3 - ファーストキス
キスって、何の味もしないんだ。
それが、生まれて初めてキスした瞬間、最初に頭に浮かんだ感想だった。
その時の私は、恋も、愛も、唇を触れ合わせることの本当の意味も知らないくらいの子供だった。だからそこにはロマンチックな情景も、胸を打つようなときめきも、心から溢れ出る多幸感も当然無かった。
それでも、新しいことを覚えるたびに失われていく記憶の端、あの瞬間、あのワンシーンだけは、鮮烈な色彩を放ちながら私の中に残り続けている。
小学五年生の夏休み。私とりんは毎日、当たり前のように朝からどちらかの家に行って、夏休みの宿題を進めるのが日課だった(そうやって私が監視しないと、りんはいつまで経っても宿題を終わらせることができなかったから)。
その日は私の家のリビングで宿題をしていた。平日だったその日、共働きの両親は朝から家におらず、私たちは二人きりで、グラスに入れた麦茶をごくごくと飲んで適度に夏休みの自由を賛歌しつつも、だらだらと宿題のプリント束に向き合っていた。算数のプリントを目標のページまで早めに終わらせた私は、しばらくうんうんと唸りながら鉛筆を動かすりんを観察していた。
やがて限界が来て、りんはまるで息を止めていたプールから飛び出したように大きく息を吸って、床にごろんと寝転がった。
「はーっ、だめ! きゅうけい!」
「はいはい」
りんの言葉を合図に、私はキッチンの冷蔵庫の中からお母さんが切ってくれたスイカを取り出す。リビングに戻ると、ちょうどりんがソファに座り、テレビをつけたところだった。
「あっ、これ、たしか
ぱっとテレビ画面に映った番組を見て、りんが言う。
「たかぎゆいか?」
「知らないの? いま人気の女優」
「へえ」
知る由もないな、と思いながら、りんの隣に座る。学校に行っていたらまず見られない時間帯のドラマ。もう題名もストーリーも忘れてしまったけど、りんが食い入るように見ていたので、私もスイカを齧りつつ隣でぼんやりと眺めていた。
覚えているのは、ワンシーンだけ。主人公がヒロインと良い雰囲気になって、キスを交わすシーン。二人は初恋だったようで、たしかマンションの玄関の前かどこかで、初めての口づけを、そっと、軽く交わしていた。キスをした後のヒロインが、幸せそうに優しく微笑んでいたのが印象的だった。
瞬く間にスイカを食べたりんは私の肩にもたれかかりながらも、そのワンシーンをじっと興味深げに見つめていた。しばらくしてCMが流れ始めたところで、りんはにやりと口角を上げて、私を試すような目線を向ける。
「ユキはキスしたことある?」
口にしていた麦茶をこぼしかけた。
「いや、ない。あるわけないでしょ。りんは?」
「まさかー」
自分で言い出したくせに。これで「あるよ」と言われたら、それはそれで驚くけど。
「でも、なんかよくない、ああいうの」
「うーん、したことないから、なんとも」
「ユキ、恋とかしなさそう」
「しつれいな」
りんの肩を小突くと、本当のことじゃん、と言いながらりんはからかうように笑う。
「きゅうけい終わり。宿題するよ」
「えー」
不満の声をあげるりんを無視してテレビを消し、ソファから立ち上がる。りんも立ち上がって一度大きく背伸びしたあと、ふと思いついたように、私に声を掛けた。
「ね、してみる?」
「なにを?」
「キス」
「え」
「キス、してみる?」
りんは私に向き合って、わくわくした様子で言った。
りんがそう言った時、なぜか私の中には断るという選択肢が無かった。
後から思い返しても不思議でしかない。普通なら、そういうことは好きな人とするものだ、とか、簡単にそういうことを言うな、とか、何かしら注意しながらも断るものだろうに。
微かな疑問は、心の底にあった。でも、私はそれを無視して、にこにこと微笑むりんの瞳を覗き込みながら、静かに頷いた。
だから、私たちのファーストキスは合意の上だった。
りんもとくに躊躇することなく「じゃあ、目を閉じて」と私に言った。言われるがまま、私は目を閉じた。
嘘。実はうっすらと目を開けていた。だから、少なくとも私の唇に触れたのがりんの二本指とかではなく、正真正銘、彼女の唇だったことは知っている。りんは息を止めていたようで、なんとなく私もそれに倣って、息を止めた。
今までに見たことがないくらいにりんの顔が近づいて、私たちの唇が重なった。初体験の柔らかくてあたたかい感触が、唇から伝わってくる。
ほんの数秒ほど。ただ、唇を合わせていただけ。
その時はそれ以上のことは何も感じないまま、りんが唇を離して、私は目を開けて、二人でじっと見つめあった。
「どう?」
少し乱れた前髪を触りながらりんが聞く。
「どう、って言っても」
正直、まず最初に抱いた感想は「この程度か」だった。
ファーストキスはいちごの味がするって言っていたのは、誰だったっけ。あれは真っ赤な嘘なんだと、私はこの時に初めて知った。本当に何の味もしない。強いて言えば、少し汗ばんだ皮膚の味がした気がする。
だけど、その感想を正直に言うとりんが怒るかと思い、何か別の言葉を探す。
「……やわらかかった、あとなんかべたべたする」
「たぶんリップクリームじゃない?」
そう言ってりんがポケットからピンク色のリップクリームを取り出した。言われてみれば、少しだけしっとりとした感触で、フローラルな香りがした気がする。
「けっこういいよ、これ。ユキも使ってみる?」
「じゃあ」
りんからリップクリームを受け取って、何の疑いもなく自分の唇に塗る。りんはわざとらしく口元に手を当てて「間接キスー」と言った。いや、今キスしたばっかじゃん、と私は反論する。
リップクリームで唇に潤いが生まれると同時に、さっきりんとキスしたときに香っていた花の香りが、つんと鼻をついた。
「ちょっと香りがきつい」
「そうかな、私は好きだけど」
りんはそう言って私からリップクリームを受け取り、さっきまで私に重ねていた唇にそれを塗り直していた。
実はこの日の私の記憶は、ここで途切れている。この後、りんと何を話して、何をしていたのかはあまり覚えていない。二人とも違うことに興味と話題が移り、たしかドラマの話か学校の話か、いずれにしても、何事も無かったかのように口づけとは関係の無い話をしながら、夏休みの宿題と向き合っていたんだと思う。
「生まれて初めて」は、人生においてとても特別なもの。
どんなことでも、「生まれて初めて」は人生で一度しか訪れない。
初めての場所に訪れて見た事のない景色を目にすることも、口にしたことがないものを食べることも、好きな人と初めて手を繋ぐことも、そして、初めて口づけを交わすすることも。人生で一度きり。
そんな「初めて」の経験はすべて、かけがえのない特別な宝物として心の中に残り続ける。その後に果てしなく続く人生を歩いていく中で、ときどきその宝物を取り出しては、その輝きに見惚れて、憧れて、そして時には寂しくなって、また大切に胸の中にしまいこむ。
私たちのファーストキスだって、本当はそうなるはずだった。大切な人と初めて唇を重ねることは、恋しくて、愛おしくて、何にも代えがたい、嬉しいのに切ない気持ちを伴って、心の中に残り続けるものだから。
そんな当たり前のことに私が気付いたのは、りんとファーストキスをしたずっと後のことだった。
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