第三章

28 - 絵

 一年前と同じ場所で、私は一枚の絵を見ていた。

 家の最寄り駅から、誰とも待ち合わせることもなく一人で電車に乗り、一駅のところで降りる。一年前と同じような、どんよりとした雲模様の下、川沿いの遊歩道を歩き、見覚えのある文化会館へ入る。美術部コンテストの作品が展示されている会場は、一年前と違って人影はほとんど無く、私の足音がうるさく聞こえるほどに静かだった。


 目の前にあるのは、私が両手を広げてようやく持てるくらいの大きなキャンバス。一面に塗られているのは、水彩の鮮やかな青色。でも、その青色には淡い水色と、力強い紺色と、微かに尾を引く流れ星のような黄色が入り混じっている。遠目に見ると、日の光を反射する川の流れとか、夏の海の空とか、そんな情景を想像させる。詳しい技法は私にはわからないけど、それらは筆の跡とか、もしくは筆先から弾かれた水滴とか、そういったもので表現されているように見えた。


 キャンバスの傍らには「最優秀賞」と書かれたリボンが掲げられ、その下のプレートには、私たちの中学校の名前と、見知った幼馴染の名前が記されている。


 伊咲りん。


 私は一年越しにして、ようやくりんの絵を、しかもその傑作を自分の目で見ることができた。

 こんなに大きな絵を描くのに、いったいどれくらいの時間がかかるのだろう。その長い時間の中で、りんは何を思って筆を運んでいたのだろう。そんなことにまで思いを馳せてしまう。


「素敵よね」


 りんの絵にぼんやりと見入っているところに、不意に声を掛けられる。振り向くと、美術の柏木先生が立っていた。


「伊咲さんは成し遂げてくれるって信じていたけど、本当にここまで腕を上げてくれるとは」


 私よりも背が低く小柄な柏木先生が横に並び、まじまじとりんの絵を見ながら、ひとりごとのように言う。


「伊咲さんの絵はいつも優しさに溢れているけど、この絵はとくに、力強さ、生命力みたいなものが詰まってる」


 生命力。そう言われると、たしかに感じ取れるような気がしてくる。

 りんの内面が、キャンバスの中へ鏡のように転写されているような、そんな感覚。


「不安とか、迷いもあります」


 私が言うと、柏木先生が微かに口角をあげた。


「りんはああ見えて、気弱というか、前向きで素直だけど、優しすぎるんです。とても強い心を持っているのに、でも、弱い部分もあって。本当は心の中に抱えている大きな何かがあって、でも、それは絶対に誰にも見せようとしない」

「見せられない、のかもね」


 柏木先生の優しげな横顔に目を向けた。


「言葉にできないこととか、話して伝えられない気持ちって、たくさんあるから。伊咲さんは、心の中に秘めているその気持ちを、こうやって絵に託しているのかもしれない」


 そう言われると、不思議とさっきまで見ていた絵の見方が変わってくる。りんがこの絵に込めた想い。その想いはきっと、この絵だけじゃなくて、りんが中学生になってから今まで描いてきた、すべての絵に込められていたのかもしれない。私が知らなかっただけで、りんはずっと、自分を伝えるために、絵を描きたかったのかもしれない。


「あなた、二年生の春菜ユキさんでしょう」


 柏木先生が私の方に向き直って言う。


「はい」

「伊咲さんから話、聞いてるわ」


 りんは私のことを誰彼構わず話しているので、先生が私のことを一方的に認識しているのはよくあることだ。二年生になって初めて授業を受けたり、違うクラスの担任の先生と初めて話す時、しばしば「あなたがユキちゃん?」と聞かれる。そして誰が話していたかと聞くと、大抵、すぐにりんの名前が挙がる。


「悪口言ってました?」

「ふふっ、まさか」


 冗談半分、本気半分で私が聞くと、先生は笑った。


「人生で一番大切な人ですって」

「嘘でしょ?」


 思わずそう口走る。りん、そんなこと思ってたの? 

 半年以上、まともに会話も、向き合うこともしていなかったのに。りんから逃げ続けて、自分の気持ちからも逃げ続けていたのに。


「だから、この絵も春菜さんに見てもらうために頑張ってたみたいよ」


 その言葉に、胸が熱くなるのと同時に、恥ずかしさを覚えた。

 そうやって自分や私に向き合っているりんに対して、自分のことがあまりにも情けなくて、恥ずかしかった。


「春菜さんにとって、伊咲さんはどんな人ですか」

「りんは、大切な……」


 そこまで言って、続きの言葉をためらってしまう。幼馴染。親友。好きな人。そうやって分類するラベルはたくさんある。だけど、そのどれも私の言いたいことを、的確に表していないように思う。

 でも、間違いなく言える言葉もある。


「誰にも代えられない、一番大切な人です」


 私がそう答えると、柏木先生は優しく微笑んで頷いた。


「きっと、伊咲さんも同じ気持ちを持っていると思うわ」

「そう、でしょうか」

「ええ。お話の続きは本人から聞いたら?」


 そう言って柏木先生が振り返る。私もその視線の先を追うと、りんが私たちの後ろに立っている。目が合うと、りんは恥ずかしそうに笑いながら小さく手を振った。

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