19 - 「  」

 世の中には知らないほうが良い事だってある。むしろ、知らないほうが幸せに過ごせる事のほうが多かったりする。誰かの秘密とか、遠い場所で起きている問題とか、絶対に踏み込んじゃいけない他人の心の中とか。無知のままで生きていくからこそ、怖いものを知らずに、怯えずに、朗らかに生きていくことができたりする。

 じゃあ、知らないことは本当に正しいことなのだろうか。

 何も知らないで生きていくことが、人として正しい道なのだろうか。

 たとえば、恋心とか。

 たとえば、誰かの気持ちとか。

 たとえば、仲が良い友達の知らない秘密とか。

 もし私が秋穂の秘密を知らないままだったら、もっと良い道を選べていたのだろうか。

 その答えは、今になってもわからないままだし、きっとこれからも、わからないままだと思う。


 秋穂の秘密を知ったのは、理科室で実験をしている時だった。

 私たちの班は幸いにも「実験をサボろう派」ではなく「さっさと実験を終わらせてサボろう派」の人たちが集まっていた。おかげで他のどの班よりも早く実験を終わらせ、他の班が終わるまでダラダラと喋っているのが日常だった。

 手先が器用な利香と加奈子を中心に、火を使うとか危ないところは中田くんと吉原くんがやることになっていて、一番頼りになる(らしい)私がデータ取りを担当する。その日も他の班がわいわいと作業をする中、私たちの班はさっさと実験を終わらせて、私がノートにまとめた実験結果をメンバーがそれぞれのプリントに黙々と書き写す作業に移っていた。


「ユキ先生さ」

「ん」


 他のメンバーが実験結果を書き写している中、先に写し終わって手持ち無沙汰になった利香が話しかけてくる。


「最近、雪谷さんと仲良くない?」

「一緒に帰ったりはしてるけど。どうして?」


 いくら私たちが窓際の席とはいえ、あれだけ頻繁に一緒に帰っていたらさすがに見られているか。そんなことを考えながら利香の話を聞く。利香は眉間に皺を寄せて、深刻そうな声色で言った。


「近寄らないほうがいいよ」

「えっ、どういうこと」

「あくまでウワサなんだけどね」


 話を続ける前に、利香がちらりとまわりの人目をうかがう。みんな手元のプリントしか見ておらず、誰も私たちの会話なんて聞いていない。


「なに?」


 私が急かすと、利香は意を決した様子で私を見た。


「いや、雪谷さんって……」


 利香がまた、ちらりと他のメンバーに目を向ける。何度確認しても、誰も私たちのことなんて見ていない。小さく頷いた利香が手招きをしたので、私は耳を近づけた。声が漏れないように耳元のすぐ近くで、利香が口を開く。

 その時に、嫌な予感が背中にぞくりと走った。


「……  、」


 私の耳元で、とても小さな囁き声で、利香はその単語を口にした。


「やってるらしいよ」

「えっ、それって」


 しっ、と利香が口元に人差し指を立てて、私も慌てて口を抑える。

 心臓の鼓動が徐々に早くなっていく。

 利香が口にした単語。それは、いわば大人の男性からお金をもらって、一緒に歩いたりご飯を食べたり、デートしたりすること。場合によっては、たぶん、しちゃいけないことをしたりもして、つまり、それって犯罪なわけで。

 秋穂が、それをやっていると言うのだ。


「嘘でしょ?」

「絵里が言ってたんだから間違いないって、吉崎駅でよく待ち合わせしてるとか、ホテルに男の人と一緒に入っていくのを見たって人もいるし」


 絵里、っていうのはおそらく一組の種田絵里のこと。彼女は学年一の情報通らしく、一年生のことで彼女が知らないことは無いとか言われてたりする。

 それでも、彼女の知っていることが全部正しいとは限らない。中学生の噂話なんて、一の事実に対して百くらいの嘘が尾びれにくっついて広がるのが普通だから。

 心当たりは無いかと言われると、難しい。秋穂は週に一、二回、必ず「用事があるから」と言って一人で先に帰る日があって、毎日一緒に帰ってるわけじゃなかった。土日も何かしら用事があるらしく、とくに休日に会う約束をしたことは無い。

 いや、別にそれだけのことで、それがすぐに利香の言うことに直結するわけじゃないけど。むしろ、どちらかと言えば、利香の言うことをにわかには信じられない。


「そんな子じゃないと思うよ」


 私が言うと、利香は怪訝そうな顔でぐいと私の方へ体を寄せた。


「先生はお人よしすぎるの。あんな校則ギリギリのカッコしてさ、ぜーったい悪いことしてるに決まってる。ユキも巻き込まれるから、近づかないほうがいいって」


 りんならともかく、私がお人好しと言われたのは意外だった。

 とにかく全然納得できない、というか、あまりにも突拍子が無さ過ぎてすぐに受け入れることができない。けど、利香は利香なりに私のことを心配してくれているらしい。


「わかったわかった、あんまり関わらないようにするから」

「ほんとにぃ?」

「別に一緒に遊びに行ったりしてるわけじゃないから大丈夫だって」


 まだ疑いの目を向ける利香に、データを写し終わった加奈子が割って入ってくる。


「利香さー、さっきからなに怖い顔してんの?」

「なんでもないし」

「なに、ケンカ?」

「ちがうちがう」


 さすがに利香も大っぴらに秋穂の悪口を広めたかったわけではないようで、その後は吉原くんが最近ハマってるプロテインの話とか、加奈子のアニメ談義とかを聞きながら、他の班が実験を終わらせるまで他愛もない話に花を咲かせていた。私もその時はすぐに利香の言葉を忘れて、あまり気にすることなくみんなの話を聞いていた。


 利香の言葉を思い出したのは、授業が終わった放課後、はじめて秋穂に遊びに誘われた時だった。

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