9 - あと数センチ

 三階建ての中学校校舎は、ちょうど鳥が羽を広げたような作りをしている(と、りんが両手を広げて鳥の真似をしながら説明してくれた)。胴体である校舎の真ん中の一階、脚の部分には昇降口と正面玄関があり、そこから各階へ通じる大きな階段がある。正面に向かって左の翼には各学年の普通教室が、もう片方には特別教室が並んでいる。表面には正門と校舎の間に小さな庭があって、裏手にはグラウンドと体育館、そして裏門がある。


 りんは一階から順に特別教室を、それぞれの教室で活動している部活の紹介も交えながら案内してくれた。一階の理科教室では化学部、二階の音楽室では吹奏楽部、三階の情報室ではコンピュータ部と文芸部、そして特別教室と言う名の何も無い広い教室では、合唱部、卓球部、天文部といった部活が活動していた。


 驚いたのは、どこへ行ってもりんに声を掛ける人がいることだった。もちろん、練習中の合唱部や吹奏楽部は外からそっと眺めているだけだったけど、文芸部や卓球部、あとは天文部とか、文科系のほとんどの部活の生徒の誰かしらが、りんを見つけたら「きりんちゃん!」と声を掛けた。全員がりんと同じ、二年生。そして、りんとその子たちがしばらく楽しそうに喋って、そろそろ聞いてみるかと言わんばかりに「その子は?」と尋ねる。りんが「幼馴染のユキ」と紹介して、私が頭を下げると「ああ、噂のユキちゃん」と続く。これがお決まりのパターン。


 そう、私が噂のユキちゃん。


 私がいなかった一年間、りんはこの中学校で生活して、いろんなコミュニティでたくさんの友達を作っていた。一方で、私は今日はじめてここに足を踏み入れたばかりの部外者。りんと話すみんなの上靴は青いのに、私の上靴だけが赤い。新参者の私はみんなのことを知らないのに、私のことはみんなに知られていて、見定めされているような気持ちになる。

 どうしてだろう。りんの隣に立っているはずなのに、りんから一番遠いところに居るように感じてしまう。疎外感。仲間外れ。いや、それは言いすぎ。でも、そう感じずにはいられない。別に、りんは私にも他の子と同じように、むしろ他の子よりずっと特別に接してくれているはずなのに。


 りんがあちこちで同級生と喋るのに時間を使い、一通りツアーが終わる頃には夕方になり、最終下校時刻の放送が流れ始めていた。美術室に戻った時はほとんどの部員が下校していて、小倉先輩も帰ろうとしているところだった。


「戻ってこなかったらどうしようかと」


 苦笑いしながらそう言う小倉先輩に私たちはぺこぺこと頭を下げて、鞄を持って教室を出る。美術室の鍵を職員室に返しに行く先輩と一階で別れて、私たちは昇降口から外へ出た。どちらから言い出すでもなく、私たちは一年ぶりに学校から一緒に帰ることになった。


 帰り際、りんは正門と校舎の間にある庭園も少しだけ案内してくれた。小さな空間に花壇や低木が植えられていて、屋根付きのベンチもいくつか設置されている。


「お昼休みはどこでご飯食べてもいいから、ここで食べる人もいるよ。私も時々ここで食べてるんだ」


 そう言ったりんは両手を広げて、庭園の空気を全身で楽しむように大きく吸い込んだ。きっと、ここが好きなんだろうと思った。


「お昼ご飯、一緒に食べない?」


 当たり前に受け入れてもらえると思って私はそう聞いてみた。


「食べたい! けど、」


 その後のりんの返事は予想外のものだった。


「いつも部活の子とかクラスの子と一緒に食べてて……」


 ショックが私の顔に出ていたのかもしれない。りんは慌てた様子で言葉を付け加えた。


「じゃあ、週に一回とかは? 毎週水曜日、二人のランチデーとか。それくらいだったら、ユキもクラスの子とかと一緒の時間が作れるだろうし」


 一切の悪気無くりんが言う。部活動に入るとか、クラスの子と仲良くするとか、そういう普通の中学生らしい概念が私の中から完全に抜け落ちていたことを、今日一日で思い知らされた。今日この入学式を迎えるまで、私の頭の中ではずっと、りんと同じ学校にまた通って、りんと同じ時間を過ごすことしか考えてなかった。

 でも、りんが言うことはもっともだ。部活はともかく、今後の学校生活を考えるとクラスの子と話す時間は大事にしたほうが良い。それに、たとえ週に一日だけだったとしても、りんとゆっくり話ができるならきっと大丈夫。


「りんがいいなら、それがいい」

「いいに決まってるよー、ユキの話も聞きたいし!」


 そう言って、りんが嬉しそうに笑う。


 りんと並んで帰る通学路は、小学校の時よりも少しだけ長くなった。途中には大きな川があって、その川を渡る橋から見える景色がりんのお気に入りらしい。通っているうちに後から知ったけど、通学路の景色は季節によって表情を変え、この橋からは夜景が見えることがあれば夕暮れ前の黄昏色を写した水面が見えることもあり、私も時々立ち止まってしばらく景色を楽しむことがあった。


「誰か友達できた?」


 橋を二人で並んで渡りながら、りんが聞く。


「まさか。まだ初日じゃん」

「ユキ、あんまりガツガツ行くタイプじゃないもんねえ」

「りんはお人好しすぎ」


 橋を渡り終わり、歩道が狭くなっているところを、私が前に出て歩く。りんの横を抜かす時に、右手が微かにりんの左手に当たった。


「ユキにも早く仲良い友達ができるといいね」


 後ろからりんが言う。私は、うん、と小さく頷いた。その声がりんに聞こえていたかどうかはわからなかった。

 歩道が広くなったらまた横に並び、わかってはいるけれども、聞いてみる。


「一緒に帰るのも難しいよね」


 私が言うと、りんは申し訳なさそうにうつむいた。


「一緒に帰りたいけど。放課後は部活あるし、美術部の子たちと一緒に帰ることも多くて、ごめん」


 そう、部活。小学校とは違って、中学校の部活は毎日放課後にある。あとで聞いたけど、週に二日とか三日しか活動しない部もある一方で、美術部の場合はきっちり週五日、さらに土曜日も学校に来て活動する人が多いらしい。りんもそんな熱心な部員の一人だった。


「ユキも部活入りなよ。楽しいよ」


 りんが優しく笑う。

 その優しさが、私の胸を締め付ける。


「考えとく」


 横断歩道の信号待ち。隣に立つりんの手は、あと数センチ、私が手を伸ばせば掴めそうな距離にある。小学生の頃はどちらからともなく当たり前のように繋いでいた手。その手が今はなぜかとても遠く感じる。ほんの数センチの距離を縮めるために手を伸ばす勇気が私には無くて、凍ったように立ち尽くすことしかできない。


 青になった信号、りんが横断歩道を数歩渡ったところで振り向く。


「ユキ?」


 もう、戻れないんだと思い知らされた。

 りんの中学校での生活をこの目で見て、確信した。過去の私たちには、もう戻れない。

 どれだけ振り返っても、声を掛けても、言葉を紡いでも、もう、あの頃には戻れない。私の生活にりんがいる日々。手を繋いで歩いた帰り道。二人で遊んだすみれ公園。それらの景色は思い出になって、この先もう二度と見ることはないのかもしれない。


 私の心にじわりと染み込んでくるその実感を振り払いながら、私は小走りで横断歩道を渡った。

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