三章 変化

 ケイコさんは死んだ。白いシーツが巻かれ、頭と足が黄色いロープで縛られていた。屈強な男二人が引っ越し作業のように施設からケイコさんを運び出した。時間こそわからないが、一番深い夜にケイコさんはそっと運び出されたように思う。一人がほとんど偶然にそれを見つけなければ、ケイコさんの死は誰にも知られなかっただろうし、おれたちは依然として治療中だと思っていただろう。ほとんど全員が一階に集まり、その様子を見つめた。泣く人も、声を立てる人もなく、一定の距離を保ったままケイコさんの死体が車に乗せられるまでを見つめた。車に乗せられ、死体の姿が隠れると、一人また一人とすっかり関心を失ったみたいに去っていった。車があの細い坂を下っていく様子を多分、見たくないのだ。おれとヤスはわざわざ八階まで上って、窓から車の光が完全に見えなくなるまで見届けた。光が消えるとぽっかり夜だった。おれもヤスも口を開かず、夜を黙って見つめた。夜、というより黒色と向き合っているような感じだった。おれとヤスはどちらともなく寝室へと戻った。何か話すべきことがあったような気もするが、何も話すことなんてなかったような気もする。

五階まで一人階段を下っていると鈴鹿ちゃんが見回りをしていて、おれは手を軽く上げた。鈴鹿ちゃんはおれに気が付くと小さく頭を下げ、寄ってきた。ちょうど六階と五階の間で、つまりはどこでもない階でおれと鈴鹿ちゃんは立ち話をした。はじめはケイコさんのことには触れないで、できる限り普通のことを、いつも通り話そうとしたけれど、やはりそれには限界があって、おれのほうから「ケイコさんはどうして死んでしまったんだろう」と切り出した。言ってから鈴鹿ちゃんは施設側の人間なのだから、その答えを知っていることに気が付いた。鈴鹿ちゃんは目に見えて動揺し、それから、目を伏せた。ああ、おれには伝えることができないのだとすぐにわかった。それはたぶん、施設側の規則のようなものなのだろう。

「残念だ、すごく。この施設にはずいぶん長くいるけれど、人が亡くなるのは初めてのことだから」

 そう言ってから、初めてのことでなくとも人の死は残念なことなのだから、もっと別の言い方があったような気がして後悔した。

「そういえば、ケイコさんを二人で探したとき、鈴鹿ちゃんは『首が回った』って言っていたね。あれは何か、死の前触れみたいなものだったのかな、なんて思ったりしたんだけど」

 すっと鈴鹿ちゃんの瞳が暗くなった。

「それは私にもわからないです、でも」

 鈴鹿ちゃんはそのあとはっきりとした口調で「無関係ではないと思います」と言った。鈴鹿ちゃんは見回りを終えてないため、一度頭を下げ、それ以上話さず階段を上って行ってしまった。おれは「無関係ではない」を頭の中で繰り返しながら、自分の寝室へと戻った。

 

 次の日の朝、食堂は異様な光景だった。ほとんどの人が水色の患者服を着るようになっており、また、私語というものがごっそり切り取られていた。あの喧しかったコンドウでさえ患者服を着て黙々と箸を動かすばかりで、その取り巻き達も俯いている。私服を着ているのはタナベさんくらいのものだった。

「なんだ、これは」

 ヤスは「辛気臭くてイヤになっちゃいますね」と言った。

「何で急に、患者服なんかを」

 きっかけはケイコさんだとわかっているものの、それがなぜ患者服を着るという行動に繋がったのか、おれにはわからない。

「死にたくないからですよ、みんな」

「死にたくない?」

「わかんないんですか、タカさん。今までは、みんな、この施設でダラダラやってこれたんですよ。自分たちは死なないだろうし、というか、死ぬとかそういうことをすっかり頭から捨て去ってたんですよ。でも、ケイコさんの件があって、ちゃんと、自分たちは死ぬんだって思い出したんです。だから、必死になって、今頃患者を全うしようとしてるんですよ」

 ヤスは、一気にまくしたて、それから首を掻き始めた。バリバリと畳を爪でひっかくような音がした。

「でも、ぼくは、これっぽっちも、小指の爪ほども、自分の身体が悪いとは思ってません。みんな、馬鹿正直に受け止めすぎなんですよ。だって、そうでしょう、ここが身体を治すための場所なら、健康診断なんてわざわざ外部から呼ばなくていいじゃないですか」

 ヤスは自分の着ている黄色い無地のTシャツを引っ張った。目の覚めるような、絵本の中の太陽のような色だ。

「ぼくは絶対患者服なんて着ませんよ、タカさんも毒されてあんなダサイ服着ないでくださいね」

 おれは「着ないよ」と言った。薬をもらい、いつも通り端の方の席に腰を下ろすと、患者服を着こんだ奴らがチラチラと覗き見てくる。

「気分悪いな」

 おれとヤスはさっさと朝食を済ませ、適当なレクリエーションルームで時間をつぶすことにした。

「あ、そういえば、コイさんも今日から患者服着てましたね」

 コイさん、が誰だか思い出すのに少し時間がかかった。ああ、優しい巨人か、と思い出すころには別の話題に移っていて、ヤスは「ヘビはトカゲの一種」だという話をしていた。

「ですから、トカゲっていう大きな枠があって、その中にヘビっていうグループがあるんです。見た目はかなり違いますけど、足をもいじゃえば結構似ていると思いません? ツチノコの正体はアオジタトカゲっていう足の短いトカゲですし。日本でツチノコブームが起きた年代と、輸入でアオジタトカゲが日本にやって来た年代って被っているんですよ。ペットとして飼育したヤツを逃がしたら、ツチノコ騒ぎに発展したんでしょうね」

「まあ、似てるっちゃ、似てるなあ」

「それにですね、ヘビに足を生やす研究っていうのも進められているんですよ。本来の姿を取り戻させる研究、ロマンがありますよね」

 そんな話をしている間にレクリエーションルームに着いた。まだ人はどの部屋にも集まっておらず、一番乗りだった。

「ぼくたちが議題決めちゃいます?」

「ヤスが決めろよ。おれは別に話し合いたいことはない」

「冷めてますねえ」

 そう言うとヤスはレクリエーションルームのホワイトボードに近づきペンを握った。ペン先を付けては離し、付けては離し、何を書くか決めかねているようだった。そして乱雑に「なんでも」と癖のある尖った字で書くと、その隣にぐるぐると渦を描いた。その渦はどんどん大きくなり、ホワイトボードの半分を埋めた。

「メエルシュトレエムに呑まれて、みたいだな」

 おれはそう呟いてしまった。

「なんですか、それ」

 渦をまだ大きくしながらヤスは訊いてきた。

「読んだことないか? エドガー・アラン・ポーの短編で、渦潮から機転を利かせて脱出する話だよ」

「古い作家はあんまり読みませんね。小説自体苦手な部類ですし、図鑑は好きですけどね」

 そう言って「動物が一番ですよ」とヤスはぼやいた。しばらくすると患者服の連中がぞろぞろ上がってきて廊下が騒がしくなった。

「すいません、ここ、何、やってますかあ?」

 ヤスが何かを抱き迎えるように腕を開け「何でもです」と答えた。「へへっ」という笑い声をあげながら、三人男が入ってきた。三人で一人、というような印象を受ける連中で、皆坊主頭なうえに顔までよく似ている。食堂でも三人で食べていたのを何となく憶えている。患者服を着ているため、どこか手術前のような雰囲気がある。

「でも、あれですねえ。『なんでも』って、一番、難しいですねえ」

「難しいですよねえ『なんでも』って」

「自由過ぎちゃって難しいですねえ」

 三人が三人とも似たような言葉を似たような発音で話し、「へへっ」と自虐的に笑う。

「そんな固く考えないでくださいよ、リラックス、リラックス」

 ヤスが「もう少し待って、人数増えたら、ぼくから話しますから。それまでに話したいなあってこと考えといてください」と伝えると、またしても三人は「へへっ」と笑い合った。

「時間があってもねえ、難しいですねえ」

「時間があったからと言って、難しいですねえ」

「時間があるからこそ、余計に難しいですよねえ」

 おれは、この三人とまともに話すことは初めてだが、正直、薄気味悪いと感じた。三人は並んで座り、数分おきに「なんか違いますねえ」「なんか違いますよねえ」「左と右がおかしいですねえ」とか言いながら席順を替えて同じことを繰り返した。

 十分ほど待つと、さらに四人が加わって、計九人になった。新しく加わった四人の中には優しい巨人こと、コイさんの姿もあった。集まったのは全員男だ。

「じゃ、話し始めますね」

 ヤスはそう宣言すると、ホワイドボードの前に立ち、自分の目を指さした。

「目が実は他の生き物だったら、って考えたことありますか?」

 すると三人組がまたしても「へへっ」と笑い、肘でお互いを小突きあいながら

「考えたことあるかって言われましてもねえ」

「考えたことがあるかどうかを考えるのは難しいですねえ」

「考えることは難しいですからねえ」

 と、先に進まない発言をした。

「実はですね、目って遺伝子的にずいぶんと変わっているらしくて。変わっているという言い方だと何か曖昧ですけど、どうやら、本当に目って他の生き物らしいんですよ。他の生き物だった、のほうが正しいですかね。光を感じることのできる生物と、感じることのできない生物が共生して、それで、一つの生き物になったんです。まだ、仮説の段階らしいんですけど、あながち、めちゃくちゃな話ではないでしょう?」

 共生、という言葉は正直カクレクマノミとイソギンチャクのような、互いに互いを利用して生きていくような意味だと思っていたため、それが一つの生き物になるという話をおれはすぐには飲み込めなかった。

「こういう、進化の話になると、必ず突然変異って話題に上がると思うんですけど、ぼく、正直、突然変異ってロマンがないなって思うんです。もちろん、理屈はわかりますよ。でも、進化にはそんな偶然、突発性なんかじゃなくて意志が欲しいんです、ぼくは。鳥は空を飛びたいから飛べるようになった、キリンは高いところの草が食べたくて首が長くなった、ぼくらも陸に上がりたくて肺呼吸になった、そのほうがずっと、自然です。たまたま偶然空を飛べるようになって、運よく生き残れて、これが進化の仕組みですだなんて、あんまりですよ。だから、この目は他の生物っていう仮説は突然変異なんかじゃなくて、光を感じたいという願いから発生したような気がして、すごいロマンチックだと思うんですよ」

「仮説の話をされてもねえ」

「仮の説ですからねえ」

「仮説は何とでも言えますしねえ」

 おれは三人組の鬱陶しい相槌に小さく舌打ちをした。コイさんは分厚いノートに熱心に何かを記録している。他の参加者は、静かに聞いており、これといった反応も見せない。

「意志で進化するっていうのは面白いな。その理屈でいけば、おれが空飛びたいって願っていれば、そのうち、人類は宙に浮きだすんだろ?」

「宙には浮きますかねえ」

「宙に浮くのは難しそうですからねえ」

「宙に浮くと言っても宇宙か空かで違いますしねえ」

 ヤスより先に三人組が反応する。

「タカさん、いいですね。そうです、そういうことです。その方が楽しいでしょ?」

「まあ、確かに楽しいな。夢もある」

「楽しい、ですかねえ」

「楽しい、って難しいですねえ」

「楽しみ方はそれぞれですからねえ」

 ヤスは三人組が話し終えるより先に「皆さんはどう進化したいですか?」と質問をした。しん、と静まり返った。そして、やはり三人組が

「そう聞かれてもですねえ」

「そう聞かれても急にはですねえ」

「そう聞かれることで余計に難しいですねえ」

と茶々を入れた。

「あの」

 コイさんが手を挙げた。ぐっと天井にまっすぐ伸ばされた腕は、大木のようだった。

「どうぞ、コイさん」

 ヤスが促すと、コイさんは立ち上がり背筋を伸ばした。

「目の話、とても興味深かったです。そこで、思ったのですが、幽霊を見るというのは、目と身体が本来別の生き物だった名残なのではないでしょうか? つまり、本来全く別の生き物だったために、目と身体は完全に一致することはなく、感覚を共有する際、通信障害のようなことが起きてしまうのではないでしょうか?」

コイさんは、そこで一呼吸あけ、続けた。

「ワタシが最も気にかかった部分はそこなのです。意志による進化の話も実に面白く聞かせていただきましたが、それより、目が人類を欺いているのではないかという部分がワタシの心を揺さぶったのです。それは不快で、不安です。ワタシの見ている世界に対する、揺らぎです」

「幽霊、ですか……」

 ヤスは鼻に触れながら、どうしたものか、と考えている様子だった。

「SFっぽいですけど、面白いアイディアですね。いや、ホラーかな。目が人類に愛想をつかして、幽霊ばかり見せるようになったら、嘘ばかり見せるようになったら、滅茶苦茶になりますね」

「滅茶苦茶になりますかねえ」

「滅茶苦茶の基準はどこからですかねえ」

「滅茶苦茶になったら困りますからねえ」

 コイさんは二度頷き「その通りです」と言った。

「ワタシは信用できる、確実に信用できることを欲しています。記憶というのは曖昧です。ワタシは日記をつけていますが、一日の終わりに書くのではなく、その時その時に、書き込むよう努めています。ノートを持ち歩いているのは、そのためです。それでも、ワタシは日記を全面的に信用はできません。過去というものはそれだけ曖昧ですから。しかし、すべてを信用しないで生きることはワタシにはできませんでした。そのため、この目で見る物は、少なくとも今現在見ている物くらいは、信用しようと思ったのです」

 コイさんはゆっくり瞬きをした。

「しかし、です。ヤスさんの話してくださった仮説が事実ならば、ワタシは目で見る物さえ疑わなくてはいけなくなるのです」

「疑うべきです」

 ヤスはそうきっぱりと言った。

「しかし……」

 コイさんが何かを言おうと口を開きかけた。しかし、そのあとの言葉は紡がれなかった。

「いいですか、コイさん。疑うんなら、目玉を潰せばいいんですよ。簡単なことです。コイさんの不安感は何となく理解できました。自分の見ている物、見てきた物、何を信じればよいかわからない、どうしようもない、という気持ちが。でも、いいですか、世の中には、どうしようもないことなんて一つも無いんですよ。どうにかなっちゃうんです、意志さえあれば。目が疑わしいなら、目を潰す。耳が疑わしいなら鼓膜を破る。両腕が疑わしいなら切り落とす。それでいいんです」

「それは、それはあまりに極端ではありませんか?」

「そんなことありませんよ。いくら身体を細かく刻もうと、そんなことは些細な事なんです。意志さえ残れば、意志さえあれば、それでいいんです」

 ヤスは拳を固く握った。手の甲には太い血管が一本、浮かび上がっている。

「ビッグバンってあるでしょう? あれって宇宙が膨張していることを観測した人たちが、ビデオを巻き戻すように時間を過去へ過去へってやったら、ある一点に収束するんじゃないかって思いついて、そこから生まれたらしいんですけど、じゃあ、なんで点だった宇宙がこんなに広がったかって話になるじゃないですか。で、賢い科学者たちはこう考えたんです。物には自発的に動ける物とそうでない物がある。そうでない物は自発的な物の動きによって動かされるって、そう考えたんです。ぼくらみたいな自発的に、意志を持って動ける物と」

 ヤスはホワイドボード備え付けのペンを握り、思い切りそれを壁に投げつけた。

「こうやって、意志に翻弄される物の二種類があるって、そう考えたんです」

 フタを閉めていなかったのか、壁には黒点ができた。おれは話の方向性がだんだん分からなくなってきたが、二人の間には何か昂り、そして通じるものがあるらしい。三人組も、もう茶々を入れはしない。しん、と静まり返っている。

「そうしますと、ビッグバンは」

「そう、ビッグバンは意志によって起こったことになるんですよ」

 ヤスは手をパンと叩いた。

「わかりますか? 宇宙の始まりでさえ、その原因となると意志なんですよ。意志がすべてを決定しているんです。意志だけが真実なんです。コイさんはその意志がフラフラしている、定まってないんです。いや、コイさんだけじゃないですね。みんな、ここの施設の人たちはそうです。フラフラしてるんです。いや、フラフラし出したのかな?」

 ヤスは自分の着ている黄色いシャツを伸ばし、見せつけた。

「何で皆さん急に患者服、着だしたんですか?」

 しん、とまた静まり返った。あのやかましかった三人組は叱られている子供みたいに俯いている。

「言われなくても、説明されなくても、ぼくにはちゃあんと、わかります。わかってます。怖いからです、死にたくないからです、第二のケイコさんになりたくないからです。違いますか?」

 ヤスはホワイドボードの前を離れ、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。

「今までは、ただ、何となく施設にいて、でも、これといった不満もないから、アホみたいに皆さんはニコニコ暮らしてたんです。それこそ、何で自分がここにいるのか、なんてことは一切考えもせず。与えられた薬を飲んで、動物に触れて、健康診断があれば参加して、レクリエーションルームでは楽しくおしゃべり。あと、三度の食事に一度のお風呂、睡眠は欠かさない。それをだらだらだらだら繰り返してたんです」

 ヤスは誰も座ってないパイプ椅子を掴むと、きわめて自然に、けれども、力いっぱい壁に投げつけた。

「たしか、そこの三人が『考えることは難しい』とか言ってましたよね」

 突然、矛先を向けられた三人組は身体を固くした。

「そうです、考えることは難しい。その通りです。でも、だからと言って、与えられている物だけで、与えられた選択肢の中から選ぶ自由だけで、満足しちゃいけないんです。それだけで、自分は考えて、かつ、行動もしていると思い込むのは罠です」

「罠、ですか。それは一体、誰が仕掛けた罠なのですか?」

 コイさんが「罠」という言葉に反応する。

「決まってますよ、そんなものは。施設です。この施設の人間が、ぼくたちに反乱や暴動を起こしてほしくないから、施設に対して疑問を持ってほしくないから『選択肢の中から選ぶ自由』という罠を仕掛けたんですよ。いいですか、誤解を無くすために言いますが『選択の自由』が与えられてはいないんです。それに『選択肢を作る自由』も与えられてないんです。ただ一つ『選択肢の中から選ぶ自由』のみ、与えられているに過ぎないんです。バイキングと一緒ですよ。何でも食べていい『自由』があるように見えて、何を出すか、何をどの量出すかはすべて主催者側が握っている、これは本来自由の対極です。自由の対義語です、躓きの石です」

 コイさんは椅子に座らず立ったまま、前屈みになってノートに素早くメモをとる。その姿勢は謝罪にも、忠誠を誓うお辞儀にも見えた。

「しかし、それは、あまりに施設を敵視し過ぎてはいませんか? 確かに、ワタシたちに与えられている自由は『自由』と呼ぶにはお粗末かもしれません。物足りないかもしれません。けれども、そうしなければならない理由が施設側にあるのではないですか?」

「ぼくは、薬を一切飲んでいません」

 ヤスはポケットから白い薬を取り出し、みんなに見えるような形で粉々にした。

「この薬は、たぶん、記憶を曖昧にするための物です。皆さんが、ここに入った記憶を失ってる、忘れてるのはこの薬のせいです」

「推測でそんなことを言っては……」

「推測ではないですよ」

 ヤスは、はっきりとした発音で否定した。

「ぼくは、施設に入った理由を憶えています」

 自分の舌が半歩後ろに下がった。声が出ない、という言葉の意味がよく分かった。

「もちろん、この理由はあくまで、ぼくの入れられた理由です。個人的な話です。だから、皆さんにはお話しませんが、これだけは断言できます」

 ヤスの瞳から、静かに光が消えた。おれは真っ黒な天井を思い出した。

「施設のやっていることは間違っている」

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