33 - 温度

 日が傾いていき、空の色が微かに暗くなり始めていた。賑やかだった海水浴場からは人が少しずつ減っていき、夜の静けさが頭を垂れてくる。

 世界が夜に包まれる前に、私たちは海を後にした。海から駅へ向かう道を、りんと並んで歩く。


「楽しかった?」


 すっかり雲が無くなり、夕焼けに滲んでいく空を見上げながらりんが言う。私が頷くと、「私も」とりんが小さな声で答えた。


「あの日、りんに会えてよかった」


 その言葉は、自然と口から出てきた。


「春休みの前?」

「そう、昇降口で。りんと、もう一回話したいって思ってたから」

「私も、ユキとまたお話できてよかった。今日もいろんなお話聞けたし」

「小倉先輩のこと、地味に気になってたから」


 私がその名前を口にすると、りんはにっと口角を上げた。


「私も、秋穂ちゃん、なんだったんだろーって思ってた」

「その言い方はちょっと失礼じゃない?」


 私が言うと、りんはいたずらっぽく笑った。


「でも、ヘンじゃないよね」


 ぽつりと呟いたりんの横顔は、夕焼けに赤く染まっていた。


「恋すること」


 少しだけ迷ったけど、私は正直に気持ちを伝えた。


「するでしょ、恋くらい、誰だって」

「だよね」


 それだけ言うと、私たちはしばらく黙って歩いた。


 恋、という言葉は、私たちにとって暗号みたいだった。何か秘密めいたことを伝えあうための暗号。小学校までの私たちの生活には出てこなかった、特別な言葉。

 恋。もう一度、心の中で繰り返してみる。

 不思議な響きがする。ずっと気付かなかったけれども、意識すると、ずっと前から私の中にあったような、そんな感覚。


「この前ね、これ、見つけたの」


 りんがそう言いながらポケットから取り出したのは、ファーストキスをした時に使っていたのと同じリップクリームだった。


「ドラッグストアでたまたま見かけて、その時に、またあの日のこと思い出して。なんで言われるまで忘れてたんだろ」

「むしろ、ずっと覚えてて、執着してた私のほうが気持ち悪いでしょ」

「そんなことないよ。大切なファーストキスだもん」


 大切なファーストキス。少なくともりんにとっては、そう思えるものだったらしい。もちろん、私だってこれだけ気にしているから、ファーストキスの大切さは理解しているつもりだけど。

 りんはリップクリームを自分の唇につけた。


「香り、きついなあ」

「言ったじゃん、キスしたときに」

「言ってた」


 そう言ってりんは笑い、私にリップクリームを差し出した。

 少しだけ躊躇して、私も自分の唇に塗ってみた。

 やっぱり、甘ったるい香りが鼻につく。

 その瞬間、あの日の情景が、ふわりと脳裏に浮かんだ。


 十数分歩いたところで、道の向こうに駅が見えてくる。私たち二人の時間が、終わりへと近づいていく。


 不意に、りんは何の前触れもなく私の手を取った。とても久しぶりに繋いだりんの手は、柔らかくて、あたたかくて、やっぱり優しかった。私の方を向いて微笑むりんの瞳に、海の色が見えた。


「ユキのこと、本当に、大切な人って思ってるから」


 そう言って、りんが指を絡めて手を握りなおす。


「私も、りんのこと、人生で一番大切な人だって思ってる」


 繋いだ手を離さないように、強く握る。

 ずっと当たり前に思っていたはずのことなのに、口に出してみたら、いま隣に並ぶ大好きな人が、当たり前に隣に居るわけじゃないんだと実感する。

 それは、もしかしたら、私たちが選んできた結果なのかもしれない。

 運命を辿る中で、間違ったり迷ったりしながらも選んで進んできたからこそ、今、私たちはこうやって並んで手を繋いで、帰り道を一緒に歩いている。


「りん」


 名前を呼ぶと、りんは首をかしげて次の言葉を待つ。

 好きだよ、りんのこと。

 友達とか、恋とか、そういう次元じゃなくて。

 他にどう言い表せばいいのか、私にもわからない。だから、なかなか伝えられない。

 結局、私は喉元まで出かかっていたいろいろな言葉を飲み込んだ。


「また来ようね、海」


 そう言うと、りんは嬉しそうに頷いた。


 家へと向かう電車に乗って、夕陽が差し込む車内のロングシートに仲良く並んで揺られた。もうお互いに口数も少なくなり、りんの手のひらのぬくもりと、肩にもたれかかるりんの体重を感じていた。気付いたら二人そろって寝てしまっていて、起きたのは家の最寄り駅を二つも過ぎたところだった。慌ててりんを起こして降りて、幸いすぐにやってきた逆方向の電車に乗れたところで、りんはなぜか嬉しそうに笑って私の腕に抱きついていた。


 そんなことがあって、すっかり暗くなった家までの道も、手を繋いで並んで歩いた。その一瞬一瞬の光景が、りんの表情が、りんの手のひらのぬくもりが、私の心に焼き付けられた。

 手を離したくないと思った。最後の一瞬まで、ずっと隣にいたいと思った。


「また来週ね」

「うん、バイバイ」


 そう言って、私たちはお互いに見えなくなるまで手を振って、離れていく。

 来週のランチデーでまた会える。それなのに、りんと別れてからほんの数十メートルの家までの距離ですら、すぐに寂しさを覚えてしまう。


 好きだと思った。

 りんのことが、間違いなく、愛おしくて、大好きだと思った。

 好きの気持ちが、自分の中でどんどん大きくなっていくのを感じている。


 そして、あと半年で、私はこの気持ちを抱えたまま、もう一度大きな選択をしなければならないことを知っていた。

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