8 - 美術室

 中学校の階段は、小学校の階段よりもずっと幅が広い。私とりんが二人で並んで階段をあがっていても、並んでおりてきた別の二人組と余裕ですれ違える。二階までのぼって廊下へと曲がると、昇降口から聞こえていた喧噪が一気に遠のいた。


「まず美術室に荷物置こっか」

「いいの?」

「大丈夫、大丈夫。新入生は見学自由だし、そんな厳しい人もいないから」


 りんに手を引かれるまま、私たちは廊下の端へと向かう。美術室、と書かれた教室のドア。後から授業で何度か来ることになるけど、入るのはこの時が初めてで微かな緊張を覚えた。そんな私のことなんて見向きもせず、りんは慣れた様子でドアを開ける。


「戻りましたー」


 りんの肩越しに、二人の生徒がキャンバスから一斉に顔をあげてこちらを見た。その顔がぱっと笑顔になったかと思うとみんな立ち上がり、机の間を縫ってばたばたとこちらに駆け寄ってくる。先端が青色の少し使い古された上靴。りんと同じ二年生。


「ユキちゃん、来た!」

「連れてきたよー、幼馴染の春菜ユキ」


 突然のことに固まっていた私の代わりに、りんがにこにこと嬉しそうに他己紹介した。私は慌てて、春菜ユキです、と頭を下げる。


「わっ、ユキちゃん、入学おめでとう!」

「きりんより大人っぽいね」

「え、ひどくない?」

「だって身長もきりんのほうが低いし」

「それは言わない約束でしょ!」


 三人がわいわいと楽しそうに話す中、私はとりあえず、りんが「きりん」と呼ばれていることだけ理解した。伊咲りん、だから「きりん」。まあ、りんが気に入りそうなあだ名ではある。そして、りんがこれだけ楽しそうに接しているなら、きっと悪い人じゃないんだろうということはよく分かった。

 美術室は大きめの机と背もたれが無い四角い椅子がいくつか並んでいて、壁際に設置されている棚には絵具や紙といった画材と道具が詰めらている。その棚の上にはスケッチに使うのであろう石像も並べて置かれている。どれも小学校の図工室には無かったものばかりで、りんがこの雰囲気に惹かれて美術部に入ったのも納得できた。


「あれっ」


 りんが視線を向けた先、奥のほうに座っているもう一人の人影に気付く。

 大きな机のひとつにみんなが固まっている中、その人だけは奥の方で、私たちには大した反応を示さずにキャンバスに向かっていた。窓際で明るく照らされているせいか、そこだけまるで別世界になっているような印象を受ける。


「沙織先輩!」


 さっきよりもやや浮ついた高い声で、りんがその人の名前を呼んだ。気づいたらりんは私たちの輪から外れて、その先輩の元へと駆けだしていた。

 沙織、と呼ばれたその人は、キャンバスの前から立ち上がって微笑みながらりんを見る。私と同じくらいの身長。肩まで伸びた髪が、カーテン越しに差し込む外の光を受けて川の流れみたいにきらきらと輝いている。少し黒ずんでいるけど、綺麗に手入れされている上靴の先端は緑色。


「沙織先輩、来てたんですねっ」

「ええ。さっき来たところ。ちょうど伊咲さんとすれ違いだったみたい」


 私も一足遅れてりんを追いかけて、りんの横に立った。他の子たちよりもずっと大人びて見える先輩は、制服を着ていなかったら先生と勘違いしてしまうかもしれない。


「春菜ユキです」


 今度はちゃんと自分から自己紹介をして、頭を下げた。


「こんにちは、春菜さん。私は小倉沙織。ご入学おめでとうございます」


 小倉先輩は慈愛に満ちた表情でそう言って、丁寧に頭を下げる。

 入学前にりんから話は聞いていた。美術部の憧れの先輩。


「沙織先輩はね、部長なの。油絵で、すっごい上手」


 りんのいまいち語彙が足りない説明で私が理解できなかったことを悟ったのか、小倉先輩が私たちをキャンバスの表面へと手招きしてくれる。私は招かれるまま、小倉先輩の横に立ち、そのキャンバスに描かれている絵を見た。

 すごい。単純すぎるけれども、最初に私が思った感想はその一言に尽きた。

 それは日の入りの海を描いた風景画で、夕焼け空と海の色には青と橙だけでなく、紫、緑、赤が絶妙に調和しており、油絵独特の立体感によって海の波が動く様子がダイナミックに描かれていた。キャンバスの大きさは両手で持てる程度(あとで教えてもらったけど三十号と言うらしい)だけど、それでもとても大きく、壮大に感じる。


「すごい、ですね。上手、って言ったら陳腐かもしれませんが、色使いとか、奥行きを感じます」

「ふふっ、ありがとう」


 私の下手な感想に対して、小倉先輩は素直に喜んでいる様子だった。


「よければ体験入部していきます?」

「えっ、いや、私は絵とかはちょっと」

「そう。絵の他にも彫刻や版画もできますので、また気が向いたらいつでも来てください。仮入部期間が過ぎたあとでも歓迎しますよ」


 無理に勧めようとしてこないところが、ますます大人っぽくてかえって惹かれてしまう。りんは体験入部でこの人に説明してもらった時からずっと憧れの先輩なんだとか。実際に会ってみると、たしかにりんがそう言うのも頷ける。


「今から学校を案内してあげるんです」

「良い心がけね。今日は他の部活も出てきているはずだし、せっかくだから見学していくといいわ」

「はい、ありがとうございます」


 りんがぺこりとお辞儀をしたので、私も合わせて頭を下げた。まるで先生と話しているかのような気持ちになってくる。でも、知らない人と会って緊張しているだけの私と違って、りんはずっと羨望の眼差しで小倉先輩を見つめているようだった。


「じゃ、荷物こっちね」


 りんに促されて、教室の端、美術部の人たちの荷物が固めて置いてある中、りんの鞄の横に自分の鞄を置いた。たっぷり入っていた教科書の重量から解放され、軽くなった肩を回す。

 美術室を見まわして、ふと、一枚のキャンバスが目に留まった。水彩画、全体的に水色と青色をたくさん使っている、空のような、もしくは海のようにも見える絵。直感的に、りんの絵じゃないかと思った。


「りんも描いてるの?」


 私の予想は正しかったらしい。キャンバスに近づこうとすると、りんはすぐに身を呈して私の進む先に立ちはだかった。


「だめ。まだ描いてる途中だから」

「えー、良いでしょ別に」

「だめだめだめ。絶対ダメ。完成してから見てほしいの」


 りんはこうなると頑固だから、どう頑張っても絶対に私に見せようとはしない。


「じゃあ完成したら見せてよ、絶対」

「もちろん! それより、そろそろ行ける?」

「うん、大丈夫」

「じゃ、出発~」


 そう言ったりんは、また私の手を握った。美術部員の人たちの「仲良いね」という言葉を背中に受けつつ、私は手を引かれるがままに美術室の扉へ向かう。


 美術室を出る直前に、一度だけ振り返って、りんが見せようとしなかったキャンバスへ目を向けた。ここからだと、裏面しか見えない。さっきちらりと見た、青色の印象を頭に思い描く。

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