12 - 綺麗な輪

 りんと電車に乗って出かけるのは、生まれて初めてのことだった。小学校のころの私たちの活動範囲は徒歩か自転車で行ける距離だったし、電車に乗るのはお父さんやお母さんと旅行や何かのイベントで遠い場所に行く時くらいだったように思う。

 そのせいか、りんと二人で電車に乗ることに妙に心が躍っていた。たとえそれが、自宅の最寄り駅からたった一駅だったとしても。


 私たちの家の最寄り駅はそんなに大きな駅じゃない。高架に上りと下りでプラットホームが一つずつあって、地上には改札が四つほどあるだけ。駅のまわりもほとんど住宅街で、駅前には駐輪場とコンビニくらいしかない。

 待ち合わせ時間の二十分も早く着いた私は、駅前の駐輪場に自転車を止めて、少し時間をつぶすためにコンビニに入った。飲み物コーナーに向かったところで、見慣れた後ろ姿が目に入る。


「りん」

「ユキ!」


 紙パックのアップルティーを手にしたりんと目が合って、同時に声をあげる。


「早いね、ユキ」

「りんこそ。一本早い電車乗れるね」


 私はミルクティーを手にして、りんの後ろに並んで会計を済ませる。改札を抜けて、エスカレーターで駅のホームにのぼったところで、ちょうど予定の一本前の電車が入ってきた。私たちは人が少ない車両のドアまで小走りして乗り込んだ。


 電車の中は座れないくらいには混雑していた。私たちはすぐ降りるからとドアの近くに立ち、りんはちょっと背伸びしてつり革を掴んでいた。


「りんってさ」

「うん?」

「絵が好きだから美術部にしたって言ってたけど、そんなに絵、好きだったっけ」


 りんが美術部に入部したと聞いたとき、私は真っ先に理由を聞いた。そんなに意外だったわけではないけど、なんとなく理由が気になった。その時に返ってきた答えは「絵が好きだから」という至極単純なものだった。


「好きだよ、ユキにはあんまり言ってなかったけど」

「ふーん」

「信じてないね」

「何かあるでしょ、他に理由」


 吉崎駅に到着するアナウンスが流れ、電車が駅へと滑り込み速度を落とす。


「知りたい?」


 りんが恥ずかしそうにしながらも口角を上げる。照れてるくせに何か言いたくて、背中を押してほしい時に見せる表情。私は黙ってじっと見つめ返す。


「恥ずかしいなあ」

「言いなよ」

「沙織先輩」

「えっ?」


 電車のドアが開き、りんは逃げるようにホームへ降りた。私もその背中を追いかける。この駅で乗り降りする乗客は少なく、改札へと続く階段を二人で広がって降りていく。


「小倉先輩?」

「そう。先輩に一目惚れしたの。体験入部の時にはじめて話したんだけど、すごく優しいし、落ち着いた雰囲気で大人っぽいし、絵も素敵だし」

「そんなことあるんだ」

「あるんだなー」


 改札を抜けて、初めて足を踏み入れる街に降り立つ。空はどんよりと分厚い雲に覆われていて、少しだけ肌寒い。駅のすぐ目の前の交差点を渡って、川沿いの遊歩道を歩いていく。


「憧れの人、みたいな」

「それもあるかも。沙織先輩みたいになれたらいいな、って思うし。だけど、なんかこう……惹かれちゃうんだよね」

「惹かれる?」

「何て言えばいいか難しいんだけど、近くにいたい、みたいな。アイドルの推しっぽい感じ」

「推し、かあ」


 私にはちょっとわからない概念で、りんの気持ちを想像するのが難しい。

 たしかに、私から見たらりんは年上で、お姉ちゃんのような雰囲気がほんの少しだけある。だけど、(失礼ながら)りんは大人っぽい落ち着きというのは持ち合わせていない。むしろ、そういう意味では私のほうが落ち着いていて大人びていると思う。だから、りんがそういう大人な雰囲気を纏う人に惹かれるのも自然かもしれないと思った。

 駅を出てから五分ほどで、開けた敷地の中に建てられた大きな図書館のような建物に到着する。


「ここ。去年もここで展示してたの」


 地元の文化会館。正式な名前は忘れたけど、たしか市立の公共施設だったと思う。体育館と小さなイベントホール、いくつかの展示場を併設している施設で、学校の催し物以外にも、地域のイベントとか会議が開かれているらしい。

 正面のエントランスから入り、りんは迷わずに「第二展示室」と書かれた方へ進んでいく。ちらりと見た「本日の催し物」の看板には「中学校美術部コンクール展示会」と書かれているのが見えた。


 展示室は想像していたよりも広かった。中は何枚かのパーテーションで区切られていて、その表裏に隙間を空けずに作品が飾られている。作品の横には小さな紙が貼られていて、学校名と名前、そして作品名が書いてある。思っていたよりも遠くの中学校からも作品が寄せられているらしく、聞いたことが無い中学校の名前もいくつかあった。

 りんはあまり他の中学生の作品には興味が無いようで、会場に入ると足早に展示室の奥へと向かった。

 りんの向かう先には、一枚の絵が飾られている。他の作品と違って特別にスペースが設けられていて、その横には最優秀賞のリボンが付けてあるのが見える。

 その絵の前で立ち止まっていた三人の女の子が、りんに気付いて手を振った。


「あっ、きりんじゃん!」

「由奈っ、お疲れ~!」

「ユキちゃんもこんにちはー」

「こんにちは」


 りんは三人に割って入って、その絵を見て歓声を上げた。


「やっぱ沙織先輩の絵、すごいなーっ!」

「ね。さすが最優秀賞」

「何食べたらこんなの描けるようになるんだろ」


 私も四人の後ろから小倉先輩の絵を見た。

 夕焼け空を写した海の絵。入学式の日に見た時よりも、重厚感が増しているように思える。油絵独特の立体感が、まるでそこに本物の海と夕焼けが存在するかのように錯覚させる。手を伸ばして絵に触れれば、そのまま油絵の世界の中へ入っていけそうな、そんな現実感を帯びている。


「でもさ、きりんのも良い感じだったじゃん」

「ねっ、あの透明感ある青い感じ、私好きだなあ」

「えへへ、でも最後ちょっと色間違えちゃったから。冒険しよーって思ったらなんか違う感じになっちゃって」

「そうなの? 全然気づかなかったけど」


 四人だけで会話が進んでいく。相槌を打ったり返事をしたりしようと頭の中で考えていた言葉は、口から出てくる前に別の人に取って代われる。私とりんの二人きりの会話のペースよりも、ずっと早い速度で言葉が交わされて、入る余地が無くなる。


「いまだに色使いってよくわかんないんだよね」

「由奈はもう少しハッキリした色のほうが雰囲気に合ってると思う。パステルカラーとか使ってみたら?」

「むずかしそー。きりん、使い方知ってる?」

「うーん、一年生の頃に少しだけ触ったことはあるけど……」


 少しずつ、少しずつ、自分の居場所が狭くなっていく。きりきりと胸を締め付けられているような気がしてくる。

 もともと私が入る余地なんて無かったのかもしれない。


 私が居なかった一年間、りんは毎日この人たちと過ごしていたわけで、そこには目に見えない綺麗な輪が完成している。その輪は、もう今から外したり繋ぎ直したりすることなんてできない。そこに後から来た私が入ることはできない。

 私は急に、ひどい無力感を覚えた。りんたちの会話が遠くに聞こえて、自分がここに立っていることが急に恥ずかしく思えてくる。居ても立ってもいられなくなり、この場から消え去ってしまいたいという気持ちが高まる。


「ごめん、先帰るね」


 四人の輪を壊さないよう、りんにだけ耳打ちして私はすぐにその場を離れた。ユキ、とりんの呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、私は振り返らなかった。


 文化会館から外に出ると、ぽつぽつと大粒の雨が降りだしていた。傘なんて持ってきていないから、私は小走りでさっき通ってきたばかりの道を引き返した。濡れたくない、という気持ちよりも、早くこの場から離れたい、という気持ちのほうが大きかった。


 結局、私はこの日、りんの絵を見ることができなかった。

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