四章 団結

 ヤスは「また明日もここで話しましょう。朝食を食べ終わった頃に。テーマは『なんでも』です」と告げ、レクリエーションルームを後にした。おれはヤスに続いて部屋を出た。ヤスの背中にはじんわりと汗の染みができていた。振り返ることなく歩くヤスになんて声を掛けたらいいか、おれにはわからない。しかし、訊きたいことはたくさんあった。

「なあ、ヤス」

 ヤスは振り向かず、返事もしない。

「なあ、ヤス」

 汗の染みの色がどんどんと濃くなっていくように見える。

「おい、ヤス」

 ヤスはぐるんと振り返った。首だけがこちらを向いたように一瞬錯覚し、うつぶせのまま天井を見つめた姿を思い出したが、きちんと身体ごとこちらに向いていた。

「いやあ、しゃべり疲れました。本当に疲れました。しゃべりつかれたの『つかれた』は『取り憑かれた』の『憑かれた』で表現した方が正しいかもしれませんね。自分でもびっくりです、勝手に思考が流れ出ていくみたいでした」

 ヤスはため息を吐くように笑った。瞳にも光が戻ったようだった。

「たとえ『憑かれている』んだとしても、凄かったよ。お前がそんなに口が達者だとは知らなかった、どこで覚えたんだか」

 それは正直な感想だった。前から人懐っこさのある奴だと思っていたが、そういう器用さとはまた別の、一種のカリスマ性のようなものを感じた。

「それに、あんな博識だったとはね。動物好きなのは知っていたが、宇宙にまで詳しいとはな」

 ヤスは顎を突き出し「えへん」とわざとらしく威張った。

「図書室の本、ちょいちょい読んで齧ってる程度ですけどね。人から教わったわけじゃないんで正しい知識かは自信ないんですけど」

「いや、それでも十分説得力あったよ、素直に感心した」

「照れますね、なんだか。タカさんってそんな褒め上手でしたっけ?」

 ヤスは本当に嬉しそうに、それこそ、大げさな表現をすれば恋が実った乙女のように頬を高揚させた。


 次の日、レクリエーションルームには倍以上の人が集まった。施設にいる約半分の人間が一箇所に集まったためか、間隔をあけて座るということができなくなった。「へへっ」と笑い合いながら、またしてもやって来た三人組は黄色いシャツを着ていた。ヤスが昨日着ていた服によく似ている。一方、ヤスは今日、赤色のシャツを着てきていた。昨日参加していた人たちはコイさんを含め、全員また参加しており私服に戻っていた。そのため、初参加者は患者服、それ以外は私服という明確な線引きができている。初参加者の中にはコンドウの姿もあり、いつも通り何人か仲間を引き連れている。その中には二人女がいて、今回は比率的には圧倒的に男が多いものの、男女混合という形になった。

「皆さん、お静かに」

「皆さん、私語は慎んでください」

「皆さん、口を開いてはいけません」

 三人組がそう呼びかけ、ヤスをホワイドボードの前に立つよう促した。ヤスは

「えーと、すごい人増えましたね。なんか、緊張するな。じゃあ、まず、机の形をみんながみんなの顔が見えるようにしたいので、円形にしてもらっていいですか?」

 三人組が率先して机を運び、そのあとに続くようにして他の参加者も机と椅子を移動させた。コンドウたちは壁に寄りかかり、手伝わないまま「学級会の時間じゃねえんだよ」と野次を飛ばす。ヤスへ対する露骨な反抗心がむき出しだった。参加人数が多いため、みんなの顔が見えるという目的だけは何とか果たしている歪な円になったが、ヤスは満足そうだった。

「ありがとうございます、助かりました。これで、だいぶ話しやすくなりましたね。さて、じゃあ、早速ですが、今日は『卵の殻』について話そうと思います」

 コンドウは「殻だってよ」と言って鼻で笑った。仲間たちはそのコンドウの言葉に反応して笑った。

「卵から生まれてくる生き物はたくさんいます。代表的な生き物といえば鶏とかですかね、カエルなんかもそうですね。彼らは、彼らって言い方はちょっと変ですけど、彼らは殻を破って産まれてくるわけです。一方でぼくたち哺乳類は卵からは生まれません。卵の殻を破ることなく、産み落とされるんです」

 コンドウは「そんなん知ってるわ」と言って笑う。それに対し三人組が注意をする。

「お静かにお願いします」

「静かにしなければなりません」

「静かにしていただけませんかねえ」

 ヤスは特にそれらには反応せず、続けた。

「殻を破る、これは自発的な、生を獲得するための行動です。卵が産み落とされた瞬間、命が宿るのではなく、殻を破る瞬間に命が宿るんです。鳥のヒナは孵る前に嘴打ちと言って、内側から嘴を使って殻を割りますよね。でも、全部が全部、殻を破るわけではないんです。当然と言えば当然ですけれど、一度も嘴打ちをせずに死ぬヒナもいるんですよ。体力が足りなかったり、まだ完全に成長しきってなかったり、まあ、理由は色々あるんですけど。でも中には、体力もあって、完全に成長しきっていて、環境も整っているにも関わらず嘴打ちをしないヒナもいるそうなんです。不思議でしょう?」

 三人組は顔を見合わせて口々に同調し始めた。

「不思議ですねえ」

「不思議でたまりませんねえ」

「不思議でしかない話ですねえ」

 それに対し、コンドウは「静かにしろって言ったのはどいつだよ」と横やりを入れた。

「ぼくは、それを自殺だと考えます。正確には命が宿る前なので自殺という言い方は間違っているんですが、それ以外にいい言葉もありませんからね。あ、長くてもいいなら生まれることへの拒否と言ったところですね。卵から生まれてくる生き物たちは、一番初めに、その選択をするんです。だから、びっくりするくらい生に対して貪欲ですし、ぼくらとは比べ物にならないほど生命力に溢れてます。そして、一番の違いは、卵の殻を破った生き物は決して自殺しないんです」

「馬鹿なこと言うな、人間以外自殺なんかするもんか」

 大声で、それこそ怒鳴り散らすような、真っ向から対立する宣言のような口調でコンドウは言い放った。

「それがするんですよ、びっくりでしょう?」

 ヤスは意地悪そうに微笑んだ。あらかじめ、そういう反論は想定していたのだろう。

「有名な人間以外の自殺はイルカのドリーですかね。メスのイルカで、驚いたことに人間の男性に恋をしたんです。一緒に泳ぐ際、身体を引っ付けてきたり、つついてきたりしたそうです。でも、残念なことに二人は離れ離れに、まあ、水族館の閉園なんですけど、離れ離れになったんです。そしたらドリーはプールの底に潜って自ら呼吸孔を閉じて死んじゃったんです」

「ロマンチック……」

 コンドウの仲間の女がそう呟いた。話をさえぎってしまったためか、自分の発言に恥ずかしくなったからか、それともコンドウに対して気が引けたためか、女は顔を赤らめた。

「失恋で自殺するイルカ、確かに、なかなかロマンチックではありますね。他にも、オーヴァなんとか橋っていう海外の橋は犬の投身自殺スポットとして有名ですし、レミングっていうネズミは集団で海に飛び込んで入水自殺する生物として有名です。まあ、投身自殺や入水自殺なので事故と見分けがつかないって言われると困っちゃうんですけど、ともかく、自殺する報告のある生き物は決まって卵からは生まれてなかったんです。不思議な共通項でしょう?」

「馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てるようにコンドウが呟くと、すかさず三人組が反論する。

「間違いを認められないのは恥ずかしいですねえ」

「間違いを認めることは恥ずかしいことですからねえ」

「間違いを認めることができないことも恥ずかしいことですねえ」

 何か気味の悪い、趣味の悪いコントのようだった。ヤスはそのやり取りを聞いて笑った。そして、言い合いが一段落するまでヤスはじっと待った。注意することも、参加することもなく、ただ、静かになるのをヤスは待った。

「じゃあ、ぼくたち人間にとっての殻って何でしょうか?」

 ヤスは子供に読み聞かせをするような優しい口調で続けた。

「人間は卵からは生まれないって話をした後に、この質問をするのはちょっと変かもしれませんが、殻の代わりと考えてくれれば結構です。ああ、こう言い換えても良いかもしれませんね。『人はいつ生まれるのか』と」

 またしても、ざわざわと皆が言い合いを始めた。コンドウは鼻からヤスを馬鹿にしきっており「ガキの哲学ごっこによくもまあ、みんな付き合うもんだ」と言って、仲間内の賛同を求めた。イルカの自殺をロマンチックと言った女は居心地が悪そうに微笑んでいた。おれは隣に座った初参加の男から「い、い、いつだと思います?」と訊かれたため、少し考えたが思いつかず、質問をそのまま相手に返した。

「や、や、やっぱり、む、難しい、ですよね」

 かなりの吃音のようで、話そうとするたび唇が、顎が、ガタガタと震える。そうこうしている間に、だんだんと、静かになってゆき、自然とヤスの方へ視線が集まり始めた。ヤスは小さく頷くと、話し始めた。

「人間にとっての卵の殻は目蓋なんです。目を開いたとき、それが生まれる時です、命の宿る時です」

 コンドウがまたしても何かを言おうと口を開きかけたが、それより早くヤスは続きを話し始めた。

「では、人が物を見る時の話をしますね」

 ヤスはホワイドボードに備え付けられているペンをとって、ニコリ、と嘘くさい笑顔を作り「これはペンです」と言った。パラパラと笑い声が起こった。

「でも、これがペンだと、どうしてわかるのでしょう? それは、ペンという言葉を皆さんが知っているからです。だから、たとえ、ぼくの方を見なくても『これはペンです』という言葉さえあれば、誰でもペンを思い描くことができるんです。でも、これでは見ているということにはなりません」

 ヤスはペンをもう一本取った。

「今、手に取ったのは赤いペンです。皆さんにも赤いペンが見えているはずです。左手に黒いペン、右手に赤いペン。ぼくの方を直接見なくても、この説明だけで、頭に思い描けるはずです。描けているはずです。しかし、これは言葉による認識です。ぼくが本当にペンを握っていようが、いまいが、誰でも思い描ける虚像なんです」

 ヤスは続けた。

「目蓋がある以上、ぼくらは真に物を見ることはできないんです。ぼくらは見たという気になることしかできていないんです。たとえば」

 赤いペンのフタを外しぐるぐるとホワイドボードに林檎を描いた。

「林檎です。さて、もし、林檎という言葉を知らない人が見たら、どうなるでしょう?」

 その隣に黒いペンでバナナの絵を描いた。

「バナナを知っている人なら、バナナ以外の何かが目の前に在る、と認識するでしょう。ぼくらも全く知らない物を目の前にしたとき、まず、似ている物を探して判断するはずです。このように、ぼくらは比較で物を見るんです。内側に、言い換えれば、目蓋の裏にストックした言葉で表せる物と一々照らし合わせて、物を判断しているんです。だから」

 そう言って、また赤いペンで林檎の絵を描いた。

「全く同じ林檎は二つとして存在しないにも関わらず、どちらも、林檎だと判断するんです。それは、その林檎自体を見ているわけではなくて、内側にある林檎を見ているだけなんです。ぼくらは、目を開いていても、内側の、目蓋の裏にある物しか見れていないんです」

「見れていないんですねえ」

「見ることはできないんですねえ」

「内側しか見ることができていないんですね」

 ここぞとばかりに三人組が感心する。しかし、コイさんはどこか納得がいっていないようで、素早く瞬きをしてから、すっと大木のように太い腕を挙げた。

「コイさん、どうしました?」

 コイさんは立ち上がると、礼儀正しく一礼してから話し始めた。

「人が物を見る時のお話、非常に興味深く拝聴させていただきました。しかし、その理屈ですと一つ疑問が浮かびます。それは、最初の、原初の感覚についてです。ワタシたちが物を見るとき、それは内側を見ていることになるならば、その内側が空である原初の時はどのようにして物を認識するのですか?」

 コイさんはヤスの返答を待たずに続けた。

「ワタシなりに考えてみました。それは、空の時などなく、常に内側は満たされているという考えです。あらゆる物は内在しているという考えです。親から教わらずとも蜘蛛の子は蜘蛛の巣を張れるように、ワタシたちはあらかじめ、あらゆる物を認識できるよう内側にその原型があるのではないでしょうか?」

 何やら小難しい話になってきたと感じたのと同時に、コンドウが「賢いおしゃべりだなあ」と茶々を入れたため、おれは自分とコンドウは案外似ているのかもしれないと思った。しかし、それ以上は考えないことにした。

「コイさん、それは危険です。危険な考えです。その考えを推し進めると、ぼくらは何もせずに死んだっていいことになります。内側に全部、あらかじめ、揃っているなら何もする必要はないですからね」

 ヤスは二本ともペンを置き、両手で空を掴むような動きをした。

「空の時は存在します。何もない、ゼロを噛みしめる時間は確かにあるんです。でも、それは無感覚を噛みしめる時間でもあるんです。ここは、なかなか難しいところです。ですから、色々なたとえ話を用いて、伝えようと思います。一つが理解できなくても、全体として感じ取ってください」

 ヤスは少し上の方を見て、たとえを即興で考えているようだった。

「たとえば、大きな音が鳴った時、ぼくたちは驚きますよね。それは今まで何もない、無音を感じていたからです。けれども、それは無とイコールではないんです。汚い話ですけど、すかしっぺでもニオイでバレてしまうことってありますよね。なぜ、ニオイを感じるかといえば、やはり、いままで無臭を感じていたからです。口の中を切ったとき、鉄の味を感じますよね。それも、無味をいままで感じていたからです。原初の感覚、それは永遠に続くと思われるほど長い無感覚の時間なんです。無ではない、無感覚の時間なんです」

 ヤスはそこで一旦話すのをやめた。参加者に無感覚を感じさせる時間を与えているようにおれには思えた。

「本来なら、その無感覚だけをたよりに、あらゆる物を一つ一つ丁寧に、言い換えるなら、全てに疑問をもって見ることが本当に物を見るということなんです。しかし、ぼくらの内側は言葉で満たされています。だから、何を見ても『知っている物』『見たことある物』にしてしまうんです、なってしまうんです。これは教育による負の成果です。教育というのはペンを見て全員が『これはペンです』と言えるようにすることなんですから。ぼくらはそうやって、疑問を、反抗を、反論を、封じ込まれているんです。殻を破らせず、目蓋を開かせず、その中で死を迎えるよう、死を選択するよう操られているんです」

 おれは、徐々にヤスが言いたいことの輪郭が掴めてきたような気がした。それは歩く道こそ違うものの目的地は昨日と全く同じ。私服組もそれを察したのかソワソワと落ち着きを失いつつある。

「いいですか、皆さん。施設は殻の中の死へと皆さんを誘導しているんです」

 ヤスは両手を固く握った。今にも戦いだしそうな構えに見えた。それから、ゆっくり両手を開き、話し始めた。

「施設にはおかしな部分がたくさんあります。まず、カレンダーがありません。時計がありません。そして、部屋の明かりは消せません。テレビは置いてありますが、どこにも繋がれていません。だから、何も映りません。時間の感覚がなくなることで、どのくらい長くこの施設にいるのかを忘れさせ、テレビなどの外部の情報を与えないことで、常に過去へ過去へと目を向けさせるんです。レクリエーションルームで一度でも未来の話が議題に上がりましたか? 無いはずです。ぼくたちは外部から完全に隔離されています。ぼくたちは未来から完全に切り離されています」

 ヤスは人差し指をピンと立てた。それにつられて私服組は背筋を伸ばした。

「外部から与えられるものと言えば、動物があります。あれは皆さん、一週間に一度だと思い込んでいるかもしれませんが、実際は七日の時もあれば六日の時もあり、八日の時もあります。ぼくたちのリズムはそうやって少しずつ破壊されているんです。でも、疑問を持たなかったでしょう?」

「持ちませんでしたねえ」

「持ったことはなかったですねえ」

「疑問を持てたことはなかったですねえ」

 三人組の賛同に続いて、他の参加者も「確かに変だ」「何で疑問を持たなかったんだ」「おかしい」と口を開き始めた。おれの隣の男も「ひ、ひ、ひどい話で、ですね」と同意を求めてきた。皺の多い唇から覗く黄色い歯が見えた。笑っているのだ。

「疑問を持てなくて無理ありません。だって、そういうふうに誘導されていたんですから。あらゆる不満や疑問は習慣に紛れ込ませることで、見えなくなるんです」

 ヤスはポケットから薬を取り出した。

「本当にぼくたちは、この薬を飲む必要があるのでしょうか? 身体の病気であれ、精神の病気であれ、何の薬かわからないまま習慣だから飲む、ということがあっていいんでしょうか?」

 三人組が勢いよく手を挙げた。

「飲んでいません」

「飲んではいません」

「飲むことをしていません」

 彼らはそう言って薬を潰した。

「飲んでねえぞ」

「飲んでない」

「飲んでいません」

 私服組たちもそう言って薬を潰した。あのコイさんの大きな指も薬を粉にした。皆頬が高揚している。

「ぼくはずっと薬を飲んでいません。そして、ここに入った理由も憶えています。だから、きっぱりと、断言できます」

 ヤスは一番高い位置で薬を潰した。

「ぼくたちに薬は必要ない、ぼくたちは患者なんかじゃない」

 参加者の多くは手を上げたまま、何か言葉にならない声を上げた。人の声というより、動物に近かった。彼らは自分たちの潰した薬の粉を撒き散らした。その場で患者服を脱ぎ棄て、上半身裸になる者も現れた。おれの隣も笑顔で拍手を送っている。拍手と言ってもそれは手の平をただ力いっぱい打ち付けるだけの歪なものだったが、全身で喜んでいることは伝わってきた。それでも、そんな熱狂の渦に呑まれていない者も数人いて、特にコンドウは色んな参加者に「ガキの哲学ごっこだ」だとか「よくまじめに最後まで聞いていられたな」と話しかけては「そんな騒いで恥ずかしくないのか?」「アイツの話を鵜呑みにするな」と水を差した。けれども、コンドウの言葉でどうなるものでもなかった。

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