『ホワット・イズ・ティス・シング・コールド・ラブ―恋とは何でしょう?―』

小田舵木

『ホワット・イズ・ティス・シング・コールド・ラブ―恋とは何でしょう?―』

 恋とは何か?君はこんな事を考えた事はあるかい?

 今、僕はジャズを流しながら考えている。ナンバーはビル・エヴァンスの『ホワット・イズ・ティス・シング・コールド・ラブ』。即急に展開されるこの曲は僕のお気に入りだ。

 思考のお供はジン・トニック。暑い夜にはコイツが欠かせない。

 僕は酒がめる歳になったというのに。恋というヤツを知らなかったのだ。つい最近まで。


 僕はしがない大学生。猫も杓子しゃくしも恋というヤツをする時期なのだが。

 中学から男子校出身の僕には恋なんて縁がなかったのだ。

 だから。今の状況は晴天の霹靂へきれきとも言える。

 僕は大学生になって。久しぶりに女の子と接した。

 アレは衝撃だったね。うん。女の子に幻想を抱きながら送った中高生生活。その後でのいきなりの女子の出現。

 だが。僕の女性幻想は粉々に砕かれた。大学生の女の子達はとにかく下品だった。

 集まっては下世話な話をし、常に人を値踏みするような視線でめつけてくる。

 こんなモンだったっけ?女性って、と僕は思ったさ。これじゃあ男子校に居た、ホモセクシャルな子の方がよっぽど女っぽかった気がする。


 そんな事もあって。僕は大学に入ってから2年、女とは無縁の生活をしてきた。

 それは楽な生活だった。だって中高のノリをそのまま持ってくれば良いんだもの。

 周りの友達は性欲に負け。下品な女の子の尻を追い回すのに夢中で。

 僕はそんな彼らをシニカルな目線で見送った。阿呆アホだな、彼らは。僕は上から目線で彼らを批評していた。


 だが。そんな僕にも転機は訪れた。

 僕は運命的な出会いをしちまったのだ。そして運命的に恋に落ちてしまって。

 今は酒を呑みながら悩んでる。彼女とどうすれば恋仲になれるのだろうかと。


                   ◆


 彼女は。僕のバイト先にいる先輩だ。

 ショートカットの髪にスラリとしたボディのボーイッシュな女性。

 名を小森こもり和都わとと言う。

 彼女は僕の指導係でもある。接客のスキルを彼女から学んでいる訳だ。


「ねえ。神崎かんざきくん?」接客をした帰りの先輩は言う。

「はい?」

「なんで私をとっくりと眺めているのさ?仕事がやり辛いったらないよ」

「それは…小森さんの接客を見て学ぼうかと」

「勉強熱心なのは良いけど。私の接客なんて大した事ないじゃん」

「僕は。今までバイトとかした事なかったし。とりあえずは貴女あなたを見て学ぼうかと」

「うーん。喫茶店の接客なんて。居るようで居ないようにに振る舞えってしか言いようがない。こと、こういう純喫茶ではね」僕たちの勤め先はレトロな純喫茶。マスターと僕らバイトしか居ないような小さな店である。

黒子くろこに徹せと」

「そう。私らは店の備品みたいなモン。お客様に意識させてはいけない」

「勉強になります」


 僕がこのレトロな純喫茶にバイトに来た理由。それが小森さんである。

 ちょっと前に。僕は大学の課題、レポートに追われていた。だが。家ではどうしてサボりがちになるから、喫茶店でやろうと思い、アパートから近いこの店を選んだ。

 そして彼女に接客された。

 僕はコーヒーを運んでくる彼女の優美さで―恋に落ちてしまったのだ。

 あの時の光景は今でも目に浮かぶ。


「こちら。ブレンドコーヒーになります」小森さんは音もなく僕のテーブルに近づいて、小さなカップを置いていく。

 ちょうど窓際の席に座っていて。そこから差す光に包まれた彼女はまぶしかった。ボーイッシュな彼女が天使のように思えた。

 その時。僕の心臓はゴトリという音を立て。ああ。恋に落ちてしまったな、と思った。

 僕がレポートを終わらせたのは夕方。その時までに2杯はお代わりをしていた。その度ごとに彼女がコーヒーを運んで来たが、僕は食い入るように見つめ。

「お客様。私に何か?」彼女は言った。

「いえ…」僕は言いよどむ。貴女に見惚れたなんて口が裂けても言えない。

「そうですか」と彼女は席を去って行こうとするのだが。

「ちょっと待ってください!!」気付くと彼女を呼び止めており。

「はい?」彼女は振り向き問う。

「ええっと…ここ。バイトの募集はありますか?」

「…どうでしょう?マスター?」彼女はカウンターにいるマスターに呼びかける。

「小森くん?」渋いおじ様マスターはこたえる。

「バイト…もう一人要ります?」

「君の休みを組みやすくなる。うん。要るよ」

「このお客様がバイトをしたいそうです」彼女は僕を指差しながら言う。

「そうかい。なら今から、ささっと面接するかな?」

「いや。今、僕。履歴書とか無いですよ?」

「ん?この店は個人経営だからね。私がルールだ。書類は後で良い。君の人柄を知りたい」かくして。僕はカウンターに呼ばれ。マスターの面接…ちょっとした質問を受け、あっという間に採用が決まった。


                   ◆


 恋に落ちた男の生活は満たされたモノになる。初めて知った。

 僕は毎回バイトにいくのが楽しみだ。小森さんと一緒に居れるから。


 かの喫茶店は。変な店であった。キチンとバイトをするようになってから知った。

 レトロな内装の店内。渋いマスター。うん。ぱっと見は純喫茶なのだけど。

 昼間は客が少ない。今日日きょうび、純喫茶など流行らないのだ。マスターもコーヒーと無骨な軽食以外は出さないと心に決めているし。

 夜はバーに変わる。ここからがこの店の本領であった。

 街の寂しい大人たちが一時の癒やしを求めて集まってくる。

 僕たちバイトはこの時間帯の方が忙しい。ま。注文を取って酒とツマミを運ぶだけなのだが。


 僕は注文を取って酒を運びながら、小森さんを見つめる。

 彼女はパンツルックにエプロンのシンプルな出で立ちだが、妙にこの店にマッチしている。

 笑顔でお客さんに接する小森さん。こんな顔は接客中しか見られない。

 うん。一緒に働くようになって知ったけど。小森さんは中々クールな女性なのだ。

 大学のアホ女と違ってキャピキャピ騒ぐような事はしない。凛と一本筋が入ったような雰囲気をかもし出している。


                   ◆



 僕たちのバイトは15時から22時まで。

 僕はバイトを終えると、この喫茶店で食事を取る。マスターにまかないを作ってもらうのだ。

 その時は小森さんも一緒だ。


「いやあ。マスターの料理美味うまいっすね」僕は対面の席でオムライスを食べる小森さんに言う。

「ホント、酒作りながら作ったにしては美味いよね」なんて彼女は言う。

「ねえ。小森さん?」

「ん?」

「小森さんは大学生ですよね?」今まで聴きそびれていた事。

「そうだね。君のところとはまた別の大学だけど」

「どこの大学です?」

「ここから少し離れた総合大。文学部」

「あそこ…頭良いっすよね?」

「ま、私は内部進学組だからアホだけどね」

「俺も内部進学ですよ」

「そりゃ奇遇」ここで会話は途切れる。俺はもっと小森さんの事を知りたいのだが。彼女はクール過ぎて言葉数が少ない。こうやって喋るチャンスを作るのも難しい。


 俺は小森さんと同じオムライスを食べながら考える。

 さて。小森さんはどんな話題なら食いついてくれるのか?

 大学の下世話な女子は服とか食い物の話をよくしてるもんだが。


 小森さんはオムライスをゆっくり味わうように食べている。

 その姿は可愛らしい。まるで少年が楽しみにしてたオムライスを食べるかのような感じ。

 彼女は歳の割にはユニセックスな見た目を維持している。

 普通、高校生を迎えた女子は体型が変わるもんだが。


「小森さんって…」俺は無理やり言葉をひねり出す。黙っているのがもったいなく感じてしまったのだ。

「なんだい?」オムライスを食べ終わった彼女はコーヒーをすすりながら言う。

「彼氏とか…居ないんです?」思い切って聞いてみた。こういう調査は欠かせないだろう?恋に取っては。

「彼氏ねえ。どうにも私は恋というモノにうとくて」彼女は髪をかき分けながら言う。

「それは僕もです。男子校出身ですから」

「私は共学出身だから。別に疎くなる理由はないんだけどね…」彼女は少し言い難そうに言う。

「貴女ならモテるでしょうに」

「私?こんな見た目だぜ?男にはおおよそウケない」彼女は自分を指し示しながら言う。

「僕はそうも思いませんけどね…魅力的であると思いますが」こんな事を言ってしまう僕。少し攻めすぎだろうか。

「君くらいだよ。そんな褒め言葉をかけてくれるのは」

「…小森さん。貴女あなた近寄り難いから」

「そうかなあ?自分ではゆるゆるな雰囲気でいるつもりだけど」

「いいやあ。クールですって」

「…そうかい。以後気をつけようかな」

「気をつけられたら。貴女はモテだすなあ…」

「なんだい?私がモテたら困るのかい?」

「いいや。そんな訳では…」僕はこういうとこで攻めあぐねる悪癖がある。

 

                   ◆


 恋とは何か?僕は思い悩む。

 恋とは下心である。誰かはそういった。この言葉を否定するすべを僕は持たない。

 僕は小森さんに一方的に幻想を抱いていて。まあ下衆な心も抱いてる。

 だのに。僕は小森さんの事をさっぱり知らないのだ。本人があまり語らないものだから。

 僕はやきもきする。彼女の全てを知ってしまいたいという欲求に襲われる。

 だが。その道は遠く険しいし、彼女の関係者が周りに居ないものだから外堀を埋める事も叶わない。

 

「マスタあ」僕は小森さんが休みの日にマスターに語りかける。仕事終わりのカウンター。珍しく僕は酒を頼んでいた。ジン・トニック。

「どうした神崎くん?お代わりにはまだ早いよ?」

「いやね。僕…このバイトを始めた理由がね…」

「小森くんだろ?分かってるさ」

「やっぱバレバレですよね?」あんだけバイト中に小森さんを見つめていれば察される。

「だが。小森くんは気づいてないね。彼女…鈍感と言うか。心に壁がある」

「僕はどうしたらいいんですかね?」

「私からはじっくりとやっていけとしか言いようがない」

「マスターなら小森さんの事知ってるでしょう?」

「そりゃ雇用主として色々知ってはいるが。君に教える義理はないぞ」

「そこをなんとか」

「もっとカネを落としてくれるなら考えない事もないが」

「バイト代が溶けてしまう」

「…恋なんてさ。自分でどうにかしていくから楽しいんじゃないのかい?」マスターはシェイカーを振るいながら言う。

「どっこい。僕には恋愛経験値が少ないんです。この感情をどうしていいのか…」

「それこそいい経験じゃないか。小森くんを通して君は成長するんだ」

「それが苦しい。今にでも彼女を自分のモノにしてしまいたい」

「…そうなってくると私は困るなあ」なんて言いながらシェイクした酒を他の客に出すマスター。

「店にカップルが…まあ。困りますか」

「ああ。下手しい機能不全を起こす。私としてはこのまま進まない方がありがたい」

「そんなあ」僕はジン・トニックをあおる。

 

                   ◆

 

 僕の日々は過ぎていくが。小森さんとの仲は進展せず。ああ。もどかしい。

 なのに。バイトでは一緒で。小森さんの姿を見る度に胸がときめいてしまう。

 彼女は今日もクールに店の備品として静かに接客をしていて。でも時折せる笑顔が眩しくて。


「神崎くぅん?」彼女に呼ばれる。

「へ?」僕は彼女を見ていて意識がトリップしていた。

「あっちでお客さんが呼んでる」

「ああ。今行きます…」なんて業務的な会話を繰り返す日々。


                   ◆

 

 バイトの帰り道。僕は小森さんと一緒になる。

「秋も過ぎて行きますなあ」僕は嘆息を彼女にこぼす。

「季節は待たない。日々は過ぎていくものだよ。神崎くん」

「僕は何も出来ないまま、歳をとっていく」そう。貴女との距離を詰めかねている。

「そんな事は無いんじゃない?最近の君は頼りがいがある」彼女は僕を褒めてくる。

「そう言ってもらえると嬉しいです。貴女にアテにされる男になりたい」

「…アテにしてるって」

「そうですかね?あまり頼られてる感じはしない」

「私は。君は真面目な子だと思ってる」

「…」確かに僕は真面目にバイトをこなしているが。そこには下心がある。恋だもの。

「このまま。君とは健全な関係を続けたいものだ」

「僕は―」言い淀む。本当は貴女の事を知りたい。誰よりも。

 

「私の事を知りたいのかい?」彼女はポツリと言った。

「…あんだけ視線を送っていれば。バレますかね」僕は降参宣言をする。

「まあね。今までは気付かないフリをしてきたけど」彼女は横を向きながら言う。

「迷惑かけました」

「別に構わない。恋をするのは人間の摂理…と言うか本能だもの」

「僕は下心込みであのバイトを始めたんです」

「それが私…光栄だね。人に惚れられるのは久しぶり」

「貴女。ホントにモテないんですか?僕はひと目見た時から夢中だった」

「…」彼女は黙り込む。何かを思案している様子だ。

「小森さん?」僕は問うてみるが。

「…本当に君は私を知りたいのかい?」彼女は僕に向き直って言う。

「知りたいです。恋うてしまった相手なのだから」

「んじゃあ。今から話をしようか」

 

                   ◆


 僕と小森さんは近所の居酒屋に入って。お互いにビールを持って向かい合う。

「…僕は恋に疎い。だからよく知らないけど。こういう話の時に居酒屋ってどうなんだろう?」自然な疑問。

「神崎くん、分かってないなあ。秘密の話をする時はこういうガヤガヤした所の方が都合が良いんだよ」彼女はビールをあおりながら言う。

「…秘密の話?」なんだか雲行きがおかしくなって来たような。僕はとりあえず突き出しの枝豆を食べながら言う。

「そう。私の秘密の話」

「…よっぽど重大な秘密があると?」

「あるね。今まで君にクールに接してきたのにも理由はある」

「なんだか緊張してきた」

「ねえ。神崎くん。私は今から重大な発表をするよ?心の準備は良いかな?」彼女は目を見つめてくる。

「ちょっと待って」僕はビールを呷り。お代わりを注文する。嫌な予感がしたのだ。

「…酒で誤魔化ごまかせるような話じゃないよ?」彼女はうつむき加減で言う。

「一体…何なんです?」僕は意を決して聞いてみて。

「今まで私って一人称を使ってきたけど。

「…正解はあたい?」僕は阿呆あほうなアンサーを返してしまう。もう一つの可能性については…今は考えたくない。


「正解は。ないしだよ」彼女…いや。はそう言った。


                  ◆


「俺はね。性の同一性に違和感がある」彼は言う。

「だから女装を?」僕は聞く。小森さんの私服はフェミニンではないが、女性ものだった。そして薄っすらメイクをしている。

「そうだね。女装をしている時の方がしっくりくる…ってもプライベートな時間の時だけだけど」

「いや。バイトはプライベートじゃないでしょ」突っ込む。

「あそこのマスター。実は俺の親戚だ。事情は全部知ってる。だから俺はあそこで女装して…女性名を名乗って働いている…小森和都わとってのはステージネームなんだ。俺の女装の時の。本名は和都かずとって言うんだ」

「ええ…」僕はビールを呷りながら、ため息を零す。

「悪かったよ。騙してて」

「いや。見抜けなかった僕が悪い…」

「なんなら。今からメイク落として来ようか?少しは男の顔になる」

「頼めますか?実は今も―悪い冗談だと思いそうになっている僕がいる」


 小森さんはしばらくトイレに立つ。

 僕はそのあいだ席に取り残されて。呆然としていた。

 ガブガブとビールを呑んで、場を持たせるが。身が崩れそうになるのをなんとか我慢している。

 ボーイッシュな女性だと思っていた人がとは…


「待たせた」彼は便所から戻ってきて。僕はその顔をじっくりと見る。目元のディファインやチーク、ファンデーションを落とした彼は少しだけボーイッシュさが増した女性のような感じ。正直今でも凡百ぼんひゃくの女より美しい。

「やっぱ信じられない」

「よく言われる。お陰で虐められてきたもんだ」

「そりゃ。こんだけ女性っぽければ違和感を抱かれる」

「俺は元々男性ホルモンが薄い体質らしい」

「…」僕は次々と迫りくる真実に圧倒されている。

「幻滅してくれても良いんだぜ?」彼は温くなったビールを呷りながら言って。

「幻滅ねえ…したいんだけど。予想外に女性っぽさが残っているから、何とも言えません」

「君はホモセクシャルの傾向があるんだろうか?」彼はく。

「いや。多分無いはずですけど…女性とも付き合った事ないし」

「まあ、俺なら…自画自賛になるがホモではないかもね」

「…」僕は3杯目のビールを頼む。こんな状況。呑まなけりゃやってられないのだ。

 

                  ◆


 僕と彼の呑み会は微妙な雰囲気のまま続いていく。

「まさか一目惚れされるとはね」

「だって。あの時の貴方あなたは綺麗だった…」僕は何杯目か分からないビールを呷りながら言う。

「改めて言われると照れるな」

「ああ。どうしたものかね」

「本人を前にして何を言う」

「だって。惚れた女が実は男でした―って…どうすれと」

「自分の気持ちに正直になってみても良いかもよ?」彼は俺の顔を覗き込みながら言う。

「突然さ。ホモセクシャルとしての生き方を考えろって言われても…」

「別にこのご時世…いや歴史の中において同性愛は異質なものではないさ。近代、現代になって婚姻制度ができたから、とやかく言われるだけでさ」

「ううむ。一理あるけど。心理的には受け入れがたい」

「君は柔軟性に欠けるな。俺に惚れた癖に」

「そこは関係ないでしょう?」

「言ってみただけだよ」

 

                  ◆


 今晩はしたたか呑んでしまった。お陰で結構フラフラ。

 僕と小森さんは店を出たが。僕がまともに歩けないのをみると介抱してくれる…のだが。今はその優しさに素直になれない。

「別に一人で帰れますって」

「いやいや。路上で寝るコースだな」

「…もしかして持ち帰るつもりですか?」酔った僕はアホを言う。

「いやいや。送って帰ろうかと」

「家は…あっちですよお」


 僕は彼に連れて帰られる。僕が借りている肩は女性のものにしてはしっかりし過ぎで。男性のものにしては華奢で。


 僕たちはアパートに帰りつくのだが。僕は彼の助けなしには階段を登れそうになかった。

「しょうがない」彼はそう言って。僕を部屋まで連れて行って。玄関に放り込むと別れを告げる。

「今日の事。よく考えてみてくれ。…じゃあ。おやすみ神崎くん」

「さいならあ」僕は玄関にいつくばったまま、彼に返事をして。


 そして。玄関で眠ってしまった…

 

                   ◆


 朝は無常にも来る。僕は昨日の事を夢だと思いたかったが。

 どっこい現実であるらしい。頬をつねっても痛い。

 しかし寒いな。僕は思う。玄関で寝ちまったからな。

 

 僕はキッチンでコーヒーをれる。バイト先で分けて貰った豆。

 苦味ばしるブラジルコーヒー。寝覚めにはコイツが一番効く。


 僕は部屋に入り。スマホで音楽を流す。無音の空間に耐えられなかったからだ。

 シャッフルされたプレイヤーはビル・エヴァンスの『ホワット・イズ・ティス・シング・コールド・ラブ』を流した。タイトルの和訳は『恋とは何でしょう』。今の俺の心境にはピッタリ過ぎる曲だ。

 

 僕の恋とは何なんだろうか?ふと考える。一目惚れした相手は女装した男性だった。

 僕は。今まで恋というモノをしてこなかった。それは小学以来男子校で過ごしてきたから。

 だが。大学生になって。久しぶりに共学校に行って。そこで女性に幻滅した。なんと下品な奴らだろうと。

 だが。そんな僕にも惚れられる相手はできた。その人は―美しく。僕の心の琴線は震えた…

 

 僕はその運命のような恋…に身を任せてしまえば。楽になれるかも知れない。

 

 なのに。彼女は彼で。気持ちに素直になるには色々と障害が多い。

 別に。僕はホモセクシャルに抵抗があるわけではない。このご時世じせい色んなセクシャリティがあり。法整備も進んでいるし、社会もそれを受け入れる土壌がある。

 後は僕が受け入れるか受け入れないかの問題であり。その選択は僕に委ねられている。

 彼は『俺はどんな結論でも受け入れる…』と言っていたのだから。

 

 僕は部屋の床に寝転んで。天井を眺める。白い壁紙が貼ってあるそれはスクリーンのようで。

 僕はそこに彼と一緒になる未来を思い描いてみる。

 女装した彼とデートをし、その後でベットに誘う絵を想像してみる。

 ここで困難は起こる。彼と性交する様子を思い浮かべる事が難しい。

 …でも性交だけが付き合いではない。分かってる。でも。僕は人間として生まれてしまった以上、生殖欲があって。それは性欲として発露される。

 

 僕の恋とは何なんだ?性欲だけで片付けられるものなのだろうか?

 これへのアンサーはある意味ではそう。

 人の恋なんていうものはその延長線にある性交を抜きにして語れない。


 ああ。もどかしい気分だ。僕は小森さんに惚れているのだ。ならば。彼を全て受け入れるべきではないか?知らないからって躊躇するのはどうかと思う。


 …結論が出ない。意見は幾つもあり。それが拮抗して結論を出せない。

 僕は床から起き上がり。お代わりのコーヒーを淹れに向かう。

 

                ◆


 小森さんに事実を告げられてからのバイトは気まずいモノだった。

 だが。日々は無常にも過ぎていき。僕は結論を先延ばしにしていた。

 

「あーあ」僕は喫茶店のバーカウンターでマスターを前にしてため息を吐く。

「悩んでるな。青年」彼は僕に酒を出してきて。

「そらね」僕は返事をしながら酒を受け取る。ピート泥炭ただようウィスキーのロック。癖の強い香りが僕の鼻孔を突く。

「…和都わといや、和都かずとの秘密を知っちまったか」マスターはグラスを拭きながら言う。

「ええ。僕の告白は、今、宙ぶらりんですけど。そろそろ結論を出さなきゃ」

「気持ちに従えば良いだろう?」

「その気持ちの整理がつかんのです」

「君は和都にひと目惚れしたんじゃないのかい?」

「女性としてね。男だとは思わなんだ」

「アイツは男だが。男にしとくのはもったいない美人だ。それをモノに出来る。男冥利みょうりにつきるだろ?」

「そこがお悩みポイント。ほんとメイクを落とした小森さんがもっと男っぽければ良かった」

「人生はそう単純ではない訳さ」

「まったくです」

「…アイツも嬉しかっただろうよ。女装した姿に惚れられたんだから」

「小森さんは女装姿に自信がない?」

「らしいね。だから大学では男の格好をしている。正直、私は彼に全ての時において女装しててもらいたい。だってそれが彼の自然なのだから」

「理解ありますねえ。マスター」

「私はこのバーで色んな人間を見てきたからね。別に女装男子なんてありふれたモノさ」

「僕もそれくらい理解してあげれれば。彼を楽に出来るのかも知れない」

「今からでも遅くはないさ」

「…僕は」

 

                  ◆


 恋とは何でしょう?

 僕はこの命題に結論を出すべき時間に来てしまった。

 目の前には小森さん。女装した姿だ。

「長い事待たせてしまって済みません」

「良いんだよ。君には悩む時間が必要だった…私も少し悩む必要があった」

「小森さんが?」

「うん。君を受け入れたけど。お付き合いするとなると別…って事に居酒屋の後で気付いてね」

「僕は。自分のセクシャリティは…ノーマルだと思うんです」

「だろうね」

「でも、そんな事は抜きにして。貴女あなたにどっぷり惚れてしまっている…ここで考えたのは性欲の問題です。お付き合いする以上そこの問題は避けられない」

「私は…君とするのはアリだと思ってる」彼女は少し赤くなりながら言う。

「僕はそこに躊躇ちゅうちょ…と言うかうまく想像ができなくて。結論を伸ばし伸ばしにしてきた」

躊躇ためらう気持ちは分かるよ。私には女性器がない…」

「んで。長い事悩んできたけど。結局はやってみないと分からないという結論に至りまして」

「んじゃあ?」

「…小森さん。僕と付き合ってくれませんか?彼女…いやパートナーとして」

「…後悔しない?」

「それは分からない…僕は馬鹿なんです」

「君の愚直さは好きだよ」

 

 僕は。恋に落ちた。

 でもその恋は―複雑なものだった。

 そのせいで悩みもした。だけど、結局悩んでも分からなかった…

 だから。馬鹿な僕は一歩足を踏み進めて問題を考えることにした。

 恋と何でしょう?その問いに対する僕のアンサーは情けない。ある種の先延ばし。

 でも。このアンサーに後悔はない。


 恋とは。落ちるものであり。運命のように僕を引きずっていく。

 引きずられて行く先には幸せはないのかも知れない。

 だが。僕はその先をどうしても見てみたいのだ。小森和都わと和都かずとさんと一緒に。


 

                   ◆

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『ホワット・イズ・ティス・シング・コールド・ラブ―恋とは何でしょう?―』 小田舵木 @odakajiki

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