7 - 青色

 教室に戻ってから、教科書の配布、次の登校について、両親に準備してもらうこと、学校生活の注意点といった説明が一通り先生から伝えられたあと、初めての日直(つまり出席番号一番の「あいざわ」さん)が帰りの挨拶をして、私たちはようやく解放された。教室はせきを切ったように賑やかになり、一緒に帰ろうとか遊びに行こうとか、そんな声があちこちから聞こえてくる。

 私はというと、りんの顔を見てから不思議と緊張が落ち着いて、立ち上がって一度大きな伸びをした。そうやって気を抜いているところに、誰かに脇腹を小突かれる。見ると、いたずらっぽく笑う千夏がいた。


「ちょっと、なに」

「ユキ、気ぃ抜きすぎでしょ」

「やっと終わったーって思ってただけじゃん」

「ね、このあと亜季と三人でカラオケどう?」

「あー行きたい、けど」


 けど、私には約束がある。何よりも優先しないといけない、大切な約束が。


「りんと会うから」


 そう言うと、千夏はあっと驚いた様子で手を叩いた。


「そっか、伊咲さん。仲良かったもんねえ。同じ学校かー」


 りんは私からすれば幼馴染でも、同級生からすると学年がひとつ上の先輩。だからみんな、りんのことを「伊咲さん」とか「伊咲先輩」と呼ぶ。年齢差があって嬉しいことなんてほとんど無いけど、同級生で唯一、私だけが「りん」と呼ぶことが許されているのは、ほんの少しだけ優越感を味わえて嬉しかった。


「うん。久しぶりに会う約束してて。だからごめん、また今度」

「りょーかい」


 配られた大量のプリントと教科書を、角を合わせて整えたあと鞄の中に入れて背負う。結構な重量が肩にかかるけど、気にせず足早に教室の扉へと向かう。途中で目が合った千夏に手を振って、まだ賑やかさを残す教室から早々に脱出した。


 りんとはお互い違う学年の教室に行くのは気まずいだろうということで、昇降口の前で会うことにしていた。生まれて初めてこの校舎に足を踏み入れた私でも、わかりやすくて迷わず辿り着けるから、という理由もある。

 三階から一階まで、一段飛ばしで階段をおりていく。昇降口のまわりは、入学式を終えて帰ろうとしている新入生や、話し込む生徒と大人たちでごったがえしていた。その中に視線を巡らせるけれども、私が探している人は見当たらない。

 私は人混みから少し離れたところ、壁際の柱にもたれかかってスマホからメッセージを送ることにした。


『着いたよ』


 ほんの十数秒で返事が来る。


『ごめん、すぐ行く!』


 スマホを鞄の中にしまって、ぼんやりと階段をおりてくる人たちに目を向ける。入学式か何かで意気投合したのか、仲良く腕を組んできゃーきゃーとはしゃいでいる女子数人。本を読みながらおりてくる物静かそうな人。スマホ片手に、何かくだらなさそうなことをあたかも秘密めいた風に話している男子二人組。その誰もが、真新しく、先端が赤い上靴を履いている。

 他にも、階段をおりたら昇降口ではなく右に曲がって、職員室へと向かう先生たちもいる。まだ顔も名前も知らないけど、きっとこれから嫌でも覚えることになるのだろう。担任の先生は良い人そうだったけど、小学校と同じで、理不尽に怒る先生とか、嫌味な先生とかもいるかもしれない。

 こうやって目の前を通り過ぎる人たちと、これからの学校生活でどれくらい関わることになるのだろう。そんなことを考えながら、私はりんの姿が見えるのを待った。


 ほどなくして、階段をぱたぱたと駆けおりてきた一人の女の子が目に飛び込んでくる。ぼんやりとしていた視点は、スイッチが入ったようにその子に注目した。他の子と違って、少し使い古された上靴の先端は青い。

 見間違えるはずがない。混雑している場所でも自分の家族は簡単に見つけられるように、どこにいても私はりんを見つけられる。りんにとってもそれは同じことのようで、最後を降りきる前にりんは私を見つけて、ぱっと顔を明るくした。最後の一段をスキップして着地したりんは、人の流れに飲まれそうになりながらも何とか私のところまでたどり着く。さっき青空の下で見上げた笑顔が、すぐ目の前にあった。


「ユキ」


 私の名前を呼ぶ優しい声。ほっとするような、でも胸が躍るような、不思議な響き。他の人が私の名前を呼ぶときには無い、特別な感覚。


「りん」


 私が言うと、りんはくすぐったそうに笑った。


「ふふっ、入学おめでとう」

「ありがとう」


 りんのお祝いの言葉はなんだかくすぐったくて、ずっと昔からこの日を待ち焦がれていたような気持ちになり、私とりんは照れながら笑い合った。


「わー、やっぱ似合うね、制服」


 りんは私の身体をしげしげと見ながら言った。


「そう? なんか子供っぽいままな気がする」

「そんなことないよ。あ、でもちょっとスカーフ曲がってる」


 そう言って、りんの指が私のスカーフに触れる。りんの指先には、絵具か何かが乾いた水色と青色の跡が付いていた。


「私、リボンにしたいんだよね。スカーフ、ダサくない?」

「そうかな。っていうか、リボンっていいの? 校則的に」

「三年生でやってる人いるから、怒られはしないと思うけど」


 そう言って、りんは自分のスカーフを両手の指でつまんで軽く引っ張った。

 りんの制服姿はすごく久しぶりに見た気がする。制服の袖は買ったときよりも短くなっていて、手首はまだ隠れているけど、手のひらは全体が見えるようになっていた。

 今のスカーフのままでも十分可愛いけど、りんにはりんなりのこだわりがあるらしい。


「リボンにするなら何色?」

「うーん、紺色かなあ。こういう色じゃなくて、もう少し、海に近い色」


 私はその色を、うまく想像できなかった。きっと、りんの瞳の奥、私には見えないところでその色は描かれていて、それはりんがスカーフをリボンに変えた時、初めて理解できるものだと思った。


 ほんのわずかな時間、黙って物思いにふけったあと、りんがぱっと顔を上げた。


「じゃあ、新入生のための特別ツアー、出発する?」


 私が強く頷くと、りんは嬉しそうに私の手を引いた。

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