24 - 雪谷秋穂
玄関を開けた瞬間、冷たく澄んだ空気が頬に当たる。雪は家の前から薄く積もっていて、足を踏み出すと靴の裏の形がスタンプみたいに跡を残した。秋穂も同じことをして、嬉しそうに歓声をあげる。二人で手をつないで、まだ誰も足跡をつけていない雪の上を歩く。止めどなく降り注ぐ雪が、すぐに髪の毛先に絡みついた。
とくに行き先は決めていなかったけど、その場の流れですみれ公園に行ってみることにした。実はこのあたりで大きい公園と言ったらそこしか無いらしく、私とりんだけでなく、子供たちの定番の遊び場だということを中学生になってから知った。りんと一緒に遊ばなくなってからとくに行く用事もなく、すみれ公園を訪れるのは数年ぶりだった。
「わっ」
入り口から公園の中を見て、秋穂が感嘆の声を漏らす。私も思わず小さな声で歓声をあげると、白い息が夜の空気に混じっていった。
すみれ公園の広場は一面、白く染められていた。見る限りでは人影が無く、私たちが一番乗りだったのか、雪の上には誰の足跡もついていない。手つかずの白い絨毯の上に、二人で恐る恐る足を下ろす。最初の一歩は、ゆっくりと。何歩か歩くうちに堪えきれなくなって、走って、雪を蹴り上げて、二人で笑った。
「すごいねぇ、ユキ」
「ね、こんなに降るのはじめてかも」
「私、積もってる雪ってはじめて見た」
「えっ、そうなの?」
ひとしきりはしゃいで、少し息を切らした秋穂が、乱れた髪をかきあげる。
「前は静岡に住んでたんだ。知ってる? 静岡って雪積もらないの」
「へえ、てか、じゃあ転校生?」
「そだよ、知らなかったの?」
秋穂はベンチの上に積もっていた雪を手で払い、そこに鞄を置いて、まだ雪がちらつく夜空に向かって大きく手を広げた。
「こんな広い公園あったんだね」
「うん。小さい頃、りんとよく来てた」
秋穂がぴたりと動きを止めて、私を見る。私は公園の隅、幼い頃の私が好んで遊んでいた場所を指差す。
「あのあたりで、私が一人で遊んでるときにりんに話しかけられて。それから毎日のように一緒に遊んでたの」
りんと遊んでた頃のことは、今でも鮮明に思い出せる。私よりもずっと活発で、いろんな遊具で遊んで、時々とんでもない遊び方をするから、私はよく注意していた記憶がある。そのたびにりんは何の根拠もなく笑って「だいじょうぶ」といって、ときどき腕とか膝にケガをして泣いてたっけ。
「りんさ、ブランコめちゃくちゃ高いところまで漕ぐの。あぶないよって言っても、本人はすごく楽しそうにしててさ」
そこまで言って、はっとする。
本当に無意識に、すらすらとりんの記憶を引き出して話していたことに今さら気付く。
秋穂はに口角を上げて言った。
「やっぱり好きなんだね、伊咲さんのこと」
今となっては否定することもできなくて、曖昧に頷く。秋穂が私の肩を肘でつつくと、コートについていた雪が滑り落ちた。
「ユキはさ」
それから、いつもの軽いノリじゃなくて、優しく微笑みながらも真面目な顔をした秋穂が言う。
「やっぱり伊咲さんとちゃんと話した方がいいと思う」
「話すって、何を」
「何でも。今みたいに、ここの公園の思い出話とかでもいいし、いくらでも話すことはあるでしょ」
「それができたら苦労しないんだけど」
大きく吐いた息が、白くなって雪と混じる。二、三歩歩いた秋穂がしゃがみこみ、雪をすくって丸め始めた。
「きっと、運命なんだよ」
秋穂が唐突に言う。
「私たちの力でどうしようもできないことって、あるじゃん。それは結局、生まれる前からの運命で決まってるんじゃないかなって思うんだ」
秋穂の哲学。秋穂の細くて白い手の中で、雪玉がどんどん大きくなっていく。
「で、きっとユキは、伊咲さんと一緒にいる運命なんだと思う」
何の確証も文脈も無いのに、秋穂のその言葉は不思議な説得力を帯びていた。
いつもそうだった。秋穂の哲学は、つかみどころが無くて、理屈で理解するのは難しいのに、どこか的を得ているように思ってしまう。
だけど、はじめて恋心を指摘された時と同じように、今もすぐには秋穂の言葉を素直に受け入れられない。
「どうしてそう思うの」
私が聞くと、秋穂は顔を上げて得意げに笑った。
「そうとしか思えないから」
その感覚が私にはわからなくて、ますます困惑する。
質問を変えてみる。
「どうして?」
「なにが?」
「どうして、そこまで私とりんのことを気にするの?」
秋穂は立ち上がって、なぜか嬉しそうに笑った。
「友達の幸せを願うのは、当然のことじゃん」
次の瞬間、秋穂が大きく振りかぶった。思い切り投げつけられた大きな雪玉が私の胸元で砕けて、コートを濡らす。思わず悲鳴を上げたら、秋穂は楽しそうに声を上げた。
「のろまユキ~!」
煽り言葉を浴びせられて、私は反射的に足元の雪をかき集める。
秋穂が続けて投げてきた、さっきよりはずっと小さい雪玉を避けて、固めた雪を秋穂に向けて思い切り投げる。それは途中で砕けてしまったけど、粉々になった雪が秋穂の顔に降り注ぎ、秋穂は悲鳴をあげた。次はもっと力強く押し固めて、狙いを定めて投げつける。それをひらりと避けた雪穂が投げた雪玉は、ぎりぎり私に届かず足元に落ちた。
そのうち、どちらも雪玉を作るよりも先に、雪を掛け合うようになる。海辺ではしゃぐカップルみたいに、お互いに、雪をすくっては相手に掛ける。
何度かの応酬があって、私たちのまわりの雪の絨毯は、すっかりボロボロの穴だらけになってしまい、草色の地面が顔を覗かせていた。私も秋穂も地面に座り込んで、肩で呼吸をする。
「っ、はー、疲れた……」
「はじめたの、秋穂でしょ」
「いや、仕返してきたのはユキだし」
顔を合わせて、なんだかおかしくなってきて、二人で同時に笑う。
ようやく呼吸が整ってきたところで、秋穂が立ち上がって体の雪を払ったあと、ベンチから鞄を持ち上げた。
「夢の雪合戦もできたし、帰ろうかな」
「夢だったんだ」
「二人だけでもこんなに楽しいとは思ってなかったけどねー」
そう言って、満足そうに秋穂が笑う。
公園の出口へ向けて、来た時とは逆向きに足跡が伸びていく。雪は止んで、公園から出てすぐの道路に積もっていた雪は解け始めているように見えた。私の家は公園を出て左手、秋穂は右手だから、公園を出たらすぐ別れることになる。
雪の上に足跡をつけながら、前を歩く秋穂の足元を見つめる。
公園を出る直前で、見つめていた足が止まった。
ローファーの踵がくるりと弧を描いて、つま先が私に向き合う。
顔を上げた時、秋穂の顔は、もう、すぐ目と鼻の先にあった。
止める間もなく、秋穂の身体が私と重なる。
真冬なのに春を思わせる甘い花の香りと、秋穂の熱っぽい息が、私の唇に触れる。
ほんの一秒くらいの口づけ。
一瞬の出来事だったのに、重なった唇から伝わった熱が、炎みたいに私の身体を一瞬で熱くさせた。
私を抱きしめたまま、秋穂は耳元でつぶやく。
「誰かを好きになれないなんて、嘘に決まってるじゃん」
秋穂の体温が、じわりと私の胸に伝わる。
その瞬間、私は秋穂が一番隠していた大きな秘密に触れたのだと悟った。転校生で友達もいない寂しがりの秋穂が、私にも、誰にも言えないまま隠していた秘密に。
肩をとんと押されて、私と秋穂の身体が離れると、秋穂の体温が消えて、急に寒さが身体に刺さり始める。
あまりにも急な出来事に言葉を失っていた私を見て、秋穂は優しく笑った。
「幸せになりなよ、ユキ。バイバイ」
そう言った秋穂は背中を向けて、私とは逆方向へ歩いていく。しばらくその背中を眺めていたけど、交差点の向こうですぐに夜の住宅街へと向かって曲がり、姿が見えなくなる。
秋穂。
名前を呼ぼうとしたけど、呼び止める意味もわからなくて、私は黙り込む。
残された秋穂の唇の感触とその熱が、すぐに微かな雪混じりの風に奪われていく。
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