36 - 二人だけの世界
卒業式の帰り道で済ませるはずだった「さよなら」は、結局、私がりんの家に行ったことで延長戦に入った。りんは花束を丁寧に花瓶に差して、自分の部屋のローテーブルの上に飾った。
「かわいい」
ガーベラの花びらを指先で撫でながら、りんが言う。
「家の近くに良いお花屋さんがあったから」
私は聞かれてもいないことを答える。
そして、花を挟んで向かい合った私たちは、しばらく沈黙した。りんは黙ってうつむいたまま、もじもじと恥ずかしそうにしている。
わかっている。今私たちが緊急で話さないといけないこと。
それは、さっき勢いでしてしまった告白のこと。
「それで、さっきのお話ですが」
「はい」
りんがなぜか敬語で話しかけてきたので、私も思わず敬語で返事をしてしまう。
「えっと、その……」
自分から話し始めておいて、りんは急に恥ずかし気にうつむいてしまった。
代わりに私が言葉を引き継ぐ。
「両想い、だよね」
「やめて、なんか改めて面と向かってそう言われると恥ずかしい」
りんがそう不満を言って、耳まで赤くする。たぶん、私の顔も同じような状態になっている。暖房が効いた部屋にいるみたいに、体が熱く感じる。
私たちがこれまで築いてきた関係は、私の一言で全部吹き飛んでしまった。いま、私たちの間には、とんでもないくらい心の距離が開いている。しかもそれは、喧嘩した友達との仲直りとか、そんな次元で取り戻せる距離じゃない。
私たちはもう、普通の幼馴染には戻れない。
「いつ、気付いたの、その……自分の気持ちに」
小さな声でりんが言う。そう言われて記憶を辿ってみても、自分で正しいと思える答えがでてこない。
「ずっと昔から、かもしれない。好き、って気持ちを知ったのは、一年くらい前から、だけど」
りんは曖昧に頷きながら私の言葉を聞いていた。
「りんは?」
「私は……女の人のほうが好きだって気付いたのは、中学一年の頃で、だから、沙織先輩が初恋だと思ってた。だけど、ユキのことは、たぶんもっと昔から好きだった」
「そうなの?」
私が言うと、りんは顔をあげて私を見た。
「なんて言えばいいのかわからないけど。私の心の中にはずっとユキがいたの。ほんとだよ」
りんが嘘をつくわけなんかない。ただ、自分の気持ちを言葉にするのが苦手なだけ。
「紅葉狩りで会ったあの時に、私、すごく迷った。だから、沙織先輩には告白できなかった。ユキのこと、すごく好きだって思ったから」
この時、鈍感すぎた私はりんにも迷いがあったことを初めて理解した。りんは私と違って、自分が正しいと思える道をずっと選んできたのだと勝手に思い込んでいた。
――ヘンじゃないよね、恋すること
海で遊んだ帰り道、りんの言葉を思い出す。
本当はりんだって、たくさん迷ったり、間違えたりしていた。当たり前だ。りんだって、私と同じ、一人の人間なのだから。
「ねえ」
りんはなぜか正座して、俯いたまま言った。
「えっと……私たち、恋人、ってことで、いいのかな」
ぼそぼそと言われた言葉に、私も急に恥ずかしくなって思わず目線を下ろした。
どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じる。
「りんが、よければ、だけど」
「いいよ、っていうか、うれしい、すごく」
今までに聞いたことが無いような、小さな声でりんが言う。
「彼女、ってことだよね」
「うん。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
まるでお見合いみたいに二人でぺこぺこと頭を下げる。客観的に見て可笑しな光景にすぐ気が付いて、私たちはどちらからともなく笑った。
「ねえ、ユキ」
「うん」
「近くに行っていい?」
私が頷くと、りんはゆっくりと立ち上がって、私の隣に体をぴったりとくっつけて座り込んだ。心臓がうるさいくらいに脈を打って、りんに伝わってしまわないか心配になる。りんは私の腕を両手で抱いて、私の首元に頭を埋めた。
腕から伝わる大きな鼓動の音は、きっとりんの音だ。
「りん」
囁くような声で呼ぶと、りんが顔をあげる。間近で見たりんの瞳は、私を直視できずに微かに左右に揺れている。
「キス、したい」
りん以外には決して誰にも聞こえないように、慎重に喉を震わせる。大切な何かをまた壊してしまうのが怖くて、乾いたような声しか出せない。それでも、私が空気を揺らした言葉を聞いたりんの顔は、緊張した面持ちから笑顔に変わった。
「ユキ、正直すぎ」
「だって」
「でもね、したい、私も」
私たちの間で、空気が小さく震える。唇からこぼれた囁き声が、耳をくすぐり合う。
「もう一度でも、何度でも」
そう言ったりんが、私の目をじっとまっすぐに見つめる。
私は、ファーストキスの時と違って、今度は本当に目を閉じた。
瞼の向こう側で、りんが静かに息を吐く。優しい花の香りが不意に強くなる。
「……っ」
唇が触れ合った瞬間、私たちはお互い微かに身体を震わせた。それがなんだか可笑しくて、目を開けて静かに笑い合った。
やっぱり、キスに味なんて無い。でも、五感では感じ取ることができない、りんの中に眠っていた愛情に似た何かが、唇から私の中へ流れ込んでくる。
今度は額を合わせて、りんの左頬に手を添える。りんも私の頬に触れて、もう一度、唇を重ねる。もう一度。もう一回。唇が離れるたびに、また口づけをする。私がしなければりんが、りんがしなければ私が、足りない何かを満たそうとするように、何度も何度もキスをする。
「ユキ、ごめん」
え、と声を上げる前に、りんの腕が私の背中に回される。抱きしめられたまま、私の唇がりんの唇に優しく奪われた。重ねられた唇は離れないまま、その柔らかい感触と温度を確かめるように動く。小さな声と暖かい吐息が漏れて、私の中に染み込んでくる。まるで、私たちの身体が重なってひとつになるみたいに。
気付いたらりんは頬を真っ赤にしていて、短く呼吸をしながら私の耳元で囁いた。
「ちょっと、無理、かも」
「どうしたの」
「止めれない」
もう一度キスをする。私に寄りかかったりんの体重を支え切れず、私は静かに背中を床につけた。りんの体重のすべてが私にかかって、でもそれは全然苦しくなくて、ただ、唇だけじゃなくて、全身からりんの存在を感じている。
もっと、近づきたい。これ以上、どうしようもないくらい近づいているのに、もっと、りんの深いところに触れたい。ひとつになりたい。そんな願いが膨らんでいく。
一瞬だけ唇が離れて、息継ぎをするように二人で大きく息を吸う。
「ほんとに、ダメかも」
「いいよ、大丈夫」
それ以上、私たちは何も喋らなかった。
私たちの関係は、私の一言で決定的に変わってしまった。もう二度と戻れない。中学校に入学したあの頃にも、それよりずっと前の、幼い頃の二人にも。
それでも、私もりんも、きっと、そんな世界を望んでいた。
二人きりになった世界で、私たちはお互いの輪郭を何度も確かめ続けていた。
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