13 - 時間の谷

 家に帰ってから、この胸に抱えた感情の理由をずっと考えていた。


 あの四人に仲間外れにされたわけじゃない。むしろ私のことは「ユキちゃん」としてきちんと受け入れてもらってるはず。会話に入れなくても相槌は打てるし、りんだって話が落ち着いたら私のほうへ向き直ってくれたかもしれない。友達はもう帰るところだったかもしれない。そしたら、りんと二人でゆっくり作品を鑑賞して、お茶でもして帰ることだってできただはず。


 それなのに、私は一人で立ち去ってしまった。

 友達と楽しそうに話すりんを見て、心の中でざわつく何かに耐えられなかった。

 今まで感じたことのない、もやもやとした感情。怒りでもない。悲しみでもない。寂しいとも違う気がする。嫉妬、も少し違う気がする。りんが楽しそうにしているのは、喜ばしいことのはずだから。

 胸をちくちくと痛みつけるこの気持ちにつける名前を、私は見つけられなかった。そうやって正体が何なのかはっきりとしないものに苦しめられることが、余計に私を苛立たせた。

 

 夜、お風呂上りにりんからメッセージが届いていることに気付く。

『今日はごめんね。私の絵、見た? 展示終わって持って帰ったら見せてあげるから!』

 何が「ごめん」なんだろう。私はりんに謝ってほしかったわけじゃないし、りんが悪いことをしたわけじゃないのに。

 そんな気持ちをそのまま打ち込もうとして、すぐに消す。何度か書いては消してを繰り返して、結局『楽しみにしてる』とだけメッセージを送った。スマホをベッドに放り投げたあと、自分の体もベッドに放り出して天井を見つめる。


 りんに対して、自分の気持ちを隠していた。りんには言いたいことを言ってきたつもりだったし、そもそも言わなくても通じ合うくらいに仲が良かったはずなのに。今はなぜか、そのまま気持ちを伝えてはいけないような、伝えたら今まで私たちが築いてきた大切な何かが壊れてしまいそうな、そんな恐ろしさを感じてしまう。


「ほんと、何なんだろう、これ」


 必死に考えようとしても、なかなか考えがまとまらない。あれこれと色んな気持ちや考えが浮かんできても、すぐに否定したり、掻き消したりしてしまう。

 まるで解けない数式をずっと解き続けているみたいな気分だった。もしこれが数学だったら、大抵、そういう時はそもそも解き方が間違っている。

 ということは、私もりんとの接し方を、何か間違えているんじゃないか。

 そんなことを思いながら、眠りにつく。


 次の水曜日。

 私たちは一言も喋らないまま、庭園のいつもの場所まで歩いた。その日の空は曇り模様で少し肌寒く、外で食べている人の姿はいつもより少なかった。


 いつもの場所に着いて、りんが持ってきたレジャーシートに並んで座り、お昼ご飯を食べ始める。

 りんも、私も、一言も喋らない。

 垣根の隙間から、子供連れの親子の声が聞こえてくる。何を喋っているかまではわからないけど、楽しくはしゃいでいる声が右から左へとゆっくり通り過ぎていく。次は自動車が左から右へ。風が木々を揺らす音、小鳥の鳴き声、遠くから電車が走る音が私たちの沈黙の上に次々と降ってきた。


「ユキ」


 りんはこちらに視線を向けずに、ナフキンの上に箸を置いた。


「ごめん、私、もしユキに何か悪いことしてたなら、謝りたい。けど、何も思い当たらなくて」


 そう言って私を見たりんは、今にも泣きだしそうな顔をしている。


「私、何かしちゃったかな」

「違う」


 考えるよりも先に言葉が飛び出して、りんが驚く。


「りんは悪くない。ただ、私が……」


 私が、なんだろう。次の言葉が見つからない。私が悪い、のかもしれない。だけど、誰が悪いとか、何かが悪いとか、そういう話じゃなくて。


「私は、私が思っているのは」


 掴みきれていない感情を何とか両手で掬い上げて、言葉にしようと試みる。でも、うまく言葉にできなかった感情は、無情にも私の手の隙間からさらさらと零れ落ちていってしまう。


「りんと、もっと一緒にいられたらいいのにって」


 私の言葉を聞いて、りんが目を丸くした。本当は、もっと言いたいこと、伝えたいことがあるはずなのに。今は、これ以外の言葉で伝える方法がわからない。


「小学生の頃は、毎日一緒に帰るとか、家で遊ぶとか、いつもりんが近くに居たから。今は、りんと会える時間が少なくて、寂しい、のかもしれない」


 まるで自分の言葉じゃないみたいような気持ち悪さを感じる。掬い上げた言葉に自信が持てない。りんが困った様子で笑うのを見て、じわじわと後悔の念が心の中に広がっていく。


「そう、だよね。前はずっと一緒にいたもんね」

「ごめん、わがままだってわかってる」

「ううん。仕方ないと思う」


 ふと、膝の上でぎゅっと握りこぶしを作るりんの右手が視界に入る。無意識に自分の左手を伸ばしてみる。

 りんと最後に手を繋いだの、いつだっけ。入学式の時には手を引いてもらったけど。横に並んで、手のひらの暖かさを感じながら手をつないだのは、もうずっと前のような気がする。


 ほんの数センチ、何かのきっかけで間違って触れてしまってもおかしくないような距離。それなのに、私とりんの手の間には、見えない時間の谷が横たわっている。私がどれだけ大人になったとしても絶対に飛び越えられない、運命で決められた、長い、長い、時間の谷。


 少しずつ、震える左手を伸ばしてみる。


「でも、もう私たち中学生だし、ね」


 その言葉に、私の手は石になったように固まった。


 もう、中学生だから。

 中学生だから、なに?

 中学生は小学生みたいに、仲良しでも手をつないで一緒に帰ったりしないの?

 中学生は一人の幼馴染とずっと一緒に居ちゃいけないの?

 中学生は、そんなに成長していないといけないの?

 誰にもぶつけることができない言葉が、私の心の中で暴れ回る。

 行き先を見失った左手の甲に、雨粒がぽつりと当たった。


「ねえ、りん」


 お弁当に蓋をしたりんが私を見る。


「私たち、キスしたこと、覚えてる?」


 りんが目を見開く。小さく開いた唇から、え、と声が漏れた。


「私と、ユキ、が?」


 今度は私の口から、え、と驚きの声がこぼれた。


「小学生の頃、私の家で、覚えてない?」


 数秒ほどの間があって、りんの顔がかっと赤くなった。あ、と声を漏らして、両手で口をふさぐ。

 その仕草から、忘れられていたりんの記憶を私の言葉が呼び起こしたことを察する。


「した。私が言ったんだよね、たしか」


 私は頷く。


「待って、あれ、ファーストキス、ってこと、私たち」


 数秒前の自分の質問を後悔する。なんでこんなこと聞いたんだろう。

 りんの瞳が困惑に染まる。耳まで赤くしたりんはうつむいて、両手で顔を覆った。


 この時に私はようやく理解した。ファーストキスが持つ意味の重大さを。つまり、ファーストキスを私に捧げたという事実を知らされることが、りんにとってどれだけの衝撃を与えるかということを、私は今までまったく想像していなかった。


「なんで、今、聞いたの?」


 かろうじて聞き取れる声でりんが聞く。

 私も自分に対して同じ疑問を持っていた。もし自分の心にドアがあるなら、蹴破ってその中に居るもう一人の自分に理由を聞いてみたかった。私も自分の発言の意味が自分でわからなくて、混乱していた。


「わからない、ごめん、忘れて」

「ちょっと待って、それ、どういうこと」

「もう行くね」

「ねえ、ユキ!」


 私はそう言って逃げるように立ち上がる。ぽつぽつと雨脚が強まり、私の髪を濡らす。

 庭園を小走りで抜ける時にもう一度呼ばれた気がしたけど、私は振り返らなかった。

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