26 - リボン
春休みを目前に控えると、寒さが和らいで頬をなでる風があたたかくなった。
一年生の修了式を迎えた教室は、それまでの学期終わりとは違った高揚感に包まれている。学年がひとつ上がることで、憧れていた上級生とか、大人に一歩近づくことができる。口にはしないけど、誰もがそんなことを考えていたと思う。
私はと言うと、上級生とか大人に近づくことができても、結局りんに追いつくことはできないことばかりを考えていた。私が一学年進級したら、りんも一学年進級する。私とりんは、絶対に同じ学年にはなれない。小学生の時から変わらない運命。大人へのあこがれというより、りんと並んでも恥ずかしくないくらいに成長したい、という気持ちはずっとあった。
最後の登校日を終えて、千夏たちへの挨拶もそこそこに教室を出て昇降口へ向かう。
その時、ふと、入学式の日のことを思い出した。
この学校に来て、はじめてりんの顔を見た時の高揚感。同じ制服を着て、同じ学校に通い、一緒にお昼ご飯を食べて、同じ時間を過ごす幸福感。
たとえ学年が違っても、もともと私たちには壁なんて無かった。小さな頃から変わらずに、りんはいつも私の隣にいて、喋りたいことを喋って、笑ったり、泣いたりして、一緒に過ごしてきた。
もしも、もう一度そんな時間を過ごすことができたら。
そんな未来を選ぶことができたら。
私の心に残る小さな痛みは、消えていくのだろうか。
みんながグラウンドや体育館へと向かう中、私は人気が少ない昇降口に入りロッカーを開ける。つま先が赤い上靴を脱いで、外靴に履き替える。もう少ししたら、これは二年生の色になる。りんの青い上靴は三年生。ロッカーの場所も変わるので、上靴を靴袋の中へと入れて、空のロッカーを閉める。
同じタイミングで、目の前のロッカーの向こう側、別のロッカーの開く音が聞こえた。
何か、予感みたいなものがあった。
靴のかかとを踏んだまま、ロッカーの向こうを覗き込む。
そこには、見慣れた横顔の少女が立っていて、つま先が青い上靴を靴袋の中に入れているところだった。
「りん?」
思わず声を掛ける。顔を上げたりんが驚いた様子で私を見た。
「ユキ」
「部活は?」
「今日家の用事で早く帰らないといけなくて」
そう言ったりんは、ロッカーの中を覗いて何も残っていないことを確認してから、静かに扉を閉めて、私の方を向いた。いつのまにか、りんの制服のスカーフは淡い海の色をしたリボンに変わっていた。すっかり制服も着こなしていて、今では成長したりんの身体にぴったりとフィットしている。
「リボン、かわいい」
無意識に私が言うと、りんは照れくさそうに笑いながら歩み寄った。急にりんの顔が近づいて、少しどきりとする。りんが両手で持ち上げたリボンはチェック柄で、深い紺色と藍色の組み合わせが、本物の海みたいに見えた。りんでなければ絶対に似合わないと、冗談ではなく本気でそう思った。
「変じゃない?」
「似合ってる、すごく」
「えへへ、嬉しい。ユキも制服、馴染んできたね」
「そう? 何も変わってないと思うけど」
「ううん、素敵だよ」
そう言って微笑むりんにつられて、私も自然と笑みをこぼした。
「あっという間に二年生だね」
「りんも、もう三年生」
「ね。本当にあっという間」
りんがそう言って、会話が途切れる。困った様子で笑うりんの顔を直視できなくて、足元に視線を落とす。爪先が向かい合っているローファーは、りんのほうが使い古されて少し汚れている。
話したいことは山ほどあるはずなのに、なぜか本人を目の前にすると言葉が出てこない。たくさん話したいのに、たくさん聞きたいのに、まるで石になったみたいに、私はただ固まって立ち尽くすことしかできなかった。
時が止まったように、二人で向かい合う。
校舎の中はどんどん静かになっていって、代わりに遠くのグランドから、部活動の声と音が聞こえ始めた。
「えっと、じゃあ」
りんがそう言って、時が動き出した。でも、やっぱり言葉が出てこない。せめて「一緒に帰ろう」の一言くらい、言える勇気があればいいのに。私は臆病者だ。一番大切な人を傷つけたり、一番大切な人に傷つけられることを恐れて、何も伝えられないままでいる。
結局、私は当たり障りのない台詞を言うことしかできなかった。
「気をつけて帰ってね」
そんな私の言葉が想定外だったのか、りんはきょとんとして私を見た。りんの予想は正しい。私はそんなことを言いたかったわけじゃない。でも、何かを察した様子のりんは、私を見て笑った。
「うん、ありがと。ユキも気をつけてね」
りんはそう言うとくるりと踵を返し、学校の外へ向かって歩き出す。私も向かう先は同じだけど、その場でしゃがみこんで、わざとゆっくり靴を履き直して、りんが私から離れるのを待とうとした。
「ユキ!」
りんの声が飛び込んできて、顔を上げる。
「また一緒に帰ろっ」
入口のところで振り返り、私に手を振るりんは、なぜか、幸せそうに笑っていた。
私はそんな花束のように可愛い笑顔に見惚れて、返事をすることも、手を振ることもできなかった。ただ曖昧に頷いて、りんが背中を向けて小走りで去っていくのを、しゃがんだまま、茫然と見つめていた。
りんのその一言は魔法みたいに不思議な力を持っていた。その魔法のおかげか、私の中でずっと固まったままだった焦りや不安が、音も無く溶けて消えていくように感じた。
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