29 - アップルティー
文化会館から外に出ると、しとしとと雨が降り注いでいた。弱い雨は暖かい空気を帯びていて、春の終わりを静かに告げているようだった。
私たちは駅前にあるファミレスに入り、ドリンクバーだけ注文した。大きめのテーブル席で私の向かいに座ったりんは、窓の外の雨をじっと眺めている。そんなりんの横顔を、私はぼんやりと見つめていた。
「思ったより、あっけなかったなあ」
ぽつりと、りんが呟いた。
「最優秀賞?」
「うん。地元のコンテストだし、ハードルは高くないんだろうけど。でも、沙織先輩の絵が飾られていたところに、あっさり届いちゃったなって」
ほんの僅かな沈黙の時間、私はりんの言葉を咀嚼して、自分の言葉を組み立てる。お世辞とか、賞賛とかじゃなくて、ちゃんとした私の言葉を伝えたかった。
「私は好きだよ、りんの絵」
りんが私を見る。喜ぶでもなく、訝しむでもなく、でも少しだけ安心したような微笑み。私はオレンジジュースを口にして、りんの次の言葉を待った。
「それは最優秀賞を取ったから?」
「違うよ。りんが描くから、好き」
「そう言ってくれるの、ユキだけだよ。っていうか、ユキ、まだ一年と二年の頃の絵、見てないよね」
「そう、早く見たいんだけど」
「恥ずかしいなあ、いま見るとヘタだし」
「でも、きっと好きになると思う」
私が言うと、りんは小さなカップに入ったアップルティーを、スプーンでくるくるとかき混ぜながら、そっか、とだけ言った。
そして、沈黙が私たちを包む。
誰かが店員を呼ぶベルの音が、ピンポン、と耳に届いた。
「あっ、そういえばね」
何か思い出したように、りんは鞄の中をごそごそと探り、水色の便せんを取り出した。表には「りんさんへ」と書いてあり、裏面のシールはすでに剝がされた跡がある。
「手紙?」
「部活終わって帰ろうと思ったら下足箱に入ってたの」
「えっ、それって」
「そう、ラブレターってやつ。直接告白すればいいのにねえ」
正直、動揺を隠せなかった。
りんは可愛いし、性格だって穏やかで、優しくて、誰にでも好かれる。だから恋愛対象としても上位に入るだろうし、誰かにこうやって告白を受けるのも不思議な話じゃない。だけど、いざ自分の一番良く知る人が、誰かにとってそういう対象に選ばれていたのだ、という事実を目にすると、私は自分でも驚くほどのショックを受けていた。
「あるんだ、そういうの」
「ね。三年の卒業前は増えるらしいよ、こういうの」
再びしばらくの沈黙。私は恐る恐る、まず真っ先に気になっていたことを聞く。
「付き合うの?」
私の質問に、りんは吹き出して答えた。
「まさか、ないない。だって別のクラスの全然知らない男の子だよ、無理でしょ。でも、どうやって返事しようかなあ」
その言葉に、正直安心した私は、黙ってオレンジジュースを飲む。
「この手紙を見て、少し考えたの。私にとって、本当に大切なものって何だろうって。それで、修了式の日に昇降口でユキに会った時のことを思い出して」
りんがアップルティーを一口飲む。
「私、ユキにもっと中学校を楽しんでほしいって、勝手に思ってた。部活に入ったり、私以外の子とも仲良くなって、私がいなくても、中学校生活を楽しんでほしいなって。だって、私が一年生だった時がそうだったから」
うつむいたまま、困った様子で笑うりんの顔を見ながら、私はどんな顔をすればいいかわからないまま、りんの声に耳を傾ける。
「でも、間違ってた、私。本当は、ユキともっと一緒にいたいって思ってた。だけど、自分の気持ちに嘘をついてたの。そのせいでユキを傷つけて」
だから、ごめん。
りんはそう言って、頭を下げた。
「そんな、謝らなくても」
「だって、二人の大切な時間を無駄にして」
「それは私だって悪いでしょ。りんに構ってほしくて、変なこと聞いて、気まずくさせて、そのくせ話もしないで逃げたのは私だし」
そこまで言ったところで、りんが優しく私の手を握って、静かに首を横に振った。
「ユキは悪くない」
「りんだって悪くないよ」
そう言い合って、二人で頭を下げる。すぐに、その光景が傍から見たらなんとも可笑しいことに気付いて、どちらからともなく笑い合った。
「やめよ。なんか反省会みたい」
「そうだね」
目を合わせてまた笑って、しばらく黙り込む。
誰かがお会計を終えて、店員さんが「ありがとうございました」と言う声が聞こえた。
りんは何かを聞きたそうに、私をちらちらと見た。きっと、私も同じような顔をしている。
話したいことはたくさんある。あの絵のこととか、部活動のこととか、りんの家での生活とか、進路とか。私から秋穂のことも伝えたいし、りんから小倉先輩のことだって聞きたい。二人の関係のことも。あの紅葉狩りの日のことも。
だけど、今、それを確かめるには、私たちの距離はまだ元の状態にまで戻りきっていない。うわべだけをつくろっている。そうしたいわけじゃないのに、無意識にそうしてしまう。どこまで踏み込んでいいのか、お互いに探り合っている。心の壁が勝手にそうさせている。
たぶん、私たちが元通りになるには、私たちが思っていたよりも、もっとずっと長い時間がかかる。そう予感させた。
「ねえ、りん」
アップルティーを飲み終えたりんが私を見た。
「りんがよければ、だけど」
「うん」
「またランチデー、したい。一緒にお昼ご飯食べて、話したい」
それは私にとって、大きく踏み込んだ提案だった。それでも、りんは頬を緩めて、嬉しそうに笑った。
「いいよ。私も、ユキと話したい」
その言葉のあたたかさが、冷たくなっていた私の心にじわりと染み込んだ。
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