二章 健康

 次の日から、ケイコさんは人が変わったように大人しくなった。大人になった、と言い換えてもいいかもしれない。あの語尾を伸ばす独特の話し方はすっかり鳴りを潜めてしまったし、きちんと服も着て生活するようになったし、何より自分の寝室で眠るようになった。ここで暮らす人々は自分の私服を着るか、施設から支給される薄い水色の患者服のようなものを着るか選ぶ自由が与えられているが、ほとんど全員前者を選んでいた。自分たちが何かの病気であると強く実感している人はこの施設に一人もいないのではないか、と思う。誰もが、おれと同じように入れられた理由をすっかり忘れて、ここに留まっているのではないか。だから、ケイコさんが患者服を着るようになったのは施設内ではなかなかに珍しかったし、少なからず皆動揺したようだった。自分たちが、正常ではないと改めて気付かされたような、そういう悲しさもその動揺の中に含まれていた。

「ケイコさん、老けましたね」

 おれとヤスが食堂で昼食をとっていたとき、たまたま近くにケイコさんが座った。そのケイコさんに対し開口一番、ヤスがそんなことを言うとは思ってもみなかった。

「そうかしら」

 ケイコさんはまったく気にしない様子で、スプーンでスープを一口すくっては静かに口に運んでいる。ヤスは人懐っこい性格だが、決して憎まれ口をたたくような、そういうタイプではなかったはずだ。

「なんで、いきなり、そんな服着だしたんですか。正直、ダサイですよ」

「おい、ヤス」

「出て行くからよ、もうすぐ私は」

 ケイコさんは、そうさらりと答えた。天気の話みたいに、ほとんど感情をこめずに。

「出て行くって、それはぼくらに決められないでしょう?」

 その質問には答えず、ケイコさんは黙々と昼食を食べ進め、最後に小さな白い薬を水で流し込んだ。

「ぼくの分も飲みますか? 少しは早く出られるかもしれませんよ」

 そう言ってヤスは自分の薬をケイコさんへ放った。ケイコさんはそれを拾い上げ、ひらり、とヤスに返した。ヤスは悔しそうな表情でケイコさんを睨みつけた。

「何をそんな苛ついてるんだ?」

 おれがそう言ってもヤスは答えず、受け取った薬を粉々にした。何が何だかわからなかった。もしかしたら、電池を返す際に何かもめたのかもしれないと思った。しかし、あの日別段ヤスに変わったところはなかった。おれにはそう見えた。


 その日、午後から大ホールで健康診断が行われた。先に男が一通りの検診を受け、次に女が入る。目をよくよく見られたり、尿をとったり、腹を出したり、身長や体重を測ったりする。これで、いったい何がわかるというのだろう。

「空いているところから回ってください」

 鈴鹿ちゃんの声はほとんど皆に届いていなかったが、言われなくてもそうする人はそうしたし、混んでいる列でぼんやりしている人はいつまでもそうしていた。

「うん、うん、うんうん」

 医者はそう言うと紙にAと書いた。そしてそのAから尻尾のような線を伸ばした。オールA、もう何度も見た診断結果だ。

「タカさん、どうでした?」

ヤスが紙をひらひらさせながら近寄ってくる。

「ほら、ぼく、全部Aでしたよ。薬なんて関係ないんです」

 確かに、ヤスの紙にはおれと同じくAの文字が書かれていた。けれども、おれはこの紙にA以外の文字が書かれているところを一度たりとも見たことがなかったし、再検査が行われたことも知りうる限りではなかった。本当は、おれたちに異常があればAと表記されるんじゃないか、と半ば真剣に思った。

「当てにならん、これは」

「でも、身長は一センチ伸びました、これは当てになります」

「それもならんよ」

 ヤスは「本当に伸びたんですってば」と繰り返し、そのうちおれも超えると宣言した。

「でも、健康診断は当てにしていいと思いますよ、だって動物と同じで外側の人がやることですから」

 ヤスにはどうも外へ対する強い思いがあるらしかった。それは確かに、この施設で長く暮らすものには芽生えて当然の感情であるが、しかし、ヤスはその傾向が人一倍強いように見える。動物にいつまでも触れているのも、純粋に動物が好きなのではなく、外から来たものだからという感がある。

「おれがこの健康診断を当てにしない理由はな、A以外を見たためしがないからだ」

「それは、タカさんに友達が少ないからじゃないですか」

 そのあとすぐに「ぼくはタカさんの友達ですから、安心していいですよ」とヤスは付け加えた。余計なお世話だと思いながらも、確かに、おれはヤスとばかりつるんでいると改めて実感した。そういう意味ではヤスの意見もあながち的外れではない。

「なあ、ヤス。もしお前が、A以外の検査結果が書かれた人間を見つけてこられたなら、おれはもう二度と薬を飲まないことを責めたりしないよ」

 ヤスは眼をパッと輝かせ「楽勝ですよ」と笑った。そして少し待っているようおれに言うと持ち前の人懐っこさ、この場合は図々しさかもしれないが、それを駆使していろんな人の検査結果を覗いて回り始めた。あの、優しい巨人にも臆することなく話しかけ、やけに大げさなリアクションで「一メートル九十?」と驚いていた。そして、怪訝そうな顔をされてもめげずに話しかけ続けたヤスは次第に元気をなくしてゆき、トボトボとおれのもとに帰ってきた。

「みんなAでした、一人残らず」

 おれはヤスの肩を叩き、「おれの友達の有無にかかわらず、ここではAしか出ないんだよ」と少し厭味っぽく言ってやった。ヤスは頷いたものの、どこか納得いかないようだった。


 しかし、健康診断が終わるころ施設内はE判定の者が出た、という噂で持ちきりになっていた。それは根も葉もない噂ではなく、ある程度根拠に基づいたものだった。まず、健康診断後には広間に止められている医療関係者の車は、あの気の遠くなるような長く細い坂を毛細血管をこじ開けるようにして下っていくのが常であったが、今日に限っては健康診断が終わっても動き出す気配がまるでないという点。それから夕食時食堂にケイコさんの姿がなく、また、E判定が出たのはまさに彼女だったという証言がある点。この二点が主な根拠であった。噂はケイコさんが患者服を着始めたこと以上の混乱を施設に惹き起こした。皆、目に見えて不安であった。夕食を食べ終わっても皆なかなか席を立たず、固まっていたいようだった。席を立っても真っすぐ寝室に戻る者はおらず、レクリエーションルームへと向かうか参加する人を募るか、席を移動して他の人と話すか、ぐるぐる当てもなく食堂を歩き回ってまた同じ席に座るか、そのいずれかだった。

「君たちも、ぜひ、参加してくれ」

 タナベさんはそう言っておれとヤスの顔を交互に見て、壊れたロボットみたいにまた同じ文句を繰り返した。おれとヤスはレクリエーションに参加すると約束した。それでも、おれたちがすぐに席を立たないのが気に入らないらしく、同じようなことを何度も繰り返した。考えながら話しているのか非常にゆっくりで、しかし、内容は全く前進せずただ「参加してくれ」という内容しかそこにはない。

「参加してくれ、夜は長い、とても、長い……だから話さなければ、われわれは、話さなければ、ならない、ぜひ、参加してくれ……一緒に、話そう、すぐに、参加しよう、してくれ、たのむ、話そう」

 おれはもう取り合わなかった。そして、参加する気もすっかり失った。露骨に興味がない、という態度をしてもタナベさんは繰り返した。

「夕陽を見てから向かいますよ」

 ヤスはそう言って立ち上がった。おれもヤスに続いて立ち上がった。


 夕陽を見るという宣言は茶を濁すために言ったものだと思ったが、ヤスは本気で夕陽を見るつもりだったらしい。おれはここからの景色を美しいとは思わないが、ヤスがどうしても今日夕陽が見たいと言ってきかなかったため、付き添うことにした。おれももう一度、本当に海がここから見えるのか確かめたいと思っていたし、考えようによってはいい機会だ。おれもヤスもエレベーターを使おうとはせず、どちらから提案するでもなく階段へ向かった。ヤスは一段飛ばしをしたり、大股で二段飛ばしをしたりして、軽々と上って行った。おれは五階あたりで少し胸が苦しくなった。少し待つように頼むとヤスは笑って「そんな年齢でもないでしょう、タカさん」と言った。おれは「そんな年齢だよ」と言って殴る素振りをした。この施設に入ってから正確な年齢がわからなくなってしまったが、たぶん、自分は三十代前半くらいなのではないか。少なくとも、おれはそう振舞うようにしている。階段の壁にもたれかかるようにして一息ついているおれにヤスは十秒おきくらいに「もういけますか?」と聞いてくる。「まだだ」と答えると本当に心から楽しそうに笑う。そんなやり取りを繰り返していると、ふと、ヤスがまじめな口調になって「タカさん」と切り出した。

「タカさん、さっきから気になってたんですけど、いや、実際には、結構前からというか」

 ヤスは何やらくどくど前置きをした。おれはじれったくなり「なんだ?」と聞いた。

「ぼくはここが精神の病気の施設だって、だから薬なんて飲まなくても命に別状はないってことを証明するために、E判定の人を探したじゃないですか。でも、E判定の人がいたら、結局、ここは身体の病気を治す施設ってことになっちゃいません?」

 おれはしばらく考えて、「いや」と切り出した。

「そうとも限らないんじゃないか。身体の病気を外部から人を呼んで調べるってことは、この施設に身体の病気を調べたり治したりする力がない、もしくは対応できない種類の病気もあるってことだろ」

 その言葉を言ってから、おれは自分が少しずつ、この施設が精神の病気を治す目的にある、という考えに移行しつつあることを自覚した。それは、言い換えるなら、自分が精神病だと認めることになる。おれは内心、はじめからここが身体の病気を治療する施設だなんて思っていなかった。けれども、それと同じくらい、自分が精神病だとも思っていない。より思っていない方を守るために、おれは片方を「ない」ことにしている。しかし、それに限界を感じ始めていた。

「そろそろ行けますか?」

 おれは頷いた。ヤスはまた、一段飛ばしで階段を上った。八階に着くと、ちょうど優しい巨人がエレベーターから出てきて、おれは軽い会釈をした。巨人は立ち止まり、深々頭を下げた。大きな人間が頭を下げるのは、象がリンゴを鼻でつかむのを見るような、どこか見世物じみたところがあると感じた。夕陽を見に来たことを話すと巨人は「ここからなら海も見えます」と言った。そうか、本当に見えるのか、とおれは思った。巨人は「七階からは見えないのですが」と続けた。巨人が自分の寝室へゆっくり戻っていくのを確認し、おれとヤスは窓の方へ歩いた。

「コイさん、身長百九十センチあるんですよ、知ってます?」

「おまえが大声で驚いていたからな」

 ヤスは「なあんだ」と言って少し残念そうにした。

 窓からの景色は相変わらずで、おれは灰色の海を見つけられず、のっぺりとした木々と沈みかけの色濃くなった太陽を交互に見ては退屈だなあと思った。窓から顔を出して下を見ると、まだ車は広場に止まったままで、たとえE判定であっても診断する医者はそそくさと帰るのが普通なんじゃないかと、やや不自然に感じた。ケイコさんを連れ出すなり、別の医者を呼ぶなりするのが適切な処置であって、ただ長々検査をし続けるのはどうにも違和感があった。ケイコさんがごねて「出ていきたくない」と粘っているならまだしも、彼女は平然と「出て行くから」と朝言っていた。

 おれはケイコさんの「出て行くから」という言葉をよくよく思い出し、あの言葉は自分の身体の不調を感じ取ってのものだったのだろうか、と思った。ケイコさんが一方的に自分は病気だと訴えるも検査結果は正常、そのため何度も再検査を行っている。それが正しいような気がしてきた。

「ねえ、タカさん。ケイコさんは出て行くことになりますかね?」

 ヤスもおれと似たようなことを考えていたらしい。

「どうだろうな」

「もし、ケイコさんが身体の病気で、ここから出て行くようなことがあれば、それはこの施設が身体の病気を治すところではないっていう証明になりませんかね?」

 おれもそのことは考えていた。そして、その考えを覆せるだけの何かを作り出せずにいた。

「ぼく、思うんですよ。この施設で自分が入った理由を言うことも、聞くこともどこかタブー視されているのは、一人一人がその理由を思い出したり、自覚したりしないと意味がないからなんじゃないかって」

 ヤスは自分の思いをとにかくすべて吐き出したいようだった。

「ぼくもタカさんも、揃いも揃って入った理由を憶えていなくて、まあ、ぼくは教えられてなんかいないって思ってるんですけど、ともかく、知ろうと思えば職員に聞くなり何なり方法はあるはずじゃないですか。でも、ぼくたちはそれをしないし、職員たちもそれを思い出させようとはしてこない、むしろ積極的に忘れさせようとしてるんじゃないかって思うんです。一度、その原因を手放させて、獲得させる、それが狙いなんじゃないかって。カレンダーも時計も全部隠して、無くして、過去を曖昧にして、薬も飲ませて、そうやって忘れさせようとしてるんじゃないですかね。だって、身体の病気と、カレンダーと時計に何の関係もないですから。だから、ぼくらは絶対、精神の、精神的な何かを抱えているんですよ。大きな悩みでも時間がたてば何てことなくなる、ってよく言うじゃないですか。それをここでさせているんじゃないですかね。何か自分の意見がうまくまとまらないなあ。ぼくも、少し混乱してるんですかね。でも、この施設は少なくとも、身体の病気のために作られてはいない。そして、ぼくたちはこの施設に入れられた理由を自分の力で思い出さなければいけない。この二つだけは確かだと思うんです」

 気が付くと、日はもう沈んでしまっており、おれはまた海を見つけることができなかった。ピンク色の海、太陽と海が溶け合った色を思い浮かべ、あるならばあの辺りだろうかと木々のずっと奥を見つめた。しかし、日が暮れたことで、木がどこまで続いているかさえ、判然としなくなった。ここからの景色はどうしてこうも極端なのだろう。

 おれは、その時ふと、ケイコさんがピンク色の日記帳を持っていたことを思い出した。

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