エピローグ
37 - 日常
水槽の中に、五匹のアオメダカが泳いでいる。アオメダカといっても、普通の人が想像するような真っ青なメダカじゃない。よく見ないとわからないけれど、シロメダカよりは微かな青色を帯びていて、とくにお昼休み、窓越しの外の光が水槽に当たる時が一番綺麗に青く見える。
五匹の見分けがつくのかとよく聞かれる。毎日この理科室の片隅にある飼育エリアに来て、じっとみんなを眺めていると、実は自然と見分けられるようになる。目が大きめで体が大きい子が強かったり、少し体が曲がっている子は気弱だったり、すらっとしたスマートな子は泳ぎ方が優雅だったり。
私が高校に入って生物部に入ろうと決めたのは、何より、このアオメダカの美しさと、個性豊かで可愛らしいところに惹かれたからだ。他にも、週一日の部会以外は単独で活動できるし、落ち着きがあって優しい先輩たちばかりだった、っていうのもあるけど。
小魚用の砂みたいな餌をつまんだ指を水槽の上に差し出すと、水草の中に隠れていた子たちも慌てて水面に寄ってくる。水草は私が生物部に入ってから、最初に買ってもらったものだ。魚が見えなくなるっていう意見もあったけど、この子たちにもたまには隠れる場所が要ると思う。
ぱっと餌を散らすと、まず一番強い子がガツガツと喰いついてくる。その隙に少し離れたところに餌をまいて、強くない子たちを誘導する。五匹ができるだけ満遍なく、均等に食べられるように餌を散らす。
「ユキせんせー、ごめーん!」
一通り餌をあげ終えたところで、理科室の外から瑞希の声がした。見ると、瑞希は肥料袋を乗せた台車に手を添えたまま、こちらの様子をうかがっていた。私はさっき瑞希に頼まれた仕事を報告する。
「ミナミヌマエビの餌、あげといたよ。あとフィルターも替えた。一番左のケース。日付も書いといたから」
「ほんと助かる! 今度何かおごるね!」
「いいって。そっち手伝おうか?」
「ううん、これ最後だから大丈夫っ」
そう言って、瑞希は台車を押して足早に去っていく。私は水槽にガラス蓋を乗せて、壁掛け時計を見た。もうすぐ十八時、部活動が終わる時間。水槽のまわりを綺麗に整え、軽く拭き掃除をしてから、理科準備室にいる先生に挨拶をして廊下に出る。
三つ並んだ校舎の、端から端へ早足で歩いて、美術室へ。
静かに扉を開けて中に入ると、腕まくりをした一人の女の子が、キャンバスに向かって熱心に筆を動かしていた。とても真剣な眼差しで、どんな言葉でも言い表せない、彼女の中だけに眠る世界をキャンバスの上に具現化している。
「ごめん、あと十分」
りんは私のほうを見ないでそう言った。
私は何も言わず、りんに背を向けて近くの適当な椅子に座る。りんが作業をしている時は、りんの方を見ない約束になっている。中学の時から相変わらず、完成するまで絵は見せたくないらしい。かといって、じっと正面から顔を見られ続けるのも恥ずかしいんだとか。仕方なく、りんのキリが良いタイミングになるまで、私はりんを視界に入れず、宿題や授業の予習をする。
夕暮れ時が終わり、窓の外からの光が少なくなる代わりに、天井の白い電灯が教室を照らし始めたころ。
「よし!」
りんが椅子から立ち上がって、大きく伸びをした。
「ごめん、お待たせ」
「ううん。大丈夫」
りんはワイシャツの袖を直し、ブレザーを羽織って手際よく片づけを始めた。最終下校時刻を告げる放送が校内に流れ始める。私も広げていた教科書とノートを鞄の中に入れて立ち上がった。りんが美術室の電気を消して、二人で外に出て美術室に鍵をかける。
「鍵、返してくるね」
職員室に寄ってから、昇降口のロッカーで上靴を脱いでローファーに履き替える。数か月前に履き始めたばかりの上靴は、もうそれなりに汚れ始めていた。
「日が長くなってきたね」
外に出て駐輪場に向かう途中、りんが空を仰いで言った。
「すぐに暑くなりそう」
「ユキ、暑いの苦手だもんねえ」
「今くらいがちょうどいい。夏はずっと冷房の効いた部屋にいたい……」
私の発言に、りんはなぜか楽しそうに笑った。私には全然笑いごとじゃないのに。
駐輪場に着いて、私たちは並んで停めていた自転車にまたがる。入学した時から、私の自転車はりんの自転車の隣に停めさせてもらっていた。わかりやすいし、どうせ一緒に登下校しているんだからわざわざ離して停める理由も無い。
それからいつも通り、私たちは自転車で家へと向かう。高校の通学路は車通りがある狭い道も通るので、横に並ばず、私がりんの後ろについていく形で走った。最初は慣れない道を自転車で走るのが怖かったけど、一か月もすれば自転車通学もすっかり身体に馴染んで、風を切って前を走るりんの髪と、プリーツスカートがひらひらと揺れるのを観察するくらいの余裕は持てるようになった。
家に着くまでには何か所も信号があって、そこで止まるたびに、私たちは横に並んで話をする。
「吉野にさ、新しいゲームセンターできたの、知ってる?」
「そうなんだ。クレーンゲームある?」
「あるっぽい。次の土曜一緒に行こうよ」
「いいね」
他愛の無い話。小学校からも、中学校からも、何も変わらないような話題ばかり。それでも、私たちにとってはひとつひとつ、小さく毎日を彩る話題。
「スタバの新しいの飲んだ?」
「まだなの! いちごのやつでしょ? あれ絶対美味しいよ」
「珍し。てっきり発売日に飲んだのかと思ってた」
「スタバ、高崎まで出ないと無いからなかなか行けなくて」
「じゃあゲームセンターのついでに行こうよ、ちょっと遠回りだけど」
そんな会話を重ねながら、私たちは家へと向かう。高校から離れて家が近づいてくるにつれて、住み慣れた町並みが目に付くようになる。私はいつも、その町並みにどこか懐かしさと安心感を覚えた。
「ね、すみれ公園寄らない?」
家に着く数個前の信号待ちで並んだ時に、りんが提案する。
私は迷いなくすぐに頷いた。
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