こえているの、カオリ」

 カオリは言葉を失っていた。自分のため、金のためと常に口走っていたレオが従業員の身を案じている。やはりレオはキングだ。名実ともにキングになったのだ。カオリは胸が熱くなった。礼を強く抱き締めた。だが感慨に浸っていたのはそこまでだった。嗚咽が聞こえてきた。レオが泣いている。あのインドネシアのスコールの夜のように泣きながらカオリの名を呼んでいる。

「レオ、泣いてるの」

「泣いてなんかいるもんか。会いたいんだよ。カオリに今すぐ会いたい。カオリは僕に会いたくないの」

 小さな画面いっぱいに大写しになったレオの端正な顔が歪んでいる。鼻水が出るのもかまわず泣いている。

「私だって会いたいわ。でも我慢するしかない、ね」

 カオリの言葉にレオはイヤイヤをするように頭を振った。

「我慢は嫌いだ。したことがない。欲しいものがあれば手に入れる。コロナが何だって言うんだ。我慢なんかするもんか」

 まるで今にも画面から飛び出してきそうな勢いだ。国境も境界線も突破してきそうな迫力にカオリは安堵した。カオリの知っているレオがそこにいた。

「空港はどこ、成田だった」

 そんなことも知らないでいきりたっていたのかと思うとおかしい。「関空だけど」

 カオリが答える。

「そうか大阪だったね。大阪のどこ」

「奈良と大阪の中間辺り。生駒という山の麓にある枚岡という町。なんとなくバンドゥンに似てるわ」

「そうか、枚岡か。そこに行けばカオリがいるんだ」

 遠くを見る目をしてレオが言った。

「ジャカルタにさえ行ければ、関空に行けば、枚岡に行けばカオリがいるんだ。僕の家族に会えるんだね。やっぱり行くよ」

「えっ」

 カオリは自分の聞き違いかと思った。ついさっきバンドゥンを離れられないと言ったばかりではないか。

「駄目だ。やはり無理だ。僕がいなければ事業がストップする。従業員たちは食べていけなくなる。毎日のように僕の周りで人が死んでいく。不安と戦いながら皆働いてくれているんだ。僕だけ逃げ出すわけにいかない」

 二転三転する話にとてもついていけそうもないが、それだけ動揺しているということだろう。レオの悲壮な声がカオリに伝播する。

 一日あたりの新規感染者数、累計死亡者数ともインドネシアは日本の比ではないという現実にカオリは脅えた。いつコロナウイルスがレオを襲っても不思議ではないのだ。

「ワクチンはまだ打ってないの」

「ワクチンは打たない」

 レオが断言する。なぜと出かかった言葉をカオリは飲み込んだ。国民のほとんどがやっている割礼をやらない男だ。ワクチンを接種しないというのはレオの中で彼なりの理由があるのだろう。カオリが接種を勧めても耳を貸すはずがない。

「すまない。僕はカオリたちに何もしてあげられない。ママの時と一緒だ。くそっ」

 レオの頬に新しい涙が流れ出す。カオリは改めて心の中でレオの母親に赦しを乞い、手を合わせた。

「私もよ。何もしてあげられないのは私も一緒。それより聞いてレオ。私たちの息子は私が守るわ。約束する。だからレオも約束してほしいの。絶対にコロナに感染しないって。お願いよ」

 自分でもくどいと思いながらカオリは繰り返した。

「約束するよ。コロナになんかなるものか。毎日二人の無事を祈る。今の僕にはそれしかできない」

「私もレオを守って下さいって毎日礼と一緒に祈るわ」

 レオの返事がない。何か気を悪くさせるようなことを言っただろうかとカオリは不安になった。

「どうしてだろう、穴の底を這い回ってるような毎日だったのになんだか楽しくなってきた。この騒ぎが終わったら僕たちは会えるんだね。僕とカオリの新しい旅立ちなんだね」 

 カオリはレオの言葉にレオを見送ったバンドゥンの朝を思い出した。レオが光の中をカオリを置いて遠くへ行ってしまいそうで怖ろしかったことを。だが今、自分たちは同じ闇の中を同じ光を見つめて歩いているのだ。そう思うとカオリの心は歓びに震えた。闇の先に見える光は小さいが今まで見たことのないほど輝いている。コロナ渦という闇の中を歩く者だけに見える光だった。

「カオリ、カオリ」

 レオが呼んでいる。

「カオリ、レイのことを頼んだよ」

 自分の名が呼ばれたのがわかったかのように礼がブブブブとなん語を発した。すぐに目を閉じる。

「礼が言ってるわ。安心してパパって」

 カオリの言葉にレオが笑う。カオリも笑った。二人で穏やかに笑い合うなんてことがなかったことにカオリは気づいた。小さな命がもたらしてくれた大きなプレゼントだった。

 通話が終わった。

 カオリは礼の寝息に自分の穏やかな息を重ねた。

 レオに子供のことを伝えたことで心にずっとのしかかっていたものがとれた。なにより心を打たれたのは自分の子供だと告げられた時のレオの反応だ。カオリが想定していた疑いや拒絶の言葉はいっさいなかった。歓びを体全体で表してくれた。それだけでカオリは生きていけると思った。誇りを持って父親のことを礼に語ることができると思った。

 礼の柔らかな髪に自分の指を滑り込ませてカオリは自分の心と静かに対峙をした

 ――やはり私はレオが好きだ。愛しくてならない。これからもずっと好きでいよう。レオへの愛を感じながら礼を育てていきたい。生きていくのだ。レオが私たちのことをどうするかはレオが決めればいい。一緒に暮らしてもいいし暮らさなくてもいい。これまでもそうだったようになりいきでいい。だが世間でいうところの結婚はするつもりはない。結婚というものがもうひとつよくわからないが、少なくても入籍はしない。母親としての、女性としての勘がそちらには近づくな、立ち入るなと私に言うのだ。母は子供には父親が必要だと言うが、必ずしもそうだとは思わない。礼をそんな柔な子供に育てるつもりはない――。

 改めて自分の心を確かめるとカオリはこれでいいと頷いた。息を吸う。空気が甘い。カオリの体のどこかにカオリの知らなかった泉源があって新たな力が沸き上がってくるようだ。

「パパが無事でいますように毎日ママとお祈りしようね。人の思いはコロナなんかよりずっと強いんよ。どんなに遠く離れていてもあっという間に届くんやから。 いつかコロナはこの世からなくなるよ。その時はパパに会いにいこうね。せっかちなパパのことやからパパの方から飛んでくるかもしれへんね。立派に育った礼を見てびっくりするかもしれへんね。その時は礼、パパにこう言うんよ。僕はコロナ渦の中で生まれてきた子です。だから強いんですって」

 カオリは礼の寝顔に話しかけた。夢でも見ているのか礼がふっくらと笑う。 

                         了



                           

2021年7月15日、インドネシアでの一日あたりの新型コロナ肺炎の新規感染者数は、五万六千七百五十七人(死者数は九百八十二人)を記録。同日の日本における新規感染者数は三千四百二十人(死者数は二十二人)であった。 





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